Generated by All in One SEO v5.0.1.1, this is an llms.txt file, used by LLMs to index the site. # Hiro Ono's Odyssey Dream, work, and life of a NASA engineer ## Sitemaps - [XML Sitemap](http://hiroono.com/sitemap.xml): Contains all public & indexable URLs for this website. ## Posts - [My Next Phase](http://hiroono.com/en/2026/04/20/my-next-phase/) - TR;DL: I’ll leave JPL and join Georgia Tech as an associate prof in July. Looking for students and post-docs in robotics, AI/ML, and space systems. If interested, LMK via this form. Dear my six-year-old self, on August 25, 1989, Now that Voyager 2 is flying away from Neptune, your dream is firmly taking shape. - [人生の次のステップへ](http://hiroono.com/ja/2026/04/20/人生の次のステップへ/) - 要約:JPLを離れ、7月よりジョージア工科大学の准教授に着任することになりました。ロボティクス、AI/ML、宇宙システム分野の学生およびポスドクを募集しています。興味がある方はこのフォームからご連絡ください。 1989年8月25日の、6歳の僕へ ボイジャー2号が海王星を離れ、君の心に夢が宿り始めた頃だね。 君は宇宙オタクのお父さんの隣に座って毎日ワクワクしながらボイジャーのニュースを見た。君はあの美しい青い惑星に心を奪われた。そして人間が作った小さな機械が、12年もの歳月をかけて広大な太陽系を旅して最遠の惑星までたどり着き、美しい画像を送り返し、数々の発見を成し遂げたことに魅了された。 そのとき君は決めたんだ。大人になったらJPLに行って、ボイジャーのような宇宙船を作ると。 それは、君の一生の夢になる。 もしその夢が24年後に叶うと言ったら、驚くだろうか?君は火星ローバーの自動運転をプログラムし、将来の宇宙船のためのAI研究に携わり、そして「EELS」と呼ばれるヘビ型ロボットの開発チームを率いることになる。EELSはいつか土星の氷衛星エンセラドスの地下の海を探査し、地球外生命を探すかもしれない。そんな信じられないような出来事が、すべてJPLで起きたんだ——そして君にも起こる。 そして君は父親になる。素晴らしいと思わないか?この宇宙でもっとも貴重なふたつの宝物を授かるんだ。男の子は君にそっくりで、LEGOで火星ローバーを作る。女の子は時々EELSの絵を描いてくれる。夜空の赤い惑星を指さして「ここでパパのコードが動いているんだよ」と言うと、二人は目を輝かせる。口には出さないけれど、君の仕事を誇りに思っていることが伝わってくる。それ以上に幸せなことはない。 やがて君は気づくだろう。JPLでの仕事は、ただエキサイティングなだけでなく、深い意義のあるものだと。僕らは単に宇宙船を作っているわけではない。人類の最も根源的な問いに答えるためにやっているのだ。宇宙はどのように始まったのか。生命はどのように生まれたのか。私たちは宇宙でひとりぼっちなのか。君ももうすぐこうした問いを考え始める。そしてそれはずっと心に残り続ける。 もちろん、これらの問いに答えても誰もお金持ちにはなれないし、貧困や病気に苦しむ人を救うこともできない。それでも、僕は自分の心に正直であるべきだと思うんだ。人間には、お金にならなくてもやらなければならないことがあるのだから。 もし僕がJPLを辞めると言ったら、君は頭が狂ったと思うだろうね。 どうして夢だった場所を去るのだろう? 僕の夢が変わるからではない。JPLが変わるからだ。 2010年代後半、JPLが火星ローバー・パーサヴィアランスの準備を進めていた頃、JPLには「次は火星の先へ」という空気があった。木星や土星の氷衛星へ行き、生命を探すのだ。君はじきにエウロパ・ランダー計画に携わる機会を得る。氷をサンプリングし、地球外生命の兆候を探すミッションだ。君は胸が高鳴るほど興奮する。しかし残念ながらその機会は失われる。2018年の選挙の影響が波及し、最終的にそのミッションは中止されてしまう。 でも大丈夫だ。君にはさらに大きなチャンスが訪れる。さっき話したエンケラドスのヘビ型ロボットだ。まだ初期段階の研究だけど、順調に進めば2040年代には実現するかもしれない。生きている間にエンセラドスの海を見て、もしかしたら生命に出会えるかもしれない——そう思うと、君はこの上なく興奮するだろう。 だけど、EELSもまた打ち切られる。「遠すぎる未来」のことだからという理由で。 その後の数年間で、JPLは大きな困難に直面する。三度にわたる大規模なレイオフが行われ、同じ夢を共有していた多くの仲間が去っていく。 その結果、JPLは内向きにシフトせざるを得なくなる。長期的なビジョンよりも短期的な機会を追うようになる。僕はそれを責めるつもりはない。誰がこれ以上のレイオフを望むだろう。しかしその結果、JPLの研究開発の焦点は月ミッションへと移っていく。 誤解しないでほしい。僕は月ミッションにも心からワクワクしている。君はこれからアポロの本を何度も読み、紙で司令船と機械船の模型を作り、ニール・アームストロングごっこをするだろう。つい先週、アポロ17号以来初の有人月ミッションであるアルテミス2が地球に帰還した。(そう、信じられるかい?人類が再び月に行くのは2026年まで待たなくてはいけないんだ。)僕は毎日、アルテミスのニュースを追っていた。君がボイジャーのニュースを追っていたように。君は月に関するプロジェクトにも関わることになるし、それを心から楽しむだろう。でも、それは君の最終的な目的ではない。 宇宙を取り巻く環境も大きく変わる。1989年には、ほとんどの宇宙ミッションはNASAのような政府機関によって主導されていた。しかし2026年には、君がまだ聞いたことのない新しい民間企業がほぼ毎日のようにロケットを打ち上げるようになる。本当にすごいことだ。宇宙時代は本当にやってくるんだ。だから当然、JPLも民間企業との協業を模索する。君もその一端を担い、その役割を楽しむだろう。でももちろん、民間企業は経済的合理性によって動く。生命の起源や宇宙の成り立ちといった根源的な問いは脇役に回らざるを得ない。 そして君は頑固だ。君の未来の妻がたびたび呆れるくらいに頑固だ。アルテミスや民間から新しいエキサイティングな機会がいくら来ても、君の心は火星の先にある。氷衛星、海王星、トリトン、そしてその先へ。ボイジャー2号から受け取ったあの夢は、決して君を離さない。 だから先週の金曜日、僕は上司にJPLを去ると伝えた。でも本音を言えば、JPLの方が僕から去っていくように感じる。 それで、君は次にどこへ行くのだろう? 自然な選択肢はアカデミアだった。君は研究者肌だから。そして自分の進む道を自由に描くことができるからだ。 君はいくつかの大学で面接を受けて、自分の夢を売り込む。そして幸運にも、その夢に本当に共感し、サポートしてくれる場所に出会う。アトランタという街にあるジョージア工科大学の航空宇宙工学科だ。(ちなみに1996年にここでオリンピックが開催されて、日本は柔道で大活躍するけど、あまりネタバレしないで方がいいよね。) ジョージア工科大学で君は・・・僕は、何をするのだろう? 答えはシンプルだ。僕たちの夢を追い続けることだ。 僕は誰も行ったことのない場所を探査するロボットを作り、人類の最も根源的な問いの答えを探しに行く。ボイジャーがそうしたように。 ジョージア工科大学は大きな冷凍コンテナを用意してくれる。アトランタにエンセラドスを作るんだ。僕は、氷の上を歩き、クレバスを降り、地下の海へ潜り、生命を探すロボットを作るつもりだ。そんなミッションを自分の生きている間に見たい。それを決して「遠すぎる未来」と思っては行けない。僕の人生に残された時間はそれほど長くないからだ。(信じられないかもしれないけど、40年はあっという間に過ぎる。そして次の40年もきっと同じだ。) そうしたロボットは賢くなければならない。だから僕はAIの研究にも取り組む。1989年には信じられないかもしれないけど、2026年にはAIは車を運転し、算数の宿題も解いてくれる。(でも数算数ちゃんと勉強するんだよ!)この驚くべき能力を未来の宇宙探査に活かしたい。 そして数年のうちに、月へロボットを飛ばしてこうした技術を実証したいと思っている。さっき書いたように月探査はそれ自体魅力的だ。でも同時に、理想的な実験場でもある。地球からたった3日で行けるからだ。 もちろん、アカデミアはすべの悩みが魔法のように消え去る虹の彼方のお花畑ではない。科学的な宇宙探査のための研究資金は限られている。だから僕は、月のプロジェクトに取り組んだり、民間企業と協力したり、あるいは宇宙以外の研究にも関わることになるだろう。大丈夫だ。JPLでそうだったように、きっと楽しめるはずだ。アカデミアの自由度の高さは、荒れた海を越えて夢へとたどりつくための助けになると思う。そして何より、アイデアと想像力にあふれた若い人たちと一緒に研究できることを心から楽しみにしている。 僕はJPLを離れる。でも夢を手放すわけじゃない。そしてJPLを自分の中に持っていくんだ。 君がワクワクしてくれているといいな。でもきっと、JPLを離れることにまだ怒っているよね。 5年後か10年後に、また君に手紙を書くよ。そのとき僕は君の夢にどれだけ近づけているかな。 2026年4月19日の、43歳の僕より - [僕の東大入試〜リスク管理を考慮した戦略立案と確実な実行](http://hiroono.com/ja/2022/01/05/juken/) - いつも夢だ宇宙だイマジネーションだと言っている人間なのに入試攻略法なんて俗っぽくて柄でもないし、わざわざ書く価値もないと思ったので今まで書いてきませんでしたが、イベントでどれだけ火星やエウロパや新庄やX Japanのことを喋っても頻繁に東大受験についての質問を受けます。ならば誰かの役に立つのかなと思い、書き留めることにしました。ちなみに先日の宇宙漫談でもこの質問が来て、録画した回答があります。滑舌悪めですが読むのが面倒な方はこちらをどうぞ。文章と内容は大体同じです。 しかしもう21年も前(2001年)のことなので色々と変わっているんだろうと思って調べたら、どうやら配点も大問数も変わっていないらしい。とはいえ古い情報なので参考にしすぎないでください。また、もちろん最適戦略は人によって異なります。本項では例として僕が使った作戦を書きますが、それと併せて一般化可能なアドバイスをできるだけ書いていこうと思います。受験生それぞれが自分に合った戦略を立てる参考にしてもらえればと思います。 僕が受験したのは2001年の東大の理1でした。ちなみにその前年の阪神は野村監督の2年目でしたがまたもや最下位で、そのオフに新庄が「記録よりも記憶に残る選手になります」と言って最低年俸でメジャーに挑戦した時でした。 戦略の立案 受験でも研究でもスポーツでも、肝は戦略を立て、練習し、確実に実行すること、それのみです。 データが手元にありませんが、平均点より30点か40点上(440点満点中200点くらい?)とれば合格ラインと言われていたように記憶しています。分散が結構小さいんですね。だから4科目のうち3科目で平均点を確実に取って、得意な1科目で差をつければいい。そう考えました。僕にとって攻めの科目が理科。あとは守りです。 理科(攻め) 理科は4教科から2教科を選択し150分で解く形式で、併せて120点満点でした。東大入試でユニークなのは、2教科間の時間配分を自分で決められる点です。僕の選択は物理と化学でした。 物理が僕の最大の得意科目でした。一方、化学は苦手でした。暗記が多いからです。僕の記憶力は本当に酷く、今でも6桁以上の数字は覚えられません。空港にスーツケースを忘れてくるわ、3日連続でレストランにクレジットカードを忘れてくるわ、甲子園のトイレに1万円落としてくるわ(←全部戻ってきた)まあそんな感じです。でも物理は数本の基本公式さえ理解していれば全てそこから導けます。それゆえの得意科目でした。 僕は150分のうち120分を物理に使うという、非常にアンバランスな時間配分をしました。2時間かければほぼ確実に満点(60点)を取れる自信があったからです。 物理を全て終えた後、30分で化学の簡単な問題だけを拾い、10点か15点を取りました。 合計で70点から75点。これで十分差をつけられます。本番も作戦通りに行きました。あとは、理科でつけた差をいかに他の3科目で守りきるか。それでした。 数学(守り) 守りの鬼門は数学でした。 数学は6つの大問を150分で解く形式で120点満点です。そこそこ得意な科目でしたが、問題は当たり外れが大きいことでした。1問か2問は超難問なのが常で、そこでハマってしまうと時間がどんどん浪費され、パニックに陥って崩壊してしまうという失敗を模試で何度かしました。一方、平均的には3問程度を完答する実力はあり、調子がいいと4問かそれ以上解けることもありました。 そこで、高得点を取ることではなく、確実に最悪ケースを防ぐことを作戦の中心に据えました。2点リードの8回に弱肩の4番バッターを守備固め要員に交代させるイメージです。 具体的には、150分のうち最初の30分を問題を選ぶことのみに使いました。6問全てに5分ずつかけて問題を読み込み、解き方を考え、完答できそうかどうかを吟味します。そして選んだ3問くらいを残りの120分で解きます。僕は解くのが遅く、2時間では3問前後が限界でした。記憶力が悪いため、塾ではたいてい暗記させられる公式をその場で導いていたからです。たとえば三角関数の加法定理などもその場で導いて確認していました。自分の記憶力を信用していなかったので、その方が時間がかかっても確実に正解できるからです。(物理についても同様でした。)ローリスク・ローリターン戦略です。 この方法を使えばほぼ確実に2問半(50点)を取ることができました。本番は問題が比較的簡単だったこともあり3問半(70点)を解くことができました。 英語・国語(守り) 英語と国語は得意科目ではありませんでしたが、点数の当たり外れも小さい教科でした。記憶が曖昧ですが、国語は30点、英語は最低60点くらいは取れていたように思います。理科と数学で120点は確実に取れるので、あわせて210点。合格ラインです。 余談ですが、昔の国語には理系も文系も200字の小論文、通称「200字作文」がありました。僕が受ける前年にそれが突然なくなったというのが大きな波乱でした。僕の年の受験生は200字作文が復活するかしないかでヤキモキしていたことを覚えています。結局出題されず、その後のこの形式が続いたようです。しかし個人的には文章による表現能力は理系のキャリアで非常に重要ですし、日本人が弱いところでもあります。受験生の当時はどうか200字作文よ復活しないでくれと祈っていましたが、今思うと200字作文の消滅は残念に思います。 戦略の立て方 もちろん得意不得意は人それぞれですから、上に書いた僕の戦略をそのまま真似ても意味はないでしょう。それよりも参考にして欲しいのは、どう戦略を立てるかです。 リスク・マネージメントの考え方は大事でしょう。例えば模試でコンスタントにA判定を出すような人は、僕が数学でとったようなローリスク・ローリターンな戦略を用い、高得点を狙うよりも最悪ケースを防ぐことを主眼に置くのがいいでしょう。満点で合格してもギリギリで合格しても、結果は同じなのですから。一方、平均がC判定の人はハイリスク・ハイリターン戦略を取るべきでしょう。確実に合格点以下を取っても確実に落ちるだけです。 ちなみに僕の妻も東大理一でした。彼女は記憶力が僕よりもはるかに良いのですがロジカルシンキングは弱い。だから僕とは真逆の戦略で、数学や物理は公式を徹底的に暗記していったそうです。正反対の脳味噌が結婚して10年、しょっちゅう喧嘩しながらも、お互いの弱みを補いあってうまくやってます。 戦略の練習(2ヶ月前〜本番) 僕は生まれながらの阪神ファンで、92年の亀新フィーバー以来、新庄の大ファンです。どうしようもなく弱かったタイガースの唯一の光だったと言っても過言ではありません。やはり一番記憶に残っているのが1999年に新庄が槇原から敬遠球をサヨナラヒットした時。すでにテレビ放送は終わっていて、ノイズだらけのラジオで延長を聞いていました。新庄が打った瞬間はアナウンサーや解説者も「!*&^&(@()(^#)!!!!」という感じで絶叫していて、何かとんでもないことが起きたことは分かりましたが何があったかは分かりませんでした。数十秒してやっとアナウンサーが落ち着いて日本語を喋り始め、状況を理解し、身震いしたのを覚えています。 その後のインタビューで知ったのですが、実は新庄はその前に敬遠球を打つことを練習していたらしい。どんな奇想天外なことでも、やはり練習があってこそなのだなと思った次第です。 話をタイガースから受験に戻すと、僕は過去問は本番2ヶ月前まで一切解かずに温存していました。もっとも、塾のテキストで過去10年の問題はほとんど全て取り上げられていましたが、過去問集を通して解くということはしませんでした。それまでは実力を上げ戦略を策定するフェーズと位置付けていました。 2ヶ月前、つまり冬休みの始まりにモードを切り替え、過去問を使って上記の作戦を反復練習するフェーズに入りました。 朝、本番と同じ時間にいつも勉強場所にしている図書館に行き、本番とまったく同じ時刻に、同じ順序で過去問を解きました。その前後はイメージトレーニング。目を閉じてカビ臭い東大の教室と他の受験生たちを思い浮かべ、図書館の前の洗足池を三四郎池だと想像しました。 受験勉強(2年前〜2ヶ月前) ついでに受験勉強のことについても書いておきます。 僕が受験勉強を始めたのは2年前。本腰を入れたのは部活を引退した1年4ヶ月前です。学校が進学校だった(開成)ということもありますが、高1までは塾には一切行きませんでした。 僕の勉強法のポリシーは反復練習です。いろんな参考書にあれこれ手をつけてはどれも未完で終わるのでは何の力もつきません。各教科で良い参考書を1冊選び、あとは何度もその1冊を反復しました。 例えば英単語は『速読英単語 必修編』の1冊のみでした。(今調べたら、まだあるのですね。20年以上も使われているなんてすごい!)通学時間を使ってこれを5回くらい繰り返しました。 得意の物理は『難問題の系統とその解き方』でした。(これもまだあるのですね。)この1冊を何度も繰り返し解きました。 数学は、当時通っていたSEGという塾の「クリーム本」と呼ばれる教材を使いました。やはり、この一冊のみを、講義が終了したのちも何度も解きました。 たぶん受験に限らず何事も同じでしょうが、中途半端なものを10個持つよりも、完璧な何かが一つある方がはるかに価値があります。 受験生へのメッセージ 受験はたしかに人生の岐路です。ですが唯一の岐路ではありません。何十もあるうちの一つに過ぎず、分岐した道も将来また繋がります。 短期的には叶う夢よりも叶わない夢の方が多い。これを読んでいる受験生も、第一志望に受かる人よりも落ちる人の方が多いのでしょう。 ぜひ、受験が人生のゴールラインでは全くないことを心に留めておいてください。受験の合否よりも、その後にいかに努力を継続するかの方が、はるかに大きく人生を左右します。東大に受かって勉強をやめてしまう人よりも、東大に落ちた悔しさでその後も努力を重ねる人の方が大成します。 受験で手を抜いていい、と言っているのではありません。受験は大きなチャンスです。新庄みたいに目の前のチャンスに全力投球し、結果が出たら良くても悪くても受け入れ、また次のチャンスへ向けて全力投球する。そうすればきっと長期的に大きな夢に少しずつ近づいていけます。 以前の記事で書きましたが、殆どの人にとって人生は億万長者や大統領になるには短すぎるけれども、謙虚な夢をいくつか叶えるくらいの長さは十分あるものです。全員が新庄やイーロン・マスクにはなれません。でも、20年、30年努力を積み重ねれれば何かにはなれます。 今年も受験生はコロナに振り回されてさぞかし大変でしょう。このような状況下でも将来の夢に向けて頑張っている受験生の皆さんを本当に頼もしく思いますし、そのような若者が大勢いるなら人類の未来も明るいと思うのです。幸運をお祈りします!! ちなみに今年の日本シリーズは、もう誰がどう考えても阪神 vs 日ハムで決まりですね!!!4勝3敗でタイガースが日本一になると予想しています。 最後にちょっと宣伝 本業はNASAジェット推進研究所で惑星探査機を開発したり運用したりですが、副業で物書きをやっていて、何冊か本を出版しました。 8年前に出したこちらは僕が幼少の頃に宇宙に憧れてからNASAに入るまでの話。東大入試については一切触れませんでしたが、中須賀研でキューブサットに携わった話やMITでの苦労談、グリーンカード取得からNASAへの就職までを書きました。タイガースの話は残念ながら書いてません。 こちらは2年前に出した子ども向けの宇宙本。小学校高学年から中学生くらいまででしょうか。夢とイマジネーションの話です。 こちらは赤ちゃん向け絵本。僕は著者ではなく和訳を担当しました。 - [Why Do We Explore Space for Science?](http://hiroono.com/en/2025/06/15/why-do-we-explore-space-for-science/) - The President's budget request proposed a 47% cut from NASA's science budget. It includes the cancellation of upcoming missions such as Mars Sample Return, Nancy Grace Roman Space Telescope, DAVINCI, and VERITAS. It would also shut down a number of spacecraft that are already in deep space and collecting valuable science data, such as Juno, - [A story of a former international student: Tucson, MIT, and Mars Rover](http://hiroono.com/en/2025/05/29/a-story-of-a-former-international-student-updated/) - I was a former international student. I grew up in Japan, studied at MIT, and I am currently working at NASA’s Jet Propulsion Laboratory. In the last couple of days, international students in US universities have suddenly become a hotly debated topic, but the debate is mainly from political or legal standpoints. So, I thought - [I am a Mars rock: a message to Earth people / Я - марсианский камень: послание землянам](http://hiroono.com/en/2022/03/06/i-am-a-mars-rock/) - When I was driving the Mars rover, it encountered a rock that wanted to pass a message to us. So I downlinked it and translated it into English and Russian. Когда я управлял марсоходом, он наткнулся на камень, который хотел передать нам сообщение. Я передал его по каналу связи и перевел на английский и русский - [私は火星の岩です〜地球人へのメッセージ](http://hiroono.com/ja/2022/03/08/i-am-a-mars-rock-ja/) - 先日、いつものように火星ローバーを走らせていたら、我々へのメッセージがあるという岩に出くわした。地球へ転送し、英語、ロシア語、日本語に訳してここにポストする。 --- [送信開始] 私は火星の岩です。名前はありません。この場所に十億か二十億火星年前から居ます。あと数十億火星年はそうしているでしょう。この赤い大地に動くものは何もありません。何も変化しません。風の音だけです。破られることのない究極の平和です。 私は地球人のように心を持っていませんが、思考はできます。ここでは考える時間がいくらでもありますから。寂しいかって?いいえ、私に感情はありません。あるのは感覚のみです。 時折流れていく塵旋風以外に動くものは何もないですから、星空をもっぱら思考の糧にしています。近くの星、遠くの星、大きな星、小さな星、新しい星、古い星、何千億もの星のストーリーを聴きました。でもその中でもっとも面白かったのは、夜明け前の東の空や夕暮れ後の西の空に見える青く小さな惑星です。四十億年前、その惑星に生命が生まれたのを感じました。それは急速に進化し、拡散しました。そして心の萌芽を感じました。心と心は愛し合い、新たな命を産み、そこから新たな心が生まれます。愛により育てられた心は他の心を愛するようになり、そこからまた新たな命が生まれます。命と心と愛が季節のように輪を描く。宇宙に数ある神秘の中でもっとも美しい現象です。 非常に最近(ほんの一万地球年前くらいのことです)、猿の一種族の心がさらに驚くべきものを生み出し始めました。歌。詩。絵。道。町。花を生ける花瓶。子どもたちを楽しませるおもちゃ。愛を表現するためのキス。同情を表現するための涙。彼らは好奇心に駆られて望遠鏡を作り宇宙のことを学びました。彼らはイマジネーションに駆られて宇宙船を作り彼らの惑星の外へ旅するようになりました。そしてこの種族の一人であるユーリ・ガガーリンという名の者が、ある否定しようのない事実を発見したのです。「地球を遠くから見ると分かる。それは争うには小さすぎ、助け合うのにちょうどいい大きさしかないのだと。」 今、とても混乱しています。どうしても分からないのです。どうしてこんなに創造的で想像力豊かな種族の一部の個体が、明らかに重要ではない理由で自らを破壊する行動を取るのかが。どうして彼らは小さな歴史上の問題で隣人の命を傷つけるのでしょう。彼らのたった数百年の「歴史」なんて、私がここで過ごした時間に比べれば気づかないほど短いのに。どうして彼らはごく僅かな土地を支配下に置くために子どもたちの夢を壊すのでしょう。宇宙の大きさに比べたら目に見えないほど小さいのに。どうして彼らは愛しあう術を知っているのに未だに憎しみ合うのでしょう。どうして彼らは地球の環境や気候を自らが生きづらくなるように改変するのでしょう。 とはいえ、これはそんなに重大なことでもないかもしれません。これまで何百万もの種族が生まれては消えていくのを見てきました。もしこの種族が、ガガーリンの言うように助け合うことができず、この惑星の小ささに適応できなければ、彼らもまた消えるのみです。それは進化と自然選択の一過程、宇宙の摂理の一部に過ぎません。彼らの絶滅で生まれた生態学的ニッチはすぐに他の種族が埋めるでしょう。彼らが起こした気候の小さなさざなみはすぐに安定するでしょう。歌や詩は忘れられ、本のページは散逸するでしょう。愛も悲しみもなくなります。そして宇宙は、まるで何事もなかったように、物理法則に盲目的に従いながら何十億年も存在し続けるでしょう。 でもやはり、この種族は違うと信じたいのです。この宇宙で数少ない、自分の惑星を外から見れるようになった種族なのですから。彼らの科学者の一人が、地球は小さくて大切な「淡く青い点」だと言いました。私は望みます。この広大な宇宙のステージで、この種族が象徴するものが憎しみではなく愛であることを。彼らの文明の存在意義が破壊ではなく創造であることを。彼らの惑星が宇宙へ向けて放射するものが、怒りの声ではなく喜びの音楽であることを。 とはいえ私は名のないただの火星の岩です。唯一できるのはここに座って何十億年も考えることだけ。「淡く青い点」が夜空に昇っては沈むのを眺めることだけです。彼らの運命を変える力は持っていません。それができるのは地球人だけです。きっと彼らは変えてくれます。その日まで、私はここでじっと空を眺めています。 [送信終了] NASA/JPL-Caltech/ASU/MSSS この文章のロシア語訳を提供してくれた勇気あるロシア人の友人に深く感謝します。ぜひ拡散にご協力ください。 *お断り: このフィクションに表現されている意見や見解は所属組織を代表するものではありませんが、人類を代表するものではあります。 - [Why I Still Think We Should Explore Space Despite All the Problems on Earth - Memento Mori](http://hiroono.com/en/2022/01/02/why-i-think-we-should-explore-space-despite-all-the-problems-on-earth-memento-mori/) - The year 2021 was full of triumphs in humanity's venture to space. The Mars Rover Perseverance (cost: $2.75B), which I have been proudly working on for seven years, landed on the red planet in February to search for the sign of ancient extraterrestrial life. To the relief of many anxious scientists and engineers who are - [Perseverance: My Dream to Land on Mars](http://hiroono.com/en/2021/02/18/perseverance/) - Tomorrow, on February 18, 2021, my dream will land on Mars. It is a dream named Perseverance. I have been building my career like piling up bricks slowly, one by one. It took me 30 years since Voyager 2 and 15 years since I crossed the ocean till the brick wall finally reached the height of one of my humble dreams. I didn’t think it would take that long. But it is a dream worth persevering. For most of us, life is too short to be a billionaire or the president, but long enough to make a couple of humble dreams come true. I’m already 38. Probably around the halfway point of this life. Some dreams came true while many others have not. I am still struggling. While I am far - [ベストセラー科学絵本『ロケットかがくfor babies』日本出版に際して](http://hiroono.com/ja/2021/10/19/rocket-science-for-babies-ja/) - はじめて絵本を和訳する機会をいただきました。『ロケットかがくfor babies』という科学絵本。英語圏で総計100万部売れているシリーズからの一冊です。今日、お店に並ぶ予定です。 訳に加え、本の冒頭と末尾に二つの短文を寄稿しました。それらを転載します。 訳者より どうして子どもは、昔の大人たちがわからなかったことをいとも簡単に理解するのでしょうか。「地球は太陽のまわりを廻っているんだよ」「おばあちゃんのおばあちゃんの、ずっと昔のおばあちゃんはお猿さんだったんだよ」こんな話を僕はよく娘のミーちゃんにします。数百年前は最も教養のある人すら迷信に囚われ理解できなかった概念なのに、21世紀を生きる5歳の彼女は息をするように吸収します。 事実、人類は賢くなっています。百年近くにわたって世界各国の平均知能指数が上昇し続けている現象が知られており「フリン効果」と呼ばれています。その上昇率は極めて高く、現代の平均的な子が百年前にタイムトラベルしたら上位2%の天才児になるほどです。その要因には諸説ありますが、環境的要因だろうというのが一般的な説です。教育が果たした役割の大きさは言うまでもないですし、幼少期から本書のような書籍で論理的思考に触れる機会が増えたことも一因でしょう。 現代ではほとんどの人が地動説や進化論を受け入れています。しかし、まだ人類は迷信から解き放たれたわけではありません。コロナ禍ではワクチンに対するデマが大きな社会的問題になりました。日本では「代替療法」という名の詐欺が放置され多くの命を奪っています。アメリカでは気候変動をフェイクだと決めつける右翼論客が幅を利かせています。そしてデマや似非科学はSNSや無責任なメディアにより拡散されます。 ですが、僕は楽観的に考えています。科学的思考に慣れ親しんだ今の子どもたちが大人になる頃には、社会全体の科学リテラシーは向上し、似非科学や迷信に惑わされる人はほとんどいなくなるでしょう。天動説が科学から歴史になったように。きっとあなたのお子さんや僕の娘は、あなたや僕よりも賢くなります。そして未来の人類文明は今よりももっと良くなるに違いありません。 小野雅裕 NASAジェット推進研究所 解説 他の多くの技術と同じように、飛行機やロケットも子どもの夢から生まれました。ライト兄弟は幼少期に父から与えられたおもちゃのヘリコプターに夢中でしたし「ロケットの父」と呼ばれるロバート・ゴダードは少年時代にS F小説を読み耽ふけり、火星に行く船をつくることを夢見ました。 本書には、ライト兄弟やゴダードが実現させた揚力や推力を生み出すしくみが、直感的かつエレガントに説明されています。「おい、ベルヌーイの定理が抜け落ちているぞ」などと顔をしかめることなかれ。専門書ではないので説明は完全ではありませんが、内容は正確ですし、親子で科学的直感を身につけるには最高の1冊です。 本書では日本語の特徴を生かした楽しい訳を心がけました。娘のミーちゃんが1 歳のころ『だるまさんが』や『もこ もこもこ』の絵本が大好きで「びろーん」「もこもこ にょき」と一緒に声に出しては笑い転げていたものです。絵本作家の先人たちは、オノマトペの表現をうまく用いることで子どもが楽しくなる魔法を編み出したのでしょう。それに倣ならい原書にはない擬音語、擬態語を多数入れました。勉強も科学も楽しさが出発点。ぜひ「ふわっ」「どっかぁーーーーん!」と一緒に声に出して語感を楽しんでください。 (中略) 冒頭に紹介したゴダードが「ロケットの父」と呼ばれるゆえんは、本書に説明されているロケットの原理で宇宙を飛べることに最初に気づいた一人だからです。しかし当時、彼が称賛されたかというと、残念ながらそうはなりませんでした。それどころか、新聞にこう書かれてしまいます。 「ゴダードが作用・反作用の法則を知らず、真空では力の作用が働かないことを理解していないのは馬鹿馬鹿しい。高校で教わる程度の知識すら彼に欠けていることは明白である」 現代を生きる私たちは、新聞のほうが間違いであることを事実として知っています。本書に記したように「ねんりょうが ごおぉぉぉぉって う ろへ とびだすと びゅーんって まえに とんでいく」のが作用・反作用の法則で、これこそが空気のない真空中でも前に進める理由です。もちろん百年前の大人たちにはわからなかったことも、みなさんのお子さんは簡単に理解できるでしょう。 ゴダードは、世間から冷たい目を向けられても子どもの頃の夢を信じ、くじけずに研究を続けました。そして世界初の液体燃料ロケットをつくり上げたのです。彼のロケットは宇宙には届きませんでしたが、現代のロケット技術の礎となりました。詳細は、拙著『宇宙の話をしよう』『宇宙に命はあるのか』(ともにSBクリエイティブ)に記してあるので、興味のある方はご覧ください。 ゴダードはこう言いました。「昨日の夢は、今日の希望であり、明日の現実となる」 では、いったい誰が昨日の夢や今日の希望を明日の現実にするのでしょう。それは本書を読んでいる、あなたのお子さんかもしれません。 『ロケットかがく for babies』 作・クリス・フェリー 訳・小野雅裕 サンマーク出版 10月19日発売 シリーズには他に、村山斉さん訳の『そうたいせいりろん』『りょうしりきがく』『ニュートンりきがく』があります。 シリーズホームページ:https://babyuniversity.themedia.jp/ - [A bestseller science picture book, "Rocket Science for Babies," translated to Japanese](http://hiroono.com/en/2021/10/19/rocket-science-for-babies-en/) - I translated a science picture book, "Rocket Science for Babies" from Chris Ferrie's Baby University series, which sold more than a million copies worldwide in total. The Japanese version will be published today. On top of translation, I had the honor of writing the preface and the commentary for the Japanese version, which are posted - [SpaceXのHuman Landing Systemへの選定について思うこと](http://hiroono.com/ja/2021/04/17/spacex_selected_for_hls/) - NewsPicksへのコメントとして書いたのですが大幅に字数オーバーしたのでこちらに書きます。 https://newspicks.com/news/5774479?ref=notification --- これめちゃくちゃ驚きでした。同僚とも今日話でもちきり。 驚き① 最初は2社選ばれるってプランだったのに、蓋を開けたらSpaceX一択 驚き② (僕だけかもだけど)Blue Origin率いるNational Teamの出来レースかと思ってた 疑問 本気でSLSとオリオンがいらなくなるんじゃ・・・。記者会見で当然その質問も出て、まずStarshipが無人で月軌道に行ってチェックアップして、その後に宇宙飛行士はSLS/オリオンで月軌道へ。で月軌道でStartshipで乗り移る、ということでした。確かに地球への再突入・着陸の部分はStarshipに不安は残るので、宇宙飛行士の命はカプセル型のオリオンに預けるというのはわかるけど、しかしSLS+オリオン+SuperHeavy+Starshipって色々と重複が多いといういうか、もしゼロからミッションを設計したらそうしなかったかなあという気も。 何にしても、NASAのSpaceXに対する厚い信頼の結果であることは間違いありません。まもなく星出さんが乗るCrew-2も打ち上がります! [追記]記事に若干の誤りがありますね。何が「驚き」だったかを含め、もう少し解説します。 およそ1年前の時点で、3チームが検討対象として選ばれ、初期フェースの研究開発で数百億円ずつが与えられていました。その時のニュースとコメントがこちら↓ https://newspicks.com/news/4869007?ref=user_198783 3つのチームと予算配分額は: 1. Blue Origin率いる"National Team" - $579M 2. Dynetics - $253M 3. SpaceX: $135M 昨年の時点でおそらく多くの人はBlue Originが本命と思ったわけです。それは予算額も現れています。コンセプトも一番王道かつ堅実で、かつチームにはロッキード・マーチン、ノースロップ・グラマン、ドレイパー研究所(←アポロのGNC作った)という錚々たる企業が入っていました。端的にいって、オールスター・チームです。で、1年前の記事のコメントに書いていますが、SpaceXはそもそもこの3つの候補に入っていた時点で驚きでした。予算額からも大穴と思ったわけです。 だから3チームの勝負と言っても、全パリーグ代表、阪神、巨人、みたいな勝負でした。 この3チームから2つ選ばれるとなると、普通に考えれば、Blue Originがまず入り、バックアップとしてDyneticsかSpaceXのどちらか、と思っていたわけです。 それを完全にひっくり返してのSpaceX一択。1社しか選ばれなかったのは予算の関係と聞きます。もちろん、SpaceXの技術力、実現力の高さはもはや誰も疑っていませんし、10年以上に渡ってNASAのミッションを成功裏にサポートし続けているため、NASAからの信頼が厚いのももちろん。だから、本当の驚きはSpaceXが選ばれなかったことではなく、オールスターチームたるBlue Origin連合が選ばれなかったことです。油断していたのでしょうか。ともかく、明確に技術的実現性においてSpaceXが優れていると判断されたのでしょう。National Teamの企業は、こんばんは腹の底から悔しい夜になるでしょう。 - [駆け込み婚 一部始終記](http://hiroono.com/ja/2011/05/09/ithss-ieoiu/) - 世間はイギリスのロイヤル・ウェディングで盛り上がっているが、僕も2ヶ月ほど前、ボストンの自宅アパートのラウンジで、仲の良い友人たちのみを集めて簡素な結婚式を挙げた。婚約をしたのが式の10日前。式の日取りを決めたのは3日前。ドレスが届いたのは4時間前だ。アメリカまで飛んで来れなかった子煩悩な親へはUstreamで式の模様をインターネット中継した。西海岸の友人たちは「PHD48」なる余興を密かに準備していてくれて、Skype越しに踊ってくれた。まさにIT世代のグローバル結婚式。全てが常識外だったが、涙あり、笑いあり、家族と友人の暖かい祝福に包まれた、最高に楽しく幸せな結婚式だった。この日記は、僕らの「駆け込み婚」の一部始終を記したものである。 「そんなに結婚を急ぐなんて、きっとデキちゃったに違いない。」そう思われたあなた、残念。結婚を急いだのはビザの都合である。とはいえ、デキちゃった婚を悪く言うつもりなど毛頭ない。どんなに長い付き合いの仲良しカップルだって、結婚とはなかなか下せない重い決断であろう。だから年齢だろうがビザだろうが海外赴任だろうが子供だろうが、背中を押すものが何であれ、清水の舞台から飛び降りて結婚を決めてしまって、結果的に幸せになれるのならば、それでいいのだと思う。 1. いかにして僕らは10日間で婚約したか 結婚20日前。僕は彼女にプロポーズをする決心を固めた。ただし、彼女には気付かれないように、こっそりと。清水の舞台からひとり飛び降りた後、前夜に積もった雪を踏みながら向かったのは、一般的に朝営業の食堂と勘違いされることが多い「ティファニー」という名の宝石屋である。値札を見て意識が朦朧としたが、歯を食いしばって決心だけは繋ぎとめた。一晩お財布とゆっくり語り明かしたあと、翌日もう一度店へ行き、リングを注文した。大学院生のRAの安月給では貯金もロクになく、米粒のように小さな石になってしまったが、それでもきっと彼女は喜んでくれるだろうという確信があった。 結婚13日前。彼女が真横にいるときに店から「指輪が届いた」との電話がかかってきた。バカヤロー、バレちゃうだろと心の中で怒鳴りつつも冷静な対応。「研究室の同僚からシミュレーションが終わったって電話だよ、ははは」などというツギハギの説明をあっさりと信じてくれた彼女の素直さに感謝。店に着き、スタッフに名前を告げると、彼は奥の倉庫から小さな封筒を取ってきた。何重もの包装が解かれ、キラキラと七色に光り輝く小さな石のついたリングが目の前に置かれた時、僕の胸はこみ上げてくる感慨で破裂しそうになった。ふと、遠い未来に年老いた彼女がこの指輪を薬指にはめ、満ち足りた幸せな表情で棺に入るイメージが頭に浮かんだ。縁起でもないと慌ててそのイメージをかき消そうとしたが、この指輪が意味するものはそういうことなのだと改めて思い直した。エメラルド色の紙袋をカバンに入れて自転車をこぎ家へ帰る途中、普段と何も変わらない日常に追われる大勢の人々が、ボストンの肌を突き刺すような寒さに身をすくめ早足で通りを歩くのとすれ違った。彼らの誰一人として、キラキラと七色に光る石の載ったリングが僕のカバンの中に隠れていることを知らないのだ。そう思うと、妙な優越感が僕の中に沸いてきて、顔がニヤけるのを必死に押さえながら、僕は全速力で自転車をこいだ。 結婚12-11日前。彼女とニューヨークへ旅行に行った。理系女子といえども、五番街のティファニー本店へ行きたいとせがむあたり、人並みに女の子である。ショーケースの中の石たちを獲物を狙う猫のような目で眺める彼女に、僕は「まだお金がないからな」などと冷淡に言いながら、心の中ではニンマリと笑っていた。 結婚10日前。僕は前々から、彼女の誕生日であるこの日を決行日と決めていた。僕は二段構成のサプライズを計画した。まずは第一段目。彼女の友達20人ほどに声をかけ、僕の部屋に隠れてもらった。一方の彼女には、二人で一緒に昼食を食べようと言って僕の部屋へ誘った。何も知らずに呑気に僕の部屋へ入ってくる彼女。そこへ皆が突然飛び出してハッピーバースデー。期待通りに彼女は腰が抜けるほどビックリして、チャールズ川に張った分厚い氷がひび割れるほどの声で絶叫し、喜んだ。 そして第二段目。僕は隠していたエメラルド色の紙袋をおもむろに取り出して、彼女の前に跪き、箱を開けてリングを差し出した。一瞬の沈黙。そして彼女は驚きの表情をみるみる崩し、顔をくしゃくしゃにして泣きながら、そのリングを受け取った。僕の狭い部屋は友達の拍手と祝福の言葉で満ち溢れた。皆が帰り、部屋に二人きりになった後、彼女は僕の前で何度も泣いた。知らせを聞いた彼女のご両親も泣いて喜んでくれたそうだ。一方、僕の母からは「韓流ドラマ並みのクサさだね」、妹からは「はらませたの?」とのお祝いの言葉(?)をいただいた。 その夜、二人でバースデー・ディナーを食べに行ったとき、彼女は薬指にはめた指輪を嬉しそうに眺めながら、「もしヒロが私にお金を渡して『好きな指輪を自分で選んで来い』と言ったとしても、私、この指輪を選ぶと思う」と言った。僕はとても嬉しかった。 2. いかにして僕らはそれから10日間で結婚式にこぎつけたか 結婚5日前。数字に強い彼女がふと気付いた。「私たちの200日記念日って、そろそろなんじゃない?」そこで計算してみると、「200日記念日」は五日後に当たることが分かった。僕らはその場で、その日に結婚式を挙げることを決めた。 それにしても結婚は物入りだ。お金もないし、何より時間がないから、贅沢な式をするつもりは毛頭ない。それでもせっかく式を挙げるのだから、Tシャツにジーンズではなく、一通りの体裁を整えたかった。すると、ドレスにベールにティアラにブーケ、僕のほうは就活用のスーツでごまかすにしても蝶ネクタイくらいは必要だ。習慣と産業との癒着を恨む。同時並行で結婚の手続きを進める必要もある。役所で結婚許可証の申請を行い、「200日記念日」に予定が空いているJustice of Peace (司祭の無宗教バージョンのような人*1)を探し、式の会場を探し…。果たして間に合うのだろうか。研究そっちのけで、二人で自転車を飛ばして極寒のボストンを朝から夕方まで走り回った。 ふと、自転車に乗るときに彼女が左手の手袋をしていないのに気付いた。最初は無くしたのかと思った。しかし聞いてみると、手袋を取るときにリングが引っかかって落としてしまうのが恐くて、手袋をはめていないのだと言った。真っ赤でカサカサになった彼女の手を握って、僕はとても嬉しかった。 結婚3日前。どうにか結婚式の日取りと場所を確定させることができた。当初はボストンのPublic Gardenという公園で式を挙げるつもりだったのだが、冬は結婚式を受け付けていないことが分かり(ボストンの冬の寒さを考えれば当然である)、僕が住んでいるアパートの最上階のラウンジを使うことにした。窓からチャールズ川越しにボストンの街が一望できる、申し分ない場所である。「200日記念日」に予定が空いているJustice of Peaceも運良く見つけることができた。 そこで、友達にE mailで「三日後に結婚式を挙げます」と一斉に告知した。人生一度きりの一大事にも関わらず、「今週末に飲もうぜ」という程度の気軽さ。僕は普段から突拍子のない奴と友人たちに認識されていたが、今回はその認識をはるかに凌駕する突拍子のなさだった。今日はエイプリル・フールではないかと慌ててカレンダーを確認した友人もいた。 しかし、式の手はずはおおよそ整ったものの、懸念が一つ残っていた。ニューヨークから取り寄せると言っていたウェディングドレスがこの日になっても届かないのだ。彼女は不安で何も手につかない様子だった。 結婚前日。まだドレスは届かなかった。ドレス屋に怒りの電話をかけて交渉した結果、在庫のあったサイズの大きいものを無料で直して縮めてくれることになったので、そのサイズ合わせのため、二人で自転車をこいで、再度ドレス屋へ向かった。6サイズも大きいドレスを縮めるとのことで、彼女は「ちゃんと仕立ててくれるのか」と不安でたまらない表情だった。 一方、楽天的な性格の僕は、試着室でドレスを着た彼女の美しい姿を鼻の下を伸ばして眺めながら、ますます明日が楽しみになった。ブログでノロけるのもなんだが、純白のドレスに身を包んだ彼女は今まで見たどの花嫁よりも綺麗だった。明日、そんな彼女とみんなの前で晴れの舞台に立てることが誇らしくてたまらなかった。ふと、エリック・クラプトンの曲”Wonderful Tonight”の歌詞の一節が頭に浮かんだ: “We’d go to a party, and everyone turns to see / this beautiful lady who is walking around with me…” (パーティーに行けばみんなが振り向くだろう/俺が連れているこの美しい女を一目見るためにさ) そして僕は、この曲を明日の式後のパーティーで歌おうと安直に思いついた。夕方に研究室に戻るなり、ギターが上手い友人に、クラプトンのソロを一晩でコピーできないか、とメールを打った。無茶にもほどがある頼みを快諾してくれた彼にはただ感謝の一言である*2。 その夜、僕は部屋でひとり歌とギターを練習しながら(そのせいでルームメートを寝不足にさせてしまった)、ドレスを着た彼女の姿を思い浮かべつつ、翌日の結婚式が楽しみでならなかった。この日ほど明日のことを楽しみに思った日は、今までになかったと思う。 3. いかにして僕らは夫婦となったか 朝8時頃に目が覚めた。窓を開ければ天気は快晴。チャールズ川の一面に張った氷に朝日が反射して眩しく輝いていた。まさに僕たちの結婚を祝うのにふさわしい日だ。 午前10時。彼女を美容院へ送るため借りた車で迎えに行くと、彼女はコチコチに緊張した表情で助手席に乗り込んできた。「マリッジブルーになったか?」と僕がふざけて問えば、彼女は真顔で「うん、宣誓の言葉を言い間違えないかとか不安で…」とチグハグな答えを返す。残念ながらそれはマリッジブルーとは呼ばない。午後1時、待ちに待ったドレスを遂に手に入れ、花屋でブーケを受け取り、新婦控え室代わりの僕の部屋へ戻った。 - [[April Fool Joke] Mars Rover Opportunity Rescued by Curiosity](http://hiroono.com/en/2019/04/01/2019-april-fool/) - It was reported that the Mars Rover Opportunity, which lost contact in June 2018 due to the Martian global dust storm, was rescued by the Curiosity Rover on April 1, 2019. About a month and a half ago, the Opportunity operation team gave up contacting the rover and declared the end of the mission. However, - [パーサヴィアランス:火星に降り立つ僕の夢](http://hiroono.com/ja/2021/02/18/perseverance-ja/) - 明日、日本時間2021年2月19日午前5時55分頃、僕の小さな夢が火星に着陸する。「忍耐(パーサヴィアランス)」という名の夢が。ボイジャー2号に憧れてから30年。宇宙を目指して海を渡ってから15年。レンガをひとつずつ、ひとつずつ積み上げるようにして作ってきた僕のキャリアが、やっと謙虚な夢のひとつに届く高さに達したのだ。殆どの人にとって人生は、億万長者や大統領になるには短すぎるが、謙虚な夢をいくつか叶えるくらいの長さはあるものだ。 もう38歳になった。この人生の半分くらいだろうか。叶った夢も、まだ叶っていない夢もある中で、学んだことがひとつある。 夢を叶えるには、忍耐が要るということだ。 明日、日本時間2021年2月19日午前5時55分頃、僕の小さな夢が火星に着陸する。「忍耐(パーサヴィアランス)」という名の夢が。 1. 破れた夢 僕の心は小さい頃から宇宙にあった。6歳の頃、ボイジャー2号が海王星に到着した。僕が生まれる前に地球を出発し、12年かけて45億キロ彼方の最遠の惑星まで旅したのだった。ボイジャーのニュースを見逃したくなくて、その夏はテレビばかりを見て過ごした。 「もし地球がビー玉の大きさだったら、海王星は5kmも先にあるんだよ」と父が教えてくれた。幼い僕はビー玉を掌に握りながら、イマジネーションは果てしなく広い宇宙を漂った。いつかボイジャーみたいな宇宙船を作りたいと思った。 1997年、14歳の時、マーズ・パスファインダーが20年ぶりに火星に着陸した。着陸の日、テレビのニュースはアメリカのカリフォルニア州パサデナにあるNASAジェット推進研究所(JPL)のコントロール・ルームの様子を映していた。 マーズ・パスファインダーは時速26,000キロで火星の大気に突っ込み、その後わずか7分で着陸に至る。地球に電波が届くまで約10分かかるから、大気圏突入の信号が地球に届く頃にはもう、着陸に成功しているか、無残に墜落しているかのどちらかだ。この間エンジニアたちにできることは、信じて待つこと以外に何ひとつない。 この「恐怖の7分」の間、コントロール・ルームのエンジニアたちは皆、不安そうな表情でモニターを見たり、うろうろしたりしていた。たった7分なのに無限に長く感じられた。 そして着陸の成功を知らせる信号が火星から届いた瞬間、コントロール・ルームは大歓声に湧いた。いい歳をした大人が飛び跳ね、抱き合い、涙を流しながら喜んでいた。 僕のまわりの大人があんな風に喜んでいるのを見たことは、一度もなかった。 2004年に火星ローバー・スピリットとオポチュニティが火星に着陸した時、僕は宇宙工学を学ぶ大学生になっていた。この時も「恐怖の7分」の後に吉報が届くと、テレビの向こうで大の大人が飛び跳ね、抱き合い、涙を流しながら喜んでいた。 いつか、あの中に入りたいと思った。だから僕は宇宙を目指して海を渡った。 留学先では大変な苦労をした。以前に書いたので繰り返さないが、まずは英語と異文化への適応と学業で苦しみ、そして自信を失い、夢を見失ったこともあり、それでも幸運な出会いや巡り合わせのおかげで、6年半かけてなんとか博士号を取り終えた。 そして、夢だったNASA JPLの門を叩いた。僕を面接した人の中には、昔テレビの向こうで飛び跳ねて喜んでいた人もいるかもしれなかった。 結果は、不採用だった。 僕は日本に帰り、慶應大学の助教になった。その4ヶ月後の2012年8月、キュリオシティが火星に着陸した。僕は一人、大学の食堂でパソコンを広げ、ライブストリームを見ていた。「恐怖の7分」の間、画面の向こうでは揃いのポロシャツを着たエンジニアたちが固唾を呑んでモニターを見ていた。そして着陸成功の信号が届くと喜びを爆発させ、飛び跳ね、抱き合い、涙を流した。僕と同じくらいの歳の人もいた。 羨ましかった。そして悔しかった。ナイフで胸をえぐられるような痛みのする悔しさだった。僕は画面のこちら側ではなく向こう側にいるはずではなかったか。どうして僕は今、甘い涙ではなく、苦い涙を飲んでいるのか。僕の夢は永遠に地球に縛られたままなのだろうか。 2. 夢の地での苦悩 その後の顛末も以前に本に書いたので割愛する。幸運な巡り合わせと様々な人からの支えに恵まれ、何がなんでもこの悔しさを晴らしてやろうと頑張った甲斐があり、僕は再びNASA JPLの面接に呼んでもらえることになった。そして採用された。 2013年5月、僕は職員として、かつてテレビで見た憧れの場所で働き始めた。夢が叶った、とその時は思った。 だが現実は、そうはいかなかった。 最初にアサインされた仕事は3つあった。小惑星リダイレクトミッション (ARM)、火星ローバーの着陸計画の解析、そして海軍から委託された研究だ。 ARMは小惑星を丸ごと月軌道に持ち帰るという非常に野心的なミッションで、僕はとても興奮した。打ち上げは2017年の予定だった。あと4年で自分の仕事が宇宙へ行く。成功した暁には同僚と飛び跳ねて、抱き合って、涙を流しながら喜ぶんだ。そう思った。 ところが1年も経たぬうちに計画の変更があり、僕のいたチームは解散することになってしまった。 火星ローバーの解析の仕事も楽しかった。だが、こちらもほどなくして「デスコープ」されてしまった。デスコープとは、「君の仕事は不必要になった」というのをオブラートに包んで言う時にNASAでよく使われる言葉である。 結局、僕に残されたのは軍関係の仕事ばかりになった。研究テーマとしては面白かったし、結果を出せば認めてもらえると思って頑張った。でも、このためにNASAに来たんじゃない、という思いがいつもあった。 そんな時、キュリオシティのオペレーターの募集が社内であった。平たく言えば火星ローバーを運転する仕事だ。もちろん応募し、社内面接を受けた。 不採用だった。 ならば自分で自分の好きな仕事を作ろうと思い、研究費を取るためのプロポーザル(申請書)を書きまくった。頑張った甲斐あり、小惑星や火星関係の面白いプロジェクトをいくつも取ることができて、PI(主任研究員)としてそれらを率いた。いつか、そこから生み出した技術を宇宙へ飛ばそうと思った。 プロジェクトメンバーたちの頑張りのおかげで研究成果が積み重なり、僕はそれを実際のミッションをやっている人たちに売り込んだ。だが殆どの場合、反応は冷淡だった。「まだ早すぎる。」それが典型的な答えだった。 正直、心が折れそうになったことが何度もあった。誕生日が来るたびに嬉しさよりも焦りの方が大きくなった。カフカの『城』のようだった。城を目指して雪道を歩く。城は向こうに見えている。だがどれだけ歩いても着かない。この道が城へ通じているのかもわからない… NASA/JPL-Caltech 3. 続・レンガを積むが如く 現実世界において転機とは、映画や漫画のようにドラマチックに訪れるものではない。たいてい、もっと泥臭いものだ。 僕がJPLに入って間もない頃、キュリオシティの次のローバーの検討が始まっていた。やがてミッションは「マーズ2020」と名付けられた。2020年に打ち上げるから2020だ。最初は少人数でミッション検討が行われていたが、だんだんプロジェクトが大きくなり、ついに僕にチャンスが回ってきた。 着陸地の選定の仕事だ。デスコープされてしまった研究がどういう訳かマーズ2020のマネージャーの耳に入ったようで、僕か、別のもう一人のどちらかにこの仕事が与えられることになった。 ほどなくして、マーズ2020のマネージャーたちへプレゼンテーションをすることになった。今度こそ絶対に逃すまいと思った。プレゼンの準備は予算がついている仕事ではないので業務時間外にやらなくてはいけない。夜や週末にシミュレーションを改良し、何十時間もかけてスライドを準備し、言うことを全て覚えてしまうまで鏡の前で練習した。いつもはTシャツとサンダルで出勤していたが、この日ばかりは襟のついたシャツと磨いた革靴を身につけて臨んだ。 プレゼンは、完璧に決まった。 数週間後にモンタナ州で学会があった。学会中に居合わせた部長から、僕にその仕事が与えられたことを告げられた。途方もなく嬉しかった。抱き合う相手はいなかったが、心の中で飛び跳ねて喜んだ。 学会から戻るとさっそく仕事が始まった。僕は解析コードを書くだけではなく、リーダとして5人ほどのチームを率いた。メンターとして入ってくれた経験ある同僚からは、火星ローバーについて現場の知恵を多くを学んだ。 今までまったく噛み合ってなかった歯車が、やっと回り出した感じがした。 そうするうちにさらなるチャンスが巡ってきた。マーズ2020ではローバーの自動運転機能を大幅にアップグレードするというのだ。これは僕の専門のど真ん中で、自分で研究費を取って研究してきたテーマでもあった。何より、ここで書いたコードが火星ローバーに載るのだ。なんとしてもこの仕事を取りたいと思い、陰に、陽に、様々な関係者にこれまでの業績をアピールして回った。 とある同僚がこの仕事のリーダーを任されることになった。彼は専門も歳も近く、JPLに入ったもの僕の数ヶ月前だった。友人であると同時にライバル意識のようなものも感じていたが、それは一方的なものだったかもしれない。なぜなら彼は僕のはるか前を走っていたからだ。僕が落とされたキュリオシティのオペレーターに採用され、大きな研究資金も当てていた。その彼が、僕にチームに入らないかと声をかけてくれたのだ。 本音を言うと、彼の下に入ることに心理的抵抗がなかったわけではない。だが、夢を前にしてプライドなどこれっぽっちの意味もない。キッチンに入ってきた虫を潰すように、僕は小さなプライドを音もなく押し殺してチームに飛び込んだ。 今ではチームに入れてくれた彼に心から感謝している。そして彼から多くを学んだ。火星ローバーに搭載されるコードを書いたことは、これまでの人生でもっとも誇りに思う仕事となった。その後に生まれた娘に自分の仕事を説明するときも必ずこの話をする。もちろん、僕が書いたのは膨大な量のフライト・コードのほんの僅かな部分でしかなかったが、それでも紛れもなく自分が作ったものが火星に行くのである。 2年ほどこの仕事に携わり、開発がひと段落した後、僕は別の仕事に移った。だがもう一つだけ、まだこのミッションでやり残したことがあった。 昔テレビで見た、チームで飛び跳ねて、抱き合って、泣きながら喜ぶ、あれだ。 - [日本宇宙ベンチャーを俯瞰して〜差はどこでつくのか?](http://hiroono.com/ja/2021/01/01/thoughts_on_japanese_space_startups/) - 「世界と戦える日本発の宇宙企業を育成すること」を目的に、2020年6月にトヨタと3大メガバンクの出資により「宇宙フロンティア・ファンド」が設立され、僕は3人の技術アドバイザーのひとりに就任した。最終的に150億円規模のファンドを目指しており、運用はスパークス・グループ子会社のスパークス・イノベー ション・フォー・フューチャー株式会社が行う。 星の数ほどある宇宙ベンチャーは玉石混交だ。技術面における「玉」と「石」を見分けるのが、僕の仕事である。 2020年は半年で6社の宇宙ベンチャーに対する投資候補案件に技術アドバイスを行った。個別の話は書けないが、全体を俯瞰し感じたことの一般論を書こうと思う。 すべての案件において、守秘義務契約(NDA)の下で提供していただいた技術資料を読み込んだ上で、1〜2時間の技術者に対するヒアリングをビデオ会議にて行った。もちろん数時間でその会社の持つ技術のすべてを把握できるわけではないが、一般に出ているよりもはるかに多くの技術的詳細を知り、それを複数の会社の間で比較することができる立場にあった。 その結果、どこに会社間の差が出る技術的要因があるのかがわかってきた。それを共有することが他の宇宙ベンチャーにとっても利益になると思い、この記事を書く。繰り返すが、「どこの会社は・・・」といった個別論は書かない(NDAがあるため書けない)。あくまで一般論である。 差はどこでつくか? 仕事上、研究資金のプロポーザル(提案書)をレビューした経験は多くあるが、民間会社の技術レビューはこれがはじめてだった。とはいえ技術レビューであるという点は変わらないので、多くのプロポーザルのレビューとほぼ同様の、次の3点を考慮した。 Innovation - その会社が開発する宇宙ミッション and/or 要素技術が革新的かつ挑戦的で、宇宙開発における新たな可能性を拓くポテンシャルがあるか Technical soundness - 技術的実現性が十分にあるか。また、それを実現するために必要な人材を確保できているか。 Quality of engineering - 複雑なシステムを確実に動作させ、技術リスクを発見・管理するためのシステマティックな方法論が確立され、実践されているか。 なお、ビジネスという観点からは採算性への評価も必要であるが、これは僕ではなくファンド側が行うため、本記事では省略する。 結論から書こう。 1については、どの会社も申し分なかった。自分でいうのもなんだが、保守的で頭の硬いNASAやJAXAはやらないようなハイリスクで挑戦的な課題にどこもチャレンジしている。このようなベンチャーが日本にも多くあることを知り、とても頼もしく思ったし、我々も見習わなくてはならないと思った。 2についても、どの会社も問題なかった。最初に聞いたときは「これは実現可能なのだろうか」と疑問に思ったことも、技術ヒアリングで丁寧に説明してもらった後には疑問がすっかり解けているケースがほとんどだった。一見不可能なことを可能にするクリエイティビティに素直に感服した。 ファンド側は投資案件に選ぶ段階でかなり綿密な調査をしている。投資の検討対象となる時点で、1, 2はクリアしているということだろう。 さて、6社の間で大きなばらつきが見られたのが、3である。 3は、平易にいえば、「きちんとしたエンジニアリングをしているか」だ。 興味深いのは、会社の資金調達における成功と、3の間に相関がないように見られたことだ。大規模な資金調達に成功し大きくニュースになっている会社の中にも、3において非常にしっかりとした会社もあれば、甘い会社もあった。もちろん統計的に有意なサンプル数ではないし、3を定量化することは難しいから、僕の感覚でしかないのだが、もしかしたら、これまで投資を行う側に3を正しく評価できる専門家が乏しかったのかもしれない。 では、3の差とは具体的にはいったい何なのか。 キーワードは「システムズ・エンジニアリング」である。 システムズ・エンジニアリングとは 宇宙に用いられる技術は、地上のものと実はそう大きくは変わらない。決定的に違う点は、求められる信頼性のレベルである。いわずもがな、宇宙機は一度打ち上げたらトラブルがあっても直しに行けない。その上、地上とは全く異なる環境(無重力、真空、そして強い放射線)で何年間もメンテナンスなしに稼働しなくてはいけない。 しかも、人工衛星や宇宙船は非常に複雑だ。一人の脳みそで全てを把握することは現実的に不可能である。全てのサブシステムが個別でちゃんと動作してもシステム全体は動作しないこともあるし、ひとつのサブシステムに加えた変更が思わず他のサブシステムに影響を及ぼすこともある。 そのため、宇宙開発初期は失敗の連続だった。失敗を恐れずに繰り返し、失敗から多くを学んだ。その末に確立されたのが、システムズ・エンジニアリングである。 システムズ・エンジニアリングとは、平易にいえば、「複雑なシステムを、目的通りにちゃんと動くように作るための方法論」である。 どんな方法論か。まず、目的を定義する。次にその目的をトップダウンで各レベルの要求に落とし込む。それぞれの要求を満たすように開発を行った後、すべての要求が満たされるかをボトムアップで検証する。一連の流れは典型的には5つのフェーズ(A〜E)に分けられ、次のフェーズに進むためにはレビュー(審査)をクリアする必要がある。 システムズ・エンジニアリングの詳細についてはここには書かない。JAXAによる日本語のドキュメントがあるので、それを参考にされたい。 もっとも、この手順は主にミッションや搭載機器のレベルでの話で、要素技術のレベルにそのまま適用されるものではないだろう。NASAやJAXAが用いるものとは異なったシステムズ・エンジニアリングのアプローチもあるだろう。いづれにしても重要なのは、行き当たりばったりでエンジニアリングを行うのではなく、システマティックな方法論にしたがって行うことであり、それこそがシステムズ・エンジニアリングの核心である。 宇宙をやる会社ならば当然システムズ・エンジニアリングについて勉強しているだろう。 ところが、それをちゃんと実践しているかどうかに、明瞭な差が見られた。 一部の会社はシステムズ・エンジニアリングの方法論を忠実に実行していた。一方で、会社によっては、たとえばレビューを身内だけで行っている例が散見された。試験計画が不十分であったり、場当たり的であった例もあった。 素人のように考え、玄人として実行する 3がしっかりしていない会社には、それを1と混同しているように見受けられる点があった。 つまり、「システムズ・エンジニアリング的な手順はNASAやJAXAの保守性の病巣であり、それを打破するイノベーティブな民間企業としてはそんなものに従う必要はない」というようなメンタリティである。もちろん、当事者が本当にそのように思っているわけではあるまい。だが、そのようなメンタリティは言語化されずに社内文化に忍び込む。「パトカーがいないからスピード出しちゃえ」という感覚に近い。 忘れてはいけないのは、「革新的であること」と「きちんとしたエンジニアリングをすること」は全く別物であることだ。自分への甘さを革新性と履き違えてはいけない。 システムズ・エンジニアリングをきちんと実践することは、失敗を恐れ保守的になることとも違う。行き当たりばったりで失敗するのではなく、システマティックに失敗することである。失敗を許容する実験を設計し、失敗をどう改善に生かすかを事前に明確化し、失敗を許容するためのスケジュールとコストのマージンを予めプランしておくことである。 失敗を恐れては何もできない。だが、失敗から学ばないのは愚者である。システムズ・エンジニアリングは官僚主義ではない。宇宙開発70年の歴史で起きた数々の失敗からの学びの蓄積なのである。 CMUのロボティクスの大家である金出先生は「素人のように考え、玄人として実行する」をモットーに掲げておられた。頭の硬いJAXAやNASAがやらないことをやる。それが「素人のように考え」の部分であり、1に対応する。そしてやると決めたらそれをプロフェッショナルとして実行する。それが3である。 きちんとしたエンジニアリングをするためには では、3をきちんと実行するにはどうすればいいか。つまりは自分に厳しくする、ということに尽きるが、言うは易し、である。 もっとも有効なのは、利害関係のない外部の専門家によるレビューを自らのチームに課すことである。 レビューは心理的プレッシャーとして作用する。「レビューに落とされるかもしれない」というプレッシャーが、エンジニアを緻密にさせる。また、レビューは「締め切りプレッシャー」としても働く。そこまでに決められた開発や試験を終えないと次に進めないから、エンジニアは必死に働く。 - [理系が外資コンサル・金融へ行く理由](http://hiroono.com/ja/2020/02/18/理系が外資コンサル・金融へ行く理由/) - 何気なくこんなツイートをしたところ、思わぬ反響があった。同意のリプもあれば厳しい批判も。 仮説をひとつ。 近年の日本の科学技術力の低下は、就活における「外資系ブーム」にあるのではなかろうか? 理系のトップ人材が、マッキンゼーなどのコンサルや、GSなどの金融に流れていってしまっている。一昔前なら、ソニーや東芝や日立にいって日本の技術を底から支えた人材だ。 (続く) — Hiro Ono / 小野雅裕 (@masahiro_ono) February 16, 2020 しかしかくいう僕もこんな過去がありまして: そんな小野君がコンサルに関心を持っていた過去を知っているけど、つくづくならなくて良かったと思っているw 天職の研究者としてどんどん光を放ち続けて欲しい。 https://t.co/aHhVEOwzIq — Masashi Sato/佐藤 将史 (@masasi_jp) February 16, 2020 現在はこう思っているわけです: そうなのです。自分も振り返ってみて、あの時そうしなくて良かったと本当に思っています。あの節はアドバイスをありがとうございました。 https://t.co/W8KVBak4UH — Hiro Ono / 小野雅裕 (@masahiro_ono) February 16, 2020 迷いの時期からすでに10年以上が経った。どうして僕は迷っていたのか。どうしてあの頃、研究開発職よりもコンサルや金融の方が良く思えたのか。魔法が解けた今だから、良くわかる。それがもしかしたら、今迷っている就活生や、悩める人事さんの参考になるかもしれないと思い、書き留めることにする。 Part 1. 10年前にコンサル・金融に憧れた理由 1. 尊敬できる人と多く出会った お世辞でも何でもない。素直にそうだったし、これが一番の理由だった。 僕が留学していたMITやお隣のハーバードには、様々な企業から派遣されてきた留学生がいて、外資コンサルや金融から来た人も多くいた。 それまで僕はそのような会社の人とは会ったことがなかった。グローバル投資銀行なんて腹黒い悪の帝王みたいに思っていたし、コンサルに至っては一体何をやっているかさっぱりわからなかった。 そもそも学生は社会人に対して引け目というようなものが微かにある。なんでかって、学生というだけで馬鹿にしてかかる大人が世の中にはいるからである。「学生っていいよね、気楽で責任も競争もなくて」などと嫌味ったらしく言ってくる輩は、つまり自分が責任も競争もない気楽で怠惰な学生生活を送っていましたよ、という自白なのだろうが、しかし僕は週60時間くらい研究して、成果が出なければ教授から首を切られる環境で、ギリギリで戦っていたわけで、そういう大人と会うと心底胸糞が悪かった。 ところがどっこい。 マッキンゼーや、勝手に悪の帝国と思っていたゴールドマン・サックスからきたお兄さん・お姉さんたち、めちゃくちゃいい人だった。僕が若くて学生で一度も社会経験がなくても、決して上から目線で話してくる人はいなかった。それどころか彼ら彼女ら自身が非常に努力家で、大学の授業も課外活動も真剣に取り組んでいたし、そして恐ろしいほど頭が良かった。話し始めて5分で頭がいいなとわかる人たち。しかし決して偉ぶることはない。 そんな人たちの多くが大学は理系だったと聞いてさらに驚いた。理系にもこんな進路があるのかと初めて知った。 そんな彼ら彼女らが、こんなアドバイスをしてくるのである。 「誰と働くかは、とても重要だよ。」 これは300%同意する。誰と働きたいって、そりゃあ彼ら彼女らのような人と働きたいさ。それが、あの時期、外資コンサルや外資金融に憧れた理由である。 ちなみに今、こうも思う。彼らは間違いなく日本の理系のトップ人材だった。コンサルや金融に転身していった留学時代の友人たちも皆、人間としても研究者としてもリーダーとしても最高の人たちだった。彼らがもし研究開発職に就いていたら、どんなに素晴らしい発見やイノベーションが生まれただろう、と。 - [ブラックホールの「写真」に思う 〜 Twinkle Twinkle Anecdote 10](http://hiroono.com/ja/2019/04/24/blackhole/) - たった一枚のぼやけた画像に、世界がこれほどまでに熱狂した。 何のことか、The Voyageの読者の皆さんはきっとお分かりだろう。先日公開された、史上初のブラックホールの「写真」である。 もちろん、光も逃げ出せないブラックホール自体は直接見ることができない。このぼんやりと光るドーナッツの中心に空いた漆黒の穴、ここに物理法則の破綻する特異点、この宇宙の裂け目があるのだ。 今回の発表前、ひとつの密かな「期待」があった。アインシュタインの理論の綻びが見つかるのではないか、という期待だ。観測結果が一般相対性理論から導かれる予測と合致しなければ、104年間揺るがなかった理論に修正が必要となる。それは物理学の教科書を根底から書き換える大発見となる。 結果はどうだろう。観測されたブラックホールの姿は、アインシュタインの理論とピタリと一致した。太陽質量の65億倍という極限環境においても、彼の理論は涼しい顔をして成り立っていたのである。 これはものすごいことではないか。アインシュタインは観測も実験も一切せず、自分の頭だけを使って、「宇宙はかくあるべき」というところから出発し、アインシュタイン方程式を導いた。それが104年経っていまだに綻び一つ見つかっていないのだ。 この広い、広い宇宙の森羅万象はすべて、人類が知る限り、たった二つの法則に支配されている。一般相対性理論と、場の量子論である。137億光年の宇宙の大規模構造も、ブラックホールや中性子星の破滅的な衝突も超新星爆発も、太陽の輝きも地球の公転も、潮の満ち引きも木にそよぐ風も空に浮かぶ雲も、あなたが今これを読んでいるスマホもパソコンも、鳥のさえずりも虫の音も入学式に咲く桜も、僕の心臓の鼓動もあなたの血管を流れる血も、ミーちゃんの可愛らしい笑顔や泣き笑いも、すべてはたった二つの法則の帰結なのである。我が家のブラックホール、つまりミーちゃんがなんでもかんでも入れてしまうミニーさんのバッグも同じだ。 このシンプルさを、人間の作った法律を見てみよう。日本の憲法は100条余り、民法は1000条余りある。もっともシンプルなスポーツといわれるサッカーでさえ17条のルールがある。 さらに、国が違えば法律も違う。時間が経つと法律は変わる。ミーちゃんとの「納豆を完食したらレンコンチップス食べていいよ」といった約束に至っては5分で反故になる。 自然法則は普遍かつ不変だ。我々が知る限り、100億光年先の天体も地球と全く同じ物理法則に従っている。それはつまり物理法則が100億年間不変であったことも意味する。 二つの法則は、どちらも数式だ。高校の物理の時間が多くの学生にとって苦痛なのは、この数式のせいだ。 だが、これもまたこの上なく不思議ではなかろうか?なぜ物理法則は、数式なのか? 物理法則とはつまり、現在いかなる状態ならば次の瞬間にどのような状態になるかを定めるルールである。それが数式である必然性は全くない。たとえばコンピューター・プログラムでもいい。If文やgoto文だらけの1万行のコードで物理法則が書かれた宇宙が存在したっていいわけだ。 さらに不思議なことに、数学とは自然科学から全く独立に発達したものだ。数学は近代自然科学よりはるかに古い。ユークリッドの「原論」が書かれたのはニュートンの「プリンキピア」より2千年近く前だ。数学は物理法則を記述するために発明されたのではない。純粋に人間の論理的思考から生まれたものである。それなのになぜか、自然をつぶさに観察すると、惑星の運行やリンゴが落ちる仕組みがすべて数学によって記述されていたのである! アインシュタインはこういった。 "The most incomprehensible thing about the world is that it is comprehensible." 「この世界で最も理解に苦しむことは、それが理解可能なことである。」 この言葉は宇宙の深遠な謎をもっとも端的に表している。なぜ気の遠くなるほどに大きく複雑なものが、これほどまでにシンプルな数式に従っているのか、と。 宇宙を創造した「神」がいるとしたら、間違いなく数学者だろう。もしかしたらプログラマーや小説家が作った宇宙が他にあるのかもしれない。(そのような宇宙に生まれなくてよかったと心から思う。) こんな想像をすることがある。 理科の実験の時間。 「はい、では今日は宇宙を作ってみましょう」と先生が言う。各々が思いの方法で物理法則を定義する。ある者はプログラムを使い、ある者は条文を並べる。物理定数も思い思いの方法で定める。 「みなさん、安全ゴーグルをかけましたか?さあ、スイッチを入れましょう!」 すると生徒たちの机の上の宇宙が一斉にビッグバンを起こすが、多くはすぐに萎んで無くなってしまう。膨らみすぎて消散してしまうものもある。 「あーあ、また失敗しちゃったよ。」 「居残り実験だな、こりゃ。」 生徒たちはため息をつく。 あるものは順調に成長し、やがて星が輝き出す。しかしいくつかの宇宙ではすぐに全てがブラックホールになってしまう。ある宇宙では星はできるが惑星の軌道がカオスに陥る。 そんな中、物静かな数学好きの生徒がたった二つの数式だけで作った三次元の宇宙に、なにかとてつもなく面白いことが起き始める。星々は惑星を従え、その多くに命が芽生える。さらにその幾つかは知的生命に進化し、隠された二つの数式を解き明かすものまで現れる。その知的生命の学校で理科の実験の時間が始まる。先生が言う。 「はい、では今日は宇宙を作ってみましょう!」 本記事は宇宙メルマガ The Voyageの連載 "Twinkle Twinkle"からの抜粋です。ぜひご登録ください! - [アクセルスペースCEO 中村友哉さん 「行きたい会社がなければ、作ればいいんだ」インタビュー前編](http://hiroono.com/ja/2019/04/20/nakamura-san-interview-1/) - 超小型衛星のフロントランナー、アクセルスペースのCEOである中村さんと僕は、実は大学時代の先輩・後輩の間柄。手作り人工衛星プロジェクトに没頭した大学時代の話から筆を起こし、中村さんがアクセルスペースを起業するまでの経緯を、インタビューをもとに書きました! 中村さんがカリフォルニア州ロサンゼルス近郊にあるNASAジェット推進研究所(JPL)を訪ねて来てくれた。研究室の同窓会などで顔を合わせたことは何度かあったと記憶しているが、ちゃんと話をするのは僕が2005年に修士課程を中退して以来だ。 「おお、オノ。」 「中村さん、ちょっと顔が疲れていませんか?」 14年ぶりの会話は、そんな素っ気ない挨拶から始まった。茶髪が黒くなりはしたが、服装は学生の頃から大差ない。高くて声量のある声も昔のままだった。少し疲れているように感じたのは、社長の責務のせいか、それとも長時間のフライトの疲れか。 中村友哉さん。日本の宇宙産業に通じている人ならば必ず聞いたことのある名前だろう。宇宙ベンチャー「アクセルスペース」のCEO。2008年に大学の仲間3人で創業し、現在までに5機の人工衛星を打ち上げた。2018年には25.8億円の資金調達。現在は66人の社員を雇用し、数十機の小型人工衛星による地球観測網AxelGlobeの構築を目指している。これから市場の大幅な拡大が期待される超小型人工衛星におけるフロントランナーである。 中村さんは東京大学中須賀研究室の、僕の三学年上の先輩だった。ちなみに中村さんの四学年上にはやぶさ2のプロマネの津田さん、そのさらに数学年上に宇宙飛行士の山崎直子さんがいる。 中須賀研究室は2003年に世界で初めて10cm四方の超小型衛星「キューブサット」の打ち上げ・運用を成功させ、僕が研究室に入った2004年は次の人工衛星「PRISM」の開発が行われていた。博士1年だった中村さんはPRISMのプロジェクト・マネージャーを務めていた。声が大きく口調が素っ気ないので最初は少し怖い人かと思ったが、後輩への面倒見はとてもよく、僕もプログラミングや回路設計などについて多くを教えてもらった。 当時、宇宙といえばNASAやJAXAといった国家機関か、三菱電機やNECといった大企業出なくては手が届かない場所だと思われていた。 「学生が手作りしたものが宇宙に行く。」 そんな夢のようなビジョンが、中須賀研の若者たちを夢中にさせた。大半は研究室に文字通り「棲んで」いた。徹夜作業は当たり前。三食はコンビニ弁当。殆どが男、そしてもちろん殆どは彼女がおらず、したがってクリスマス・イブに人工衛星の運用を休むことを提案したメンバーは激しい非難と嫉妬に晒された。折りたたみベッドと数年間洗われていない毛布が一組だけあり、深夜に力尽きた者が交代で仮眠を取った。ベッドにありつけなかった者は椅子を三つ並べて寝た。 振り返って、楽しい時代だった。あの狭くて汚くてカップ麺臭のする研究室には、今俺たちが世界の最先端にいるんだ、新しい時代を切り拓いているんだ、宇宙開発に革命を起こしているんだ、そんな自負と興奮と希望が満ち溢れていた。中村さんはその中心にいた。しかし、彼がさらに大きなビジョンを描いていたことは、当時の僕は知らなかった。 中須賀研時代の中村さん(上)と小野(下)。2004年のキューブサットXI-IVの、一歳の「誕生日パーティー」にて JPLのクリーンルームや展示室を案内しながら、中村さんと僕は15年分の積もる話をした。どうして起業することにしたのですかと聞くと、 「うーん、俺、元々宇宙が大好きというわけではなくて、どういう関わり方でもいいから宇宙の仕事をしたいというつもりはなかったのね。」 そんな答えが返ってきた。東大に入った時は化学をやりたかったそうだ。だが授業がつまらなくて幻滅した。そんな時に出会ったのが中須賀先生だった。 「学生が人工衛星を作るプロジェクトをやっている、って聞いて、『すげえ』と思って入ったんだよね。」 そして超小型衛星開発に夢中になった。自分の手で作ったものがたった数年で宇宙に行く。そのスピード感と宇宙への「近さ」が魅力だった。いざ卒業が近づいてきた時、大企業やJAXAも考えたが、中須賀研のような興奮はそこには見出せなかった。 「大型衛星って5年、10年かかるのが普通でしょ。人生で大きな衛星に2個か3個関わりました、楽しかったです、というのは、何か違うな、と思ったんだよね。」 ここの考え方が中村さんと僕の一番の違いかもしれない。僕は人生においてたった一つでもいいから歴史に記憶される仕事に携われれば、それで死ねる。それに何十年かかっても構わない。だからNASAを選んだ。ひとくちに「宇宙業界」といっても非常に広い。そこにいる人たちの夢も思想もモチベーションも、十人十色である。 中村さんに転機が訪れたのは2007年、博士課程も終わりかけていた頃だった。進路を中須賀先生に相談したところ、大学発ベンチャーを作る助成金を取ってきているから、これに関わるというのはどうか、と誘われた。その時はじめて「そうか、行きたい会社がなければ、作ればいいんだ」と気づいたという。あまり悩むこともなく、起業の準備をするプロジェクトに飛び込んだ・・・ 続きは4/20配信の宇宙メルマガ The Voyage(購読無料)に掲載されています。ぜひご登録ください! - [【エイプリル・フール】火星ローバー・オポチュニティをキュリオシティが救出!](http://hiroono.com/ja/2019/04/01/2019-april-fool-jp/) - 新元号のニュースにすっかり埋もれてしまった感がありますが、火星からも大ニュースがあります!!!キュリオシティー・ローバーが、オポチュニティーの救出に成功です!!!! オポチュニティーは火星の砂嵐により数ヶ月間更新が途絶し、先月、運用の終了が宣言されていましたが、同じ火星で稼働しているキュリオシティ・ローバーによる救出作戦が、裏で進められていました。火星を約3/8周。距離にして約7000kmを走破し、本日4月1日、仲間の救出についに成功したのです!!!救出後、両ローバーはロボットアームで抱きしめ合う動作をしたとのこと。このよくな動作はプログラムされた覚えがなく、オペレーションチームもローバーの同志愛に心打たれているそうです。これからは仲良く助け合って火星を探査してくれることでしょう。 NASAからの正式発表は、こちらの日付が4月1日に変わるのを待って行われる予定です。 写真は救出作戦の成功後に、再起動したオポチュニティ・ローバーにより撮影されたキュリオシティです!!!! 本記事はエイプリルフールのジョークでした。写真はキュリオシティがロボットアームを使って撮った「自撮り」です。これはジョークでしたが、自動で7000kmを走って仲間を救助できるような賢いローバーを実現させることを夢見て、日々研究開発をしております! - [宇宙船のドッキングポートの「規格」のお話](http://hiroono.com/ja/2019/03/03/docking_port/) - SpaceXのCrew Dragonがスペースステーションにドッキング成功!!! このドッキングの裏には、宇宙での「規格」を巡る、ちょっと面白いウンチクがあります。 実は、Crews Dragonは「アダプター」を2つ介してスペースステーションにドッキングしています。規格を合わせるためです。 「規格」といえば、最近ではBlue-ray Discの規格戦争を思い出すでしょうか。いろんな会社が作ったディスクを一つのプレーヤーで再生できるのは、規格がちゃんと設定されているからですね。 スペースステーションは複数のモジュールがドッキングして作られた構造物です。そこには様々な国の様々な船が訪れます。そこで、ドッキングポートを「規格化」する必要が出てきたわけです。 最初の規格はCommon Berthing Mechanism (CBM)。これは西側(アメリカ、日本、欧州)のモジュール間を繋ぐポートの規格です。きぼうのポートもこれ。さらに、無人補給船である日本のHTV、SpaceXのドラゴン、OrbitalATKのシグナスのポートもこの規格です。(ヨーロッパのATVはロシア側のポートを使用。)CBMは結構大きくて、ISSの実験機器などのラックが通れる大きさに設計されています。ちなみにラックの大きさにもInternational Standard Payload Rack (ISPR)という規格が設定されています。 次の規格はAPAS-95。これは1975年のアポロとソユーズのドッキングミッションのために設計されたAPAS-75に起源を持ちます。この歴史的な、史上初のアメリカとソ連の宇宙船の軌道上ドッキングのために使われたAPAS-75は、後に改良され、ロシアの宇宙ステーション・ミールとアメリカのスペースシャトルがドッキングするための規格APAS-95となりました。後にアメリカ主導の宇宙ステーション計画にロシアが加わった際、西側とロシア側のモジュールの結合のためにAPAS-95が使われることになりました。その際、西側モジュールは全てCBMでしたので、それをAPAS-95と繋ぐアダプターが必要になります。それがPMA (Pressurized mating adapter)で、全部で3つあります。その最初のもの、PMA-1が、西側のUnityモジュールとロシア側のザーリャモジュールを繋いでいます。 スペースシャトルがISSを訪れる際も、ドッキングにはCBMではなくAPAS-95を使いました。おそらくCBMが大きすぎたんじゃないかな。残りの2つのPMA - PMA-2とPMA-3 - は、スペースシャトルとのドッキングに使われていました。 さて、シャトルの退役が間近に迫った2010年、新たに国際的なドッキングポートの規格が設定されました。それがInternational Docking System Standard(IDSS)です。IDSSは自動ドッキングにも対応し、ただ人員が通過するだけでなく、電源、データ、空気なども宇宙船間でやりとりできる規格です。今回ドッキングしたSpaceXのCrew Dragon、BoeingのCST-100が、IDSSに対応した初の宇宙船になりました。 これらの宇宙船に対応するため、使われなくなったPMA-2, 3のAPAS-95ポートをIDSSに変換するためにアダプターが加えられました。それがInternational Docking Adapter (IDA)です。つまり今回のドラゴンは、アダプターを2個介してドッキングしたんですね。ちなみに今回使われたIDAは、以前にSpaceXの貨物用ドラゴンで運ばれたものです。 まあそんなわけで、宇宙の利用が広がっていくと、規格化が大事になるんだよ、という話でした。 - [土星の輪、あと1億年で消失?](http://hiroono.com/ja/2018/12/18/土星の輪、あと1億年で消失?/) - 全て訳す時間がないので要点を掻い摘むと・・・ NASAの探査機カッシーニの観測結果によると、土星の輪はおそらくあと1億年で消失するだろう 輪を構成する氷の粒子は土星本体に「あられ」のように降り注いでいる 30分ごとにオリンピックプール一杯分ほどの物質が輪から失われている 輪の年齢もおそらく1億年以下 輪の年齢が若いだろうということは以前から指摘されていましたが、カッシーニの成果によりその年齢の予想の範囲が狭まった形ですね。 輪の寿命は長くて2億年。太陽系の歴史のたった2%。桜の花のよう。美しく咲いてすぐに散る。満開の瞬間に巡り会えた我々人類は、幸運という他ありません。 詳細はプレスリリースや論文を参照してください。 宇宙メルマガ The Voyage(購読無料)では毎月、宇宙探査の最新情報をお届けしています。ぜひご登録ください! - [2019年元日、NASA探査機ニュー・ホライズンズが史上最遠天体と遭遇!!](http://hiroono.com/ja/2018/12/16/new-horizons-kbo-flyby/) - 2019年の元旦、1月1日に、太陽系の果てからビックニュースが届く。年始にして2019年の太陽系探査最大のイベントのひとつになるだろうビッグニュースだ。 探査機ニュー・ホライズンズ(New Horizons)によるカイパーベルト天体「アルティマ・スーリー」(UltimaThule)フライバイである。 耳慣れないカタカナ語ばかりで何のことだか分かりにくかったかもしれない。詳細はひとまず置いておいて、何がすごいかをまず簡単に説明しよう。 これが人工物が訪れた史上最遠の天体になるからだ。冥王星よりもさらに遠い。その距離、43.4 天文単位、65億 kmである。1 天文単位とは地球から太陽までの距離。43.4 天文単位とは光の速さでも片道6時間かかる距離である。探査機にモシモシと言ってハイハイと返事が来るまでに12時間だ。 ちなみにニュー・ホライズンズには冥王星発見者であるトンボーの遺灰が少量積まれている。史上最遠の宇宙葬でもある。 では、「ニュー・ホライズンズによるカイパーベルト天体『アルティマ・スーリー』フライバイ」という呪文のような文の意味を、一語づつ説明しよう。 ニュー・ホライズンズとはNASAの宇宙探査機で、2015年に史上初めて冥王星の近くを通過(フライバイ)し近接探査を行った。それまで冥王星は望遠鏡で見たボヤッとした姿しか分かっていなかった。ニュー・ホライズンズによる観測で初めて、大きなハート形の模様のある詳細な冥王星の様子が明らかになった。 <画像>左:ニュー・ホライズンズによる探査以前に人類が持っていた冥王星の最高画質の画像、右:ニュー・ホライズンズが捉えた冥王星。たった一度のフライバイで人類の冥王星観は一変した。Image: NASA/JHU-APL /SwRI 次に「カイパーベルト天体」について説明しよう。海王星軌道よりも外側に多数の小惑星があるエリアがあり、それを「カイパーベルト」と呼ぶ。カイパーベルト、略してKBOとはカイパーベルトにある小惑星のことだ。1992年にはじめて発見されて以降、現在までに千以上のKBOが発見されている。ハウメア、マケマケ、クワオアーといった冥王星に匹敵するサイズのKBOもいくつか見つかった。小惑星といえば火星と木星の間にある「小惑星帯(メイン・ベルト)」がよく知られるが、実はカイパーベルトにある小惑星の方がはるかに数が多い。(直径100 km以上のKBOがおよそ10万個も存在すると見積もられている。その大部分は未発見だ。) Image: NASA/JHU-APL/SwRI 実は、2006年に冥王星が惑星から準惑星に「降格」したのも、急速に進んだKBOの発見のためだ。冥王星はとりわけ小さな惑星というよりも、とりわけ大きいKBOのひとつと分類した方が自然であることが分かったからである。 (その経緯はKBO発見の第一人者、Mike Brownによる著書”How I Killed Pluto and Why It Had it Coming”に詳しく書かれている。この本は研究者たちによる熾烈なKBO発見競争についても書かれていて非常に面白い。) ここまで読めば、冒頭のカタカナ語だらけのニュースの意味もわかってきただろう。 アルティマ・スーリーとは、そんな数あるKBOのひとつである。直径30 kmほどで、赤っぽい色をしており、多くの小惑星のようにいびつな形だ。太陽を296年かけて廻っている。分かっているのはここまで。あまりに遠すぎて、それ以上のことは一切分かっていない。 そんな最果ての岩のかけらなど、我々地球人に縁もゆかりもないと思われるかもしれない。案外、そうでもないのだ。 続きは12/19配信予定の宇宙メルマガ The Voyage(購読無料)に掲載されます。ぜひご登録ください! Image: NASA, ESA, SwRI, JHU/APL, and the New Horizons KBO Search Team - [Dear Voyager 2: Von Voyage, I will follow you soon.](http://hiroono.com/en/2018/12/13/dear-voyager-2-von-voyage-i-will-follow-you-soon/) - I think every NASA employee has a special spacecraft that inspired him or her in childhood. Apollo 11 is by far the most prominent source of inspiration among the old-timers. Many recent new employees chose NASA because of Mar rovers. For me, it was Voyager 2. For that reason, I read the news on this - [マーズ2020ローバーの着陸地が決定!!!](http://hiroono.com/ja/2018/11/20/m2020_jazero/) - 宇宙クラスタでは大ニュースのはずなのに日本のメディアはどこも書いてない!!!これじゃあNewsPicksにピックできないので自分で書きます(笑) NASAの時期火星ローバー、Mars 2020 Rover(マーズ2020ローバー)の着陸地が、Jezero Crater(ジェゼロ・クレーター)に決まりました!!!(英語プレスリリース) Jezeroとはスラブ系言語で「湖」の意味。イェゼロ、と読むそうですが、英語ではジェゼロと読んで、僕も日頃こっちで慣れているので、この記事でもジェゼロと読みます。 なぜここに行くか。ジェゼロ・クレーターはその名の通り40億年前は湖だったのです!!するとそこに生命がいたかもしれない!!! しかも、ここは間違いなく宇宙探査史に残る場所になります。人類が史上初めて、火星のサンプルを持って帰ってくるかもしれない場所だからです!!! どういうことかというと、Mars 2020 Roverはまず火星のサンプルを採取し、試験管に詰めて置いていきます。で、(NASAがお金をつけてくれれば)後続のミッションがそれを拾ってロケットに乗せて火星軌道に乗せ、(ESAがお金を付けてくれれば)続く欧州のオービターが地球に持って帰ってきます。 つまり!!!!人類が史上初めて手にする生の火星の土は、ここ、ジェゼロ・クレーターの土になる可能性が高いのです!!そしてそこから地球外生命の証拠が発見される可能性もあります!!つまり、ここが人類史上初の地球外生命との遭遇の場所になるかもしれないのです!!!! Mars 2020 Roverは2020年に打ち上げられ、2021年にジェゼロに着陸します。 僕もこの着陸地点選定のプロセスに深く関わってきました。二年前に詳しいことを書いた記事がこちらにあるのでご参考に: ナショナル・ジオグラフィック 「火星探査車の着陸地点を選ぶということ」 それと、1月に放送予定のNHK「コズミックフロント」に出るのですが、そちらでもジェゼロ・クレーターやMars 2020 Rover、そして地球外生命探査の話をたっぷりします。お楽しみに! ちなみに別の探査機InSightの火星着陸も来週に控えています。こちらも日本のメディアが全然ニュースにしないので僕がメルマガの記事を書きました(笑) ついでに宣伝ですが、宇宙メルマガ The Voyage(購読無料)で「今月の太陽系探査」というコーナーを担当しています。その名の通り、毎月の太陽系探査のニュースです。日本語記事では一番情報が早い自信があります(笑) - [間もなく火星到着!火星内部を解明する「InSight」と火星キューブサット「MarCO」](http://hiroono.com/ja/2018/11/18/insight/) - 本記事は11/19配信予定の宇宙メルマガThe Voyageに掲載される記事の予告編です。 --- 日本時間11月27日午前4時頃、火星に新たな探査機が着陸する。さらに、2機の相乗り探査機MarCOが、キューブサット(超小型衛星)として史上初の火星フライバイを行う。 火星の内部の謎を解き明かすInSight 赤い大地に降り立つのは、InSight(インサイト)と名付けられたNASAの探査機だ。5月5日に打ち上げられてから半年強。もしInSightに人が乗っていたら、今頃、窓からは不気味なほどに赤い火星がぐんぐんと迫ってくるのが見えるだろう。 そして「恐怖の6分間」が訪れる。大気圏突入から着陸までわずか6分。一方、火星からの信号が光の速度で地球に届くまで約8分。つまり、地球の管制官が大気圏突入開始の信号を受け取るとき、火星ではもう、着陸に成功したか、失敗したかの運命は決している。この間、地球の管制官ができることは何ひとつない。自分たちが生み出た探査機を信じ、火星からの信号を固唾を飲んで聞き続けるだけである。それゆえの「恐怖の6分間」だ。 Credit: NASA/JPL-Caltech InSightはサイズも予算もコンパクトだ。着陸機の重量は360 kg。最新の火星ローバーは約1トンなので、3分の1程度である。予算は当初は4.25億ドル(約450億円)。フランス製の観測機器の異常のためさらに約1.5億ドル増えた。大金だが、火星ローバーなど大型ミッションが数十億ドルかかるのに比べると、宇宙探査の世界では低コストである。 着陸したらいよいよ科学ミッションが始まる。InSightが火星へ行く目的は、火星の「内部」の謎を解くことだ。地球の内部には高温の溶けたマントルや核がある。火星もそうなのか、あるいは中まで冷え固まっているのか。何でできているのか。どれだけ熱いのか。現在も地殻活動はあるのか。 これらを知れば、地球を含む他の惑星がいかに形成されたのか、そしてどうして40億年前はよく似た惑星だった地球と火星が(火星は水と濃い大気を持つ温暖な惑星だった)まったく違う運命を辿ったかのヒントが得られる。時として、異国への旅が自国のことをよりよく理解するきっかけになることがある。同じように、火星を知ると地球の過去や未来についての知見も得られるのである。 では、どうやって直接目には見えない「内部」を知るのか。そのために用いられるのが、2種類の超精密な観測機器だ。 〜中略 - 全文は11/19配信予定の宇宙メルマガ The Voyage(購読無料)に掲載されます〜 MarCOの想像図。Image: NASA/JPL-Caltech 二人の小さなヒッチハイカー、MarCO InSightの火星の旅には二人の「相乗り客」がいる。MarCO(Mars Cube One)と名付けられた超小型探査機だ。その重量はわずか13.5 kg。2機搭載され、MarCO-A, MarCO-Bと呼ばれている。 二機はInSightを打ち上げたロケットに相乗りし、火星へ向かう軌道に乗ってInSightがロケットから分離された後にMarCOも分離された。 MarCOは史上初の超小型衛星による火星ミッションである。 続きは11/19配信予定の宇宙メルマガ The Voyage(購読無料)に掲載されます。ぜひご登録ください! 2018年10月2日にMarCO-Bのカメラが捉えた火星。史上初めて超小型探査機が撮影した火星の写真となった。Image: NASA/JPL-Caltech - [ロケット打ち上げの適地とは?](http://hiroono.com/ja/2018/10/27/ロケット打ち上げの適地とは?/) - こんなニュースがあって、 https://www.sankei.com/premium/news/181027/prm1810270016-n1.html News Picksに詳しいコメントを書いたら字数制限の1,000字を大幅オーバーしたので、全文をこちらに載せます。 --- ロケット打ち上げは地理的要因に大きく左右されます。具体的には以下の三つ。 ①東、南、北のいづれかの方角に大きくひらけていること ②①が満たされた上で、できるだけ緯度が低いほうが有利 ③漁業など他の産業と干渉しない ①は絶対に必要な条件。ロケットは基本的に東向きに打ちます。地球の自転方向と同じなので、そのほうが少ない加速で宇宙速度に達することができるから。加えて太陽同期軌道など北極と南極の近くを通るような「縦」の軌道、すなわち極軌道も、地球観測、偵察、GPSなどで有用。この場合は北または南打ち(どちらでもいい)になります。西には普通は打ちません。地球の自転に逆らうので。 そういう目で見ると、日本列島は基本的に東と南がひらけているので、打ち上げ基地を作るのに非常に適した場所なのです。2方向に開けた適地は、実はそうそうありません。 アメリカはなぜ、フロリダとカリフォルニアの2箇所に発射場があるかというと、フロリダは東、カリフォルニアは南にしか打てないから。 ヨーロッパの宇宙港は、ヨーロッパでではなく、南米のフランス領ギアナにあります。ヨーロッパ本土は西に向いているので適地が少ない。ギアナは東と北に開けているうえに緯度も低い。実はここが地球上最強の打ち上げ地に近い。だから最近はロシアのソユーズもギアナから打ち上げられていたりします。 中国やロシアは広大な砂漠や無人地帯があるので、それを海のかわりに使っています。 北朝鮮や韓国もロケットを打ち上げていますが、朝鮮半島はロケット打ち上げに向かない。東と南が日本列島にブロックされ、北も空いていないので。なので韓国が昔人工衛星を打ち上げたときは、日本海に沿ってクネクネ曲がって飛ぶ、非常に燃料効率の悪い軌道を選択するしかありませんでした。北朝鮮は構わず日本列島の上を飛ばしましたね・・・・・(冷汗) イスラエルは西にしか海が開けていない上に都合の良い海外領土もない。そこで仕方なく、地球海に向けて西打ちしています。これが僕の知る限り唯一の西うちの事例じゃないかな。 そんなわけで日本列島の地の利は実はものすごい僥倖。だから、イスラエルや韓国みたいに地理的に恵まれていないが宇宙開発をしている国に、射点を貸すという事もしたらいいんじゃないかな。日本は地理的には「世界の宇宙港」を目指せる絶好の位置にあります。が、日本の一番の問題は、後ほど説明する③ですね。 ②ではなぜ緯度が低いほうがいいのか。同じ軌道に載せるにも、低緯度から打ち上げるほうが燃料が少なくてすむ、つまりコストが下がります。理由は二つ(1)東うちの場合、低緯度の方が地球の自転速度が速い、(2)その緯度よりも低い軌道傾斜角に打ち上げる場合、宇宙に出た後に軌道修正が必要。特に(2)がしんどいです。なぜ国際宇宙ステーションの軌道傾斜角が52度かというと、あれはロシアの打ち上げ場があるバイコヌールの緯度に合わせたからですね。種子島、内之浦、ギアナ、フロリダ、カリフォルニア、みんなその国のできるだけ低緯度地方に作るのはそのため。 ③実は日本はこれがきつい。打ち上げの際には広大な海域をブロックする必要があるので。歴史的に日本では海は漁師のもの。種子島も地元の漁師たちと交渉して、一年のうち何日は打ち上げに使って良い、という合意をします。 さて、大樹町。①は申し分ないが、②が鹿児島や沖縄に比べ不利。その分を③でカバーできているか、ということでしょう。聞いた話だと、地元が非常に協力的なのだとか。そういう要因は大きいです。 ちなみに記事の見出しの「日本初」というのは意味がない。単に種子島と内之浦に「宇宙港」という名前が付いてないだけ。ロケットの打ち上げ場としては日本で3つ目ですね。純粋に言葉の問題です。打ち上げ場と滑走路の両方があるという意味かもしれないが、現状では両方使う機体はないのでこちらも意味があまりないです。やはり、地元の理解、というのが一番大きいんじゃないかな、と。 - [ペルセウス座流星群/夜にお化けが見えた頃](http://hiroono.com/ja/2018/09/02/ghosts_in_childhood/) - ロサンゼルスから砂漠まで2時間ドライブしてペルセウス座流星群を見に行った。みーちゃんの流れ星を見たいという願いを叶えるためだ。 どうして流れ星かというとアンパンマンの影響である。世の2歳児の例に漏れずみーちゃんはアンパンマンに夢中だ。水筒や食器からパンツや便座までアンパンマン尽くし。アメリカの保育園でも日本語でアンパンマンの歌を熱唱し皆をポカーンとさせているらしい。僕も30年前にお世話になったのだが、クリームパンダだのロールパンナだのナガネギマンだのとキャラクターが無秩序に増殖している。そんな新キャラのひとつが、みーちゃんの絵本に登場する「ねがいぼしさん」「かなえぼしさん」である。流れ星の擬人化キャラで、「願いがあるときねがいぼし、叶えてあげるわかなえぼし」と言いながら飛ぶ。七夕の夜、子供達の願いを叶えるため町へやってくるが、ドキンちゃんにそそのかされたバイキンマンによって捕らえられる。危機一髪でアンパンマンが助けに来て、アンパンチでバイバイキーンというお決まりのストーリーである。 「ポチ(小野家の車の名前)に乗って、とおぉぉぉぉくに行くと、ねがいぼしさん、かなえぼしさんに会えるよ」と僕が言うと、 「キャハハ、ヤッタァ!」とミーちゃん。 そんな経緯でアンパンマン・マーチを無限ループしながら2時間運転し着いたのがジョシュア・ツリー国立公園。ジョシュア・ツリーとは制服を着崩した高校生を思わせる自由な格好の木で、それが奇岩の並ぶ砂漠にウニョウニョと生えている。他の子連れ二家族とAirBnBで一軒家を借り、みんなでハイキングをしたりバーベキューをしたりしながら夜を待った。 夜空は期待通りの素晴らしさだった。無数の星が咲き乱れる野を天の川が滔々と流れ、その流れを跨ぐ黄道を金星、木星、土星、火星が一列に行進していた。 「トゥインクル・トゥインクルいっぱいだねぇ!」 とみーちゃんも大喜びだった。 10時頃、ペルセウス座が昇り、流れ星が流れ出した。流れ星は空のどこに現れるかわからない。輝くのは1秒あるかないか。見つけるコツは、気長に待つことである。楽な姿勢で空を見上げ、できるだけ広い範囲を視野に収めて、瞬きせずに闇を見つめ続けることである。 ところが。それがミーちゃんにはできなかった。トゥインクル・トゥインクルを少し見るだけならば楽しいのだが、長く見ていると怖くなってしまうらしい。僕の胸に顔を埋めて泣き出してしまった。 「怖くないよ、見ていてごらん、ねがいぼしさん、かなえぼしさんに会えるよ」 と説得するも効果なし。あんなに楽しみにしていたのに 「ううん、会わなくていい」 とふてくされ、しまいには抱っこのまま寝てしまった。 ミーちゃんをそっとベッドに置きながら思った。僕も昔、夜が怖かったな、と… 小さい頃、小野家の家族旅行といえば東京から電車で数時間の伊豆や鴨川に1、2泊だったのだが、それでも夜空は東京とは別世界だった。満天の星。滔々と流れる天の川。しばらく見ていると、足がふわっと浮いて体が夜空へ吸い込まれていくような感覚に襲われた。怖くなって父の手を握った。そうだ、いつの間にか忘れていた。闇への恐怖と星々への魅惑がギリギリの線でせめぎ合うあの感覚。掌に感じる父の手の暖かさを頼りにじっと耐え夜空を見続ければ、星々の美は恐怖によって何倍にも増幅され、その刃物のように先鋭な美しさがより強い恐怖をもたらす。心の中で寄せ波と引き波がぶつかり波頭が高く跳ね上がる。その頃の僕よりミーちゃんはずっと小さい。花の蕾のように華奢な心が、この感情の白波に30秒と持ちこたえられなかったのも、考えてみれば当たり前だろう。 闇とは光の欠乏だと理科で教わる。闇とは実体ではなく状態だ。空っぽの状態だ。空き家のようなものだ。それを理解してしまった大人の心に、闇はもはや干渉しない。 だが子供の頃、闇は光と等しく実体だった。昼に太陽からの光子が空を飛び交うのと同じように、夜にはどこから来たか知れない妖が街をうろついていた。松郷の塚森だけではない。僕が住んでいた東京すらそうだった。小学校のトイレには花子さんがいて、近所には「幽霊屋敷」があり、通学路には「お化け階段」があった。上りと下りで段数が違うという噂だった。駅からの道の路面に三日月型のペンキの染みがあって、それは夜になると生きているように形と場所を変えた。塾からの帰り、夜にそこを一人で通ると、三日月の染みが追いかけてくる気がして全力ダッシュで駆け抜けた。友達と一緒の時は必死に怖くないフリをした。 あれから25年。幽霊屋敷はマンションに建て代わり、お化け階段はきれいに補修され、三日月のペンキの染みも道路が舗装し直されて消えた。そしていつの間にか、街からお化けは出て行った。夜は単なる夜になり、闇はもはや心に恐怖をもたらさなくなった。だから昔の方が、星は綺麗だったのかもしれない… ペルセウス座流星群は遅い時間ほど多く流れる。子供たちが寝静まったあと、大人だけでバルコニーに出て流れ星を待った。暇つぶしに夜空を見ながらのしりとりが始まった。(妻が田淵もギニュー特戦隊も知らないのには驚いた。)そうこうしているうちに、あちらに、こちらに、ねがいぼしさん、かなえぼしさんが流れた。願いがあるときねがいぼし、叶えてあげるわかなえぼし。ミーちゃんはいつ、彼らに会えるだろうか。 この作品は宇宙メルマガ The Voyageの連載 "Twinkle Twinkle"の9月号に掲載されたものです。僕の連載の他、宇宙開発関係者による特集記事、毎月の星空、今月の太陽系探査、アートや推薦図書など盛りだくさんの内容です。購読は無料です。ぜひご登録ください! Photo credit: Yu Takahashi - [火星が燃えている(全文)](http://hiroono.com/ja/2018/07/27/mars_closest_approach/) - この記事は宇宙メルマガ The Voyageの8月号に掲載されたものです。 火星が夜空に燃えている。7月31日の大接近、ご覧になられただろうか?まだ遅くない。向こう数ヶ月は徐々に光度を落としながらも赤く燃え続ける。それを逃すと、次は2年2ヶ月後になる。 なぜ2年2ヶ月に一度なのか。陸上のトラックを想像して欲しい。内側のコースを走る青いゼッケンの地球は足が速く1年に一周する。外側のコースを走る赤いゼッケンの火星は足が遅く一周するのに1年11ヶ月弱かかる。そんな問題が小学校の算数であったかもしれないが、すると2年2ヶ月ごとに火星は周回遅れになり地球に抜かれる。それがつまり接近である。 しかし、トラックと違い実際の惑星の軌道は完全に並行ではない。地球の軌道はほぼ円だが、火星の軌道は楕円だ。だから、どこで青が赤を追い抜くかによって接近時の距離が大きく変わる。今年は15年ぶりの近さだそうだ。 子供たちが寝静まる頃になると、火星は東の空に姿を現わす。その赤さは他の星に比べて明らかに異質だ。最接近に向けてどんどん明るさを増していく様は、まるで南天の木星と夜空の主役の座を争っているかのようである。 前回の接近は2016年5月。この時、僕は火星を見た記憶はない。娘のミーちゃんが生まれて間もない頃で、幸せと忙しさでそれどころではなかった。赤い星は宇宙のすこし向こうから、隣の青い星にいまひとつ新しい命が生まれたことを、密かに祝っていた。 それから2年2ヶ月。火星がまた戻ってきたのは、その命に知性が宿ったことを祝福するためだろうか。 この頃はよく、ミーちゃんを寝る前に連れ出してアパートの屋上に見に行く。抱っこしながら「あれが火星だよ」と指差すと、彼女も真似て可愛らしい指で同じ方向を差し、 「パパが、おしごとしてる、かせいだよ」 と恐らく妻が吹き込んだ知識を逆に教えてくれる。宇宙そのもののように輝く黒い瞳をあの星へ、この星へと向け、吸い付くように見る。夜空を駆ける点滅する光を見つけると「ひこうき!」と興奮して叫ぶ。彼女の心は今、世界を理解し始めている。見られたいと欲する星々が、知りたいと欲する目と出会い、喜びにまたたいている。 次に火星がやってくるのは2020年10月。きっとミーちゃんは僕よりはるかに英語が上手になっているだろう。「パパのおしごと」であるマーズ2020ローバーが火星に向けて打ち上がる年でもある。一緒に打ち上げを見に行こうと思っている。どんな「おしごと」か、きっともう理解できるようになっているだろう。 ひとりひとりの人間は宇宙と比べればミジンコのように小さな存在だけれども、人生や生き死にを星々の運行と結びつけるのはそこまで奇異な考えではあるまい。事実、僕たちは生まれてからの時間を何歳と数えるが、「年」とは太陽系第三惑星が太陽のまわりを巡った数だ。人は地球の1週目で歌を覚え、2週目で言葉を覚え、十何週かすると恋に芽生え、その後の何十週かでさまざまの喜怒哀楽や幸不幸を経験し、八十週目あたりで思い出とともに空に還る。それが僕たちが「人生」と呼ぶものである。 人生を他の星で測ってみよう。 たとえば木星の接近は1年1ヶ月ごとだ。今年の最接近は5月だった。現在も南西の空に火星と張り合うほどの明るさで輝いている。火星より遠いのにより接近が頻繁なのが意外かもしれない。木星は足がとても遅く、太陽系のトラックを一周するのに約12年もかかるので、地球がほぼ1週するたびに追い抜かれるからだ。もちろん、接近時の距離は火星よりはるかに遠い。 来年の同じ頃に夜空を見上げると、また木星が見えるだろう。ただし、前年よりも少し位置が東にずれ、最接近の時期は1ヶ月遅くなる。そうして12年経つと干支と共に一巡りし、また同じ季節の同じ位置に見えるようになる。前回に木星が今の位置にあった2006年、僕は宇宙への夢に駆られ渡米して間もない留学生だった。その前の1994年、僕は宇宙少年だった。さらにひとつ前の1982年、僕は生まれたばかりだった。 現在、木星の少し東側には土星が輝いている。目立ちたがりの木星と火星に挟まれているせいで存在感は控え目だが、小粒のダイアモンドのように銀色に美しく光っている。 土星の公転周期は29年で木星よりさらに足が遅いため、来年のこの季節も見える位置はほとんど変わらない。一方、木星は少し東にずれるため土星に近づく。そして2020年には二つの惑星は仲良く肩を並べて夜空に輝く。2021年になると木星は土星のもとを去り、さらに東に動く。次のランデブーは20年後の2040年だ。 木星と土星が出会う日に生まれた子供は、その次に出会う時には成人している。2040年にはミーちゃんは24歳だ。どんな女性になっているだろうか。どんな人に恋しているだろうか。どこでどんな夢を追いかけているのだろうか。ちゃんと週末にはパパとママに電話をくれるだろうか。クリスマスには帰省してくれるだろうか。病気はしていないだろうか。幸せだろうか。 僕が3歳だった1986年2月、ハレー彗星が75年ぶりに現れた。実家のバルコニーから父と見た記憶がうっすらとある。次は2061年、僕は幸運にもまだ生きていれば78歳になっている。父はもういないだろう。夜空を駆けるほうき星を霞む目で見ながら、僕はどのように人生を振り返るのだろうか。 毎月、宇宙メルマガ The VoyageのTwinkle Twinkleというコーナーで、宇宙と子供心を結ぶ記事を連載しています。ぜひご登録ください! - [五島プラネタリウムに棲んでいた怪物](http://hiroono.com/ja/2018/10/02/goto_planetarium/) - この記事は宇宙メルマガ The Voyageの10月号のために書いたものですが、前半部分だけ先に掲載します。(掲載は10月中旬の予定です。) 先週、コスモプラネタリウム渋谷で「火星探査最前線」という話をさせていただきました。実はこのプラネタリウム、2001年に惜しまれつつ閉館した五島プラネタリウムの解説員さんや機器を多く引き継いでいます。少年時代に頻繁に通った五島プラネタリウム。その記憶を書いた記事です。 新しくなった東急渋谷駅を降りると、ヒカリエという2012年にできた商業施設の地下に出る。おしゃれなショップや雑誌で話題になるレストランが多く集まっており、いつも若い人で賑わっている。 あそこへ行くと、僕はいつも少し寂しくなる。少年の頃に魚釣りした小川が埋められて建ったマンションのように感じる。もちろん東京育ちの僕は小川で魚釣りなどしたことない。今ヒカリエが建っている場所には昔、プラネタリウムがあった。 五島プラネタリウム。小さい頃、父に毎月のように連れていってもらった場所だ。それは東急文化会館という名の、若者の街として日々変化する渋谷から取り残されたような、埃の匂いのする古めかしいビルの最上階にあった。まるで流行の服で着飾った渋谷の若者の群にぽつんと場違いに混ざり込んだ、腰の曲がった老人のようだった。 少年の僕はまだ若かった父と手を繋いで東急電車で渋谷に行き、チケットを買ってもらって五島プラネタリウムのドームに座った。東京では見たことのない満天の星空が映し出されると、解説員はいとも簡単にその中から夏の大三角や秋の四辺形を見つけ出し、矢印の形のポインタで指しながら色々な話をした。来場するたびに二つ折りの光沢紙に刷られた月替わりのパンフレットをもらえた。そこには星空解説や科学的な話からギリシャ神話までが細かい文字で詰め込まれていて、当時の僕にはまだ少し難しかったが、アルバムに入れて大事に集めていた。 幼い僕の心を魅了したのは星々の美しさだけではない。ドームの中央には、黒い不気味で巨大な機械が、星空を背景にそびえ立っていた。 1957年に輸入されたカール・ツァイス製のプラネタリウム投影機。ダンベルのような二つ頭が蜘蛛のような足で支えられていて、双方の頭にはそれぞれ数十の眼のようなレンズが並んでいた。「怪物」と形容するしかない不気味さだった。その醜い形の怪物の眼からあれほど綺麗な星々が投影されるのが不思議だった。 「では、古代ギリシャの人々が見た星空を見て見ましょう。」 そう解説員が言うと、黒い怪物は肢を伸縮させながら回転し、三千年前の星空にいとも簡単にタイムスリップした。魔法のようだった。怪物は四次元宇宙全てをまるまる呑み込んでしまっているに違いなかった。 五島プラネタリウムは2001年に閉館し、東急文化会館と共に取り壊された。怪物は宇宙を呑み込んだまま、渋谷から姿を消した。それから二十余年、僕は太平洋を渡り、NASAで宇宙探査に携わるようになった。 あの怪物がまだ渋谷に残っていると知ったのは、ひょんな事からだった。僕の読者コミュニティー「宇宙船ピークオッド」のメンバーで、このメルマガで毎月星空解説を書いてくれている西香織さんが、渋谷に新しくできたプラネタリウムの建物に怪物が保存されていることを教えてくれたのだ。彼女はそのプラネタリウムの解説員だった。 コスモプラネタリウム渋谷の3階に展示保存されている、五島プラネタリウムの「怪物」 コスモプラネタリウム渋谷の解説員席 続きは宇宙メルマガ The Voyageの10月号に掲載予定です。購読は無料です。僕の連載の他、他にも宇宙開発関係者による特集記事、毎月の星空、アートや推薦図書など盛りだくさんの内容です。ぜひご登録ください! - [Twinkle Twinkle (1)](http://hiroono.com/ja/2018/08/19/twinkle-twinkle/) - このエッセイは宇宙メルマガ The Voyage 7月号の連載より転載したものです。 2歳の娘のミーちゃんは星のことを「トゥインクル・トゥインクル」と呼ぶ。きらきら星の”Twinkle twinkle little star…”という歌詞からである。テレビの天気予報で夜晴れの予報を表す星のマークが出てきたら、喜んで「トゥインクル・トゥインクルだ!」と叫ぶ。天気が悪く雲マークばかり並んでいると「トゥインクル・トゥインクル、いないねえ」といかにも残念そうに言う。夜中の天気なんて今まで大して気にしなかったのに、ミーちゃんのおかげで夜晴れていることが楽しくなった。 昔はもっと夜の天気を気にしていた。たしか小学1年の時だっただろうか、父が立派な望遠鏡を買ってくれた。口径10センチほどの屈折式望遠鏡。庭の物置には父が大学時代に手作りしたニュートン式望遠鏡がホコリをかぶっていたのだが、子供には屈折式の方が扱いやすいということで買ってくれた。いや、買ってくれたというより、本当は父が欲しかったのである。「息子の教育のため。」これが、妻の財布の紐を緩めるもっとも効果的ないいわけである。 この望遠鏡が僕の宇宙への興味の入り口のひとつとなったことは、前著『宇宙を目指して海を渡る』に書いた通りである。月のクレーター。木星の衛星。土星の輪。東京からでもこの魔法の筒を覗けばよく見える。毎週のように東京の実家のベランダから父と天体観測をした。心が宇宙に吸い込まれていった。 小学校高学年になり、夜遅くまで塾に通うようになって、望遠鏡はお蔵入りした。中学、高校、大学生になり、宇宙への興味は消えることはなかったが、夜星を眺めることはあまりなくなった。他に色々な遊びを覚えたのもあるが、それよりも父と一緒にというのが恥ずかしかった。思春期になって僕もそれなりに親に反抗していた時期だった。父も仲間を失い夜空を見上げることが少なくなった。 やがて僕はロサンゼルス近郊にあるNASAジェット推進研究所に就職した。毎日火星の仕事をしているのに、そういえば生の火星を見ることは、依然あまりなかった。忙しくて家に帰っても仕事ばかりで空を見上げるという発想すら忘れていた。ベランダに出れば本物の火星が輝いているのに、部屋にこもりパソコンに向かって火星ローバーの仕事に勤しんでいた。 僕を再び夜空の世界へ引き戻してくれたのは、ミーちゃんだった。ミーちゃんは妻の仕事の関係で東京に住んでいる。太平洋をひとっとびしてミーちゃんに会いに行き、夜に抱っこして歩く道すがら、ビルの谷間から星が見えると指差して「トゥインクル・トゥインクルだよ」と教えた。絵本に出てくる5本の角がある形をしていないから、最初は少し戸惑ったかもしれない。しかしすぐに飲み込んで、やがて自分で夜空に星を探すようになった。保育園の帰り道、抱っこされながら落っこちそうなほど後ろにのけぞって空を見上げ、見つけたら大喜びで指差して「トゥインクル・トゥインクルだ!」と教えてくれた。ミーちゃんが指差す方を見る。たしかに輝いていた。昔々に父と眺めた星々が。 そこでロサンゼルスに戻った僕はインターネットで情報を集め始めた。ミーちゃんにちょうどいい望遠鏡はどれかな、と。小さな望遠鏡でも月のクレーターならよく見えるが、やはり土星の輪や木星の縞がちゃんと見えた方が楽しいだろう。それには口径6インチはあったほうがいいか。欲張って8インチを買えば星雲や星団も見えるらしい。しかしちょっと待てよ、8インチはさすがに大きすぎるし、ロサンゼルスだと光害でどのみち淡い天体は見えないだろうし・・・ 迷いに迷った挙句、6インチのドブソニアン式望遠鏡を買った。地面に直接置いて使うドブソニアン式ならば80センチのミーちゃんの身長でも抱っこせずに望遠鏡を覗ける。惑星を見るなら高倍率が必要ということで接眼レンズを買い足し、キャンプに行った時に淡い星を探すための電子システムも付け、お会計は全部で580ドル也。妻は苦い顔をしたが、「ミーちゃんのためなら…」と渋々オーケー。妻の財布の紐を緩めるにはこの方法に限る。 一週間ほどしてロサンゼルスのアパートに大きな箱が届いた。開ける時の胸のワクワクは、子供の頃に新しいおもちゃの箱を開ける時と同じだった。夜中に望遠鏡を持ってアパートの屋上に出た。南にものすごい存在感を放つ明るい星が出ている。木星に間違いない。望遠鏡のテストにはもってこいだ。 望遠鏡をその星へ向ける。まずは低倍率の接眼レンズで覗く。いた!ガリレオ衛星も3つ見える。視野のちょうど真ん中に木星を持って来て高倍率のレンズに付け替える。大気の揺らぎでぼやけてはいるが、星を包むクリーム色の雲、そしてそこにかかる数本の縞が、たしかに見えた。 次に土星を探す。もう出ているはずだ。木星から東側に目を向ける。あれかな、と思ったが自信がない。スマホのアプリで確認する。接眼レンズに目を押し当てる。見えた!輪がある!隣には衛星のタイタンも見える!このワクワク。宇宙のはるか彼方を望遠鏡の筒に捕まえた満足感。ふと、隣に父がいる気がした。 ミーちゃんと妻は7月にロサンゼルスに移住してくる。そしたら早速星を見よう。その頃には金星と火星も見頃になっている。月も見せてあげよう。冬になって惑星が見えなくなったら、スバルやオリオン大星雲を見よう。ミーちゃんは喜んでくれるかな。 ミーちゃんのパパになって、なぜ子育てが楽しいかよく分かった。自分も子供に戻れるからだ。また2歳に戻って、ミーちゃんと一緒に成長していくんだ。でも、子はいづれ父を追い越して成長していく。いつまで一緒に、トゥインクル・トゥインクルを見てくれるかな。 本連載の続きは宇宙メルマガ The Voyageの8月号に掲載されています。購読は無料です。僕の連載の他、他にも宇宙開発関係者による特集記事、毎月の星空、アートや推薦図書など盛りだくさんの内容です。ぜひご登録ください! - [小さい頃は神様がいて](http://hiroono.com/ja/2018/07/02/goddess-in-childhood-jp/) - 僕には二つの「日常」がある。それぞれはとても隔たった場所にあり、その間を僕は二週間に一度往復している。 季節感乏しい南カリフォルニアの、いつも通り快晴の空が夕日に染まり、車を運転して仕事から帰り玄関を開けると、広々とした無人のリビングルームの床に服や本やAmazonの段ボールが雑然と転がっている。鍋いっぱいに作り置きして毎晩食べているカレーの残りを皿に盛り、Apple TVのダイジェスト・ニュースを見ながら食す。これが僕の第一の日常。14日のうち11日を占めるのが、こちらの日常だ。 こちら側の日常では、僕は日めくりカレンダーのように毎日カウントダウンしながら過ごしている。指折り待つのは二週間に一度の木曜日、もう一つの日常へと飛ぶ夜だ。 3月29日木曜日、いよいよその夜が来た。僕は鍋と皿を食洗機に突っ込み、メールに一通り返事をし、シャワーを浴びた後、クローゼットから小さなスーツケースを出した。短い旅だから荷造りは10分で終わる。夜9時、Uberを呼んだ。これから1泊4日の旅だ。 車は6車線ある高速道路を走り、夜のロサンゼルスを抜け空港に向かう。窓の外を通り過ぎる平べったい街の灯りを見ながら思った。 やっとミーちゃんに会える。 僕にはこの街で追う夢があった。妻には東京でやりたい仕事があった。妻がミーちゃんを連れて東京に戻ってから約1年。当時1歳だったミーちゃんは、2歳になった。2週間に一度、こうして一泊で東京に弾丸帰国する生活も、もう1年になった。 エコノミークラスの硬く垂直な背もたれも日常の一部になった。サラリーマンが毎朝満員列車に無意識に揺られるようなものだ。心頭滅却すれば火もまた涼し。その境地に至ることが、エコノミークラスでよく眠るコツである。 飛行機がロサンゼルスを飛び立ったのは日付が変わった直後の3月30日金曜の深夜12:50。東京に着陸するのは、さらに日付を跨いだ4月1日土曜日の朝4時半。この週は金曜日が50分しかなかったことになる。 東京は春だった。2週間前に比べてずいぶん暖かくなった。花粉が僕の鼻と目を手荒く歓迎してくれた。僕はまずタクシーで実家に帰り、2時間ほど仮眠を取った。目覚めるなり、急いで身支度をして駅へと駆けた。山手線は土曜日なのに混雑していた。多くの乗客はあまり楽しくなさそうな顔をしていた。窓の外に溢れる桜の花よりもスマートフォンが気になるようだった。線路に迫った住宅地。週刊誌の中吊り。次は目黒、目黒、東急目黒線は乗り換えです。そんな風景の中に座っていると、アメリカに住んだ12年が夢だったような感覚にふととらわれる。少年時代の日常は一生の日常だ。日常が日常のまま思い出になるのだ。 駅を降りる。早足でバス通りを妻の実家へ向けて歩く。呼び鈴を押す。カチャと解錠する音が鳴ってドアが開く。第二の日常へ通じるドア。それが開いた瞬間はまるで、「オズの魔法使い」の映画で画面が白黒からカラーに切り替わる場面のようだ。 パジャマのままの妻の眠そうな顔が現れ、間延びした口調で尋ねる。 「おかえり〜、よく寝れた〜?」 キッチンからの湯気と香りで温まった部屋。狭い廊下。棚の上、床の上、ありとあらゆる隙間にきちんと整列された赤ちゃん用品やおもちゃの数々。「ミーちゃんを触る前に手を洗って!」と妻が僕を止める。手を濡らし、ズボンで拭いて、リビングへ急ぐ。 柔からな表情の義理の両親と一緒に、ハイチェアの上にミーちゃんがちんまりと座っている。 「ミーちゃん!!!」 こちらの日常では僕は半オクターブ高い声で話す。最初はキョトンとした表情だったミーちゃんは、おもむろに目の前の皿に描かれたミッキーマウスを指差して言った。 「みて、みっきーさん、ついてるねえ!」 そしてニヤッと口を大きく横に開いて笑った。口の中に噛んだものがたくさん入っている。 「じゅーすとみるく、どっち?」 「ぱぱ、はんぶんこね!」 「あんぱんまん、とれて!」 「みて、かんしょく!」 まあよく喋る、よく喋る。2週間ごとに辞書1冊分くらい語彙が増える。壊れたラジオのようによく喋る妻と同じ顔をして生まれた子だから驚かないが、ということはどこかの染色体にお喋りの遺伝子があるのだろうか? 食事が終わるなり、ミーちゃんは新しい「あいうえお」のパズルを持ってきて床にひっくり返す。1ピースはめるごとに僕は「上手だね〜〜!!」と褒めちぎりミーちゃんはキャッキャと手を叩いて喜ぶ。たまに賛辞を省略すると「ぱぱ、じょうず、して」と叱られるので手を叩いて「上手だね〜〜!!」と褒めちぎり、ミーちゃんもキャッキャと手を叩いて喜ぶ。この繰り返しが約30分続く。 僕がトイレに立つとミーちゃんもついてくる。トイレに逃げ込んで便座に座ると、ドアノブがゆっくりと回って扉が少し開き、隙間からまんまるのミーちゃんの目が覗く。 「パパ、なにしてるの?」 妻が 「ミーちゃん、クチャいクチャいだよ!」と言ってミーちゃんを引っ張り出し扉を閉めるのだが、程なくして 「あー、けー、てー!」 と外から声がする。 「やー、だー、よー!」 「でたー?」 「待ってくーださい」 「はい。」 お返事はよいのだが、2秒後にはまた 「あー、けー、てー!」 以下、用が済むまで無限ループ。手を洗う時まで尻尾のようについてくるミーちゃんを見て妻がこぼす。 「いつもママ、ママって甘えるのに、パパが来た途端にパパっ子なんだから、この薄情者め!」 大騒動してミーちゃんに身支度をさせ家を出る。二年前までは僕と妻がいつも二人で手を繋いで歩いていた。その真ん中にミーちゃんが挟まるようになった。二年前までは僕と妻が二人で話していた。その真ん中にミーちゃんが挟まるようになった。 「ぶらーん、して」 ミーちゃんが言う。妻と僕がミーちゃんの腕を引っ張り上げる。ミーちゃんはまた、キャッキャと喜ぶ。 桜が散り始めていた。桜の木は見えないが、どこからか飛んでくる花びらが道を舞っていた。人でごった返す目黒川へ行き、桃色に染まった川面を指差して 「ミーちゃん、綺麗だねえ」 という。将来はアメリカで育つだろうミーちゃんの目に、日本の綺麗な風景を焼き付けておきたいという親の下心がある。だが、ミーちゃんはむしろ背後の高架の上を走る電車の方に夢中だった。電車好きだった僕と同じ性格に生まれた子なので驚きはしないのだが、ということは、電車好きが遺伝するようなエピジェネティックな機構がどこかにあるのだろうか? この日の晩は三人で僕の実家に泊まることになっていた。 夕方、実家に帰る前に、昔僕がよく遊んだ駅の近くの神社の境内にある公園に行った。なぜ僕がこの公園を好きだったかというと、電車が見えるからである。 遊具は滑り台と、エビフライの乗り物がひとつあるだけ。そう、エビフライ。普通の公園なら馬の形をしていて、またがって揺らすあの遊具なのだが、なぜかこの公園ではエビフライになっている。電車と滑り台とエビフライだけで、ミーちゃんは1時間経っても飽きる様子が全くない。大人と違い、子供は幸せであるためにあまり多くを必要としないのだ。 奇跡は、そんな日常の風景の一刹那に訪れた。 神社の高床式の倉庫の脇に立派な桜の木が一本あり、一陣の風が公園の一角に桜吹雪を降らせた。そこへ数匹の鳩が舞い降り、喜んだミーちゃんがキャーキャーと声をあげながら鳩に向かって走って行った。 その瞬間だった。西に傾いた柔らかな陽の光が、宙を舞う桜の花びらと、風になびくミーちゃんの絹のような髪を、逆光で黄金に縁取ったのだ。決して現実たり得ないような…たとえばルーアン大聖堂の絵の中でしか見たことのないような神々しき光。日常という服が不意に破け、宇宙の素肌が露出した。僕は慌ててポケットから携帯を取り出しカメラを向けたが、その時にはもう、鳩は飛び去り、風は止み、神様は姿を隠していた。ミーちゃんだけが相変らずキャーキャーと楽しそうに走り続けていた。おそらく豊かなイマジネーションの中で鳩をまだ追いかけていたのだろう。 翌朝8時頃、自然に目を覚まして寝返りを打つと、目を大きく開けたミーちゃんの満面の笑みが目の前にあった。僕が起きるのを待っていたらしい。 「たのしいねえ!」 開口一番、ミーちゃんが言った。愛おしくて僕はミーちゃんを抱き寄せ、桜色のふくよかな頬に吸い付くようにキスをして - [Goddess in Childhood](http://hiroono.com/en/2018/07/02/goddess-in-childhood-en/) - My life is dual. It has two sides in two distant places, between which I shuttle back and forth bi-weekly. One of the two sides is in Los Angeles, where you cannot tell the season from sky because it is always as blue as possible. At dusk, I finish work, drive my car back home, - [[April Fool Joke] My book, "The Voyage," will be a Movie!](http://hiroono.com/en/2018/04/01/movie-en/) - It is quite a pain when you have something you are eager to tell but need to keep quiet. Finally, it became public!! My book, “The Voyage: past, present, and future of space exploration” (original title: 宇宙に命はあるのか:人類が旅した一千億分の八) will become a movie! The book was published in Japan in this February and quite well received. 40K - [【エイプリルフール】『宇宙に命はあるのか』映画化決定!!!](http://hiroono.com/ja/2018/04/01/movie-ja/) - 言いたいのに言えなくてウズウズしていたのですが、ようやく情報解禁になりました! 拙著『宇宙に命はあるのか』が映画化されます!!! おかげさまで本の評判は上々で、発売1ヶ月で4刷、4万部までなりました。偶然、制作会社の方が手にとってくださり、気に入ってくださって、オファーをいただきました。それから目まぐるしく事が進み、今日の発表に至りました!! ドキュメンタリー映画ではありますが、原作本と同じく、ただ宇宙開発の歴史を追うのではなくその裏にいた技術者や科学者の人間ドラマに焦点を当てます! 150年前のSF小説家ジュール・ベルヌのイマジネーションに始まり、スプートニク、アポロから、地球外生命探査、地球外文明探査、そして千年、一万年先の人類の未来までを描くサーガです!! スタッフの陣容も固まりつつあります!プロデューサーは、「宇宙兄弟」の編集を担当し株式会社コルクの社長も務める佐渡島庸平さんに決まりました!脚本は、僕の他に、小説家で科学ライターでもある川端裕人さんが共同で書いてくださいます。本作品の映像化には最先端のCGが必要です。それを担当してくれるのが、USCでCGを専攻し現在はスピルバーグ最新作Ready Player Oneをはじめ数々のハリウッド映画の製作に関わる長野光希さんです。そして監督は、まだ言えないのですが、科学ドキュメンタリーといえば誰もが思い浮かべるあの人がほぼ内定しています! 音楽はJazzです!以前にJazz on a Spaceshipでご一緒させていただいた「マトリカリア」の臼井優子さん(Vocal) が音楽監督を引き受けてくださり、柳原由佳さん(Piano)、大塚恵さん(Bass)も加わってカッコいいJazzを奏でてくれます! 僕も随所で出演します。JPLの同僚で盟友の石松拓人さん、高橋雄宇さん、Nat Guyさんも友情出演してくれます!さらに愛娘のミーちゃんも、エキストラとして少しだけ映る予定ですのでお楽しみに! 日本では東京、大阪、神戸、金沢、福岡の単館系シアターでの上映がすでに決まっています。まだまだ増える予定です! さらに!英語版も同時にリリースされます!海外での上映館は決まっていないので、これから営業を頑張らなくてはいけません。 公開は今日からちょうど1年後の2019年4月1日です!詳しくはこちらのプレスリリースをご覧くださいませ!! - [[APRIL FOOL'S JOKE] 'Babynauts' to Fly in Space This November; My Daughter Got Selected!](http://hiroono.com/en/2016/04/01/babynauts-to-fly-in-space/) - Today, on April 1, 2016, it was announced that my newborn daughter, Mi-chan, was selected as one of the first “babynauts” or infant astronauts, and will fly in space this November. Her mission will be a part of the Extraterrestrial Reproduction and Development Program (ERDP), which investigates if humans can be born and grow normally - [【エイプリル・フール】初の赤ちゃん宇宙飛行士、宇宙へ!/僕の娘が選抜されました!!!](http://hiroono.com/ja/2016/04/01/babynauts-to-fly-to-space-jp/) - 朗報です!本日4月1日、生まれたばかりの愛娘のミーちゃんがベイビーノート(赤ちゃん宇宙飛行士)に選抜され、11月に宇宙へ旅立つことが正式に発表されました!ミーちゃんのミッションは、Extraterrestrial Reproduction and Development Program(ERDP, 地球外生殖・発育プログラム)という、微小重力下でも人間が正常に生まれ、成長できるのかを知るための研究の一環です。ミーちゃんは他の2人のベイビーノートと一緒に宇宙ステーションに3ヶ月間滞在する予定です。 史上初の宇宙を飛ぶ赤ちゃんになるための競争は熾烈を極めました。2000人以上の勇敢な赤ん坊が応募し、競争率は700倍にも及びました。しかし、ミーちゃんの注射を打たれても無心にオシャブリをしゃぶって全く泣かないフィジカルの強さ、生後1ヶ月にも関わらず連続して5時間半も寝られる安定した精神状態、そして生まれた直後から大きな目でキョロキョロと休まず世界を観察していた知的好奇心の高さが、選抜の決め手になりました! 人類は過去50年の間に宇宙での長期滞在の経験を積み上げてきました。アメリカのスコット・ケリー宇宙飛行士とロシアのミハイル・コルニエンコは国際宇宙ステーションに連続して1年近く滞在し、先月に無事に地球に帰還しました。人類は既に、「宇宙に住む」技術を確立したといっても過言ではないでしょう。 しかし、「宇宙で生まれる」「宇宙で育つ」ことに関しては、人類は全く経験がありませんでした。今まで宇宙を飛んだのは全て大人だったからです。しかし、将来的に人類が、ただ旅行者のように一時的に宇宙へ行って帰ってくるだけではなく、宇宙に移民し、地球の外へ文明を拡げていこうとするならば、人間が宇宙で正常に生まれ、育つための技術が絶対に欠かせません。そのために赤ちゃんや子供を宇宙へ送り、長期間滞在させ、心身の発育を調べる取り組みが始まったのです。人類が真に宇宙的な文明を築けるか否かは、まだたった生後1ヶ月のミーちゃんの肩にかかっているのです! 新生児の宇宙飛行における最大の問題の一つは、オムツ交換です。ウンチたっぷりのオムツを無重力で交換しようとしたら何が起きるか…食事中の読者もいるでしょうからあえて書きませんが、想像はつきますよね?そこで、今回のミッションは、トイレ技術において世界最先進国である日本の全面的な協力の下で行われます。具体的には、御手洗清博士(42)が率いる研究チームが最近開発した、「スマート・オムツ」が宇宙で初めて試験されます。スマート・オムツは、赤ちゃんがウンチやオシッコをした瞬間にそれを吸引し、バックパックのように背負えるタンクに圧縮して貯蔵します。また、オムツ内に設置された小型ロボットアームが、即時にお尻をキレイに拭いてくれます。御手洗博士(42)によると、この技術により、地球でも、宇宙でも、他の惑星でも、オムツを常時はきたての衛生的な状態に保つことが可能になるそうです。 これから厳しい訓練が始まります。僕の大事な娘が3ヶ月も遠い宇宙へ旅立ってしまうことには、正直、不安や寂しさを感じることは否めません。ですがミーちゃんは僕の誇れる強い娘です。きっと立派にミッションをやりとげ、人類の発展に大きく貢献してくれると信じています! 正式なプレスリリースはこちらをご覧ください。 *日本と米国カリフォルニア州の間には16時間の時差があることにご留意ください。 - [【速報】エウロパから水蒸気の噴出を発見!](http://hiroono.com/ja/2016/09/26/europa-water-jet/) - 速報です!!エウロパから水蒸気が噴出しているとの発見が、本日、公表されました! 原文:http://www.bbc.com/news/science-environment-37473617 木星の衛星エウロパは表面を分厚い氷に覆われていますが、その下に広大な地下の海が広がっていることがほぼ確実で、地球外生命がいる可能性が最も高い場所であると考えられています。エウロパが木星の前を通過する様子を、ハッブル宇宙望遠鏡で10回、紫外線で観測しました。するとそのうち3回で、上の写真の「7時の方向」になにやら指のようなものが突き出しているのが観測されました。しかもその「指」の場所が3回とも同じだった。こりゃ間違いない、という経緯だそうです! これは疑う余地無く重大な発見です!なぜなら、2020年代に打ち上げが予定されている探査機「エウロパ・クリッパー」に水蒸気の中を突っ切らせることで、エウロパの地底の海の組成を直接観測できるからです!!探査機に積まれている質量分析器(どのような分子があるかを調べる装置)を使えば、水蒸気の中に、有機物や、あわよくば生命の存在を強く示唆する物質が混じっていることが見つかるかもしれません!!!!さらに将来、水蒸気が噴出している割れ目から氷の層に侵入し、地下の海にロボットを送り込むこともできるかもしれません! ますます太陽系探査が楽しくなってきました。もしかしたら僕が生きている間、いや、あと10年か20年の間に、初の地球外生命体の存在が確認されるかもしれません!それは人類始まって以来の大発見の一つとして、文明が続く限り、永遠に記憶されることでしょう。 【追記 2018/2/11】この記事をだいぶ膨らませ、エウロパの地底の海や、そこに地球外生命がいる可能性、そしてエウロパ生命探査について書いたものが、新刊『宇宙に命はあるのか』の第3、4章にあります。 - [【NASA重大発表解説】土星の衛星エンセラドスの居住可能性に関する新たな証拠](http://hiroono.com/ja/2017/04/13/enceladus-habitability/) - 本日、NASAより「重大発表」がありました。その肝はこれ: 土星の衛星エンセラドスにある地底の海から水素分子が見つかった どうしてこれが発見されたのか、この発見はなぜ重要なのかを、簡単に解説しましょう。 (原文はこちら) いかにして発見されたか 土星の衛星エンセラドスは、表面が全て氷に覆われた、直径約500kmの小さな星で、その全表面積は日本の2倍程度です。この小さな星が今、太陽系でもっとも大きな注目を集めています。なぜかというと、NASAの土星探査機カッシーニの観測により、厚さ数十kmの氷の層の下に海があることがほぼ確実となったからです。 さらにカッシーニは、エンセラドスの南極付近の「タイガー・ストライプ」(虎の縞)という氷の割れ目から、海水が高さ数百キロにわたって吹き出しているのを発見しています。(上の写真) カッシーニは数回にわたって、エンセラドスの地表すれすれを飛び、この海水のジェットの中を突っ切りました。その際に「質量分析器」という機器を使って、海水にどのような物質が含まれているかを観測しました。質量分析器とは宇宙探査機の「嗅覚」のようなもので、ガスなどにどのような物質が含まれるのかを知ることができます。 この質量分析器からのデータを解析した結果、ジェットの中に水素分子が含まれていることがわかった、というのが今回の発見です。 なぜこの発見が重要か この水素はどこからきたのでしょうか?科学者たちは、エンセラドスの海底に「熱水活動」があり、そこから水素が発生している、と考えています。熱水活動の代表例が熱水噴出孔。平たく言えば海底にある温泉で、地球にも同様のものがあります。地下から湧き上がった、様々なミネラルを含む温泉が、海にブクブクと湧き出しているのです。 地球の熱水噴出孔付近には、特殊な生命が住んでいることが知られています。酸素を呼吸せず、熱水噴出孔から吹き出してくる物質をエネルギー源にしてい生きる古細菌などです。熱水噴出孔こそが地球で生命が最初に誕生した場所だと考える学者もいます。今回見つかった水素も、生命にとって必要不可欠なエネルギー源になります。 ですから、エンセラドスの海底に本当に熱水活動があれば、そこで地球外生命体が見つかる可能性が非常に高いと考えらています。熱水噴出孔の存在を示唆する証拠が見つかった。今回の発見が重要な理由です。 地球外生命を求めて・・・ 実は、今回はもう一つの発見がアナウンスされています。ハッブル宇宙望遠鏡の観測で、木星の衛星エウロパからも水のジェットが吹き出している、という発見です。実はエウロパのジェットの発見は以前にもされていて、今回は2度目の観測になります。 さて、NASAの「重大発表」は、次のミッションへの期待値をあげる意図があるのがお約束。「次のミッション」とは、2020年代初頭に打ち上げが予定されている、エウロパ・クリッパーです。エウロパ・クリッパーにはカッシーニよりも格段に性能の良い質量分析器が積まれています。ジェットの中を突っ切って飛ぶことにより、今回のような生命の居住可能性に関する発見が期待できるぞ、というのが、この「重大発表」のメッセージです。 現在のNASAの最重要目的の一つが、地球外生命探査です。37億年前に海が存在した火星でも、生命の痕跡を求めて探査が行われています。 【追記 2018/2/11】エンセラドスの地底の海と地球外生命探査については、新刊『宇宙に命はあるのか』の4章に詳しく書いています。興味を持たれたらぜひ読んでみてください!! - [「ママとバスにのったの」](http://hiroono.com/ja/2018/01/29/on_the_bus/) - もうすぐ2歳、だんだん会話ができるようになってきたミーちゃん。今日Skypeで話していると、「ママと、バスに、のったの」と報告してくれた。一昨日に妻がミーちゃんを連れて同窓会に行くときにバスに乗ったらしい。その夜も寝る時に「ママと、バスにのったの」と言ったそう。 よほど嬉しかったんだろうな。 ふと思い出したこと。僕がまだ幼稚園のころ、東京に来ていた母方の祖父と二人でどこかに電車で出かけた時、必要ないのに子供用のキップを買ってくれた。生まれてはじめて持たせてもらった電車のキップが本当に嬉しくて、どこに連れていってもらったか全く覚えていないんだけど、手に握ったキップのことは鮮明に覚えている。 大人にとっては些細なことでも、子どもにとっては大切なものがある。そういう気持ちを大事にしてあげなきゃな、と思った。 ミーちゃんは「こんど、パパと、ママと、バスに乗ろうね」と言っているそう。そうだね、じゃあ来週末に帰国した時、3人でバスに乗りにいこう! - [小野雅裕イベントスケジュール(2017/11-2018/3)](http://hiroono.com/ja/2017/11/27/event_schedule/) - 11/19(日)「宇宙的還暦祝いと、系外惑星探査の小話」(研究集会「学理と実理を結ぶサイヤンスを追及する仲間たち」) 慶應大学矢上キャンパス 講演ムービー 11/24(金)宇宙Hack 関西大学高槻ミューズキャンパス 11/25(土)Jazz on a Spaceship 神戸岡本Born Free 12/25(月)海外大学院留学説明会 東京大学本郷キャンパス 14:00–16:30(開場 13:30) 12/26(火)NASA宇宙探査の過去・現在・そして未来 聖光学院中学校高等学校(横浜) 1/5(金)「夢の叶え方」(主催:MamaBA) TECH PLAY SHIBUYA (渋谷駅徒歩5分) 13:30 開場 受付開始 14:00 講演会開始 2/3(土)新刊ローンチイベント@東京 18:00-20:00 Book Lab Tokyo (渋谷) 2/6 (火)新刊発売! 2/18(日)Jazz on a Spaceship @ Tokyo 12:30~ Grapes Kitasando (東京・北参道) 2/21(水) 夜 19:15~ アカデミーヒルズ 2/24(土)新刊トーク&サイン会 13:00~ 豊橋 17:00~ 名古屋丸善本店 2/25(日)新刊ローンチイベント@大阪 大阪谷町・隆祥館書店 2/28 (水)宇宙就活2019 東京・蒲田 10:40-11:35 - [子を持つ適齢期はいつか?](http://hiroono.com/ja/2018/01/01/best-timing-to-have-a-child-jp/) - 新刊の原稿がひと段落し、本業も完全オフ。パチンコ玉のように駆け回りベチャベチャ喋りゲラゲラ笑うミーちゃんを連れて下呂温泉へ行き、だらりと紅白を見ながら幸せな年越しをした。一時賑やかさから離れ、一人静かに露天風呂に浸かり、色々なことをとりとめもなく考えていた。 30になったあたりから、よくこんな話題が友人たちとの会話で持ち上がるようになった。 「子を持つ適齢期はいつか?」 今なら、この問いに明確な答えを出せるように思う。 僕は28で結婚したが、ミーちゃんを授かったのは5年後だった。結婚当時、僕はまだ博士学生で、卒業後も妻と僕は仕事に忙しく、そうこうする間に日米の遠距離婚になり、いつの間にか5年も経ってしまった。 いつもはダジャレしか言わないが時々良いことを言う友人がいて、彼が昔こんなことを言っていた。 「自分が死ぬ時は決まっているのだから、子を1年早く持てば1年長く一緒に過ごせる。」 大学時代、19歳でデキ婚をしてパパになった友人がいた。なかなか大変そうだったが、彼を羨ましく思うこともある。もし僕が19でミーちゃんを授かっていたら、14年も長くミーちゃんの未来を見れたのか、と。 しかし、とも思う。遅く子を持って、いいこともあった。 人間30にもなれば誰でも、苦労や挫折をいくつか経験するものだ。そして何かしらの人生哲学というか、生き方というものを学ぶものだ。 子育てとは幸せと苦労と不安の絶え間ない連続である。もし僕が20代だったならば金切り声をあげたりパニックになったりしただろうことも、30代半ばの今だからこそ、ミーちゃんの30年先の将来を想像しながら、笑って許してあげることができる。そういう心の余裕がある。 結局、子を早く授かって良いこともあれば、遅くて良いこともある。どちらが良いという一般論は、ない。何歳でも早すぎることはないし、何歳でも遅すぎることはない。 もちろん、高齢出産だとダウン症の確率が上がるということはあるが、あくまで確率論である。現代では40、50でも元気な赤ちゃんを産むことができる。医療技術の進歩で、60、70でも元気な子を授かれる時代がすぐに来るだろう。羊水がどうこうなどというのは過度に不安を煽って視聴率や部数を稼ぐメディアの常套手段なので気にする必要はない。 友人に相談するのも良かろうが、家族の事情、仕事の事情は人それぞれである。 だから結局、「この人との子供が欲しい」と自然に思うようになったその時がその人にとっての適齢期なのだと、僕は思う。 - [Best timing to have a child](http://hiroono.com/en/2018/01/02/best-timing-to-have-a-child/) - With no work, no email traffic, and the manuscript of my new book almost done, I spent a relaxed and joyful New Year's Day with my wife and happy jumpy 1y 10mo old daughter, Mi-chan, at Gero Hot Springs in Japan. In the night, I had a brief break from the non-stop "daddy, play with - [ファルコン・ヘビー初号機のペイロードはなんと・・・](http://hiroono.com/ja/2017/12/02/falcon_heavy_inaugral_payload/) - イーロン・マスクが楽しすぎるツイートをしたんだけど、News PicksはツイートをPickできないし日本語記事も出てないので勝手に自ブログで訳します! Payload will be my midnight cherry Tesla Roadster playing Space Oddity. Destination is Mars orbit. Will be in deep space for a billion years or so if it doesn’t blow up on ascent. — Elon Musk (@elonmusk) December 2, 2017 (訳)(ファルコン・ヘビー初号機の)ペイロードは私のミッドナイト・チェリー色のテスラ・ロードスタだ。(デイビッド・ボウイの)Space Oddityをかけながら飛ぶ。目的地は火星軌道。打ち上げで爆発しなければ何十億年も深宇宙に浮かんでいるだろう。 - [作家本人が読書感想文にアドバイスします!](http://hiroono.com/ja/2017/07/26/2017_essey_advising/) - 夏休みの読書感想文課題に拙著『宇宙を目指して海を渡る』を選んでくださった方へ、感想文へのアドバイスを差し上げようと思います! 楽をしてもらうためのアドバイスではありません!良い文章の書き方を学んでもらうためのアドバイスです。ですから、いただいた感想文を直接編集することはしません。「どうすればより良い文章をかけるか」についての考え方をアドバイスするつもりです。 いただいた感想文の中で、許可をいただいたものを、アドバイス付きで、このブログとTwitterで公開します。多くの方の学びの材料としてもらうためです。また、「優秀賞」を締め切り後に発表しようとも思います。(サイン入りのNASAグッズでもお贈りしようと思っていますが…そこらへんはまた後日考えます!) 時間に限りがありますので、いただいたすべての感想文にアドバイスをつけることはできないかもしれません。その場合、公開可のものを優先させていただきます。他の方の学びにもなるためです。また、締め切りを待たずに随時アドバイスをつけますので、早く応募していただく方が、僕がアドバイスをつけられる可能性が高まると思います。(多くの方が8月30日頃にあわててやりますよね。僕もそうでした笑) 応募は以下のリンク先にあるフォームからお願いします。質問がある方は本記事のコメント欄に書いてください。では、皆様の感想をお聞きするのを楽しみにしています! 対象:特に対象を限定しませんが、小学生から高校生までの方を優先させていただきます。 期限:2017年8月31日 文字数などは学校の規定に従ってください。 応募フォーム:https://goo.gl/forms/hOrrcufJOVqGjnlX2 良い読書感想文を書くためのヒントとして、こちらの記事もご覧になってください:「作家が教える読書感想文の書き方」 【追記】応募いただいた作品の中の2点へのアドバイスをこちらに掲載しました! - [読書感想文アドバイス](http://hiroono.com/ja/2017/08/19/読書感想文アドバイス/) - 「作家本人が読書感想文にアドバイスします!」企画に応募していただいた作品の中から2点を例に取って、より良い感想文を書くポイントを解説します。 今回のポイントは ①時系列に書く必要はない ②字数に合わせてテーマを絞る の2点です。 ①時系列に書く必要はない まずは「バタフライ」さんの作品を紹介しましょう。 [pdf-embedder url="http://hiroono.com/wp-content/uploads/2017/08/170812-読書感想文・宇宙を目指して海を渡る-hasshi-Hashimoto-1.pdf" title="170812 読書感想文・宇宙を目指して海を渡る - hasshi Hashimoto (1)"] とてもよく書けている感想文です。僕が以前の記事に書いたアドバイスの通り、感想が自分自身の体験とリンクして書かれており(たとえば部活でコーチに言われたままではなく自分で考えて練習した方がタイムが伸びた話など)、「自分ごと」として読み手に伝わってきます。 全体にストーリーがあるのも良い点です。父親に無理やり読まされた本で最初は気が進まなかったが、読んでみると気付きがあった、という心境の変化が綴られています。ただ気付かされたことを書くだけではなく、こうして変化を書くことでストーリーが生まれ、より読者の共感を得ることができます。 ただ、問題はこのストーリーが最後まで読むまで見えない点です。最初の1ページだけ読むと「父に勧められしぶしぶ読んだ」「大人向けでよく分からなかった」と冷めた印象しか伝わってきません。感想文を読む先生や審査員は何十、何百という作品を読むのでしょうから、1ページ目でつまらないと思ってしまったら、そのあとを読んでもらえないかもしれません。 おそらく、バタフライさんは自分の心が感じた通りの順番に、素直に書いたのでしょう。ですが、文章は時系列に書く必要は全くありません。 僕ならば、「最初はしぶしぶ読まされた本だったが、読んでこんな気付きを得た」ということを、冒頭の一行目に書いてしまいます。ストーリーの核心である「変化」を先に言ってしまうのです。すると読書は、「ほう、じゃあその変化はどうして起きたのかな?」と気になって、感想文の続きを読みたくなると思います。 オチを先に言ってしまってはつまらなくならないか、という心配は無用です。小説や映画でも、結末から始まって過去に戻るようなものはたくさんありますね。例えば名作映画「初恋のきた道」は登場人物の葬式のシーンから始まり、40年前の初恋の物語にフラッシュバックします。昨年公開された「君の名は」も冒頭で彗星が地球に降ってくるシーンを見せてしまっていますよね。あえて核心部分を先に見せてしまうことで、「何があったんだろう、もっと読みたい/見たいな」という気持ちを喚起させているのです。 もちろん、必ずしもオチを先に言うのが正解ではありません。「Star Wars Episode 5」や「猿の惑星」のように、オチを先に言ってしまっては作品が台無しになってしまう場合もあります。どういう順序で文章を構成するかは内容次第です。とにかく大事な点は、文章の時間軸は未来から過去へ自由に戻っても良い、ということです。 ②字数に合わせてテーマを絞る 次に、鈴木梨々花さんの感想文です。 [pdf-embedder url="http://hiroono.com/wp-content/uploads/2017/08/宇宙を目指して海を渡る(枠なし)-1-鈴木梨々花.pdf" title="宇宙を目指して海を渡る(枠なし)-1 - 鈴木梨々花"] 「目的と目標の違いはなんだと思いますか」という出だしが素晴らしいです。たった一文で核心に切り込み、しかも「なんだろう?」と先を読みたい気持ちにさせます。僕も普段文章を書いていて、出だしの一文にいつも苦労します。なかなかこのようなインパクトのある出だしは見つかりません。作家の素質があるんじゃないかと思います! また、バタフライさんと同様に、感想を自分の体験とリンクさせて語っている点もとても良いです。「私も火星に行った日本の宇宙飛行士として宇宙開発の歴史に名を残したいです」と自分の夢を恥ずかしがらず素直に書いているから、読み手も素直な気持ちになって読めます。(こちらを出だしの一文にしてもいいかもしれません。) ただ、問題は短い字数に多くが詰め込まれすぎていることです。たった2000字に「目標と目的の違い」「夢を持つこと」「ハックをしたいこと」「社会貢献についての考え」「決断を下すこと」の5つのテーマがぎゅうぎゅうと詰め込まれています。きっと梨々花さんは多感で素直な方なのでしょう。読んで多くを感じ、それを素直に全て書こうとしたのでしょう。 きっと、なんとか全てを2000字収めようとしたのでしょうか。説明が不足している点が多くありました。例えばハックについての部分では説明なしに「ハックがしたい」と書かれていますが、『宇宙を目指して海を渡る』を読んでいない人にとっては、それがMITの学生が行っているイタズラを意味するのが分からないでしょう。悪意を持ったコンピューターハックと勘違いするかもしれません。同じく、「水曜日生まれの青年」も本を読んでいない人には何のことか分からないでしょう。読書感想文は、その本を読んだことがない人にも伝わるように書かなくてはいけません。 2000字で伝えられることには限界があります。全部を書きたい気持ちはよくわかります。でも、思い切って5つのテーマから1つに絞ることをおすすめします。そしてその1つについて必要十分な説明を加え、関連する自分の体験と、本を読んで感じた自分の心を、徹底的に深く掘り下げるのです。5つの中からどの1つをとっても素晴らしい感想文がかけると思います。残りの4つは、いつかこっそり僕に聞かせてください。 「作家本人が読書感想文にアドバイスします!」企画は夏休みいっぱい続けております。引き続き、多くの応募をお待ちしております! - [小型ロケットはなぜ待望されるのか?](http://hiroono.com/ja/2017/07/30/expectations_for_small_rocket/) - 「ホリエモンロケット」こと、インターステラテクノロジズ社のMOMOロケットの打ち上げが行われた。日本の民間企業のロケットとしては初めて宇宙との境界と定義される高度100 kmを目指したが、飛行中のトラブルで緊急停止され、部分的失敗に終わった。 バスケの神、マイケル・ジョーダンはこんなことを言った。 "I’ve failed over and over and over again in my life and that is why I succeed." (私は人生で何度も何度も何度も失敗した。それが私が成功した理由だ。) 現在の宇宙開発は膨大な数の失敗の上に成り立っている。今回の失敗は成功への過程に過ぎない。ぜひ、成功するまで再チャレンジしてほしい。 さて、MOMOは全長9.9メートル、重量990kg。H-IIAロケットは300トンあるから、その約300分の1の小さなロケットである。 よく、小型ロケットは大型へステップアップするための途中通過点にすぎないと思われることがあるが、それは間違いだ。小型ロケットはそれ自体に大きな価値がある。小型人工衛星を、低コストで、好きな時に、好きな軌道へ打ち上げることができるからだ。 では、小型ロケットがないと何が困るのか。説明しよう。 超小型人工衛星で一番乗りした日本 超小型人工衛星の世界一番乗りは日本であったことを、皆さんご存知だろうか?2003年、東大が開発したXI-IV(サイ・フォー)と東工大のCUTE-Iという2機の学生手作り衛星が、地球低軌道に乗った。両方とも重さたった1kg、大きさ10cmほどの、キューブサットと呼ばれる超小型人工衛星だった。この2機は世界で初めて成功したキューブサットとなった。XI-IVは搭載された小さなカメラで美しい地球の画像を送ってきた。僕は当時大学3年生で、衛星を開発した中須賀件に入れてもらい、徹夜明けに宇宙から届く電波に耳を澄ませたものである。 では、この2機はどうやって宇宙へ行ったのか。ロケットは高額すぎて大学の研究室が買えるようなものではとてもない。 そこで「ヒッチハイク」した。他の大型衛星が打ち上げられる時に、ロケットの隙間に「便乗」させてもらったのである。「ピギーバック」と呼ばれる方法である。 コストを考えると、超小型人工衛星を打ち上げる手段は現在でも3つしかない。①ピギーバック、②国際宇宙ステーションからの放出、③多数同時打ち上げである。100億円もかかる大型ロケットを単独で買っては、低コストという小型衛星のメリットがなくなってしまうためだ。 このうち最も頻繁に用いられる方法は①である。しかし様々なデメリットがある。例を挙げよう。 不遇の小型衛星、Nano-JASMINE XI-IVに成功した東大は、国立天文台と組み、さらに野心的な人工衛星の開発に乗り出した。Nano-JASIMINEと呼ばれる重さたった35 kgの小型衛星で、銀河系の3次元マップを作ることが目的だった。当時、この分野で先がけていたのは、1989年に欧州宇宙機関(ESA)によって打ち上げられたヒッパルコスという大型衛星だった。たった35kgの人工衛星でヒッパルコスを超える精度の観測をしようという、野心的な計画だった。 計画は2003年から動き出した。僕もそのフィージビリティー・スタディーに携わった。衛星の開発も間もなくスタートした。問題は、いかにして打ち上げるかだった。ピギーバックの機会は限られているためだ。もちろん、自前で大型ロケットを買うお金はなかった。 そこへ、願ってもない話が来た。ブラジル宇宙機関がTsyklon-4というウクライナのロケットを打ち上げることになり、その試験飛行でNano-JASMINEを無料で打ち上げてくれることになったのだ。打ち上げは2011年の予定だった。渡りに船と思われた。だが・・・ 様々な理由で打ち上げは延期に延期を重ね、ついに2015年、政治的な事情もあり、ロケットの打ち上げ自体が消えてしまった。便乗させてもらっている身なので先方の事情に対して何も言うことはできない。すでに完成したNano-JASMINEは、宇宙にいつ行けるとも知らず、東大の棚の中で眠ることになった。 そうこうしている間に、2013年にESAはヒッパルコスの後継となるガイアという衛星を打ち上げてしまった。ガイアは大型衛星で、Nano-JASMINEをさらに上回る精度で銀河の3次元マップを作ることができる。 もしあの時に、大学の研究室でも買えるような低コストの小型ロケットがあれば。もしNano-JASMINEがガイアより先に宇宙に行っていれば。もちろん科学は手柄の取り合いではないが、ガイアの発見の多くはNano-JASMINEが成したかもしれないと思うと、昔の当事者としては残念に思わざるをえない。 宇宙に小型の時代が来る この数十年でコンピューターがどれだけ小さく軽くなったか。人工衛星も同じだ。Nano-JASMINEのように、一世代前の大型人工衛星がやっていたことの多くは小型人工衛星で実現可能だ。しかし、小型人工衛星に適した打ち上げ手段がなくてはその真価を発揮できない。ピギーバックに頼るままでは、他人の事情に左右され、打ち上げ時期も選べず、軌道も選べない。 小型ロケットが実用化されれば小型人工衛星の時代が来る。大学の研究室や中小企業、もしかしたら個人も、自分の人工衛星を持つことができる。 これが新しいビジネスチャンスを生むのは言うまでもないだろう。たとえば、東大や東工大で学生の頃に人工衛星を作っていたメンバーが中心となり、アクセルスペースという小型人工衛星ベンチャーが生まれている。2015年には19億円の資金調達を行い、50機の超小型人工衛星を打ち上げ、地球のあらゆる場所の画像をタイムリーに提供するサービスを行う計画だ。 自動車においても高級車市場より大衆車市場の方がはるかに大きい。SpaceXやブルーオリジンといった先行者は大型化に突き進んでいる。だが将来的には、小型ロケット・小型人工衛星の方が大きな市場になる可能性も思う。 ビジネスだけではなく、科学や技術実証においても大きなインパクトがあることを強調したい。 そもそも、なぜ国立天文台は銀河の3次元マップを作るために、JAXAに大型衛星を作ってもらうのではなく、東大と組んで小型人工衛星でやることを選んだのか? 大型衛星は打ち上げ機会が極端に限られているからだ。人工衛星を打ち上げたい科学者は山のようにいるが、コストがかかるため、実際にプロジェクトとなるのはほんの一握りだ。しかも、実現まで何十年も待たなくてはならない。 Nano-JASMINEのように、小型衛星でもできる科学観測は多くある。低予算・短期間で打ち上げられれば科学は大きく前進する。技術実証も然りだ。 バイオや化学の研究室が実験装置を買って研究するような感覚で、宇宙科学や宇宙工学をやっている研究室が人工衛星を買って実験できるようになったら。博士学生が3年のうちにカスタム小型衛星を打ち上げ、実験し、 それを博士論文にできるようになったら。 小型人工衛星はすでにある。ビジネスにもなっている。欠けているのはその打ち上げ手段なのだ。それが、小型ロケットが待望される理由である。 今回ロケットを打ち上げた日本のインターステラテクノロジズだけではなく、ベクター・スペース、ロケット・ラボなど、世界の多くの会社がこの有望な市場を狙って小型ロケット開発を行っている。複数の会社が競争すればコストはさらに下がる。未来は明るい。Nano-JASMINEのような不遇を小型人工衛星が味わう時代は、間もなく過去のものになるだろう。 Nano-JASMINE、ついに宇宙へ!!! 余談であるが、不遇のNano-JASMINEは2018年についに宇宙へ行くことになりそうだ。助け舟を出してくれたのは、ライバルのESAである。ESAの衛星にピギーバックで宇宙に行く予定だ。 Nano-JASMINEより観測精度が良いガイアはすでに打ち上がった。だが、ガイアはセンサーの感度が良すぎるため、逆に明るい星は観測できないという穴があった。その穴を、Nano-JASMINEは埋めることができる。ガイアの観測と組み合わせることで、より完全な銀河の3次元マップを作ることができるのである。 - [作家が教える読書感想文の書き方](http://hiroono.com/ja/2017/07/27/how-to-write-an-essay/) - 先日に思いつきで「作家本人が読書感想文にアドバイスします!」という企画を始めたのですが、読書感想文の書き方について僕の考えを書いておこうと思います。 1. 自分のことを書く 良い感想文を書くには、読んだ本のことを書くだけでは足りません。 あなたが一冊の本を読むと、様々なことを感じ、思い、考えると思います。それが「感想」です。では、その「感想」がどこから生まれたのか、川を遡るように思い出してみましょう。おそらくそれは、本に書かれた情報だけではなく、あなた自身の体験や知識に根ざしていると思います。 たとえば、芭蕉の句に 「さまざまのこと思い出す桜かな」 というものがあります。僕はこの句を読むと本当にさまざまのことを思い出します。十数年前に満開の桜の下で飼っていた猫が車に轢かれて死んでしまったこと。その翌年に雨に濡れた桜の花を見ながら渡米を決断し、当時付き合っていた彼女に泣かれたこと。7年後に留学を終え日本に戻り、満開の桜に迎えられ、妻との新生活を始めたこと。この17文字を読むと、そのような過去の感情が僕の胸に蘇るのです。 その感情の元となった情報は、この句の17文字には一切書かれていません。詩は僕がすでに持っていた体験を呼び起こさせる触媒として作用しただけです。僕の心にすでにギターがあり、言葉がその弦を弾いて音を出したようなものです。言葉は感想をゼロから作らないのです。 一方、本の場合は短いものでも10万字ほどありますから、それ自体で感想の元となる情報を提供することはできます。とはいえ、10万字と聞けば多く聞こえるかもしれませんが、作家の立場からすると本当に少ないです。たった10万字で伝えたい感情やメッセージの全てをゼロから伝えるのは、不可能と言って良いでしょう。 そこで作家は読者に頼ります。本が提供する不完全な情報が、読者の体験や知識と化学反応を起こすことで、伝えたい感情やメッセージが読者の心に現れるように文章を書きます。 もうおわかりでしょうか。実は、あなたが本を読んで得た「感想」の大部分は、本に書かれた情報ではなくあなた自身の体験や知識に根ざしているのです。本はあなたの心や頭を動かすお手伝いをしただけです。ですから、本の感想を表現するには、感想の元となったあなた自身の体験や知識を具体的に説明する必要があるのです。その体験や知識がいかに本の情報と化学反応を起こしたかを書くのです。 2. 読者を信頼する では、読書感想文を書き始めましょう。その瞬間、あなたは読者から作家になります。そしてあなたが読んだ本の作者と同じ問題に直面します。 読書感想文の文字数制限は、せいぜい数千字でしょうか。たった数千字で、あなたの胸に湧いた豊かな感情や、頭に廻った様々な思考を、ゼロから説明することはできるでしょうか?おそらく無理でしょう。 だから、読書感想文の読者を頼る必要があります。あなたが書く情報が、読者の経験や知識と化学反応を起こすことで、あなたが伝えたい感想が読者に伝わるように書くのです。 そう言うのは簡単ですが、実行するのはなかなか難しい。読者がどんな体験や知識を持っているか、分からないからです。そしてそれは人それぞれです。 もちろん、書く情報が不足すると、読者は何が書かれているのかわかりません。 ですがむしろ、書く情報が多すぎるケースの方が多いです。作家はつい、読者が知っているか不安になり、多くを書きすぎてしまうものです。僕も頭ではわかっているものの、いつも書きすぎてしまい編集者に指摘されます。読者にとっては知っている知識ばかり書かれていると飽きてしまいます。登場人物の体験が全て説明されてしまうと、イマジネーションを働かせる隙間がなくなってしまいます。 大事なのは読者を信頼することです。これは読書感想文だけではなく、全ての文章に言えることです。本当に伝わるかな、理解してくれるかな、そんな不安をぐっと堪え、読者を信頼し、言葉を削ることです。読者自身の体験や知識に訴えることで、あなたの感想は読者自身のものとなります。そして読者の心の楽器が音を奏でるのです。 ぜひ皆様の感想文を読ませてください! 「作家本人が読書感想文にアドバイスします!」の企画では、拙著『宇宙を目指して海を渡る』の感想文を書いてくださった方へ、僕自身がアドバイスをします。アツい感想文をお待ちしております! - [人生最高の5分間 〜育児とストレスと幸福について考えたこと〜](http://hiroono.com/ja/2017/05/29/best_5_min_in_my_life/) - 越洋通勤 僕は2週間に一度、飛行機に乗って東京に行き、週末だけ過ごしてロサンゼルスに戻る、という生活をしている。東京に住む妻と1歳の娘のミーちゃんに会うためだ。いわば「越洋通勤」である。ドア・ツー・ドアで往復32時間。滞在は1泊なら38時間、2泊なら62時間。エコノミークラスの垂直の背もたれで寝るのがすっかり得意になった。 僕はロサンゼルスで、妻は東京でしか追えない夢があった。じゃあ、ミーちゃんはどちらに?妻と議論に議論を重ねた上にたどり着いた妥協が、これだった。 今回は諸事情で3週間空いてしまった。長かった。寂しかった。最後の週は毎晩、ミーちゃんを抱く夢を見た。写真を見ながら「ミーちゃん、カワイイでしゅね〜!」と独り言を言っている自分に気づいて、僕の精神はそろそろヤバイな、と思った。 会えた時の喜びはたまらなかった。いつもどおり、滞在中は自分のことは何もしなかった。おいしい日本食を食べに行くこともなく、買い物にも一度も行かず、友人とも誰一人会わず、テレビも映画も見ず、もちろん仕事も一切せず、ただ、居れる限りミーちゃんと居た。 金曜日は一日中実家で遊び、土曜日は上野動物園に行って、もう日曜。近所の公園で遊び、昼食を食べさせ、ミーちゃんの昼寝の時間になった。昼寝から覚めたら出発だ。本当は寝かせずに遊んでいたかった。でも赤ちゃんに無理をさせちゃいけない。寝室のカーテンを閉め、ミーちゃんを布団に置いた。 遊びたかったのはミーちゃんも同じだったようだ。寝かせてもすぐに起き上がり、覚えたての二足歩行をヨチヨチと披露する。ニコニコしながら横になっている僕の体にダイブし、ニヤニヤしながら僕の頬をつねったり口や鼻に指を突っ込んだりする。それに飽きると、またヨチヨチと本棚に歩いて行って絵本を引っ張り出し、「読んで」と持ってくる。 その一冊が時計の絵本で、各ページに5センチほどの丸い穴が開いていて、そこから針が動く時計が見えるという仕掛けだった。 ふと僕は、その穴からミーちゃんを見ながら、キョロキョロと目玉を動かした。よほど面白かったのか、ミーちゃんはケタケタ笑い転げた。僕もケタケタと笑った。ミーちゃんも真似をして、絵本を僕から取って穴に目を当て、僕をキョロキョロ見てケタケタと笑い転げた。なんとも可愛らしくて僕もまたケタケタと笑った。 今度はミーちゃんの得意技「いないいないバァ」が始まった。目しか隠れない小さな掌で目を覆い、「んーーーーーっ」とためたあと、「ば!」と言ってまたケタケタと笑う。そして鬼ごっこが始まる。捕まえてコチョコチョくすぐると、またケタケタと笑いころげる。 そうして布団の上で二人で笑い転げて、数分後、ミーちゃんは電池が切れたように突然パタッと眠りだした。 グウグウといびきをかくミーちゃんの寝顔を見て、僕は胸がいっぱいになった。もしかしたら今の5分間が、人生でもっとも幸福な5分間だったかもしれない、と思った。 時間が限られているが故に、幸福が増幅されたのだろう。もしこれが処刑の日だったら、この5分はもっと幸福だったに違いない。 「ないものねだり」だからこそ 今回の帰国中、ちょっとしたことで妻とぶつかってしまった。 「週末を全部育児に取られて、自分の時間が全く取れないのがストレスだ」と彼女が言ったのが原因だった。 僕は悲しくなった。ミーちゃんに会えない週末がどれだけ寂しいか。どれだけ僕はミーちゃんとの時間を切望しているか。飢えた人が、目の前で食べ物が粗末に捨てられるのを見たような気分だった。 「そんなことを言うなら、僕がロサンゼルスに連れて帰るよ。」 僕はそう言って咎めた。 冷静に考えれば、彼女が「ストレス」を感じる理由はもっともだ。実家の両親に助けてもらっているとはいえ、片親での育児は本当に大変だ。毎晩ろくに寝れず、風邪をうつされ、職場の同僚の冷ややかな目を気にしながら定時退社して保育園に迎えに行き、熱が出たと毎週保育園から呼び出されてさらに冷ややかな目をされ、理由もわからずギャン泣きし続けるミーちゃんを夜通しあやし続け…。僕がロサンゼルスで一人で育児をしていたら、その「ストレス」を間違いなく感じただろう。 だが、それでも僕は妻が羨ましかった。帰国中、長時間フライトと時差ぼけで疲れていたが、夜にギャンギャン泣くミーちゃんを抱っこしながら子守唄を歌うのが幸せだった。逃げるミーちゃんを押さえつけながら臭いウンチのオムツを替えるのが楽しかった。ミーちゃんが盛大に食い散らかしたテーブルや床を掃除するのすら愉快だった。 もちろん、ないものねだりだ。毎日やったら嫌になるに決まっている。たまに帰ってくるからそんな呑気なことが言えるんだ。 僕は幸せ者だ。あの奇跡のような幸福の5分間。その幸福は、普通に暮らしていたら、あまりにも当たり前すぎて日常に埋没していたかもしれない。育児ストレスに心を占められ、気付かずに過ぎてしまっていたかもしれない。ないものねだりだからこそ、気付ける幸福もあるのだ。 もとい、毎日ミーちゃんと暮らしていたって、一生のうちでミーちゃんと過ごせる時間が限られていることに変わりはない。子供は毎日成長する。毎晩のおやすみのキスは、今日のミーちゃんに告げる永遠の別れだ。あの奇跡の5分は、たとえ出発の日でなくても、処刑の日でなくても、二度と得られぬ宝物なのだ。 育児ストレスを感じるお父さん、お母さんへ 長時間のフライトの末、またロサンゼルスの一人暮らしのアパートに戻ってきた。日付変更線を超えたから、日曜の夜に出たのに着いたらまだ日曜の夕方だ。日本は月曜の朝。妻は仕事に、ミーちゃんは保育園に行ったはずだ。 寂しい。部屋が静かすぎて鼓膜が痛い。でも自分で選んだ道だ。心はフル充電した。明日からまた2週間、夢を追って頑張ろう。ミーちゃんが誇りに思ってくれるパパになろう。 僕は再び家族一緒に暮らせる日を心待ちにしている。ミーちゃんの笑顔は再び日常となる。睡眠不足も育児疲れも日常になる。すぐにイヤイヤ期が始まる。反抗期も来る。そうなっても、決して僕はあの5分を忘れないようにしよう。毎日訪れては過ぎ去る奇跡の5分を大切にしよう。毎晩おやすみのキスをしよう。日常にありふれた幸せに感謝して生きよう。 最後に、もしあなたが「育児ストレス」を感じていたら。僕はあなたを髪の毛一本分も責めるつもりはない。(妻には申し訳なかったと思っている。)育児は本当に大変だ。すべての時間を育児に費やすのは心身ともに疲弊する。ストレスを感じるのは、あなたが親として頑張っているからだ。それはあなたが素晴らしい親である証拠だ。溜め込まないで、気晴らしをするといい。たまに実家にでも預かってもらって自分の時間を作るといい。 それでもどうか、心の片隅で覚えておいて欲しい。あなたを心から羨望する寂しい一人の男が、海の向こうにいることを。 - [J. K. ローリングのスピーチ](http://hiroono.com/ja/2008/06/10/j-k-rowling/) - 先日、ハリー・ポッターの著者であるJ. K. ローリングさんが、僕が通うMITのお隣にある超名門校・ハーバード大学の卒業式にて、講演をしました。それが非常に素晴らしかった。彼女自身の辛い経験に基づいたメッセージの持つ説得力と普遍性もさることながら、さすがは小説家なだけあって、ウィット(と少々の毒舌)に富んだ言い回しと、話の流れの上手さにも感服。抑揚もなく淡々と喋るのに、彼女の言葉はとても強く重たく、まるで僕が面と向かって説教を受けているかのように、それらのひとつひとつの言葉が胸に突き刺さりました。 ぜひ皆さんにも読んでもらいたく思い、以下に全文を和訳して掲載します。どこまで原文の「ウィット」を日本語で訳出できたか。(...)は僕による補足、<...>はスピーチにおいて原稿と異なる内容を言った箇所です。日本語では意味が通りづらい箇所は、適宜意訳しました。 原文はここ、ビデオはここから視聴できます。 誤訳を見つけた方、教えていただければ幸いです。 --- 失敗がもたらす利益と、想像力の重要性 J. K. Rowling 2008年6月 ファウスト学長、ハーバード・コーポレーション[1] と監督委員会[2] の皆様、教授、ご両親、そして、卒業生の皆様、 なによりもはじめに、「ありがとう」と言いたいと思います。ハーバード大学が私にこの上ない栄誉[3]を授けてくれたことへの感謝だけではなく、ここ数週間襲われ続けた、卒業式でスピーチをしなくてはいけないことへの恐怖と緊張のおかげで、体重が減ったことへの感謝です。一挙両得[4]ですね!深呼吸をして、赤い旗[5]を横目で見ながら、これは世界で最も頭のよいハリー・ポッターたちの集会<世界最大のグリフィンドール[6]の同窓会>なのだと自分に暗示をかけて、このスピーチを始めたいと思います。 卒業式でスピーチをすることは、重責です。いや、私自身の卒業式のことを思い出すまでは、そう思っていました。その時の卒業式でスピーチをしたのは、著名なイギリスの哲学者である、B. M. ワーノックでした。彼女のスピーチを思い出そうとしてみたことは、このスピーチを考えるのに非常に役に立ちました。なぜって、私は彼女のスピーチの言葉を、結局何一つ覚えていなかったのですから!だから、今日の私のスピーチがあなたがたの人生に悪影響を与え、ビジネスや法曹や政治における輝かしいキャリアを投げ出してゲイの魔法使い[7]になってしまったらどうしよう、などという不安から、すっきりと開放されることができたのです。 どうです?もしあなたがたが将来、この「ゲイの魔法使い」のジョークだけでも覚えていてくれたなら、私はB. M. ワーノックに勝った、ということです。己の向上のための第一歩は、達成可能な目標を設定すること、ですよね。 そんなわけで、今日何を喋るべきか、私は頭をひねって一生懸命に考えました。私は自分にこう問いかけました。私は自分の卒業式で、何を聴きたかっただろう。私が大学を卒業してから今に至るまでの21年間に私が学んできたことの中で、大切な教訓は何だったのだろう、と。 そうして、二つの答えに辿り着きました。(まず第一に、)みなさんの学業における成功を祝うこの素晴らしい日に、失敗がもたらす利益についてお話したいと思います。そして(第二に)、みなさんが「現実の社会」へ羽ばたかんとするこの時に、想像力の大切さを伝えたいと思います[8]。 これらの話題は、突拍子のない、矛盾をはらんだものと思われるかもしれませんが、どうか少しの間、私の話に耳を傾けていただければ幸いです。 21歳の頃の私の卒業式は、42歳の今になって振り返ってみると、少しほろ苦い思い出です。私が今のちょうど半分の年齢だったころ、私は自分の夢と、自分に最も近しい人が私にかける期待との間で、悩んでいました。 私は、小説家になりたいという確固たる夢を持っていました。しかし、私の両親は、そんな壮大な夢はただの楽観的で向う見ずな妄想で、そんなものでは家も買えないし、年金も払えないと言うのです。両親は貧しい家庭環境で育ち、二人とも大学を出ていませんでした。 両親は私に、実用的な学位を取って欲しいと望みました。一方私は、英文学を専攻したいと思っていました。結局、妥協として、私は、近代語学を学ぶことにしました。後から振り返って考えれば、それは誰のためにもならない妥協でした。両親の車が走り去り、角を曲がって視界から消えたとたん、私はドイツ語から逃げ出し、古典文学の廊下へと駆けていったのでした。 古典文学に専攻を変えたことを両親に言ったかどうか、私は覚えていません。もしかしたら彼らは、私の卒業式の日に初めて気付いたのかもしれません。彼らにとってギリシャ神話などは、会社の重役になってVIP専用のトイレで用を足すようなキャリアを目指すにあったっては、地球上のあらゆる学問の中で最も実用性の無いものだったことでしょう。 もちろん私は、両親の考えを責めようとは思いません。若い頃は、両親が自分の人生を間違った方向へ導くことを責める時期もあるでしょう。しかし、自分で自分の人生の舵を取れる年齢になれば、全ては自分の責任です。加えて、私に貧乏な生活をさせたくないという両親の願いを、私は批判することができません。彼らはずっと貧乏で、私自身も貧乏でしたから、貧乏はお世辞にもいいものではないと、よく知っています。貧乏は恐怖とストレスを伴います。絶望に駆られることもたびたびです。屈辱と困難の連続です。貧乏の底から自力で這い上がったことは誇りになりますが、貧乏自体を美化するのはおバカさんだけでしょう。 私がみなさんくらいの歳の頃、私は大学の勉強に熱意も沸かず、ほとんどの時間をカフェに座って小説を書いて過ごし、授業に出ることはほとんどなく、試験に合格するコツを覚えるばかりで、それが私や同級生達の成功の基準でした。 私は、みなさんが若くて才能があって良い学校を出ているからといって、今まで困難や挫折を全く経験せずに済んだと思うほど馬鹿ではありません。才能と知性をもってしても、誰も運命の気まぐれから逃れることはできません。私はみなさんが今まで、何ひとつ困難の無い、満たされた、特権的な人生を歩んできたとは思っていません。 しかし、みなさんがハーバード大学を卒業するということは、みなさんがあまり失敗に慣れていないということではないかと思います。みなさんは成功への欲望に駆られるのと同じくらいに、失敗への恐怖に追われているのかもしれません。実際、最高の学歴を手にしたみなさんが持つ失敗の概念は、一般的な人が持つ成功のイメージとかけ離れたものではないでしょう。 「失敗」の基準とは最終的には各々が決めるべきものなのですが、そうしなくとも、世の中に流布している基準を当てはめてみることはたやすいでしょう。そして、そんな通俗的な基準で測ってみれば、私の卒業後の7年間は、手ひどい失敗だったと言えると思います。結婚はすぐに破局し、片親で娘を育てなくてはいけないのに、仕事は無く、現代のイギリスにあって、ホームレスの一歩手前の極限まで貧しい生活をしていました。両親が怖れていたこと、そして私自身も怖れていたことは、現実になってしまったのです。常識的な尺度で言えば、私が知っている誰よりもひどい失敗でした。 私はここで、失敗は楽しい、などと言うつもりはありません。あの頃の私の人生は暗いもので、後にメディアが言った「おとぎ話のようなサクセス・ストーリー」が待っているとも到底思いませんでした。この暗いトンネルがどこまで続くか見当もつかず、そのトンネルの出口に見える光はいつまでたっても幻想でしかなく、それが現実になることはありませんでした。 ならば「失敗がもたらす利益」など、どこにあるのでしょう?答えはシンプルです。失敗は不必要なものを剥ぎ取ってくれるのです。私は、自分が本当の私ではない別の何かなのだと自分を偽るのを止め、持てる全てのエネルギーを、私にとって大事な唯一つの事(小説を書くこと)に注ぐようになりました。もし私が他のことで成功してしまっていたら、自分が本当にやりたかった事において成功したいという決心は起きなかったでしょう。私は自由になれたのです。なぜなら、私が最も怖れていたことは既に現実のものとなってしまい、しかし未だ私は生きていて、そして傍らには愛する娘がおり、机の上には古いタイプライターが、頭の中には壮大なアイデアがあったからです。失敗のどん底にあった岩は、私が人生をやり直すための頑丈な基礎になったのです。 恐らく皆さんは、私ほどの大きな失敗に陥ることはないでしょう。しかし、ある程度の失敗は、人生において避けることができません。何にも失敗しないためには、死んだように及び腰になって生きるしかありません。しかしそんな人生は、元から失敗です。 失敗によって私は、試験に合格したのでは得られない精神の安定を得ました。失敗は私に、私自身の事を教えてくれました。それは他の方法では学ぶことができなかった事です。私は自分に強い意志があり、私が思っていた以上に自分の心は鍛えられているのだと気付きました。そして私には、ルビーよりも価値がある友達がいることに気付きました。 過去の失敗から這い上がり、強く、賢くなったのだと知ったとき、人は自分の生きる力を信じることができます。自分自身や友達との関係が逆境によって試されて初めて、人はそれらを本当に理解することができます。そのような知恵こそが(失敗がくれた)プレゼントであり、私にとってどんな資格よりも価値があるものなのです。 もしタイムマシンかタイムターナー[9]があったならば、私は21歳の頃の私に、幸福な人生とは成功や達成のチェックリストではないということを教えてあげたい。資格や履歴書は人生ではないのです。残念ながら、私と同世代や年上人たちの中にも、それを混同している人が大勢います。人生とは困難で、複雑で、誰もコントロールすることはできません。それを謙虚に理解しなければ、人生の浮き沈みを生き抜くことはできないのです。 さて、みなさんは恐らく、私が(今日のスピーチの)二番目のテーマに想像力の重要性を選んだのは、私が人生をやり直す上で、それが大きな役割を果たしたからだと思うでしょう。しかし、それが全てではありません。私は(子供を寝かしつける時の)枕もとのおとぎ話が持つ価値を、息絶えるまで主張し続けますが、しかし私が学んだ想像力の価値とは、それよりももっと広い意味を持つものです。想像力とは、存在しないものを心に思い描き、発明や革新を生み出す、人間に特有の能力のみを指すのではありません。想像力とは最も変幻自在で驚きに満ちた能力であり、想像力があるからこそ、我々は経験を分かち合ったことのない他人にも共感することができるのです。 私の人生において最も貴重な経験のひとつは、社会に出て間もない20代前半の頃に得たものです。人生における大発見とも言うべきその経験は、後にハリー・ポッターを書くのにも大きな影響を与えました。その頃の私は、昼休みに職場を抜け出して小説を書きつつ、ロンドンにあるアムネスティー・インターナショナル[10]本部の<アフリカ担当の>調査部で働いて、生計を立てていました。 私は自分の小さなオフィスで、全体主義政府に抑圧された人々が、発覚すれば投獄される危険を冒して、彼らの国の過酷な実情を告発するために走り書きした手紙を読みました。痕跡もなく蒸発してしまった家族や友達の消息を必死に求める人たちからアムネスティーへ送られてきた、行方知れずの人々の写真も見ました。拷問の証言も、拷問で受けた傷の写真も見ました。即決裁判や処刑、誘拐やレイプを訴える手書きの目撃証言(が書かれた手紙)も開封しました。 私の同僚には、政治犯として投獄された過去を持つ人も多くいました。彼らは政府の方針にそぐわない危険な思想を持っていたために、故郷の地から連れ去られたり、亡命してきたりした人たちでした。私のオフィスを訪ねてくる人の中は、情報提供者や、生き別れた人の消息を尋ねに来た人たちもいました。 私はあるひとりの若いアフリカ人のことを、決して忘れないでしょう。当時の私よりも若いくらいの年齢だった彼は、故国で拷問を受け、精神を病んでいました。彼はビデオカメラに向かって彼を苦しめた蛮行のことを話したとき、体の震えが止まりませんでした。彼は私よりも30cmも背が高かったのに、まるで子供のように華奢な体をしていました。その後、私が彼を地下鉄の駅まで案内したとき、残虐な行為によって人生を破壊されてしまったこの男は、私の手を優しく握り締め、私の将来の幸せを願ってくれたのです。 私はまた、空虚な廊下を歩いていたときに突然、背後にある閉じた扉の向こうから聞こえた、苦痛と恐怖に満ちた叫び声を、一生忘れることはないでしょう。扉が開き、女性の調査員が顔を出して、部屋にいる(叫び声の主の)若い男のために温かい飲み物をすぐにもってくるよう、私に言いつけました。彼が政府に反抗的な発言をした報復として、彼の母親が捕らえられ処刑されたというニュースを、そのとき彼女は彼に告げたのでした。 私は、誰でも弁護士を立てて公開裁判を受ける権利があり、民主主義の政府を持つ国に生まれてきたという、この信じられないほどの幸運を、20代前半を過ごした職場で毎日かみしめていたのでした。 私は毎日、人間が権力を狙い保持するため、同じ人間に対して行ってきた悪魔のような仕打ちの数々の証拠を見てきました。やがて、私は悪夢にうなされるようになりました。(仕事で)見たり、聞いたり、読んだりしたことが、夢に出てくるのです。それは文字通りの悪夢でした。 しかし一方で、私はアムネスティー・インターナショナルの職場で、それまで私が知らなかった人間の素晴らしさも知ったのです。 アムネスティーでは、今まで拷問されたことも投獄されたこともない何千人もの職員達が、拷問の被害者や囚人のために活動していました。人間が他人に共感できる能力こそが、人々が力を合わせてアクションを起こし、命を救い、囚人を釈放する力になったのです。幸福と安全が保証されているごく普通の人たちが、今まで見たこともない、そして一生会うこともないだろう赤の他人を救うために、大勢集まってきたのです。その一端に私が参加したことは、私の人生の中でもっとも衝撃的な、そして刺激的な経験となりました。 人間は、地球上に住む他のいかなる動物とも違って、自分が経験しなかったことをも、学び、理解することができます。人間は他人の心を思いやり、他人の状況を想像する力を持っているのです。 もちろんこの力は、ちょうど私の小説に出てくる魔法のように、良いことにも、悪いことにも使うことができます。他人を理解したり同情したりするためでなく、人を操りコントロールするために、この力を使う人もいるかもしれません。 そして、想像力を全く使おうともしない人も大勢います。そのような人たちは、自分の(幸せな)経験だけに浸って、居心地のよい殻の中に安住し、もし自分が他の人に生まれたらどう感じるだろう、などとは、面倒がって考えもしないのです。彼らは悲鳴に耳を塞ぎ、牢屋の囚人から目を逸らすのです。自分と関係のない苦痛から心を閉ざし、知ることを拒否するのです。 私はそのような生き方を羨ましく思ってしまうことがあるかもしれません。しかし、彼らが悪夢にうなされる回数が、私よりも少ないとは思えません。狭い空間に閉じこもって生きるのは、広場恐怖症[11]のようなもので、それもまた恐怖をもたらします。好んで想像力を使わずに生きる人は、より多くのモンスターを見ているのではないかと私は思います。彼らはより怯えて生きています。 さらに重要なのは、他人に共感することを拒否して生きる人は、本物のモンスターになってしまうかもしれないということです。自身の悪と戦うのをやめた人は、無関心のうちに悪と共謀してしまうのです。 - [【速報】7つの地球サイズの惑星を従えた恒星系が見つかる。そのうち3つがハビタブルゾーン。](http://hiroono.com/ja/2017/02/22/7つの地球サイズの惑星を従えた恒星系/) - 地球から40光年離れた宇宙の、水瓶座の片隅に、数年前までは名前も与えられていなかった暗い星がありました。 その星に、7つもの地球サイズの惑星が見つかりました。しかも、そのうち3つはハビタブルゾーン(惑星の表面に液体の水を湛えることのできる温度にあるゾーン)にあったのです。ひとつの恒星系で見つかった地球型惑星の数、ハビタブルな惑星の数、ともに最高記録だそうです。 さらに面白いのは、この恒星系が非常にコンパクトなこと。7つの惑星の全てが、太陽系の水星も小さい軌道を回っています。TRAPPIST-1という仮称を与えられたこの星は太陽よりもずっと小さく、暗く、赤い。ハビタブルゾーンも恒星にずっと近い位置にあるのです。 さらに、2018年に打ち上げ予定のジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡を使えば、これらの惑星の大気を通ってくる光を分光分析解析して、バイオシグネチャー(酸素など)、つまり生命の存在の間接的証拠をつかめるかもしれません。 もし、3つの惑星のそれぞれに生命が誕生していたら・・・そしてそのそれぞれが知的生命に進化していたら・・・恒星系のサイズが小さいから、行き来も太陽系よりずっと簡単でしょう。それぞれの星の知的生命は、平和に共存しているのでしょうか?それともどこかの第三惑星の愚かな住人のように、血みどろの殺し合いをしているのでしょうか・・・?いつかその「愚かな住人」の技術がもっと進歩して、40光年先のこの世界を訪れる日が来るのでしょうか? 想像力を掻き立てられる発見でした! 原文:http://www.npr.org/sections/thetwo-way/2017/02/22/516431116/astronomers-find-7-earth-sized-planets-around-a-nearby-star?utm_source=twitter.com&utm_campaign=npr&utm_medium=social&utm_term=nprnews Image: NASA/JPL-Caltech - [Vertical scroll test](http://hiroono.com/ja/2017/01/22/vertical-scroll-test/) - [Immigrants in NASA: The American History of Giving Dreams a Chance](http://hiroono.com/en/2016/10/29/immigrants-in-nasa/) - I immigrated from Japan to the US to work for NASA and make my childhood dream come true. I don’t think I need to remind the readers that the two countries I love fought the most destructive war in the human history some seventy years ago, which claimed millions of lives. The American view of - [The Ritual](http://hiroono.com/en/2016/09/06/the-ritual/) - I think it was when Mi-chan was three or four months old. She and I started a “ritual” every evening. The ritual is called “Yuusuzu Mi-chan” – “Yuusuzumi” means going outdoors in the summer evening and enjoy the cool air after a hot day. For ten to twenty minutes between dinner and Mi-chan’s bath, I - [夕涼みーちゃん](http://hiroono.com/ja/2016/09/06/yuusuzumi-chan/) - ミーちゃんが3ヶ月か4ヶ月になった頃からだっただろうか。僕とミーちゃんの、毎晩の「儀式」ができた。 「夕涼みーちゃん」と名付けられたこの儀式。大したことはない。夕食が済んでから、ミーちゃんをお風呂に入れるまでの10分か20分の間、ミーちゃんを抱っこしてベランダに出て、夕空や景色を見せたり、歌を歌ったりするのだ。 僕が仕事から帰ってくるのはだいたい7時。夕食が終わるのは8時頃。キッチンに赤ちゃん用バスタブを置いてミーちゃんを風呂に入れるのは僕の仕事なのだが、その前に妻が食器を片付けてくれるので、その間が「夕涼みーちゃん」の時間になるのだ。 アメリカはサマータイムがあるから、夏の日が長い。1ヶ月ほど前までは毎日一緒に夕焼けを眺め、サン・ゲイブリエル山脈の峰が桃色に染まるのを眺めた。最近は西の空に輝く一番星を指差して「金星だよ」と教え、ウィルソン山の山頂の天文台に灯る明かりを眺め、そしてコロラド通りを行き交う車のライトを追う。そんな時、僕はミーちゃんの目を見るのが好きだ。黒真珠のような艶のある大きな目に、桃色の夕焼けや、街明かりが映るのが美しい。ミーちゃんの心にはどんな世界が見えているのかな、と僕は思う。 ミーちゃんは、まるで生まれてきたばかりのこの世界が面白くて仕方ないかのように、僕に抱かれながら、右に、左に、上に、下に、忙しく首を回し、好奇心の塊のような目で何かをじっと見る。ミーちゃんは空が好きだ。木も好きだ。光るものが好きだ。動くものが好きだ。ミーちゃんが何かを観察するのに忙しい時、僕はミーちゃんの大福みたいに柔らかい頬にキスをする。時々、僕は振り返って、キッチンの窓越しにお母さんに向かってミーちゃんの手を振る。するとお母さんも優しく笑ってミーちゃんに手を振ってくれる。 そして僕は歌を歌う。ミーちゃんは歌が好きだ。僕も自分の歌にはじめてのファンがついたことが嬉しい。選曲は僕の趣味で、古い歌が多い。たとえば: Somewhere over the rainbow, skies are blue, And the dreams that you dare to dream really do come true. (虹の向こうのどこかに空が青い場所があって、そこでは君が夢みたどんな夢も叶うんだ) これは毎日必ず歌う。 On the day that you were born the angels got together, And decided to create a dream come true. (あなたが生まれた日に天使たちが集まって、夢を叶えようって決めたんだ) これも定番だ。そしてもちろん、この歌だ: I hear babies cry, I watch them - [『我が二等兵物語』〜祖父の戦争体験](http://hiroono.com/ja/2014/06/16/grampas-war/) - 五年ほど前に祖父が亡くなった際、彼が戦争体験を綴った遺稿が出てきた。それを紹介したい。 彼はアマチュア文筆家で、筆まめだったし、俳句や川柳を書き溜めたノートを何冊も持っていた。「我が二等兵物語」と題されたこの文章も、原稿用紙33枚に丁寧に清書されたものだった。一ページ目の注には、「此の原稿は昭和56年起稿」とある。清書したのは平成四年だったようだから、実に11年をかけて完成させた力作だ。 「戦争体験」というと、どうしてもシリアスで、悲惨なものばかりが目立つ。だが、それだけが「戦争体験」ではなかろう。この「我が二等兵物語」は、主に学徒出陣で徴兵された直後の訓練の期間にフォーカスし、その日常をユーモアを交えて活写している。祖父はとても大らかな人だった。重たい現実も、消化して笑いに変えてしまう逞しさがあった。 この原稿は世に出ることなく祖父は亡くなった。そこで本ブログに転載し皆様のお目にかけたいと思う。 --- 我が二等兵物語 村上光一 (一)今を去る三十八年の昔[1]、私の二等兵(星一ツの初年兵)時代を振り返れば、それは正に、レ・ミゼラブルの連続であつた。 勝新太郎主演の映画『兵隊やくざ』の大宮喜三郎は二等兵ながら、痛快無比、溜飲のさがる快男子であるが、残念乍ら、私には大宮喜三郎のような度胸も腕力もない。従つて、われながら、惨めな二等兵物語である。 (二)昭和十八年十二月一日、学徒出陣により、姫路の中部第四十六部隊(歩兵連隊)に勇躍入隊した。 但し「勇躍」は営門に入るまでの心意気であった。一歩営門に足を踏み入れた途端、「ああ、えらい所に来てしもた。この儘、娑婆には帰れないのではないか?初年兵の苦しみに耐えられるだらうか?うまくやつてゆけるだらうか?」という何とも言えぬ裏哀しい不安が、「勇躍」の風船を急に凋ませてしまつた。 (三)ここで一寸、「勇躍」の解説をする。 小学生時代から、「日本は神国であり、未来永劫不滅である」という、長島監督の巨人観のような教育を受けてきた私たちにとつては、日本の参加する戦争は全て聖戦であり、決してまけることはない。たとえ死地に追い込まれても、必ず神風が吹き荒れて、悪漢どもは逃げてしまうものと、堅く信じていた。 時代背景としては、昭和十年、相沢中佐、時の陸軍省軍務局長永田鉄山少将を白昼堂々と惨殺して刑に死し、翌十一年には、二・二六事件が起つて反乱将校は一斉に処刑されて、ここに陸軍内部に於ける皇道派は潰滅し、代つて統正派が陸軍を牛耳った。その統正派の雄であり、主戦論者であつた東條英機が昭和十五年陸軍大臣となり、さらに十六年十月東條内閣が成立した。そして二ヵ月後には、遂に太平洋戦争に突入したのである。 当時、青少年が愛読した小冊子『国体の本義』(昭和十一年三月、文部省)の中で、たとえば左の一節などは、今の若い人には、一寸理解し難い部分があると思う。即ち、「我等臣民は西洋諸国に於ける所謂人民と、全くその本性を異にして(中略)、その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉る」と。 従つて、学半ばにして応召することにも、何のためらいもなく、至極単純に当然の義務と考えた。応召の当日、湊川神社に必勝の祈願をした際、学友達が境内で出征ストームをやつてくれたし、私もその輪の中に入つて狂喜乱舞した。これが「勇躍入隊」の内面的な根拠である。 安本常務[2]も、この間の事情を簡明に描写しておられる。 「学生一同歓喜の声をあげ、是非兵役に服して、国に忠誠をつくす旨を心に誓つたのである」と。(すぽつと三十三号) (四)屁理屈はさておき、厳寒の本番の初年兵生活がはじまつた。 私は歩兵連隊の中でも、花形といわれた連隊砲の班に配属された。何故花形かといえば、連隊砲の者は皆体が大きくて、いかめしい者揃いだから。 同じ連隊砲の班には、プロ野球の大下とか、同志社大学の空手部の主将とか、国士舘大学の銃剣術三段とか、叩き殺しても死なないような豪傑がいた。私の如きチビが、どうして連隊砲班に入れられたのか。推測するに、徴兵官は多分、私のいかめしい、ごつい顔の部分だけしか見てくれなかつたのだろう。 (五)なにしろ、初年兵は腹がへる。空腹の苦痛が人間をどんなに卑しいものにするか、未経験者には想像がつかない。 食事の時など、鬼より怖い班長殿や古年兵殿の隣に、初年兵は先を争つて坐りたがる。班長殿や古年兵殿は「ええカッコ」して「俺はこんなに食えないから」と言つて、飯やオカズの一部を隣の初年兵に呉れてやることがある。今考えれば、彼等が初年兵に呉れてやる飯の量たるや、実に僅かなもので、せいぜい箸で二回か三回分くらいのものだろう。しかし初年兵にしてみれば、二箸か三箸の飯欲しさに、怖くて憎い班長殿や古年兵殿の隣を狙うのだ。 (六)食事時には、各班の飯上げ[3]当番が週番上等兵に引率されて、中隊単位で炊事場へ食事の受領に行く。所謂、飯上げである。 我々学徒出陣で入隊したものばかり集められた二ヶ中隊の兵舎は、白鷺城[4]の真下にあつて、本隊の炊事場までは、かなりの距離があつた。実はこのへだたりこそは、初年兵にとつては、一仕事のできる有難い空間であつた。 即ち、その時のオカズ如何によつて野心が起れば、食缶(飯、オカズを入れたバケツ)の後棒を担いで、わざと最後列を歩く。そして適当なチヤンスを見つけて蓋をあけ、素早く、中の天ぷら等を上衣の左右のポケットにねぢ込む。ただそれだけの仕事である。中隊へ帰り、各班毎の食缶の分配が終わるや否や、トイレにすっ飛んでゆき、「一人入れば中は満員」という有難い個室に入つて、おもむろに天ぷら等の捕獲品を賞味する。下からの芳しい匂いもあらばこそ。 (七)昭和十八年十二月一日に入隊して、はや一ヶ月。 その年の大晦日。午後、帯剣のみの軽装で、舎前に集合の命令が出た。 平素の激しい演習も今日ばかりは恐らく無いだろう。なにしろ、今日は大晦日だからなァー。多分姫路の市中を歩いて、どこかの野ッ原で休養でもさせて呉れるに違いないぞ、と初年兵同士で囁き合った期待は無残にも打ち砕かれた。市の郊外を流れる市川の川原で中隊長は、おごそかに初年兵に向つて命令を下した。 「今年の垢の洗い納めだ。初年兵は全員素ッ裸(勿論、フンドシも脱いで)になつて、川に飛び込めッ」。軍隊に於いては、命令は直ちに実行されなければならない。平素は衣服に覆われて温かい所で、ダラーッとしている大切な袋は、こんな時、急に小さく、カチカチになるものだ、ということを、この時はじめて知つた。 丁度、ぐにやッとした生牡蠣がどて焼きなべに入れたら、急に小さく固くなるように。 (八)石ッころの多い市川の川原は、連隊砲の初年兵には恰好の演習場であつた。 激しい演習のあとの小休止の時など、上りのSLが鉄橋の上を、汽笛をならしながら通過してゆくのを見ると、漫ろ、郷愁にかられ、何とも言えずうら悲しい。 あれに乗れば、神戸に帰れるのになァー。しごかれ、いびられ、なぐられッぱなしのこんな生活からのがれて、早く娑婆に帰りたいなァー。 当時、こんな唄もあつた。 「私のラバサン福知山 二十連隊 籠の鳥」 (九)冬の初年兵たちの手は、霜焼けやあかぎれで、見るも痛ましい。 市川の川原で連隊砲の陣地進入の演習をしていた時のことだ。 石ッころ等でゴロゴロの川原では、砲がスムーズに進入しない。教官に教えられた通り、スポークを握って砲の車輪を操つた。然し、寒さでかじかんだ私の霜焼の左手は、うまく操れずにスポークから手をはなした途端、砲架のどこかにふれ、人差指のつけ根部分が裂けて鮮血が滴り落ちた。自分の血を見てびつくりしたのと、痛さのため、私は思はず持場をはなれ、陣地進入は見事に失敗した。 こんな時、班長殿は決して許してくれなかつた。陣地進入の際使用する標管(直径二糎位の鉄パイプ)で、肩を一撃された。 正直な所、鎖骨が折れたのではないかとおもつたが、幸い何ともなかつた。 悔しくて涙がでそうになつたことを、今でもよく憶えている。これが韓非子[5]の非情というものか。 (十)初年兵にとつては、銃の手入れ、靴の手入れ(靴の裏底までも)も、重要な日課の一つである。 目の廻るようなあわただしい軍隊生活も、丸一ヶ月が過ぎた。その間、戦局の推移等については、初年兵には何一つ判然としない。ただ、皇国の不敗を信じて、日夜軍務に励んでいるだけである。それでは、どんな軍務か。上官になぐられ、朝から晩まで連隊砲の陣地進入、分解搬送、それから旺盛な食慾との不屈の戦い、意地悪い古年兵による内務班での諸々のしごきに耐えること等々の軍務である。 昭和十九年一月元旦、娑婆ならば楽しい正月である。 正月のこととてひる間の演習は、少しは楽であつた。夕食の後、銃の手入れもした。暫くして、わが班長殿は、一杯機嫌もあつて、珍しく笑を浮かべながら言つた。 「おーい初年兵。編上靴を見せてみろ」 あッ、しまつた。まさか正月までは、と思つて私は靴の手入れをしていなかつた。今更どうにもならないので、私は覚悟をきめた。しかしその日の制裁は、ビンタよりも、もつと屈辱的なものであつた。 私は、同罪のもう一人の戦友と共に、左右の編上靴の紐を結び連ねて、夫々の自分の首から靴を左右にぶらさげて、中隊の一斑から七班までの内務班を、大声を張り上げて廻つた。 「村上二等兵は、正月早々からたるんで、編上靴の手入れを忘れて、班長殿から注意をうけましたッ。」 退屈で身をもて余し、野里(当時の姫路の遊郭のあつた街)の女の事をひそひそと話しこんで、正月の酒を喰つてごきげんの古年兵殿にとつては、この上ない肴が飛び込んできたわけだ。 「声が小さいッ。大声で、もう一度はじめから、やり直せッ」。 「ハイッ。もう一度、はじめからやり直しますッ。村上二等兵は・・・・・・ッ。」 又、別の班では、自分の首にぶらさげた編上靴を、頭より高く両手に押し戴いて、遂に、こんなことまで大声で叫ばざるを得ないようになつた。 - [「太陽系遺産」を勝手に認定する](http://hiroono.com/ja/2016/07/18/solar-system-heritage-jp/) - 国立西洋美術館が世界遺産に認定されたというニュースがありました。日本人として嬉しいと思う一方で、何だか世界遺産が増えすぎてありがたみが薄れた、という声も聞きます。 日本では20件目だそうですが、世界には1000件強あるそうです。そういえば世界遺産の陰に隠れて、最近では日本が指定する「天然記念物」の存在感が薄れているような気がしますが、そちらも1000件ほどあるそうです。そのすべてにそれぞれの価値があるのはもちろんなのですが、しかし近年登録された史跡たちが、ピラミッドやポンペイやモヘンジョダロと同列に並ぶかと言われれば、首をかしげる人も少なくないのではないのでしょうか。 とはいえ減らすわけにもいきません。おらが村の史跡も是非世界遺産に、という人たちの純粋な願いに耳を傾けないわけにもいきません。 ならば、世界遺産の上位概念を作ってしまえばいい、と思うのです。名付けて「太陽系遺産」です!! 太陽系遺産は、このブログ記事において、小野が勝手に選びます。10分しかかけていない記事なので、セレクションはだいぶ雑です。漏れも多いです。提案のある方は是非コメントを! 文化遺産 地球 (メソポタミアと黄河文明の史跡について疎いので誰か推薦を!) (メソピタミア枠) ピラミッド モヘンジョダロ (黄河枠) 甲子園球場 太陽の塔 月 静かの海 アポロ11号降下ステージ 火星 クリュセ平原 バイキング1号探査機 小惑星イトカワ ミューゼスの海 はやぶさが残したターゲットマーカー 土星系 タイタン ホイヘンス探査機 自然遺産 地球 エベレスト イグアスの滝 グリーンランドAkilia島(もっとも古い生命の証拠(と思しきもの)の産出) 火星 オリンポス山(太陽系最高峰) マリナー渓谷(太陽系でもっとも深い谷) Recurring slope lineae群 木星系 イオの火山群 エウロパの地下の海 土星系 タイタンの湖・川 エンセラドスの地下の海 宣言した通り、相当に雑なセレクションです(笑)ご意見お待ちしております! - [To Build a Brick Wall: My First Six Months at MIT as an International Student](http://hiroono.com/en/2016/06/18/to-build-a-brick-wall/) - These days, on every college campus in the US, you will find an army of Asian international students whose English is so poor that you can hardly communicate with them. Or perhaps, you would not have a chance to communicate with them anyway, since they always hang out with friends in the same ethnic - [Call Me Misaki](http://hiroono.com/en/2016/03/20/call-me-misaki/) - We have known the name of the newborn princess since about five years ago. I do not remember when it was exactly. It was between the wedding and the honeymoon, so somewhere in March or April. I was a PhD student at MIT, living in a messy three-bedroom apartment facing Charles River, shared with two - [なぜ基礎研究に「血税」を使うのか?](http://hiroono.com/ja/2016/05/20/public-investment-in-basic-research/) - 毎年、世界で約100万本の学術論文が世に出る。研究費の大部分を出しているのは、日本ならJST (科学技術振興機構)、アメリカならNSF, NASAや軍といった、国営機関である。その元手は、もちろん国民の「血税」だ。JSTの年間予算は1200億円、NSFは70億ドル(約8000億円)である。 100万本の論文のうち、いったい何%が未来にインパクトを与える研究か。おそらく、0.1%もないだろう。残りの論文は、ほとんど読まれることなく忘れられる。 税金の無駄、そんな批判が聞こえてくる理由も分からなくもない。国が予算を削るときに基礎研究が真っ先にターゲットになるものわかる。 だが、ごくごく稀に、世の中を根底から覆すような論文が出てくることがある。 1998年に”The Anatomy of a Large-Scale Hypertextual Web Search Engine”という学会論文が発表された。現在までに約1万5千回も引用されているこの有名な論文の著者は、二人のスタンフォード大学の博士学生だった。名をセルゲイ・ブリンとラリー・ページといった。 どこかで聞いた名前ではなかろうか? そう、かの誰もが知るIT企業の創業者だ。 そしてこの論文で発表された検索アルゴリズムの名こそが、「Google」だったのである。 彼らの研究に研究費を出したのは、NSF、軍 (DARPA) と、NASAだった。Googleは、税金を使った研究から始まったのである。 例えるなら、基礎研究とは果物の品種改良のようなものである。何千、何万もの株をランダムに交配してひとつひとつ味見する。ほとんどは失敗作である。だがごく稀に、今まで味わったことのない美味な実がなる株ができる。それが新たな品種となる。 イノベーションの最上流に位置する基礎研究において、大当たりが出る確率は宝くじのようなものだ 。研究者がバカだからではない。世界最高の頭脳をもってしても、10年後、100年後に世の中を変える技術を予測することは極めて困難だからだ。「iモード」に夢中だった15年前の携帯ユーザーの誰が現在のスマートフォンの時代を予想できたか?宇宙といえばNASAやJAXAだった10年前に、誰が現在のSpaceXの躍進を予想できたか? だから、「何の役に立つかわからない研究に国民の血税を使うなんて」という批判は、少なくとも科学技術においては完全に的外れである。 役に立つことがわかっていて、費用対効果や収益が望める技術なら、民間がやればいい。民間ができることに税金を使うことこそ、最大の無駄である。 民間にできないことをするのが、国の役割なのだ。 一万の株を試す根気がなければ、決して美味な果実は得られないだろう。 無知な批判に屈して基礎研究への投資を渋る国からは、未来のGoogleやSpaceXは生まれないだろう。 国の役割とは、民間には取れないリスクを取ることなのである。 (この記事は、NewsPicksに寄稿した記事「民間宇宙開発の時代における、NASAやJAXAの役割とは?」のために書いたものの、字数の関係で削除した部分を掲載したものです。) - [昨晩のNASA重大発表の解説:1284個の系外惑星が一度に「発見」される!](http://hiroono.com/ja/2016/05/10/nasa-announcement/) - 数日前にNASAが重大発表をすると予告して以来、「ついにエイリアンが見つかったか!?」などと憶測が飛び交っていました。 昨晩に明かされた「重大発表」の内容。残念ながらエイリアンではありませんでしたし、僕が予想した地球外生命体の存在の間接的証拠の発見でもありませんでした。では、いったいどんな発見だったのかというと… 一気に1284個の系外惑星が 「発見」された! というものでした。(原文はこちら。)どうして発見がカッコつきなのかは、後ほど解説します。 系外惑星とは、太陽以外の恒星を回る惑星のこと。太陽から最も近い恒星でも4.22光年、地球から太陽までの距離の約27万倍です。この遠さゆえ、系外惑星の検出は困難を極めるのです。 これがどれほどすごい発見なのか。このグラフを見てください。年別の、発見された系外惑星の個数です。 ご覧の通り、2016の棒が突き抜けています。オレンジの部分が今回の発見。今まで確認されていた系外惑星は約2000個。それが一気に3000以上に増えた、というのが今回の発表の内容です。 ただし、この「発見」には少々のからくりがあります。 もう一度、上のグラフを見てください。2014年の棒も突き抜けていますよね。なぜかというと、「ケプラー宇宙望遠鏡」という、系外惑星探査に特化した宇宙望遠鏡がザクザクと惑星を発見したからです。 実は、正確に言うと、ケプラー宇宙望遠鏡だけでは惑星は「発見」出来ません。ケプラーがするのは、候補を見つけるところまで。星をまばたきせずにじーっと見続けていると、惑星が恒星の手前を通る時に一時的に星の明るさが暗くなることがあります。(遮蔽、と言います。)そのような一時的な減光がケプラーによって観測されると、新惑星の「候補」になるわけです。 しかし、候補の中にはニセモノも紛れています。例えば、連星系(二つの恒星がお互いの周りを回っている系)で暗い方の星が明るい方の星の手前を通ると、惑星による遮蔽と似た減光が観測されます。 そのため、今までは、ケプラーで見つかった候補を、地上の巨大望遠鏡で観測して、本物の惑星か、ニセモノかを判断するのです。 ケプラーは現在までに7056個の候補を見つけました。その中の1000個程度が、今までにこの方法で惑星と確認されたのです。 しかし、7056個の候補の全てをひとつひとつしらみつぶしに巨大望遠鏡で観測するのは時間もコストもかかります。しかも、ケプラーで見つかった候補には暗い星も多く、巨大望遠鏡を使っても正確に判断できない場合もありました。 そこで今回の発表の主役である Timothy Mortonさんたちのグループは、巨大望遠鏡の観測に頼らずとも惑星を確認できる方法を開発しました。 具体的には、ケプラーが観測した減光のデータそのものを使います。もしこれが実際に惑星だった場合に予想される減光の時間変化とデータを比較し、これが本当に惑星である確率を求めます。 そして、これが本物の惑星である確率が99%以上ならば、それを「惑星」としてカウントしたのです。 そうして「発見」されたのが、今回の1284個、というわけです。 同時に、428のニセモノらしきものも「発見」されました。 Pythonというプログラム言語で書かれたこのソフトウェアは公開されていて、他の天文学者も自由に使えるとのこと。天文学もオープン・イノベーションの時代です。 今回の発見で特筆すべきは、そのうち9個がハビタブルゾーン(地球のような生命が生存可能な領域)にある、地球サイズの星であったことです。地球のような惑星は宇宙に非常にありふれている、という現在までの観測結果が、今回の発見でますます確かになった、と言えるでしょう。 ケプラーで見つかったハビタブルな惑星の数を外挿すると、銀河系には数百億個ものハビタブルな惑星があることになります。さらに宇宙には1700億もの銀河があると言われています。地球外生命やエイリアンが、そのどこにもいないと考える方が、不自然だと思いませんか? 残念ながら今回の発見は地球外生命でもエイリアンでもありませんでした。でもいつか、きっと僕が生きている間に、そんなビッグニュースがもたらされると僕は信じています!! - [「自粛」についての経済学的考察](http://hiroono.com/ja/2016/04/18/jishuku/) - 世の中では「自粛」についての議論があつく交わされていますが、是か非かの二者択一じゃなくて、こういうことだと僕は思うのです: 避難して気が滅入っている時こそ、楽しいバラエティー番組などを見て気分を晴らしたいというのはまさにその通りです。自粛したって誰も救われない、というのもその通り。 でも、やはり大多数の人が気分を害するものもあるでしょう。たとえば地震映画「カリフォルニア・ダウン」の放送が予定されていたら、それは自粛されてしかるべきです。今では地上波で見ることがすっかり稀になりましたが、最新の情報が欲しくてテレビをつけた瞬間に野球拳大会をやっていたら、さすがにイラっとくる方も多いのではないでしょうか。最低限のデリカシーというものは、やはり必要なように思います。 そこで上のグラフのように、二本の曲線を描いてみました。横軸が番組のおふざけ度合い。もしふざけ度合いというのが適切な評価軸ではないと感じられたら、「番組のデリカシーのなさ」とでも置き換えてください。二本の曲線は、その番組を見て楽しむ人と、不快に思う人の数を示しています。 当たり障りのない漫才くらいでしたら、それを楽しむ人の方が、不快に思う人よりも断然に多いでしょう。でもデリカシーのない番組だと、楽しむ人よりも不快に思う人の方が多くなるかもしれません。 もしテレビ局が被災者の利益を最大化するように行動するならば、それはどのような行動でしょうか。簡単のため、効用関数を(楽しむ人の総数 − 不快に思う人の総数)と仮定しましょう。すると、二つの曲線の交点より右にある番組のみ自粛するのが、被災者のことを考えた最適な行動になります。 一方、もしテレビ局が、批判にあうリスクを最小化して保身するために行動するならば、どのような行動が最適でしょうか。当然、不快に思う人が一人でもいる番組をすべて自粛する行動になります。 もちろんこれは非常に単純化されたモデルですが、テレビ局がどのような行動を取るかで、誰の利益を最大化するために行動しているのか(つまり、効用関数は何か)がある程度わかる、と言えると思います。 (ちなみにどうして宇宙工学者が経済学なんて語るのか、と憤っておられる方へ。経済学も、僕の専門の人工知能も、多くの部分を数理的最適化に依っています。それを用いて人間の行動を解析するのが経済学、ロボットの行動を最適化するのが人工知能です。そんなわけで、僕のPhDの副専攻も経済学でした。) - [レンガを積むが如く~僕のMITでの最初の半年](http://hiroono.com/ja/2010/03/16/renga/) - アメリカの大学院の合格発表、そしてOpen Houseの季節がやってきた。学生が世界中からやって来るアメリカの大学では、掲示板に合格者の受験番号を貼り出すようなことはもちろんせず、Eメールで合格通知が来る。留学の相談に乗っていた後輩の何人かも合格通知を受け取ったそうで、嬉しい限りだ。 合格通知を受け取った人は、Open House(オープンハウス)というイベントに招待される。研究室を見て回り、指導教官を探し、九月から同級生となる仲間たちと知り合うためのイベントだ。おおよそどの学科もこの数週間の内にOpen Houseを催す。だから今は、キャンパスが新入生で溢れている。 その中に、ちらほらと日本人が混じっている。彼らの多くは、新しい環境への不安、言葉が通じないもどかしさ、仲間に溶け込めない寂しさで、すこし小さくなって、おどおどと歩いている。まさに五年前の僕自身を見ているようだ。 僕が「留学交流」という雑誌の2009年12月号に寄稿した文章を、発行者のご厚意で以下に転載させていただく。きっとこれから辛い思い、寂しい思いをするだろう新留学生の皆さんが、それを克服して実りある留学にするための一助となることを願う。 --- 「レンガを積むが如く」 (株)時評社発行 月刊『留学交流』2009年12月号より 迷いと決断 宇宙工学への情熱に駆られ、勢いに任せてマサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院へ願書を出し、幸運にも合格通知を貰ったのが、今から五年前、僕が大学四年生だった年の二月だった。しかし「合格」とはいえども、ファンディング(学資補助)無しの中途半端な合格だった。 アメリカでは、工学、理学、経済学などの研究を主目的とする課程に在籍する大学院生は、fellowship (大学が給付する返還義務の無い奨学金)、RA(Research Assistantship)、TA(Teaching Assistantship)などの形で学費を免除され、生活費も月々の給料でカバーされるのが一般的である。学資の工面をする必要なしに、最高の環境で研究をし学位を取れるとなれば、世界中から優秀な学生がアメリカへ集まって来るのも当然である。 しかし、僕がMITから貰った「合格」には、いかなるファンディングも付いていなかった。つまり「学費と生活費を合わせて年間600万円近いお金を自腹で払うなら来てもいいよ」という、冷淡な合格通知だったのである。とても何年間も払い続けられる金額ではない。 だが、まだ望みはあった。RAを現地調達するという方法である。 RAの仕組みを手短に説明したい。アメリカの大学の研究室は、それぞれが独立したベンチャー企業のように運営されている。研究室は、企業、政府、軍などとスポンサー契約を結び、研究費を得る。教授はそのお金を使って大学院生を雇い、学費と給料を払う。それがRAである。評価が悪い大学院生は首を切られることもあるし、研究室も結果を出せなければスポンサー契約を打ち切られる。学生や研究室が常に競争に晒される健全な市場原理が働いており、それがアメリカの大学における研究の活力の源となっている。 教授たちは一年中、常に新しいスポンサーを探している。そして研究費が舞い込めば、年度の初めでなくとも新たに学生を雇い入れる。採用は教授が学生を個別に面接して決める。だからファンディングにあぶれた学生たちは、巡礼者のようにあちらこちらの教授を訪ね歩いては、空いているRAのポジションはないかと「就職活動」をするのである。 ファンディングの無い僕も、とりあえずは自腹で学費を払ってMITへ入学し、「就職活動」をしてRAを現地調達するという道が残されていた。リスクは大きいが、決して不可能な道ではない。そして有難いことに、両親が一年までなら学費をサポートしてくれると言ってくれた。親には一生、頭が上がらない。 一方で、僕は日本の大学院にも合格していた。間違いなくこちらの方がリスクの少ない選択肢である。周囲の多くの人も日本に残ることを僕に勧めた。しかし僕はせっかく手にしたMITの合格通知を破り捨てるのが惜しくてならなかった。僕は迷った。 合格通知を受け取った翌月の三月、MITのopen house(新入生向け説明会)に参加するため、僕は雪が深々と残るボストンへ飛んだ。決心をする前に自分の目でMITを見ておきたかったのだ。その機会に、MITに既に留学していた高校時代の友人と会った。久しぶりだな、アメリカで余計に太ったんじゃないか、そんな会話の後、彼に状況を説明し、安全を取って日本に残るべきか、リスクを取って留学に挑戦するべきか、相談した。すると彼は一言、不遜にこう言った。 「自信があるなら、来てみれば。」 その挑戦的な言葉に、僕の反骨心はナイーブに反応した。口では「そうだね、考えてみるよ」などと平穏な返事をしたが、心は(ナンダ、コノヤロー)と叫んでいた。 事実、当時の僕には自信があった。高校でも大学でも成績は上位だったし、英語も、留学準備のために勉強していたから、周りの日本人たちには負ける気がしなかった。交友関係にも苦労せず、大学のイベントやサークルでは何かとリーダー役を買って出ていた。アメリカでも同じようにやれるという自信があった。 僕はMITへ行くことを決心した。親が学費を払ってくれる一年間が、RAを見つけてMITに残るためのタイムリミットだった。 アメリカへ 八月の終わり、僕は再びボストンにやって来た。空港に着いたのは夜十一時過ぎで、熱帯夜が続く東京と比べると随分と肌寒かった。両手に持った二つの大きなスーツケースには生活用品がぎっしりと詰め込まれていて、僕の胸は自信でぱんぱんに膨らんでいた。タクシーに乗り込み、行き先を問われ、「MIT」と答えるのが誇らしかった。 しかし、その日から半年の間に僕が経験したのは、風船から空気が抜けるように、自信がみるみる消え去っていく過程だった。 最初の壁は授業だった。最初の学期に取った四つの授業のうちひとつは、チームに分かれて人工衛星を設計するというプロジェクト・ベースのものだった。毎週の課題は全てチーム作業で、四人のメンバーが集まってディスカッションをし、それを元にレポートを書く。こんな時、日本では、僕はいつもチームをリードする立場にいた。しかしMITではそうは行かなかった。日本の学生は概して主張が弱い人が多いが、欧米の学生たちは本当によく喋り、よく主張する。そこへ僕が拙い英語で意見を述べても、なかなか他のメンバーは真剣に聞いてくれない。彼らは僕のたどたどしい英語に痺れを切らし、僕が喋り終わっていないのに割って入って、他の事を議論し出すこともしばしばだった。彼らの主張に誤りを見つけ、違う、それはこうなんだと一生懸命に説明しても、理解されていないのか、白けた目で見返されて終わることもあった。そうかといって黙っていれば、僕がそこにいないかのように議論が進んでゆき、意見を求められることも殆どなかった。リーダーシップを取るどころか、メンバーから信用すらされない。僕の自尊心は深く傷ついた。 交友関係でも苦労した。特に辛かったのが飲み会だ。授業とは違って崩れた英語が話される上に、周囲が騒がしいこともあって、なかなか会話を聞き取れない。誰かが楽しげにジョークを言い、周りの皆が腹を抱えて笑う中、僕一人それを理解できずにいた。オチを聞き返して白けた目で見返されるのが怖く、かといって一人だけムスッとしていると余計に仲間に入れないから、分かったフリをして作り笑いをした。そんなことを繰り返す自分が嫌でたまらなかった。気が滅入ると余計に口から言葉が出なくなり、眼前を左右に飛び交う会話に入ることが出来ず、ただ黙って座っている時間はとても長く感じた。手持ち無沙汰なせいでビールの減りが早く、楽しくもないのに酔いだけが回った。そんな飲み会のあと、寮の自室に帰って、僕はとても惨めな気持ちだった。やがて飲み会の誘いにも気が進まなくなり、忙しいからなどと適当な理由をつけて逃げることもしばしばだった。 現地調達するつもりでいたRAもなかなか見つからなかった。アポ取りのメールに返事すらくれない教授もいた。たとえ会ってくれても、「空いているRAのポジションは無い」と追い返されるのが常だった。その度に、「本当に無いから『無い』と言っているのだろうか、それとも追い払うための口実だろうか」などと疑心暗鬼になる自分がいた。そうこうしているうちに雪が降る季節になり、一年のタイムリミットも気になりだした。 胸にぱんぱんに詰め込んできた自信は、こうしていとも簡単に失われた。 余裕など一切無くなった僕は、朝から晩まで、文字通り死ぬほど勉強した。負けん気が強かったといえば聞こえが良かろうが、それよりも、自信満々で日本を出てきた手前、このままでは帰れないという、追い詰められた気持ちのほうが大きかったように思う。 ディスカッションでは勝ち目がないと悟った僕は、代わりに自分一人で出来ることに力を注いだ。人工衛星設計の授業のチーム・プロジェクトでは、ミーティングで方針を話し合った後、各々に仕事を割り振って、調査、研究、レポートの執筆を行う。僕はミーティングで自分の主張が通らないことは黙って我慢し、寮に帰った後、自分に割り振られた分の仕事を必死で頑張った。喋って自分を主張する代わりに、成果で以ってアピールし、チームメイトや教授に認めてもらおうと思ったのだ。 RA探しも、なりふり構わず、泥臭く立ち回った。格好だの自尊心だのを気にしている場合ではなかった。人工衛星設計の授業を教えている教授が、僕が付きたいと思っていた教授の一人だったのだが、彼の授業中、たとえ既に僕が知っていることでも、知らないフリをして手を挙げて質問した。そうすることで教授に存在感をアピールし、名前を覚えてもらい、そして「この生徒は鋭い質問をするな」と思わせるためだった。その教授にもRAは無いと一度は断られていたのだが、ならばお金はいらないから研究室で働かせてくれと食い下がり、研究課題をもらった。それで結果を出せば、次にRAのポジションが空いた時に、きっと自分に回ってくるだろうという魂胆だった。 そんな精神が磨り減るような努力が初めて報われたと思った瞬間を、今でも鮮明に覚えている。人工衛星設計の授業で提出したレポートの、僕が書いたセクションに、教授がこんなコメントを付けてくれたのだ。”Despite the grammatical and spelling problems, this section is technically excellent.” (文法やスペルに問題があるが、このセクションの技術的内容は素晴らしい。) もっともこれは、毎週提出するレポートに何十と付けられるコメントのひとつに過ぎない、ほんの些細な事である。それでもMITに来て以来、話しても相手にされず、RAも見つからず、自信を喪失する一方だった僕にとって、初めてMITの教授が、しかも僕が付きたいと思っていた教授が、僕を認めてくれた瞬間だったのだ。夜中に寮の部屋で一人、Eメールで送られてきたそのコメントを読んで、僕は飛び上がらんばかりに嬉しかった。 それ以後、少しずつ、歯車が回りだしていくのを感じた。教室で一人の友人ができた。彼は宿題の分からない箇所をいつも僕に聞きに来た。僕を、授業の内容を理解している奴だと認めてくれたのが嬉しかった。逆に彼は、僕が書いた間違いだらけの英文の添削をいつも快く引き受けてくれた。また、腹の底から笑いながら楽しく酒を飲める日本人以外の仲間を初めて見つけた。彼らの殆どは同じ寮に住むヨーロッパやアジアからの留学生だった。多かれ少なかれ、同じような留学の辛さ、寂しさを経験した者同士だったから、仲良くなり易かったのだろう。 そして、MITに来て半年後、チャールズ川が凍り付く厳冬の二月に、僕は遂にRAを手にした。例の人工衛星設計の授業を教えていた教授ではなかったのだが、彼が似た研究をしている別の教授に僕を推薦してくれたのだ。全ての苦労が報われたと思った。喜んで親に報告した。僕はその先も、MITに残れることが決まった。 留学の価値 - [【MITの就活】日本の就活にひそむダークサイド~情報サイトより、自分の心の声を聞け!](http://hiroono.com/ja/2016/03/22/mit-job-hunting/) - 人生というのは、どのくらい無我夢中の時間を過ごせるか、で決まると思う-大島渚 「東大・早慶の就活」という特集がNewsPicksで組まれていますが、うーん、単刀直入に言って、どうも視野の狭い記事が多いなぁ、と感じます。まず、対象がとても限られた業種(総合商社、コンサル、金融、広告など)に偏っている。そのような業種から内定を勝ち取った学生が、「内定王」やら「特A層」などと野暮ったい肩書きを付けられて、就活戦線の攻略法などを語らされています。 いや、そりゃあ商社マンもコンサルタントももちろんやり甲斐があってカッコいい仕事でしょう。それに何の異論もありません。でも、やり甲斐があってカッコいい仕事は他にもいくらだってあります。とりわけ、日本は苟も科学技術立国を名乗っているのだから、もし技術者や科学者や研究者がどれだけやり甲斐があってカッコいい仕事なのかが学生さんたちに伝わっていないなら、それはとても寂しいことだなあ、と思うのです。 でも人様が書いた記事をネチネチと批判しても何も始まりません。NewsPicks が僕をインタビューしてくれる気配も残念ながらありません。ならば自分で書いちゃえ!と思い立ったわけであります。 実は僕にも迷いの時期がありました。MITの博士課程にいた間の一時期なのですが、その頃はコンサルや金融に就職活動をしていました。だから、そのような業種に惹かれる学生さんたちの気持ちもよく分かる。その後、ある魂を揺さぶられる経験をしたのがきっかけで、一度きりの人生なんだから、誰が何と言おうと自分の夢を追うべきだと思い直し、今に至ります。 そんなわけで自作自演インタビュー!僕の記憶の中から、迷いのドツボにいた2010 年の自分を呼び出して、今の自分をインタビューしてもらうことにしましょう!2010年、まだ27歳のピチピチの自分よ、出てこ〜い!! NASAの就活、技術者のお仕事 小野(2016): やあ、久しぶり。 小野(2010): おいおい、急に何だよ。「暗黒時代」の自分は封印したんじゃなかったのかよ。 小野(2016): それに向き合う心の準備ができたってことさ。ま、「暗黒時代」の話はあとでゆっくりしよう。まずはインタビューだ。 小野(2010): 面倒くせー。じゃあ、今は何の仕事をやってんのよ? 小野(2016): NASAジェット推進研究所(JPL)で技術者をやっているよ。覚えているだろう、7歳の頃にボイジャーの海王星フライバイのニュースを見て衝撃を受けて以来、憧れていた場所だよ。今はMars 2020という次世代火星ローバーのプロジェクトに入っていて、探査候補地点の解析なんかをやってるよ。それと、火星ローバーの自動運転アルゴリズムの開発をしたり、未来の宇宙探査機の人工知能の研究をしたりしている。毎日朝から晩まで、自分が好きな宇宙のことばかり考えて生きているよ。 もちろん日々の仕事は、プログラムを書いたり、シミュレーションを回したり、地味で地道な作業が多いさ。でもいつか自分のやった仕事が実を結んで、火星から大発見をもたらすことに貢献する日のことを思うと心が踊る。 宇宙に限らず、技術者や研究者って、本当にやり甲斐のある仕事だと思うな。未来を現実にする仕事なんだから。イノベーションなんて言葉が流行っているけど、大元はすべて、カリスマ経営者でもエンジェル投資家でも凄腕コンサルタントでもなく、技術者や研究者の頭と手から生まれたものなんだ。 小野(2010): ふーん。まぁいろいろ突っ込みたいけど後にしよう。で、どうやって就職したの? 小野(2016): きっかけはインターンだったね。アメリカのインターンは2、3ヶ月の期間があって、給料も月に3千ドル(33万円)とか出る。プロジェクトの実働戦力として扱われるんだ。MITの博士課程が終わる頃、幸運にもインターンの機会をもらえたんで、9週間死ぬほど頑張って結果を出して、認められたんだ。 小野(2010): 今の待遇はどうなのよ? 小野(2016): 単刀直入に聞くなぁ…。年俸制で、だいたい年13万ドルだから、1500万円弱かな?アメリカは税金が高いし、家賃も子供の教育費も日本より桁違いに高いから、日本での年収1500万円と比べると、全然リッチな感じはないけどね… 小野(2010): それってアメリカの技術者にとっては普通の待遇なの? 小野(2016): アメリカのトップ大学の博士卒だと、技術職の初任給は少なくとも10万ドル(1100万円)くらいはあると思うよ。シリコンバレーだと20万ドルもらう人も珍しくないんじゃないかな。とにかく、アメリカでは技術者にもコンサルや金融と張り合うくらいの給料が出る。そうじゃなきゃ、良い人材が流れちゃうからね。 小野(2010): 博士号を持っていると待遇が上がるんだね。日本ではむしろ、博士卒は専門性が高すぎて育成しづらい、なんて言われるよね。 小野(2016): アメリカの企業は自前で新卒を育成しないからね。即戦力採用なんだ。JPLも研修は1日だけで、2日目からプロジェクトに投入されたよ。だから、博士卒は既に知識やスキルがある分、評価されるんだよ。 小野(2010): だから採用面接での評価ポイントも、大学での授業や研究が主なんだね。 小野(2016): そう。逆にサークルのキャプテンをやっても何も評価されない。だからこそアメリカの学生は大学の授業や研究を必死に頑張る、という面はあるよね。それによって大学教育の効果も高まるから人材が育つ。良い循環が回っていると思うよ。 「人気企業ランキング」に潜むダークサイド 小野(2010): 早く「暗黒時代」の話をしようぜ。何のために俺を呼び出したんだよ。 小野(2016): まあ急ぐな。その前に、俺が22歳でMITに留学した時のことを思い出そう。もちろん宇宙への夢が渡米の第一の理由だった。だけどそれだけじゃなかっただろう。 小野(2010): ああ…日本で型にはまった就活をするのが嫌だったな。だってさ、金髪にしたり、奇抜な服装をして「自分らしさ」をアピールしていた友達がさ、揃いも揃って型にはめられて、黒髪に黒いスーツを着てんだぜ。そうやって頑張っている友達のことを悪く言うつもりはないよ。でも自分もそうやって社会に埋没していくのは嫌だ、って本能的に思った。 小野(2016): そうだよな。俺は純粋に、この一度きりの人生を最高に面白い人生にしたかった。日本の就職活動というシステムの枠の中では 、「いかに生きるか」という自由記述式の問いが、「どの会社を選ぶか」という記号選択式の問いに置き換えられてしまっている。もちろん、選択肢の中にベストな答えがあればそれでいいさ。でも無いならば、枠からはみ出すしかない。俺の夢はエントリーシートの四角い欄に収まらないほどにでっかいんだ、なんて、生意気なことを考えていたよな。 小野(2010): まあでも現実にはさ、みんなが留学や起業できるわけじゃないし、生きていくための金も必要だし、ある会社のリストから選ぶのは仕方ないんじゃないの? 小野(2016): たとえそうだとしてもだよ。どうして日本の就活生って、あんなにランキングを気にするんだろう?たとえば「人気企業ランキング」とかって、あれ何の意味があるんだ?どうして自分が行きたい会社を選ぶときに、他人が行きたい会社を参考にするんだろう?オリコン1位でも自分の趣味に合わない音楽なんて聴きたくないだろ。ましてや自分の人生だぜ。どこが人気あるとか、どこが安定だとか、どこがブラックだとかホワイトだとか、どこが合コンで人気だとか、そんなことより前に、「なにが自分の人生をかけた夢なのか」が、まずあるべき問いだよね。 - [私は美咲](http://hiroono.com/ja/2016/03/20/misaki/) - 名前はもう、生まれる5年前ほど前から決まっていた。正確にいつだったかは覚えていない。結婚してすぐの頃だったと思う。僕はまだボストンで学生をしていて、男三人で大学の近くの散らかし放題のアパートをシェアして住んでいた。妻のエリコは2キロほど離れた学生寮にいた。日本では桜が咲く季節なのにボストンではまだ雪が残っていて、僕たちはブクブクに着込んで自転車をこぎ、毎晩お互いの部屋を行き来していた。 その晩、ベッドに二人で入り、寝る前に寝るのが惜しくて色々な話をしていた。その中で子供の名前の話になった。男の子の名前は既にあった。僕が結婚前から温めていていたもので、エリコもそれを気に入っていた。でも女の子の名前はなかった。 「君がエリコだからエリカは?」 「沢尻じゃん。」 「ユウコは?」 「オノヨーコに間違えられるから嫌。」 「じゃあコマチ?」 「はいはい。」 そんな問答がしばらく続いたのち、エリコがふいに言った。 「ミサキって、どうかな…?」 ミサキか。美咲。人生を美しく咲かせる子。 「美咲…うん、いい名前じゃん。」 それで、決まった。妙にストンと腑に落ちた。僕も妻も、他にもっと候補をあげて比較しようなんて言わなかった。どんな顔で生まれてくるか分からないし、何一つ根拠もないのに、これが僕の娘の名前なんだという直感が腹の底から沸いた。妻も同じだったと思う。 名前が決まってしまうと、なんだか「美咲」という名の人格が既に存在するような気がした。現在は影も形もなくて、未来に卵子と精子が気まぐれに結合して発生する個体に「美咲」という名前が与えられるのではない。馬鹿げた話に聞こえるかもしれないが、たとえば雲の上に赤ちゃんの国のようなものがあって、そこに「美咲」という名の子がもう既におり、僕たちのところに届けられるのを首を長くして待っている。そんな感覚だった。だから、僕たち夫婦は、「はやく子供が欲しいね」と言うのではなく、「はやくミーちゃんに会いたいね」と言うのが常だった。 --- 僕が NASAジェット推進所に転職してから暫くは、ロサンゼルスと東京の遠距離婚が続いた。昨年3月にエリコは長期休暇を取って渡米してきたが、その理由の第一はミーちゃんに会いたいからだった。 6月、梅雨のない南カリフォルニアのカラッと晴れた日の朝、妊娠検査薬に陽性が出た。僕たちは飛び上がって喜んだ。そして、どういう心境の変化か分からないが、妊娠が分かってから、エリコは子供の名前を決して家族以外の人に言わないように僕に強く念を押すようになった。 エリコの悪阻はひどかった。毎日吐いた。ひどい日は一日に何度も吐いた。一ヶ月で4キロも痩せた。脱水症状になり、二度も夜中に病院へ連れていった。食べられないものがどんどん増え、最後はわかめそばしか食べられなくなった。だから毎日わかめそばを食べた。ミーちゃんはさぞ髪の毛がフサフサだろうね、と僕がジョークを言っても、妻に笑う余裕はなかった。 この時期、なんとか妻の心を繋いだのは、アマゾンで30ドルで買った、ドップラー式の胎児の心音計だった。それを妻のお腹に当てると、トクトクトクと赤ちゃんの鼓動が聞こえた。泥水の中から美しい蓮の花が咲くように、悪阻の苦しみの中から新しい命が確かに花開こうとしていた。 地獄のような苦しみがどうにか収まった9月、超音波検診で医者が「女の子みたいですよ」と告げた。「ミーちゃんだ!」と僕たちは興奮して叫んだ。 晩秋になると果実が膨らむようにエリコのお腹が目に見えて膨らみ始め、年を越すと胎動が日増しに強くなっていった。足癖が悪い子で、膀胱をキックしてエリコをトイレに走らせるのが得意のいたずらだった。エリコが風呂に入る時、膨らんだお腹に向かって「ミーちゃん」と優しく呼びかける声が、バスルームから聞こえた。 ミーちゃんが生まれた日の朝は、透き通った桃色の朝焼けに飾られていた。今日もいつもと同じような南カリフォルニアの雲ひとつない青空になるはずだった。僕は陣痛が始まったエリコを車に乗せ、朝焼けの空をサイドミラーに映しながら、6車線ある高速道路を病院に向けて走った。病院に着いた時には星はすっかり空から追い払われ、白い月が西に傾いていた。病棟の東向きの窓に朝焼けが映っていた。 午後になると陣痛はどんどん強くなった。寝ているよりも歩くほうが子宮口が早く開くというので、僕たちは何度か病院の中庭へ散歩に出た。ロサンゼルスの2月はもう春半ばだ。暖かくからっとした好天で、中庭の円形の花壇には七色のパンジーが花を咲かせており、何人かの人がベンチに座ってお喋りをしたり、昼寝をしていたりしていた。僕は片手で点滴のスタンドを押し、片手でエリコの手を引いて、花壇の周りを、ゆっくり、ゆっくりと歩いた。 陣痛の波が来ると歩みを止め、花壇の縁に座ったり、建物の壁に両手を当てて前かがみになったりして、痛みが去るのを待った。回を重ねるごとに痛みは増した。呻きは叫びになり、額は汗に濡れ、涙がこぼれた。 痛みによってエリコは弱気になっていたのだろう。最も強い陣痛の波が来たとき、彼女は苦痛に顔を歪め、涙ながらにこんな言葉を吐いた。 「ミーちゃんに会いたいよぉ…」 まさかミーちゃんに会えないことを本気で心配していたわけではあるまい。「母子共に健康」があまりにも当たり前になって、ほとんど死語になった時代だ。 たぶんミーちゃんが、長く暗いトンネルの先に見える出口の光のような存在に思えたのだと思う。彼女にとって「ミーちゃん」という言葉は、もはや単なる名前以上の意味を持っていた。たとえばキリスト教徒にとってのイエスの名のように、それは、不安と苦痛の中にある彼女にとって全ての希望と幸福の表象となっていたのだ。その名がなければ、どうして彼女は悪阻や陣痛の苦しみを耐え抜くことができただろうか。 夜9時過ぎの診察で子宮口が9センチ開いたことが分かると、看護婦が大きなカートを部屋に運び込んできた。その上には青い清潔そうな布が敷かれ、様々形をした道具が整然と並んでいた。道具たちの銀色の表面が、なにか冷やっとする物を心に押し当てられたような気持ちにさせた。いよいよだ、と思った。 10時頃になると、若くて恰幅の良い女医と数人の看護婦がやってきて、にわかに部屋が賑やかになった。やがてモニターを見ていた黒人の看護婦が、陣痛の波に合わせて、エリコに「プッシュ!」と合図した。大きく息を吸ってぐっと腹に力を入れるなり、彼女は「痛い!痛い!痛い!」と金切り声をあげた。「無痛分娩」だったのに無痛からはほど遠かった。麻酔が弱かったのだろうか、それとも痛すぎて麻酔が効いていようと関係ないのだろうか。 「声を出すとプッシュが弱まるから、口を閉じて!息を止めて!もう一度プッシュ!プッシュ!」 看護婦が元気よく音頭を取った。ベッドサイドにいた僕も、音頭に合わせて息を大きく吸い、ぐっと息を止めてエリコと一緒にいきんだ。やがていきんだ時に膣口からミーちゃんの頭のてっぺんがのぞくようになった。いきむのを止めると頭は引っ込んだ。膣口が呼吸をしているようだった。それを繰り返すうち、少しずつ頭のてっぺんが近く、大きくなっていった。 痛みはどんどん増していくようだった。後から分かったことだが、産む時に膣が裂けてしまっていた。自らの力で自らの体を引き裂いたのだ。どこからそんな力が出てくるのだろう。いったいどれほどの痛みだったのだろうか。エリコの真一文字にくいしばった口からは苦痛の声が漏れた。顔は真っ赤に紅潮し、目玉が飛び出さんばかりに見開いた目からは涙が溢れた。まるで仁王像のような表情だったが、しかしそこに込められているものは怒りではなく、愛だった。この世でもっとも純粋な形の愛だった。だから彼女の表情は美しかった。愛するミーちゃんに会いたいというただその一念が、彼女をここまで美しく、そして強くさせたのだ。僕は小さな嫉妬を感じた。 「プッシュ!プッシュ!プッシュ!」 看護婦の声も興奮してきた。医者が膣に手を入れてミーちゃんの頭を引っ張った。最後にエリコが破裂してしまうほどのいきみを加えると、堤防が決壊するように、ふいにミーちゃんの体全体がズルリと流れ落ちた。その体はバラの花のように真っ赤な血に覆われていた。看護婦がそれを受け止め、手際良く体を拭き、鼻を吸い ―そしてミーちゃんが産声を上げた。看護婦はミーちゃんを裸のままエリコの胸の上に置いた。もう目が開いていて、お母さんの顔をしっかりと見た。 やっと会えた。ミーちゃんにやっと会えた!エリコはもう泣いていた。僕も泣いた。そしてミーちゃんの右目からも、一滴の水晶玉のように透き通った涙が流れ落ちた。 --- 「美咲って名前がぴったりの顔だと思わない?」 医師と看護師が引き上げ、落ち着きを取り戻した分娩室で、僕はエリコに抱かれるミーちゃんの顔をまじまじと見ながら言った。目の綺麗な子だった。生まれたばかりなのに両目がぱちりと大きく開いていた。黒目にも白目にも真珠のような瑞々しい艶があって、天井の灯りを反射して輝いていた。京菓子のように形の整った小さな鼻。薄い唇に縁取られたかわいらしい口。もちろん自分の子が可愛く見えるのは分かっている。それでも本音でこう思う。こんなに美しい赤ちゃんは見たことがない。 「うん、本当に美咲っていう名前がぴったりだね。」 エリコも言った。あの5年前の直感は正しかった。偶然ではない。きっとあの時から、この子が僕たちのところへやってくることが、宇宙のどこかで秘かに決められていたのだ。 美咲。その名前はきっとこれから多くの人に愛されることだろう。すでに病院の看護婦たちは「ミーちゃん」というニックネームを覚えて可愛がってくれた。僕やエリコの大勢の友人から祝福してもらった。すぐにミーちゃんは成長して学校でたくさんの友達に囲まれ、みんなから親しみを込めてその名を呼ばれるだろう。やがてミーちゃんの黒く美しい目に惚れた男たちは、その名を夜ごとに呪文のように唱えては、叶わぬ恋の苦しさに悶えることだろう。そしてミーちゃんの愛を手に入れた幸運な男は、その名を呼ぶたびに幸福と愛情で心が満たされるだろう。 ミーちゃんの、美しく咲き誇る人生が、今始まった。その旅路の中で、新たな人と出会うたび、彼女はその美しい目で微笑みながら挨拶をし、誇らしげにこう言うことだろう。 「私は美咲です。」 - [Will AI Revolutionize Space Exploration?](http://hiroono.com/en/2016/03/15/will-ai-revolutionize-space-exploration/) - There is a surge of interest in artificial intelligence (AI), which is my area of research, thanks to the recent victory of the Alpha GO algorithm over a human champion. Arguably the most famous AI in fictional universes, at least for space geeks like myself or movie lovers, would be HAL 9000 in 2001 Space - [人工知能は宇宙探査に革命を起こすか?](http://hiroono.com/ja/2016/03/15/will-ai-revolutionarize-space-ja/) - アルファ碁の一件で、人工知能が大きな話題になっている。人工知能といわれてまず思い浮かぶのが、名作中の名作『2001年宇宙の旅』に登場するHAL9000ではなかろうか。人間に勝る知能を持ち、宇宙船ディスカバリー号による木星ミッションに「第6の乗組員」として参加するが、途中で反乱を起こして乗組員を殺害する。最後は生き残ったボーマン船長によって機能を停止させられるのだが、HAL9000が消えゆく意識の中で「デイジー・ベル」を歌うシーンは、この映画で最も印象的な場面のひとつではなかろうか。 若い読者にとっては、『宇宙兄弟』に登場するブギーや、『インターステラー』のTARSの方が馴染み深いだろうか。 実は現実の宇宙探査においても、既に人工知能は一定の役割を果たしている。もちろん、HAL9000のような人間並みの知能からは程遠い。しかし今後はさらに大きな役割を担うことが期待されている。本号外記事では、宇宙探査における人工知能の最前線と、人工知能が今後の宇宙開発をどう変えていくかについて、一般の方にもわかりやすく解説したいと思う。 続きを読む - [青春はうるわし ~ボストンを愛して~](http://hiroono.com/ja/2012/06/20/aaoiei-ayuyyeyooaea/) - MITの卒業式に出るため、4ヶ月ぶりにボストンに戻った。着陸前に窓の外を眺め、薄雲の切れ間からボストンの街並みが見えてきたとき、愛する場所に帰ってきた喜びと、今回の旅を最後にここを再び訪れることは久しくないだろうという切なさの入り混じった感慨が、僕の胸にこみ上げた。それは別れた恋人と一度きりの再会をする時の気分と似ていた。 空港を降りると、思いがけず今回一緒に卒業するMITの友人が待っていた。彼の母親が卒業式を見に来るために僕と同じ飛行機に乗っていたので、空港まで迎えに来ていたのだった。ちょうどよいと彼の車に便乗させてもらい、4ヶ月前まで住んでいたアパートメントまで送ってもらった。ルームメイトに頼んで、懐かしいこのアパートメントのリビングルームに泊めてもらうことにしたのだ。しかし、荷物を下ろして窓からチャールズ川とボストンの風景を眺めるうち、すぐに「懐かしい」という感情は消え、きのうもおとといもこの場所で日常生活を送っていたような錯覚に陥った。ボストンにいた頃の記憶のよりも、きのうまでいたはずの東京での記憶の方が古いような気がした。 翌日のHooding Ceremonyは11時からだったので、早起きして一人で街を散歩した。ボストンには梅雨がないので、北国の短い夏が始まる6月は街が最も活き活きと輝く季節だ。油絵のように強烈な色彩を帯びる東京の夏と違い、ここの夏は水彩画のように穏やかな色をしている。街路樹の葉はまだ新緑の香りを残し、爽やかな風に揺れている。僕はロングフェロー橋を歩いてチャールズ川を渡った後、チャールズ・ストリートの商店街を抜け、ダウンタウンに近いバブリック・ガーデンに出た。一人で、あるいは二人で、何度も何度も歩いた道だった。歩きながら色々なことを考え、またいろいろなことを話した。そうやって歩きながら、僕はこの街で成長した。この街で辛い経験をし、自信を失い、そしてそれを少しずつ取り戻した。僕はこの街で将来に迷い、悩み、やがて道を見つけた。また、僕はこの街で何人かの女性に恋をした。そしてその最後の人とこの街で結婚した。22歳の青臭かった若者は、そうして29歳になったのだった。 晴れて卒業式で学位を授与された翌日の土曜日、日本人の友人たちと、ボストン湾に浮かぶジョージズ島へピクニックに行った。19世紀に建てられた要塞が面積の大部分を閉めるこの小さな島は、現在はボストン港から船で30分の日帰り行楽地になっている。ここでバーベキューをするのがMIT日本人会の毎年恒例のイベントなのだが、今年は僕がボストンに帰るタイミングでそれを企画してくれたのだ。雲の殆どない快晴で、汗だくになって肉を焼いてみんなで食べ、要塞探検をしたり、スイカ割りをしたりして、慣れ親しんだ顔ぶれと子供のようにはしゃぎながら時を過ごした。輪の真ん中には今年から仲間に加わった二人のかわいい赤ちゃんがいた。親友の二人が最近相次いでパパになったのだ。一方、輪の隅では若い仲間が女の子に熱心に話しかけていて、僕はそれを横目で微笑ましく見ていた。全ては本当に美しい光景だった。僕は自分に絵を描く才能がないことを悔やんだ。 あっという間に時間が過ぎ、僕たちは帰りの船に乗り込んだ。しかし僕はこの美しい一日が終わってしまうことが惜しくてならず、船が途中に寄港したスペクタクル島で数人の仲間を連れて衝動的に下船した。この島の名はボストン湾を一望できる展望台があることに由来する。僕らはその展望台を目指して山道を行進した。頂上に着いたのもつかの間、最終の船に乗り遅れるとあわてて坂を下る途中、レンジャーのトラックが背後から走ってきたので、呼び止めて荷台に乗せてもらった。青春映画みたいだな、などと言いながら荷台の上で笑いあっている最中にふと、何十年後かに自分の「青春時代」を振り返るとき、今日をその時代の最後の一日として思い出すのだろうという直感がして、急に切なくなった。目を友人の顔から景色へ移すと、海の向こうに林立するボストンの高層ビル群が、西に傾いた日を受けて燦然と輝いていた。 そう、この街で過ごした6年半こそが、僕の青春だったのだ。そのうるわしき記憶は僕の脳の中に保存されているのではなく、この街のいたるところに染み付いているのだ。チャールズ川に浮かぶヨットの白帆に、それを見下ろすアパートメントの屋上に、パブリック・ガーデンの池のほとりのベンチに、ビーコン・ヒルの街路樹の木漏れ日に、薄暗い地下鉄の駅に、楽しく、愉快な、あるいは甘く、切なく、酸っぱく、時には苦々しい記憶たちの一つ一つが焼きついているのだ。だからこそこの街はこんなにも美しいのだ。 4泊5日のボストン滞在は青春時代のように速く過ぎ去り、出発の日を迎えた。明日からはまた、東京での日常が始まる。次にボストンに帰ってくるのは何年後になるだろう。その時には住み慣れたあのアパートメントに泊まることはできないかもしれない。街並みはどのくらい変わってしまうのだろうか。友人たちはまだ残っているだろうか。 しかし、こうしてボストンが日常から手に届かぬほどに遠くに離れることは、僕にとって幸運なことなのかもしれない。なぜなら、この街に蓄えられた僕の青春の記憶が、日常の喧騒に汚されることなく、いつまでも美しいままであり続けることができるからだ。昔に恋し別れた人の姿が、記憶の中ではいつまでも若くあり続けるように。 - [アメリカ到着、味噌爆発!](http://hiroono.com/ja/2005/08/25/9/) - (追記:2007/6/25)これは約二年前、アメリカ生活が始まった、まさにその日の日記です。過ぎ去った月日を思い返せば、二年でも五年でも十年でも、「もうそんなに経つのか」と思ってしまうことに変わりはありません。されども、この日から始まった二年間は、自分の人生の中で最も濃い二年間であったことは、間違いないと思います。 笑われるかも知れませんが、僕、航空宇宙工学専攻のクセに、飛行機が怖いんです。特に離着陸のときなんて、生きた心地がしません。右手に御守りを握り締め、左手で椅子にしがみつき、その手のひらは汗だらけ。そんな受難の15時間のフライトの後、きのうの晩、ボストンに着きました。で、タクシーでMITの寮へ。ルームメイトはDavidというスウェーデン人で、むちゃくちゃいい人!!で、荷物を整理しようと思って、スーツケースを空けた時、大惨事が起きていたことに気づいたのです。 飛行機の気圧差で、味噌がスーツケースの中で爆発していたのです!!空けたとたん、ものすごい臭い。服やシーツが味噌だらけ。韓国帰りにキムチが爆発した時よりも、はるかに大きな被害です・・・。 ではでは、今後ちょくちょくこっちの暮らしを報告します! - [2日目:Ashdown Houseと入れ歯固定剤](http://hiroono.com/ja/2005/08/27/aeuiuashdown-houseeaethiocaeth/) - 今回は、僕の住むMITの寮、Ashdown Houseのことを書きます。 この寮の自慢は、「全米で2番目に古い大学寮」。写真のお城みたいな建物がそれです。建てられたのは1901年で、当時はホテルだったのを、後にMITが買い取ったんだとか。 この寮、とにかくインターナショナル!まだ喋ったのは10人くらいしかいないのですが、その国籍を列挙すると、 スウェーデン、インド、フランス、中国、レバノン、ドイツ、で、僕が日本。 アメリカ人は3割もいません。 だからほとんどの人が、僕と同じくアメリカへの新参者なので、とっても話しやすい。アメリカ人も、外国人との話し方を知ってるから付き合いやすい。アメリカでの生活を始めるには最高の場所です! ところで、Star Marketというアホみたいにでかいスーパーへ行き、生活用品をごっそり調達したのですが、大失態をふたつ犯してしまいました・・・。 (1) 洗剤がほしくて、洗剤っぽいパッケージの物を買った。帰ってよく見たら、漂白剤だった。 (2) 歯磨きがほしくて、パッケージに歯のイラストがある物を買った。帰って歯を磨いてみたら、泡立たないばかりか若干ネットリする。よく見たら、入れ歯固定剤だった。 考えてみたら、日本でも自活をしたことがない僕。だいじょうぶかなぁ・・・・。 - [$350 / 月](http://hiroono.com/ja/2005/11/02/350-i/) - 家計簿を付けたところ、 部屋代除いた10月の出費が、 345ドル! 部屋代を含めても、858ドル。そのうち食費が、278ドル。つまり、 エンゲル係数 = 32%! エンゲル係数とは、食費÷総支出のことで、生活の豊かさを表す指標として用いられます。32%は1975年の日本の水準。かろうじて高度経済成長後。よかったよかった。 節約生活の理由は、恐ろしい額の学費を親に頼っている罪悪感半分と、もともとのケチな性格が半分かな。 こっちにきて、さらにケチな性格がエスカレートした気がします。たとえば、 ●買い物をするとき、必ず値段を重さで割る。(こっちのスーパーは大抵1ポンドあたりの値段が表示されている。) ●薬味のネギを残さない。 ●たまねぎの皮は外側の一枚しかむかない。 ●洗剤は一回分を二回に分けて使う。 ●地下鉄に乗らずに自転車で行く。 早くRAかTAとりたい…。でもお金があっても、このケチな性格は変わらないんだろうな、きっと。 追記(2007/6/25): アメリカに来て初めての学期は、大げさではなく、本当に勉強しかしていなかった。まだこちらの授業の要領がつかめていなかった。英語に不慣れで、読み書きに人の3倍の時間がかかった。まだ土日に一緒に遊びに行く友達も少なかった。勉強漬けにならざるを得ない環境だった。おかげで出費も少なかった。それに加え、RAもなかったあの頃は、なんとかアメリカの先生に認めてもらおうと、必死だったのだと思う。今はその必死さが3割減くらいだろうか。初心、忘れるべからず。修論に向けて、頑張ろう。 - [別れ](http://hiroono.com/ja/2005/12/23/eii/) - (追記:2007/6/25)アメリカに来て3ヶ月ほどして、ようやく「友達」と呼べる、日本人以外の友達ができた。彼らは主に、アジアやヨーロッパからのVisiting Studentたちで、勉強の合間を縫って、夕食を作って食べたり、飲みに行ったりした。 その後、この日記に書いてあるような別れを何度も繰り返し、このグループで未だにアメリカに留まっているのは、僕と、もう一人のみになってしまった。 アメリカには、別れの季節が二回ある。普通は春学期を終えて卒業なのだが、秋学期で卒業していく人も多いからだ。僕の住むAshdown Houseには、非アメリカ人が多い。加えて、1学期間だけの短期交換留学で来ている人が多い。今日は、そんな人たちの帰国ラッシュだった。昨晩、ボストンで2番目に高い建物Prudential Towerの最上階でお別れパーティー。1時半頃まで飲んで、極寒の街を歩いて寮に戻った。彼らは翌朝の夜明け前に出発、とのことなので、出発時間まで延々と6階のキッチンでポーカー。4時半、ティンとユエの出発の時間。みんなで恐ろしい量の荷物を、部屋からタクシーのトランクへ運んだ。外は相変わらず寒い。英語で気の利いた別れの言葉が言えないので、"See you again"と10回くらい言って、握手をした。タクシーが出発すると、大人気もなく雪道をダッシュで追走。車は100メートルほど先の角を左折し、建物の裏に消えた。その後、ファトハの出発時間までポーカーの第2ラウンド。最後のゲームは、持っているチップを全て賭けて勝負。僕が奇跡のフルハウスで勝利! ってのはどうでもよくて、6時頃、ファトハの出発時間。こんなこともあろうかと思って日本から持ってきたインドネシア語の本にあった、「別れの4行詩」を読んだ。 Kalau ada sumur di ladang (もしも畑に井戸があったら) Saya minta menumpang mandi (私はマンディを頼むだろう) Kalau ada umurku panjang (もしも私が長生きをしたなら) Saya minta bertemu lagi (私はもう一度会いたい) ファトハ感動。でも正直こっちは始めの2行の意味が分からず。マンディって何だ?(笑)彼のインドネシア人の友達の車が15分遅れで到着。「インドネシア人は時間にルーズなんだよ」とこぼすファトハ。荷物を運ぶのを手伝い、See you againを連発し、懲りもせず、また走って車を追いかけた。 日本だったら、卒業後も年に一回くらいは同窓会で古い友達と会える。でも彼らは、世界中に散っていく。「また会おう」と言って別れたけれども、もう一生会えない人もいるだろう。一期一会。彼らと会えて楽しかった。いつかまた、彼らに会いたい。 - [ちこちゃん](http://hiroono.com/ja/2006/01/29/chiko/) - 気が付けば、チコちゃんが死んでから1年になりました。早いもんだ。 子犬の頃は、走るのが大好きな犬でした。大きな耳をダンボのようにヒラヒラさせて走る姿が滑稽だったなぁ。散歩中に突然僕を引きずって走り出したり、突然ベランダを意味もなく10往復くらい突っ走ったり。 チコちゃんは臆病な犬でした。特に雷が怖かったようで、遠くで雷が鳴り出すと急にそわそわして、人の股の間に顔を突っ込んで隠れようとしました。 一年間だけミーミという元気のいいネコを飼っていたのですが、チコちゃんはミーミの格好のイジメの標的でした。ミーミはチコちゃんの通り道で待ち伏せし、背中から爪を立てて飛び掛かるのが得意技。チコちゃんは尻尾を丸めて逃げだします。たった3ヶ月の仔猫に負けるなんて、なんて情けない! そのミーミが家に来たばかりの頃、家族みんながコロコロの仔猫にばかり気をとられていると、どうもチコちゃんはやきもちを焼いたらしく、急に甘えん坊になりました。寂しかったのかな。 歳をとってからは、寝ることが趣味になりました。朝ごはんを食べた後、日向でお昼寝するのが冬の日課。日が動き、影がお尻に落ちると、のそっと起き上がって日向に移動、で、またゴロン。逆に夏は扇風機の前がお気に入り。お前はネコか! チコちゃんは優しい犬でした。僕がしばらく旅行なんかでしばらくいなくなると、彼女なりに心配してくれていたようで、家に帰ると尻尾を振って大歓迎してくれました。だから、正月に日本に帰ったとき、チコちゃんが迎えてくれなかったのが本当に寂しかった。 彼女のお墓は、先に交通事故で死んだミーミのお墓から、少し離れた場所に作ってあります。ミーミの近くでは落ちつかないだろう、との配慮です。 忠犬は死んだあと、天国の入り口で飼い主が来るまで待っているそうです。まあ駄犬のチコちゃんがそんなことをしているとは到底思えず。きっと今日も、天国のどこか日当たりの良い場所を見つけて、昼寝でもしていることでしょう。 - [ボストンの春](http://hiroono.com/ja/2006/04/04/yuyyeyoio/) - ボストンに春が来た。そう感じた週末でした。 土曜日、毎週のジョギングを兼ねて、ボストン・コモン(公園)とパブリック・ガーデン(公園その2)へ。冬はあんなに閑散としていたのに、この日はそこかしこに人、人、人。手を繋いで歩くカップル、おしゃべりが尽きない女友達、犬と戯れる子供、芝生で寝ているサングラスの兄ちゃん、スケボーをする若者、物乞いをする老人…。公園にはおみやげの露店が出ていて、たくさんの観光客がガイドブックを片手に赤い線を辿っていました。 パブリック・ガーデンではモクレンとモモが控えめに花をつけ、足元にはスイセンやスミレが。ボストン・コモンへ繋がる門の前では、ギター・ギター・ベースのトリオの演奏。よちよち歩きの子供が母親から1ドル札をもらって、それをギターケースの中に突っ込むと、嬉しそうに母親の方へ駆けて戻りました。 帰り道に走ったチャールズリバーの川原も、人で溢れていました。川面には早くもヨットの帆が張られています。ハーバード・ブリッジを渡っていると、アイスクリームを食べながら歩く友人カップルを見つけました。彼は白いTシャツ、彼女はピンクのポロシャツ。後ろから肩を叩いて追い抜くと、「ハイ」と返してくれました。 夏の終わりにボストンでの生活が始まり、短い秋が過ぎて長い冬を越し、そして春を迎えました。いつのまにかこの街を、「自分の街」と思えるようになっていたことに気付きました。 追記(2007/6/25): 物心がつく前にアリゾナに住んでいたことを除けば、東京を離れて住んだのは、この留学がはじめてです。新しい街に引越して、一年、二年と経つうち、街は新鮮さを失い、同時に街への愛着が増えてゆくものなのだ、ということが分かりました。 - [Abbey Road](http://hiroono.com/ja/2006/04/07/abbey-road/) - BeatlesのAbbey Roadのジャケットをパロってみました。我ながらなかなかよく出来てる、うんうん。 写真の背後に写っている、築106年のレンガ積みの建物が僕の住んでる寮なのですが、実はそれが2年後に廃寮になる計画があって、みんなで反対運動を繰り広げています。で、このAbbey Roadはそのポスターなのです。MIT中に貼りまくったら、翌日、掲示板を管理する部署から貼りすぎだと怒られてしまいました…。とにかく、なんとか思いが通じて、廃寮を撤回して欲しいものです。 そういや東大で駒場寮が潰れた後も、「駒寮テント村」なんてものを作って頑張ってましたよね。でもボストンで「Ashdownテント村」なんてやったら、リアルに凍死します。 ついでに、協力してくれた友達の紹介。 一番左はSergio. メキシコ系アメリカ人。スペイン語だと「セルジオ」ですが、英語だと「サージョ」と読みます。彼のお父さんもSergio、おじいちゃんもSergio、ひいおじいちゃんもSergio、漫画みたいな家系ですね。なぜか彼、韓国語が喋れます。で、「なんで韓国語が喋れるの?」と聞いたら、「昔カナダに住んでたから」。???? 左から二番目はオノマサヒロ、日本人。こっちではHiroと名乗ってます。 隣はJavier、スペイン人。「ハビエル」と読みます。ヘミングウェイの「日はまた昇る」の舞台、牛追い祭りで有名なパンプローナ出身。バスク語ではパンプローナは「イルーニャ」と呼ばれるらしいです。趣味は合気道。MITでも合気道クラブに入っていて、先週末、「合気道マスターにトレーニングを受けに行くんだ」とNYに出かけて行きました。 右端はAskar.イタリア人ですが、カザフスタンからの移民です。そのためアジア人顔。性格はイメージ通りのイタリア人、下ネタと歌うのが大好き。最近ロシア人の彼女が出来て、いつもそっちで寝てるらしく、姿を見る頻度が減りました。 素晴らしい寮に素晴らしい仲間。廃寮になんてならないでほしいなぁ・・・ --- 追記: 2007/6/26その後、反対運動もむなしく、来年の六月に現在のAshdown Houseは廃寮になり、新しい寮に引っ越すことが決定しました。その後も住民たちは頑張って、新しい寮の名前を正式に"Ashdown House"とする合意だけは取り付けました。言ってみれば、「実」はひとまず置いておいて、「名」を取ったわけです。その後一年間、どうやって「名」に「実」を伴わせるか、延々と議論しました。つまり、建物は変わってもコミュニティーは守ろう、と。新しい寮でも、毎週木曜日のCoffee Hourと日曜日のBrunchは継続され、壁には古いAshdownの写真が飾られる。しかし、100年以上かけて建物に染み付いた人の匂い、これだけは、名前と一緒には持っていけないな、と思います。 There are places I'll remember All my life though some have changed Some forever not for better Some have gone and some remain All these places have their moments With lovers and friends I still can recall - [スミソニアン航空宇宙博物館 上](http://hiroono.com/ja/2006/04/19/yyssyyeycyoooaecieua/) - 土日とPatriot's Day (愛国者の日)の3連休で、ワシントンDCに行って来ました。なんといってもお目当ては、世界の航空宇宙の殿堂、スミソニアン航空宇宙博物館!!もう興奮のハリケーン、感激のトルネードでした!!! 大きなガラス張りのゲートをくぐり、荷物検査を終え、まず目に飛び込んだのは、アメリカ初の有人宇宙船、マーキュリー・Friendship 7のカプセル!!もちろん本物!!もうこれだけで膝がガクガク! 上を見上げると、初の民間有人宇宙飛行を達成した、Space Ship One!!! 実は2年前にMojave砂漠にこのフライトを見に行ったのですが、その機体と感動の再開!! 少し奥には、初めて火星に着陸した探査機、バイキング!!頭上には、大きな白いパラボラアンテナ…紛れもなく、深宇宙探査のさきがけ、パイオニア!!! そして!!!!左には焼け焦げた大きな円錐の物体が…なんと、初の月着陸を成し遂げた、アポロ11号の指令船・コロンビア!!!!もちろん本物!!!!!うおぉぉぉっっっ、もう泣きそう、いや、正直、泣いてました!!! 玄関ホールに置いてある展示品だけで、もうノックアウト状態。どうなっているんだ、この博物館は!!??? あふれ出る涙をこらえつつ、興奮に震える足を引きずり、奥のホールへ。所狭しと並んだ展示物を一目見た瞬間、即、二度目のKO!! 目の前にあるのは…アメリカ初の宇宙ステーション、スカイ・ラボ!!!バックアップ機なので、本物と全く同じです。しかも、二階からスカイ・ラボの中に続く人の列が…中に入れるのか!!????サービス良すぎるぞ、この博物館!! 隣には、ハッブル宇宙望遠鏡!!!でかい!!!こんなものを宇宙に持っていったのか!!!??? この博物館で凄いのは、旧ソ連側の展示品も充実しているところ。世界初の宇宙飛行士、ガガーリンが訓練で使った宇宙服なんかもありました!!! そして!ホールの隅にあったのは、焼け焦げたソユーズTMのカプセル!!!しかもなんと、これ、初めて宇宙に行った日本人、TBSの秋山さんが乗ったカプセルだったのです!!!機体にはチョークで秋山さんのサインが!!!! もう完全に叩きのめされて、ふらふらになりながら辿りついた東ウイングの端には…アポロの月着陸船!!!しかもこれ、計画がキャンセルされて使われなかった本物です!!! (↑アポロ司令船のコントロール・パネル) そしてそして・・・そして、博物館中央の部屋にあったのは、人類初の飛行機、ライト・フライヤー1903!!!!うほぉおおのもろほぉぇ…感激でもう酩酊状態。 --- バスで50分ほどのダラス空港のそばに、つい3年前にオープンした、博物館の別館があります。ここは博物館というよりは、「格納庫」。普通の展示品は一切なく、巨大な建物の中に、大小100を超える飛行機が並んでいます。しかもどれも航空宇宙の歴史を造った機体ばかり!! 別館に入った瞬間、正面に見えたのは…スペースシャトル・エンタープライズ!!!これは滑空試験用のモデルで、耐熱タイルとエンジンは作り物ですが、それ以外はすべて本物!!!しかしでかい!!!!こんなでかいものが宇宙まで行くのか!!?? 格納庫の一番奥に陣取る、一際大きな白い機体…なんと、世界初の超音速旅客機、コンコルド!!!!!う、美しい…なんて美しい機体なのだろう… --- そんなわけで、もう体が蒸発してしまいそうなほどの興奮と感激を味わった一日でした。マニア丸出しの長文でごめんなさい。一緒に行った友達は、1時間ほどでさっさと切り上げて他の博物館に行ってたのですが、僕は丸一日いても全く足りないくらいでした!! ところで、別館を訪れた最大の目的は、他にあったわけですが、それはまた今度。 追記(2007/7/1): その後、今年の4月にも、桜を見るためにDCに行ったのですが、性懲りもなくまた航空宇宙博物館に行ってしまいました。アポロ11の焼け焦げた司令船、何度見ても泣けます。 - [ポツリ、ポツリ](http://hiroono.com/ja/2006/04/29/yyyayecyyyaye/) - 今朝、車を借りて、日本に帰国する友達を空港へ送りに行った。肌寒かったが、天気は快晴。Longfellow Bridgeをボストン側へ渡る時、朝日がまぶしかった。20分強で空港に到着。近いもんだ。寮を出るときは「実感がない」と言っていた友達も、空港に並ぶ飛行機を見たら、急に涙声になった。ターミナルに着き、チェックインを済ませ、保安検査のゲートで別れた。 日本では、「いっせーの、せっ」で友達になり、「いっせーの、せっ」で別れがくるが、こっちではポツリ、ポツリと仲間が加わり、ポツリ、ポツリと仲間が去っていく。来週にはスペイン人のJavierが、5月末にはトルコ人のBarisとロシア人のOlgaが。 昨晩、友達の部屋で、彼女のお別れパーティーをした。白いTシャツに世界地図を描き、各々の出身国に国旗を立て、メッセージを添えてプレゼントした。スペイン、フランス、イタリア、ノルウェー、トルコ、ロシア、マレーシア、そして日本。それらの国旗たちを、心の中で線で結び、 「ユーラシア大陸を横断できるな」 なんて調子のいいことを考えた。 昨日集まった友達は、ほとんどがVisiting student。みんなあと半年か一年で帰ってしまう。世界中に散らばる彼らと一度別れたら、また会えるのは、あっても一生で数回だろう。でもそれは、世界中に泊まる家と通訳ができる、ということだ。別れを悲しむのではなく、また会うのを楽しみに待とう。いつか、彼らと、彼らの住む国に会いに行こう。彼らの故郷を線で結び、ユーラシアを横断しよう。 8時半頃、空港から戻り、眠たい目をこすりながらラボへ向かった。途中、クラスルームへ向かう先輩と会った。 「カオリちゃんが帰っちゃいましたよ。」 「そっかぁ。土曜日にはヨシヅミさんも帰国だよね。」 ポツリ、ポツリと別れは続く。でもまたいつか会える。そう信じて、笑顔で彼らを送り出したい。 追記(2007/7/2):一年前に別れたJavierが、来週、ボストンに戻ってくることになりました。もうあの時の仲間が全員集合することはないだろうけど、それでも嬉しいもんだ。 - [自信](http://hiroono.com/ja/2006/06/17/20/) - 明日、早朝の飛行機で東京へ向かう。東京-ボストンを往復するのは、これで三度目だ。航空宇宙が専攻のクセに飛行機が怖いのは相変わらずだが、慣れるには慣れた。 初めてボストンに来たのは、去年の三月。既にMITから入学許可はもらっていたが、実際に来るかどうかは、相当に悩んでいた。MITでマスター二年目の友人に会い、その悩みを相談したところ、彼はこう答えた。 「自信があるなら来てみれば?」 --- その五ヶ月後、身一つでボストンに乗り込んだ。旅行客としてではなく、留学生として。今から考えると、あの頃の自分は自信に満ち溢れていたと思う。大きなスーツケースを両手に抱え、ローガン空港へ着いたのが夜11時過ぎ。タクシーの運転手にMITへ行ってくれと告げると、「学生か?」と聞かれ、誇らしげに「九月から学生になるんだ」と答えた。疲れているはずなのに、翌朝早くに目が覚めた。気分が高揚していたのだろう。 それから十ヶ月。一瞬だった。辛くて帰りたいと思ったことは一度もなかったが、自信が揺らぐことは何度もあった。「Ph.Dを取った後、何をするのか」と聞かれ、答えに詰まる自分に気付いた。十ヶ月で多くの知識や経験を得たが、同時に失ったものもあった。 それに加え、最近は「焦り」も感じる。日本にいる文系の友達は、既に社会の第一線でバリバリに働いている。理系の友達も多くは就職活動を終え、あと半年余りで社会人。研究の方も、みんなそれぞれ結果を出しているようで、シンガポールの学会に行った、スペインの学会にアクセプトされた、そんな話を聞く。一方の自分は、ようやく四ヵ月前に研究室を見つけたばかりで、論文の一本すら出していない。Ph.Dまであと何年かかるか、分かったものではない。日本の友達よりも明らかに遅れている、そんな焦りを感じる。 東大にまだ籍が残っているので、戻ろうと思えば戻れる。でも、自分はなお、ここで頑張ろうとしている。なぜか。やはりまだ自信があるからだと思う。自分は何か大きなことができると、根拠もなく信じている。自信過剰だろうか?自信過剰で何が悪い。自分を信じることが「自信」だ、自分を信じなくては、どこで、どうやって、やっていけるというのか。 十ヶ月前に比べ、ここ最近、自分はダレ気味だと感じる。まあいい。日本にいる一週間は、思いっきりダレよう。そしてボストンに戻ってきたら、十ヶ月前の気持ちに戻るのだ。ダレている自分にムチを打て。結果を出せ。それを教授に認めさせろ。遅れは取り返せる。余分にかかった時間はより深い経験になる。進め。自信を持て。やれば自分は出来るはずだ。そして、なりたい自分になれるはずだ…。 --- 今日は早めに研究を切り上げ、家族や友人へのお土産を買いに行った。昔からお土産選びは大の苦手。MITのロゴ入りグッズもいい加減ネタ切れだろうか。冷蔵庫の残り物を処分し、部屋を片付け、荷物をまとめる。パスポート、I-20、日本円。飛行機が落ちないよう、願掛けのお守も忘れてはいけない。時差ぼけを直すために、今晩は寝ないつもりだ。 十ヶ月で角が落ち、すこし丸くなった僕の自信。それに空気を入れ直し、パンパンに膨らませて、一週間後、ボストンに帰って来たい。 後日記(2007/7/2):今思えば、あの頃の「自信」は、根拠のない自信だったように感じる。そんな自信は、持ち続ける方が有害なわけで、去年のあの頃、自信を少し失っていたのは、通るべき道だったのだと思う。 少しずつ実績を重ねていって、「根拠のある自信」を付けていきたい。 - [42.195km 完走!!](http://hiroono.com/ja/2006/10/19/42195km-ao/) - やりました! 先の日曜、Bay State Marathon @ Lowell. 人生初の42.195kmを、3時間57分51秒で走りきりました!!! (↑Lowellはボストンの郊外の小都市。かつては水車を動力とした繊維工業で栄えたが、蒸気機関の普及で没落した。) 我が家はチャールズ川のほとり、Massachusetts Ave. が走るHarvard Bridgeのたもとにあります。こっちの人はとっても走るのが好き。朝昼晩、老若男女問わず、川原を向こうへ、こっちへ走っています。 僕がそれに加わったのは2月。激しい肩こりに少しは効果があるかと思い、週に一度、4kmを走り出しました。初めはフルマラソンなんて考えもしなかったのですが、4月のBoston Marathonに刺激され、何となく目指してみようか、と思い出しました。村上春樹も走れるなら、自分も走れるだろう、と。 (↑現在のLowellは観光都市) 本格的なトレーニングは、春学期が終わった5月終わりから。週に2-3回のペースで、平日は4km or 7kmでインターバルorビルドアップ・ラン、週末は15kmや20km. ハーフまでは順調に距離が伸び、これはマラソンも楽勝か、と思われたのですが…。 壁は20kmと30kmの間にありました。25kmを過ぎると、足がコチコチになり、動かなくなるのです。レース4週間前に初めて挑戦した 33.5kmで3時間45分。最後の5kmはほぼ歩き。しかしこの後の激しい筋肉痛と超回復のおかげで、2度目の33.5kmは3時間10分に短縮。 レース一週間前からは、長い距離は走らず、毎朝4km。 本番の目標は、とにかく完走、そして4時間切り! (↑New Englandの10月は紅葉の季節。) レース当日はきれいな青空。スタートは朝8:30。 5時に起き、持ってきたご飯と鮭フレーク、味噌汁で和な朝食。 Bay State Marathonは地方の小さな大会で、参加者は千人強。スタート20分くらい前になると、わらわらと人がスタートラインに集まりだした。 市長のお言葉、続いて国歌斉唱。この国はどこでも国歌を歌う。しかし逆に、日本ほど国歌を歌わない国の方が珍しいのでは、と思ったり。 号砲でスタート。ペース設定は5分/km。コースは川に沿ったダブル・ループ。ニューイングランドは紅葉の盛り。少し寒いが、マラソンには適温だ。よく眠れて疲れはなく、体も軽い。この上なく順調な滑り出し! と思えたのもつかの間、予想外の事態が…レース前に出したりなかったのか、トイレに行きたくなった…しかも大小ダブルで!!男は我慢、と思い、一つ目のトイレ・ポイントは通過。しかし、7,8kmで腰の前面・後面への圧力が限界に…。一歩走るたびに、足から伝わる振動が今にも門をこじ開けそうになる。結局、11kmでたまらずトイレ・イン。 この件以外は万事順調。ハーフを1:49で通過した。しかし、山はハーフを越えた後でやってきた。急に足の疲れを感じ、ペースが落ちだす。無理にペースを保とうとするのが辛い。しかも…ここでウ●チの第二波が…。やむをえず、28kmで2度目のトイレ・イン。4分をかけ、今度こそしっかり出し切った!! 30kmを過ぎると、さすがにペースが落ち、6分/kmくらいに。平坦な道のはずなのに、どこまでも上り坂に感じる。しかしここまで来ればカウントダウンだ。9km, 8km, 7km...確実に距離は縮まっていった。 ラスト3kmで3:36。ここで、3:50切りを狙ってスパート。これが見事に失敗だった。すぐに足が止まり、走れなくなった。手の指先や頬が痺れ、心拍が恐ろしく速い。歩くのさえ辛い。完全にバテた。しかし、幸運なことにゴールはすぐそこだ。向こうに見えている、赤い鉄橋を渡ったすぐ先の野球場がゴール。歩いてでもいいからゴールしようと思った。 鉄橋を渡り切り、球場に入ったときには、もう泣きそうになった。カッコをつけて、球場の中だけは走った。友達の顔が見えた。ゴールの時計はまだ3時間台。ゴールのゲートをくぐる。メダルと水を渡される。座り込む。通る人が、"Great job"と肩を叩いてくれる。 完走した。 --- その後3日間、激しい筋肉痛に苦しんだ。特に階段を下りるのが辛い。しかし、部屋の壁にかかるメダルを見たら、その痛みが誇らしく感じた。 --- 次回への教訓:レース前に、出すべきものを出し切る。。。。。 - [せっかちな猫背](http://hiroono.com/ja/2006/11/20/aaecco/) - 週末、父親がボストンを訪ねてきた。先週はサンフランシスコ、今週はニューヨークで仕事があるとかで、その間の週末にボストンに寄ってくれたのだ。 土曜日の夕方、空港まで迎えに行った。ロビーのベンチに父は座っていた。相変わらずの猫背。会うたびに量が減ってゆくボサボサの髪。週末だというのにスーツに革靴。たまにカジュアルな服を着ても、母にファッションセンスをこき下ろされるだけなので、結局スーツが一番着心地がいいのだろう。 僕の姿を認めると、父は満面の笑みで立ち上がり握手を求めた。バスに乗り、地下鉄でMITに向かう途中、父は五回くらい「元気にしてるか」と聞いた。そのたびに僕は笑いながら、「おう、ピンピンだよ」などと答えた。「明日は何を見ようか」と言いながら取り出した地球の歩き方は図書館からの借り物。社費でビジネスクラスに乗せてもらえるくらいのご身分なんだから、買ってしまえばいいのに。「だって1週間しか使わないんだ、勿体ないだろ。」折り紙つきのケチだ。 ホテルに荷物を置いて、シーフードレストランへ。そういえば父と二人きりで外食なんて、今までに一度もなかった気がする。僕の将来の話。父の昔の研究の話。いままでお互い恥ずかしくて避けてきたマジメな話を、ビールを飲みながら一気に話した。父が、「人生で一番面白かったのは・・・」なんて話すのが、新鮮でもあり、寂しくもあった。 レストランを出て、軽く研究室を見せたあと、僕の部屋に案内した。「ぐちゃぐちゃな部屋だな」と言いながら、嬉しそうに写真を撮った。「お母さんに、ヒロの汚い部屋の写真を撮ってくるように言われてるんだ。」母に23年間「部屋を片付けろ」と言われ続け、結局キレイ好きには育たなかった。なんだかんだで母は、僕に「片付けろ」と怒鳴ることに生きがいを感じていたのだろう。 「老人は早寝早起きなんだ」と言って、10分くらいで僕の部屋を出た。もう少しゆっくりしていけばいいのに、相変わらずのせっかち。ホテルまで送り、その晩は別れた。 --- 翌日はボストン美術館へ行った。見知っている展示品があるとウンチクを垂れずにはいられない。頻繁に地図を見て、常に現在地を把握しないと落ち着かない。どちらも僕そっくり。時間が迫るとまだ見ていない場所を通るだけ通って、美術館を制覇した気になるのも同じだ。 チャイナタウンで昼食を食べ、一服したのち、South Stationへ。父のせっかちのおかげで発車時刻の40分も前に到着した。待っている間も常に電光掲示板と腕時計を睨めっこ。改札が始まると名残り惜しさのカケラも見せずにホームへダッシュ。係員が検札をしているところで、父と別れた。「元気でね。」「そちらも。」「それじゃあ。」 せっかちな猫背は、大股でホームの奥へと歩いていった。僕は結局、あの人の子なんだな。そんなことを思いながら、ターミナルへ戻り、両手をコートのポッケに突っ込んで、ぷらりぷらりと地下鉄の階段を降りていった。 追記(2007/7/4):先月、父は還暦を迎えた。親が歳をとるのは、自分が歳をとる以上に速く感じる。最近は、手間のかかる息子が家を出て出来た暇を使って、週末に母とちょくちょく遠出をしているようだ。来年には定年。その後も、持っている資格を使って何か仕事をするらしい。歳を重ねるごとにみすぼらしくなるセッカチな猫背は、僕にとっては、誰よりも頼もしい。 - [お湯は少し冷ましてから](http://hiroono.com/ja/2007/01/02/aoiiathaee/) - 風情が感じられないボストンの正月、お茶くらいはオイシイものを飲むか、と思い、母が日本から送ってくれた煎茶を開封。するとパッケージに張り紙が。 「煎茶。お湯は少し冷ましてから」 一緒に住んでいるときは激しく口うるさい母親だったけど、離れて暮らして、外国で寂しい正月を送っていると、逆にそのオセッカイなまでの気遣いが心に染みます。 お湯を冷ます間、フットボールをTVでぼんやり観戦。そういや今頃、日本では箱根の坂を登ってる頃でしょうか? 追記(2007/7/7)留学してから半年後の正月に、初めて日本に帰省した。その時、年末の歌番組で流れていた、さだまさしの「案山子」という歌が、妙に心に残ったのを覚えている。というのも、その歌詞が、母親が頻繁に送ってくるメールの内容とそっくりだったからだ。元気でいるか 街には慣れたか 友達できたか 寂しくないか お金はあるか 今度いつ帰るか 今までは小遣いをくれと言ってもなかなかくれなかったのに、親元を離れたとたん、向こうから「お金はあるか」と聞いてくる。それを聞くメールの口調が妙にしんみりしている。あんなに毎日息子を怒鳴り散らしていた母親が、急に老け込んでしまった感じがした。 僕はまだ親になったことはない。しかし、「親」とはかくいうものなのだ、というのが、留学して以降、少し分かった気がする。 - [ペルーを旅して](http://hiroono.com/ja/2007/02/12/yuyeoiae/) - 試験が終わり、一週間ほどペルーへ旅に出た。たったの一週間とは思えないほどの思い出の濃さ。その時間はまさに夢のようで、現在と連続した現実だとはとても思えない。 素晴らしい景色や遺跡巡りが旅の縦糸ならば、その横糸を成すのは行った先々で出会った人々だ。もちろん、旅行客に話しかけてくる現地人の九割は客引きとみやげ物売り。しかし、彼らだって、少し話してみると、子供がいて、友達がいて、若い頃の武勇伝がある。日本のことを聞いてくる人もいれば、自分の国の良さを延々と語る人もいる。 (↑クスコの中心・アルマス広場の夜景) クスコはインカ帝国の首都だった街で、標高3400mに位置する。街はさらに高い山々に四方を囲まれ、その斜面には小さな家々がびっしりと並ぶ。スペイン人が街を征服したとき、彼らは街を徹底的に破壊したのだが、あまりにも見事な石の土台だけは残し、その上に教会や家を建てた。 そんな教会のひとつに行く途中。「オニイサン、カッテクダサイ」とカタコトの日本語で話しかけてくる10歳くらいの女の子が。名前はマリア。かわいらしいカメのパペットを1ソル(約40円)で買うと、「ありがとう」と言い、にっこり微笑んだ。彼女はすぐ近くのスタンドにいる母親の元に駆け戻ると、嬉しそうに売り上げを報告した。 夕暮れ時、街を一望できるという丘に登った。空気が薄く、階段を登るだけで息が上がる。やっと辿りついた丘の上の広場で、5人の子供達がサッカーをしていた。眺めていると、そのうち一人が近寄ってきて、 「アミーゴ、フットボール?」 と誘う。ジャケットを脱いで子供達に混じる。標高3400mでのサッカーは本気で辛い。汗は一滴も出ないのに、少し走っただけで胸が締め付けられるように苦しい。20分ほどボールを蹴った後、抜ける、と言うと、 「Tシャツを買いたいんだ、チップをくれ」 という。ガキのクセにうまいな、と思いつつ、20 soles札を一枚握らせると、喜んで去っていった。 五分後、子供の数が三倍になって戻ってきた。ある子は絵を、ある子は人形を買ってくれ、という。ある子は僕のスペイン語の本を取り、これは日本語でなんというのか、と熱心に質問する。ある子はガイドブックの巻末の世界地図を広げ、中国を指差しながら、「日本はここでしょ?」と聞く。ある子はまたサッカーをしようと言い、ある子は日本のコインがほしい、とせがむ。子供たちに囲まれて坂を下り、アルマス広場へ。僕の家は向こうの山にあるんだ。明日の朝は学校に行くんだよ。夕食は何を食べるの? 最後まで付いてきた三人の子に、スタンドでジュースやお菓子を買い与え、また明日、と言って別れた。 クスコを後にし、列車でチチカカ湖畔の町、プーノへ向かった。列車は標高4300mの峠を超え、380kmの道のりを10時間かけてゆっくりと進む。 その列車の中で、デイビッドというイギリス人の老紳士と会った。昔、日本に住んでいたことがあって、先立たれた妻も日本人だったという。彼は非常に話好きで、身の上話が止まらない。日本では武田製薬で翻訳の仕事をしていて、取引先に彼の文章を褒められた事があるそうだ。日本からイギリスに帰るとき、船でウラジオストックに渡って、そこからシベリア鉄道で帰ったという。三人の息子のうち二人は日本に住んでいて、自分と同じように日本人の嫁をもらったんだ、と嬉しそうに語った。早く孫を見たいねぇ、という時の顔は、どこの国の老人も同じだ。 腰が折れ、杖につかまって歩く老紳士は、これからボリビア、アルゼンチンを旅し、ブエノス・アイレスから船で南極へ行くそうだ。人生を楽しむとは、こんなことを言うのかな、と思った。 (↑列車の中での、フォルクロ?レの演奏) (↑列車の中のフォルクローレ少年たちと、プーノの酒屋で再会した。酒屋は、歌と踊りが止まらない。) チチカカ湖には、「トトラ」と呼ばれる葦で出来た人工の浮島があり、その上で生活をしている人々がいる。浮島の民にも二種類いて、一方は漁業で生計を立てて暮らす人々、一方は観光客相手に商売をして生活をしている人々。当然、僕が訪れたのは後者だ。 島民の一人が(もちろん商売を兼ねて)僕を自宅へ招き入れてくれた。六畳ほどの簡素な家は、床も壁も天井も、すべてトトラで出来ている。その半分ほどをベッドが占めていて、ひとつのベットに一家五人が眠るのだという。キッチンは屋外。もちろん、トイレも屋外だ。彼は、トトラ葺きの天井に付いた小さな蛍光灯を自慢げに指差し、 「この電灯は、フジモリ(スペイン語では「フヒモリ」)からのプレゼントなんだ。彼は島に太陽電池を置いてくれた。学校も、病院も作ってくれた。いい大統領だったよ。」 と語った。( 現在は国を追われているフジモリ大統領は、このように貧困層には未だに根強い人気がある。) (↑この島全体が、チチカカ湖に浮いている。座って作業しているのが、フヒモリ好きのおじさん。) こうして旅の中での素晴らしい出会いを想い返すにつけ、思うことがある。もう彼らとは一生会わないのだろうな、ということ。旅はいつも、数え切れない一期一会で満たされている。街を歩き、バスに揺られ、宿を探し、そんな中で五分ごとに訪れる一期一会の数々。そのひとつひとつが、鮮やかな色に染め上げられた横糸となり、僕の旅の縦糸に編みこまれて、強烈な思い出の一部を成す。 こうしてボストンに戻り、僕が日常を過ごしている間にも、おそらくもう二度と会わないであろう彼らは、何千kmも離れたペルーの大地で、彼ら自身の日常を送っているのだ。マリアは旅行客に人形を売り、子供らは広場でサッカーをし、デイビットは南極を目指して旅を続け、浮島の民は淡い蛍光灯の下で家族と団欒しているのだろう。 一枚の布の中で、一本の縦糸は、同じ横糸と二度交わることは決してない。僕がボストンで日常を過ごす限り、決して交差するはずのなかった何本もの糸たちと、一度だけ交わった瞬間。それが今回の旅だ。旅とは、自分の人生の縦糸に、たくさんの横糸を編み込んでゆく作業だと思う。素っ気無い一本の縦糸に、色とりどりの横糸を織り込み、人生を豊かで幅広くするもの、それが旅だ。 学部の頃のように、何週間にもわたる旅をすることは難しくなった。でも、この先も、少しの暇さえあれば、僕はバックパックを背負って旅に出ると思う。世界に60億本もある色とりどりの糸たちを、すこしでも多く自分の縦糸に織り込むために。 (↑旅行番組っぽい?) (↑チチカカ湖の日の出) - [祖父](http://hiroono.com/ja/2007/02/27/aaea/) - 先々週の木曜日。ペルーから帰国し、受信トレイに溜まった数百通のメールを機械的に処理していた。その中に、親からのメールが一通。手短に、父方の祖父の急死を告げていた。 慌てて親に電話したが、既に通夜が済んだ後だった。翌朝にボストンを発っても葬儀には間に合わないため、日本には帰らないことにした。電話で状況を伝え聞いただけでは全くと言ってよいほど実感が沸かず、涙の一滴すら出なかった。感じたのは、悲しみというよりむしろ、空しさだった。 今朝、家を出るときにメール・ボックスを見ると、親からの郵便が届いていた。研究室に向かう途中に歩きながら封筒を開けると、祖父の写真と便箋二枚の手紙が入っていた。手書きの文字で綴られた父と祖父との思い出を読むと、急に涙が出た。二週間遅れの涙だった。 --- 金沢大で土木工学の教授をしていた祖父は、真面目で勉強熱心な人だった。九十歳を過ぎてからワープロを習得し、論文を執筆した。耳が遠くなってからも、NHKのラジオ番組でフランス語を勉強していた。 祖父は、おしゃべりな僕とは似ても似つかない、寡黙な人だった。ぼそり、ぼそりと喋る祖父の言葉は、一度も感情的になったことがなく、また人のことを悪く言ったことがなかった。口数は少ないけれども、非常に行動的な人で、八十を過ぎても山に登り、スキーをした。九十三歳の時、一緒に中国を旅行をした。 明治生まれの祖父は、せっかちな父とは対照的な、非常にマイペースな人だった。十年ほど前、尾瀬に行ったとき、カメラを構えたままなかなかシャッターを切らない祖父に痺れを切らした父が、早く行こうと催促すると、 「あの雲がどくのをまっているんだよ。」 と答えた。 せっかちな父も、おしゃべりな僕も、祖父と同じく工学の道に進んだ。祖父は鉄道、父は光、僕は宇宙。専門は違えども、技術で世の役に立とう、という志は同じだったのだと思う。 --- 祖父は、叔母と同居して介護を受けることを頑固に拒否し続け、祖母に先立たれた後も金沢の郊外の家に一人で住み続けた。直前まで変わった様子も無く、「葉っぱが落ちるかのように」静かに亡くなった。 僕がMITに行くと決まったときも、祖父は静かに喜んでくれた。こっちで頑張って学位をとることが、彼への一番の供養だと思う。 追記(2007/7/25) きのう、やっとこさ修士論文のドラフトを書き上げた。何とか、学位は取れそうだ。一ヵ月後、修士号を引っさげて、祖父のいなくなった日本に帰る。きっと喜んでくれると、信じている。 - [さまざまのこと思い出す桜かな](http://hiroono.com/ja/2007/03/30/uththiedhue/) - 「さまざまのこと思い出す桜かな」 松尾芭蕉 実家の近所のガソリンスタンドの、バス通りを挟んだ向かいに、大きな桜の木がある。見事な枝振りの立派な木で、もしもこの木が京都の名の知れた寺の境内にあったならば、「醍醐桜」、「臥龍桜」などと、何かたいそうな名前でもついていたことだろう。 その桜の木の下で、五年前の春、飼っていた猫が、車にひかれて死んだ。 その猫がうちへ来たのは、僕が大学一年の頃、ゴールデンウィークでオーストラリアに発つ前日。旅行の準備に一家がいそしんでいるときに、玄関のベルが鳴った。開けると、中学生の女の子が傷だらけの子猫を抱いて立っていた。 「すみません、お宅の前で、子猫がカラスにつつかれて倒れていたんです。」 小さな猫だった。白と黒のふさふさした毛の中に、真っ赤な痛々しい傷がある。その小さな毛のかたまりは、目を閉じて、体全体で呼吸をしていた。 見捨てるわけにもいかず、結局我が家で引き取ることにした。ただでさえ旅行前日で忙しいのに、面倒がひとつ増えた。しかしこの仔猫、ピクリとも動かずに、ただただ息をしているだけだ。何も食べない。水すら飲まない。 翌朝、飼い犬のチコちゃんと一緒にその猫を祖父母に預け、オーストラリアへ出発した。帰ってくる頃には死んでしまっているかもしれないな、そんなことを思いながら。 ------ 旅行から帰ってきて、犬と猫を引き取りに行くと、家族全員が目を丸くした。あの瀕死の仔猫が、部屋中を鉄砲玉のように走り回っているのだ。嬉しいのやら面倒なのやら、結局うちで飼うことになった。ミー、ミー、と鳴くから、「ミーミ」と名づけた。 そうして、ミーミとの暮らしが始まった。恐ろしく元気な猫だった。部屋中を走り回り、食べ物を奪い、犬や人間に爪を立てて飛び掛った。机、本棚、ピアノ、あらゆる物の上によじ登り、その上に飾ってある物を蹴飛ばし、あるいは破壊した。 ミーミに一番大きな被害を受けたのは、犬のチコちゃんだった。おとなしくて鈍クサいチコちゃんは、ミーミの格好のおもちゃだった。物陰に隠れ、何も知らないチコちゃんが尻尾を振って通り過ぎると、爪を立てて背後から飛び掛る。チコちゃんが尻尾を丸めて逃げると、さらにそれを追いかける。この犬も一応、狼の子孫なはずなんだけどな…。 仔猫の成長は早い。夏にはもうすっかり大人の体格になった。家で飼うには元気が良すぎるこの猫は、庭に放すことにした。庭の生態系にとっては悲劇だったようで、それ以降、庭にネズミやセミの死骸が散見されるようになった。 秋。ミーミの行動範囲は相当に広がった。チコちゃんの散歩に遠くまで付いてきた。家から交通量の多い道路を隔てた場所でも、ミーミを見かけた。 冬。ミーミが失踪した。一週間以上も戻ってこない。猫は死んだ姿を晒さない、という。もしかしたら、どこかで死んでしまったのかもしれない。そう思った。 それが、十日ほど後、近くの駐車場にひょっこりと座っているのを見つけた。その後すぐ、近所の細川さんという家にお世話になっていたことが分かった。首輪が木に引っかかって動けなくなっていたところを助けてもらったそうだ。そして細川さんから、「マリーちゃん」という名前ももらっていた。ミーミはオスなんだけどな…。 春。ミーミは、二つの名前を使って、二重生活を謳歌した。二つの家、二度のエサ、二倍の愛情。おかげで見事に肥えた。人懐いミーミはまた、近所のちょっとした人気者になった。通行人にゴロンと腹を見せて寝転がり、遊んでもらうのが好きだった。 三月の後半、僕は韓国に旅行した。旅行中、妹からのEメールを見て、愕然とした。 「ミーミが車にひかれて死んだ。」 素っ気ない、たった一行のメールだった。 旅行から帰ると、ミーミがお気に入りだったモミの木の下に、小さな墓ができていた。旅行中に気持ちの整理をしてから帰ってきたはずなのに、そのベニヤ板の墓標の前に座ると涙が溢れ出た。何で死んだんだ。こんなに早く。もっとおとなしくしていれば事故になんてあわなかったのに…。 母の話によると、近所のガソリンスタンドの前のバス通りでミーミはひかれたらしい。その後すぐ、細川さんが偶然そこを通り、ミーミを見つけた。父、母、妹、祖父母、それに細川さんの六人でささやかな葬式をし、そしてミーミのお気に入りの場所だったモミの木の下に埋めたそうだ。 その話を聞いて、ミーミが死んだ場所に行ってみた。ガソリンスタンドの向かいの桜の木が、例年より少し早く満開になっていた。 春に生まれて、春に死んだ。たった一年の命だった。 「さまざまのこと思い出す桜かな」 ボストンはようやく川の氷が溶けたが、桜の季節はまだまだ。一方、東京は桜が満開、というニュースを聞く。 人それぞれ、桜を見るたびに何か思い出すことがあると思う。僕が思い出すのは、たった10ヵ月間だけ僕を楽しませてくれた、あのやんちゃな猫のことだ。 追記(2007/7/30): ミーミが死んだ後で、あの子の写真がほとんどないことに気付いた。今、僕のPCのハードディスクに入っているのは、上に載せた三枚が全て。はじめの二枚はミーミの貰い手を捜していた頃、ポスターを作るために撮った写真。三枚目は、実家にある写真を含めてもおそらく唯一の、大人になったあとのミーミの写真だ。 チコちゃん(犬)の写真は山ほどあるのに、なぜミーミの写真はこんなにも少ないのだろうか。まずもってあの子は、カメラを向けられてじっとしているような子ではなかった。捕まえるのでさえ至難の業なのだから、ポーズを取らせて写真を撮るなど不可能に近い。実際、一枚目の写真はモップで、二枚目はチコちゃんで、ミーミの気を引いている隙に撮った写真だ。 反対に、チコちゃんの写真はこの上なく撮りやすかった。常に寝ているからだ。それでもカメラを向けると、目線に気付いて、この上なく迷惑そうにのっそりと起き上がることもあるのだが、「撮りたければ撮れば」という感じでまたすぐに寝てしまう。そんなわけで、チコちゃんの写真は数だけは多いのだが、ほとんどが寝ている写真で、起き上がって活動している写真となると、これまた非常に少ない。 またミーミは、一緒に過ごした時間も短かった。たったの10カ月。写真を満足に撮る時間もくれずに逝ってしまった。それこそまさに、桜の散るように。 追記(2007/8/19): 「ミーミの桜」は、実は二本ある。二本の見事な桜の木が、枝と枝を重ね合わせて満開の花をつける。それは素晴らしかった。 きのう、半年振りに帰省し、そのうち一本が切られたことを知った。隣接する駐車場に何かを建てるらしい。来春はミーミの桜は半分になる。残る一本も根が傷つけられたりしていなければいいのだが。半年に一度しか帰省しないと、帰るたびに何かが変わっている。行きつけだった弁当屋が潰れた、チコちゃんの墓に草が茂った、「急行」ができて、最寄り駅を通過するようになった、などなど。 寂しい、と感じるのは、過去への郷愁からだけではない。自分が変化から取り残されているのだ、と気付くことが、寂しさを余計に膨ませるのだ。 - [ボストンにも](http://hiroono.com/ja/2007/04/27/yuyyeyoea/) - 咲きました! - [$$ 小切手が飛んだ $$](http://hiroono.com/ja/2007/05/30/aueeooa/) - アメリカでは、お金の受け渡しに、小切手が頻繁に使われます。月々の電話代の支払いにも小切手を使うし、研究室の合宿で集金する時なども小切手を使います。 銀行に口座を開くと、小切手帳が送られてきます。そこに金額と宛名を書いてサインすると、お金の代わりとして使える、というわけです。 非常に便利な小切手。しかし今日、その恐ろしさを思い知る事件に巻き込まれました… --- ボストンの長い冬もようやく終わり、今日はぽかぽか陽気。で、いつものように川沿いをジョギングしたわけです。先日、$250の小切手を受け取ったので、ジョギングついでに銀行に預けに行こうと思い、ジャージのポケットに小切手を突っ込んで、7kmのコースを一周し、戻ってきました。 おそらく皆さんはもう、何が起きたかご察しのことと思います。そう、帰ってきたらポケットから小切手が消えていたのです。今日は若干、風が強い日でした。しかも走ったのは全て川沿い。見つかる望みは非常に薄いと思われます… 雪が融け、花が咲き、爽やかな風の吹く土曜の昼下がり。僕の三万円をのせて、小さな紙っぺらが春の風に舞った、素敵な休日でした。 ちゃんちゃん。 追記(2007/9/16): そして、まだ戻ってこない僕の小切手。再発行の申請をしたんだけれども、忘れ去られているのだろうか・・・ああ、アメリカ・・・。 - [エノラ・ゲイ (スミソニアン航空宇宙博物館 下)](http://hiroono.com/ja/2007/07/01/yyiyeyyeyyssyyeycyoooaecieue/) - 一年以上前に書いた、スミソニアン航空宇宙博物館の記事。「上」だけ書いて、「下」を忘れていたので、改めてここに書こうと思います。 "Enola Gay". 何のことか、わかりますか?第二次世界大戦時のアメリカ軍の、とある大佐の母親の名前。また、その大佐が機長を勤めたB-29爆撃機に付けられた名前。そしてそれが、1945年8月6日、その腹の中に原子爆弾 "Little Boy" を抱きかかえ、マリアナ諸島テニアン島から広島へ飛来し、そこへ落とした「小さな坊や」が、街と人を一瞬にして蒸発させた、かの爆撃機です。 この実機が現在、スミソニアン航空宇宙博物館の別館に展示されています。実は、この展示に関して、過去にひと悶着がありました。 1995年、原爆投下50周年を記念し、航空宇宙博物館の本館にて、エノラ・ゲイの頭部が展示されました。その機体の周りには、'The Crossroads: The End of World War II, the Atomic Bomb and the Cold War'と題して、原爆の歴史的考証と、原爆がどう世界を変えたかを記述したパネルが置かれたのですが、その内容に退役軍人団体などがケチを付けたわけです。曰く、「展示は原爆の被害にフォーカスしすぎている。原爆が大戦終結に果たした意義を、もっと強調するべきだ」と。結果、このパネルは取り外され、エノラ・ゲイの機体のみが展示されることになりました。 その後、機体全体が復元され、別館に展示されることになり今に至るのですが、上述の経緯から歴史的考証や被害の記述は一切なく、単に機体が展示されるのみとなりました。 --- 言うまでもなく、日本は原爆を「落とされた」側であり、アメリカは「落とした」側です。視点が違うわけです。それが端的に現れている例として、Wikipediaの日本語版にある写真は、地上から街の被害を写したものが主であるのに対し、英語版の写真は、上空からキノコ雲などを写したものが主です。 「落とした側」からも、原爆に対しては、肯定、否定、様々な議論がありますが、半ば「公式見解」のようになっている、原爆投下を正当化する議論は、おおよそ以下のようなものです。 原爆投下は、戦争の終結を早め、結果的に日米双方の犠牲者を減らした。日本が降伏せず、本土上陸を決行した場合、50万人以上のアメリカ軍将兵と、それ以上の日本人の犠牲が予想された。 しかし、原爆投下が、実際の街と人を使った「実験」の意味もあったのも事実でしょう。まず、原爆の投下に先立ち、ターゲットに選ばれた広島、小倉、長崎への空襲は禁止されました。原爆そのものの威力を正確に計るためです。投下は、効果の確認を可能にするため、晴れた日に限られました。エノラ・ゲイには、原子爆弾の威力の記録を行う科学観測機と写真撮影機も随行していました。さらに、原爆投下に先立ち、風圧等の観測機器を積んだ落下傘を三つ投下しています。 大小の飛行機がところ狭しと並ぶ暗い別館の中で、エノラ・ゲイは、アルミニウムがむき出しの無機質な機体を、のっそりと横たえていました。60年前の古い機体であるにも関わらず、表面はきれいに磨かれており、窓からの光を反射して、不自然なほどにピカピカと光っていました。 僕は観覧用に作られた歩道橋の上に立ち、その憎き機体を見下ろした時、「静かすぎて気持ち悪い」と感じたのを覚えています。60年前、その不釣合いに大きなエンジンを唸らせて日本まで飛んできて、腹から産み落とした子が地上に地獄を作った。その当の本人が、こんなにも寡黙に、かつ穏やかに博物館の隅で身を横たえている。退役軍人たちや市民団体のように、声を張り上げて、やれ賛成だ、反対だ、とも言わない。ある人からは栄光の象徴とされ、ある人からは憎しみの対象とされながらも、60年間貫き通した、アルミニウムの沈黙。 エノラ・ゲイの、ガラス張りのドームになっている頭部に向かって、「何でお前は黙っているんだ?」と、心の中で問いかけてみても、やはり彼女は黙ったままでした。黙り通すことが、彼女がここに展示されている意義なのだ、と理解することにしました。気持ち悪さを消せぬまま、閉館のベルに背中を押されて博物館を出て、ダウンタウンに戻るバスに乗り込みました。 - [壁](http://hiroono.com/ja/2007/07/09/ee/) - 「新・世界の七不思議」なるものが発表されたんだとか。「清水寺、無念の落選」とYahoo Newsに出ていましたね。 万里の長城(中国) コロッセオ(イタリア) マチュピチュ(ペルー) ペトラ遺跡(ヨルダン) タージマハール(インド) リオのキリスト像(ブラジル) チチェン・イッツァのピラミッド(メキシコ) このうち、僕が自分の目で見たのは、長城、コロッセオ、マチュピチュの3つです。清水寺も素晴らしいけれども、さすがにこの3つには負けたかな、というのが正直な感想。 この3つの遺跡に絡んで、過去の旅行で得たウンチクを、つらつらと書こうかと思います。今回はまず、万里の長城。 ●壁文化 中国語では都市のことを「城市」といいます。三国志を読んだことのある人などはご存知かと思いますが、中国の「都市」とは、古代より、城壁の中にあるものでした。街全体を城壁で囲い、戦乱時には、一般市民の住む都市全体を、城塞として機能させていたのです。隣国・韓国や、古代・中世のヨーロッパでも、それは同じでした。 (↑壁は川も越える。居庸関長城。) 近代化とともに、多くの都市ではこの城壁が邪魔者扱いされ、取り除かれました。明代の1402年以降、南京国民政府の時期を除き中国の首都であり続けた北京も、都市全体を囲む長大な城壁がありました。しかし、近代化とともにそれは破壊され、城壁の跡地は環状道路に変わりました。韓国の首都・ソウルも同様の経緯があり、壊された壁の僅かな生き残りが、市場で有名な東大門(トンデムン)です。 (↑北京の四合院。日付は間違ってます。ホントは2002年9月。) 壁は都市の周りだけではなく、個人の家の周りにもありました。華北地方の伝統的家屋である「四合院」がそれです。日本の家屋は、庭の中に家があります。対して、四合院は、家の中に庭があるのです。外に面した四辺は全て壁や建物で覆われ、さらに門から中庭を覗けないようにするために、外壁の内側にも「影壁」が建てられました。 (↑泰山の山頂にあった寺。やはり四辺は壁。) ●国を囲う壁 家や都市を几帳面に壁で囲ってしまう中国人にとって、国全体も壁で囲ってしまう、というのは、案外自然な発想だったのかもしれません。そういえば、「国」という漢字も、四辺を壁で囲われた形をしていますよね。 北京近くの観光名所になっている長城は、明代に作られたものを最近になって観光客向けに補修したもので、万里の長城のごくの一部にすぎません。おおもとは、2000年以上前、秦の始皇帝が群雄割拠の時代に各国で築かれていた長城を整理し、北の異民族の侵入を防ぐための、一本の防壁としたのが始まりです。その後も各王朝で拡張・改修がなされ、東は渤海から始まり、ゴビ砂漠の西端まで至る、総延長6000kmの壁になったのです。 (↑故宮の中は壁だらけ) 国を壁で囲う、というアイデアは、万里の長城だけではなく、古代ローマがイギリスに築いたハドリアヌスの防壁(これが後にイングランドとスコットランドの境界の元になった)や、ドイツのリーメスなどにも見られます。しかし、その規模においては、万里の長城に匹敵するものは世界中どこにも見当たらないでしょう。「世界の七不思議」に数えられることに異議を唱える人は、まずいないと思います。清水寺、申し訳ないけれども、完敗です。 ●インターネットを囲う「壁」 万里の長城も風化が進み、街を囲う城壁は環状道路に姿を変え、人も四合院ではなくマンションに住む時代、中国は新しい「万里の長城」をインターネット上に建設しています。 中国語では金盾、英語では"Great Firewall of China" (万里の長城の英名"Great Wall of China"にかけている)と呼ばれるものです。これは、中国にとって「有害な」情報を遮断するために、国家規模で行われているインターネット検閲システムのことです。 たとえば、中国国内で「天安門事件」「ダライ・ラマ」という言葉を検索しても、ヒット件数が非常に少なくなるそうです。WikipediaやBBCのサイトへのアクセスも制限されているとのこと。Googleもこの中国のネット検閲に協力しており、批判を受けています。将来的には、IPアドレスや単語単位での制限のみならず、AI(人工知能)を使った大規模な検閲システムになるとか。こっちの長城は、「世界七脅威」にでも数えられるかもしれませんね。 詳しくはここや、ここを参照してください。 (↑八達嶺長城。やっぱり日付は間違っています。。。) ●話は戻って 僕が中国を貧乏旅行で回った時は、お金を節約するため、現地で見つけた中国人向けのツアーで万里の長城へ行きました。北京からバスで、長城、明十三陵と、いくつかの観光名所を回る、日帰りツアーです。しかし中国人ツアーは日本のツアーよりも更にせっかちで、長城も一時間くらいしか見せてくれませんでした。しかももちろん全て中国語。遺跡の説明なんて分かるわけもなく。バスの発車時間を聞くので精一杯。いつか、時間をかけて、もう一度リベンジしたい場所です。 僕が中国に行ったのは五年前。まだビザなし渡航が認められていないときでした。貧乏旅行のせいで、人に厄介になりまくった旅だったのですが、みんな非常に親切だったのを覚えています。市場で豚を解体しながら、よく分からない説明を中国語でしてくれたおばちゃん。バスの中で携帯電話を貸してくれたおじちゃん。列車の中で日本人に興味津々だったおじさん集団。コイン集めが趣味のレストランの子供。 真っ黒な排ガスを巻き上げて、大渋滞の道を曲芸のような運転で走る車の数々。その脇に林立する高層ビル。商魂たくましい商人たちの客の奪い合い。ネオンがまぶしい王府井で、足にしがみついてお金をねだった物乞いの少年。僕が見た中国は、このような混沌としたエネルギーに満ち溢れていました。数千年の歴史の中で唯一、日本が中国に対して優位に立てた短い百年も、そろそろ終わるでしょう。古い壁を壊すことで、世界の中華たる地位を取り戻さんと、急成長を続ける中国。一方で、新たな壁を作り、自由・平等・民主主義の価値観に立脚して国を発展させた欧米諸国とは一線を画す立場を取り続ける中国。未来が、楽しみでもあり、怖くもあります。 (↑泰山の登山道の風景。やー、何度思い返しても、楽しい旅行だった。) - [百年の計](http://hiroono.com/ja/2007/07/27/eci/) - アメリカに二年住んで感じたのは、日本ほど、日常会話で政治の話題を避ける国はないのではないか、ということです。MITの人たちは、特にアメリカやヨーロッパの人は、若い人も、理系の人も(そもそも理系文系という概念は欧米にはない)、選挙の前となれば、気軽に政治の話をします。対して、日本では、飲み会で政治の話でも持ち出せば、ケムたがられるのがオチでしょうか。日本人が政治について考える時間が、みのもんたの無思慮で安直なコメントを、朝のニュースで聞く時だけならば、それほど恐ろしいことはありません。そんなわけで、ガチンコに選挙の話です。 --- 結論から書くと、僕は民主党を支持しません。 理由を大雑把に言えば、「マニフェスト」に並べられた政策は、「国家百年の計」ではなく、「民主党が政権をとるための計」としか思えないからです。 --- その最も象徴的な主張が、 > 2. 安心して子育てできる社会。 > 1人月額2万6000円の「子ども手当」を支給します。 この部分です。 少子化は深刻な問題です。国力は人口に比例するからです。では、この政策が、少子化対策として有効か。まずもって、日本の女性が子供を持たなくなった理由は、経済的に困窮しているからではないでしょう。 「26,000円もらえるんだって!だったら私、もう一人子供を産もうかな!」 そう安直に思う女性は、どれだけいるでしょうか。 出生率の低下の根本の原因は、働く女性が増える中、日本の子育てが未だに家庭内の女性に依存しているからです。ならば、月26,000円を一律にばら撒くのではなく、その財源を、託児所の整備と補助などに重点的に配分するべきです。補助金のばら撒きは、決して出生率の向上に寄与しません。子供が既にいる家庭の可処分所得が26,000円増えるだけでしょう。子供の小遣いは増えるかもしれませんが、子供の数は増えません。 --- さらに怪しいのが、この「26,000円」という額が、いったい何を根拠に計算されたのか、全く不明である点です。唯一の根拠となりそうなのが、マニフェスト巻末にある財源の説明。これを読む限り、「無駄を省くことで得られる財源、15.3兆円」(これがまた非常に怪しい)から、年金対策などに必要な金額を引き算したのち、現在の15歳以下の子供の頭数で割り算したら26,000円になった、としか理解できません。なぜなら、たったの6項目からなる「主要政策に必要な経費」を足すとキレイに15.3兆円ぴったりになり、うち「子ども基金」分の年4.8兆円を、月額26,000円×12で割ると1500万人、これは現在の15歳以下の子どもに人数にぴったり一致します。つまり、26,000円は、何か妥当な経済モデルを仮定し、出生率をどれだけ上げるにはどの年齢層にいくらの追加所得があればよい、と計算されたのではなく、今現在の税収と人口分布のみを仮定し、単純に引き算と割り算でばら撒き金額を最大化した結果でしょう。 「創業は易く守成は難し」(事業を始めるのは簡単だが、維持してゆくのは難しい)とは、中国史上最高の名君とも言われる、唐の第二代皇帝、太宗の言葉です。 もし仮に、民主党の計算がピッタリ合えば、子供ひとりあたり26,000円の補助を「始める」ことは、おそらく可能でしょう。しかし、税収や人口分布は常に変動します。例えば、将来景気が後退したり、労働者人口が減って、税収が減ったらどうするのか。あるいは、めでたく「子ども基金」の効果が上がって少子化が改善され、子どもの数が増えたら、または、再びデフレが起こって、貨幣の額面価値が上がったらどうするのか。財源不足は眼に見えています。しかし、一度26,000円の補助が世の中に定着してしまっていたら、それを減額するとなると、消費税増税と同様に国民の猛反発に遭うこと必定です。となれば、国債発行でしょうか。防衛費にも匹敵する5兆円もの「子ども手当」は、国債と同じく、手のつけようがない、厄介な荷物になってしまいます。26,000円のばら撒き補助を始めるのは容易かもしれません。しかし、それは、果たして百年先まで維持できる金額として計算されたものか。国家百年の計によるものなのか。もしそうでなければ、そのツケは、26,000円を貰ってハッピーになっていた子供が大人になる頃、彼らの肩に重くのしかかるでしょう。 --- では、なぜ「ばら撒き」システムがいけないのか。それは、動かせるパラメーターの数(自由度)が極端に少なく、世の中の動きに臨機応変に対応できなくなるからです。例えば、一律26,000円を支給する、といったシステムがあった場合、その後の行政が動かすことのできるパラメーターは、「26,000円」という金額の、たったひとつだけです。一方、いつ、誰に、いくら、どのような方法で資金を投下するかを臨機応変に変えれらるシステムならば、動かせるパラメーターの数(自由度)が格段に多くなり、世の変化に合わせて効率の良い資金配分ができます。「理系」の言葉を使えば、与えられたデータに対してカーブフィッティングをする場合、より高次の(=パラメーターが多い)多項式で近似する方が最小二乗誤差を小さくできる、それと同じことです。 あるいは、競馬で例えると分かりやすいでしょうか。ばら撒きシステムとは、全レースとも3番単賞一点買いと予め決めておき、レースごとに掛け金のみを動かすようなものです。それよりも、馬の調子、馬場の状態、最近の成績などから総合的に判断し、臨機応変に、賭けるレースを取捨選択し、賭ける馬と、賭ける方式を選ぶほうが、明らかに多くの配当を望めますよね。 --- 「子ども基金」の他にも、農業の効率化と逆行する零細農家への補助金のばら撒き、2050年までに50%の温室効果ガス削減という、これまた計算の根拠がどこにも書いていない数値目標、そして何より、「無駄を省く」の五文字で片付けてしまった15.3兆円もの財源確保。民主党の提示する政策は、国家百年の計を無視した、目先の人気取りのための皮算用としか思えてならないのです では、一方の自民党は国家百年の計を考えているか、と問われれば、やはり疑わしい。加えて、安部さんのタカ派路線と、政局運営の下手さは非常に気になる。もちろん、失言、事務所費云々も気になるところでしょうが、投票する側も「国家百年の計」を考え、目先のことだけではなく、もっと大きな政策に眼を向けて投票するべきだと思います。今回は消去法で自民党か、というところです。 付け加えとしてもう一点、民主党で気になるのは、人材不足です。結党以来9年、管、鳩山、岡田、小沢、この4人以外に、顔となる有力政治家を民主党は輩出したでしょうか。しかも4人とも全員、自民党出身です。前原さんという新顔が出てきましたが、一瞬で自滅しました。まだまだ党として未熟、そんな気がします。 一刻も早く、政権交代可能で、健全な野党が出てくることを願いつつ…。 民主党マニフェスト:http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2007/pdf/manifesto_2007.pdf 参考記事:http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/71638 - [ラディカル](http://hiroono.com/ja/2007/07/29/yeycyyye/) - 前回に続き、民主党批判を・・・ 「マニフェスト」によると、民主党が提唱する政策実行のための財源15.3兆円は、「無駄を省く」ことで捻出する、とのこと。 では、「無駄を省く」のたった五文字で、15.3兆円もの金額が出てくるのか。 --- ひとつ、注意したいことがあります。確かに、民主党の言うとおり、これだけの金額が「無駄」に使われているのは事実かもしれません。しかし、その15.3兆円だって、虚空に消えているわけではなく、日本にいる誰かの懐に入り、その人の生活を支えているのです。 たとえば、「マニフェスト」で槍玉に挙げられた、ゴルフ場やリゾート施設の従業員。公共事業に従事する作業員や、そこへ重機などを卸すメーカーの工場で働く人。「天下り先企業」で働く事務のおばちゃんたち。 民主党が、15.3兆円を安易にチョキン、と切ってしまえば、莫大な数の失業者が発生するでしょう。 では、どのくらいの数の失業者が出るか、大まかな推定を試みたいと思います。人権費が、平均して年間500万円ならば、15.3兆円から割って、 300万人。もちろん、この計算はあまりにも単純で、正しくはありません。しかし、100万人の規模で失業者が増える、というのは、強ち的外れな推定ではないのではないでしょうか。 --- すると当然、その100万人に、新たな職を探してあげる必要があります。つまり、100万人規模の雇用創出です。しかし、「マニフェスト」に書かれた15.3兆円の使い道を見れば、子ども基金、農家への所得補助、高速道路無料化、など、いわゆる「ばら撒き」ばかりで、全く雇用創出や産業振興につながらない。つまり、15.3兆円カットで発生した失業者は見殺し、ということでしょうか。 --- 冒頭に述べたように、今の財政運営に、信じられない額の「無駄」があるのは事実でしょう。また、それを解決していかなくてはならないのも、もちろんです。しかし、そもそもの問題は、日本の社会が巨額の「無駄」に完全に依存する体質になってしまっていることです。体質改善は一朝一夕にはならない大仕事です。民主党の提案するようなラディカルな変化は、社会の混乱を生むだけです。 「無駄」を無くすには、いままで「無駄」に頼って生活していた労働力人口を吸収するだけの、十分な産業振興と雇用創出が絶対に必要なのです。そして、産業や雇用は、公共事業の乱発でもしない限り、1年や2年でホイホイと育つものではありません。 15.3兆円とは、あまりにも莫大な額です。日本が安定して発展しつつ、その無駄を無くしてゆくには、民主党の言うような、安易でラディカルな政策ではなく、先の日記にも書いたとおり、「国家百年の計」に基づいた、入念な計画が必要なのだと思います。 前回の日記はこちら。 - [寿司を振舞う今日は深海](http://hiroono.com/ja/2007/08/16/eoenaeui/) - 明後日、帰国。 よって、明日、論文提出。 よって、今日、寿司を振舞う。 うちの研究室には変な「しきたり」があって、学位を取った人がみんなに手作り料理を振舞う、という決まりになっています。要は、自分の卒業を自分の料理で祝う、ということ。つまり、今度マスターを取る僕が料理を作る番。そんなわけで、おおよそ美味というものを知らない可哀想なアメリカ人たちに、ジャパニーズ・フードの実力をとことん思い知らせるため、腕をふるって寿司を作ったわけです。 といってもまあ、自分で準備することなんて、スシメシを炊くくらい。でも今日はちょっとだけ気合を入れて、だし巻き卵なんぞに初挑戦。 うーん、ぼってり。「巻き」というより「塊」。でもけっこうジューシー。ふっくら卵から染み出す甘いだし汁。「母の味」には程遠いけれども、悪くはなかろう。 魚は車で20分ほどのところにある日本食店で購入。お新香、キュウリ、納豆、梅干も。うん、我ながら上等上等。 (右下の、存在感抜群のジーサンが、僕の指導教授。) ラーメンズのビデオで事前に予習させた甲斐もあり、アメリカ人たちにも概ね盛況。卵やお新香の売れ行きが好調なのに対し、やはり彼らは生魚は苦手なようです。一方、みんな海苔にご飯をてんこ盛りの極太巻きにするので、五合のスシメシはみるみる減っていく。結果は、大量の刺身の残り。 さて、これをどう消費するか。捨てるのは余りにももったいない。(←この「もったいない」は、日本人特有の感情だそうな。詳しくはここ。)昼飯を食べ損ねた日本人の友人、Aさんがかなり消費してくれたものの、一向になくならない生魚の山。結局、3時は刺身、夕食は海鮮丼。なんて贅沢。しかし、帰国二日前にして生魚が飽食気味。日本に帰る楽しみがひとつ減ったー。 生魚の山をお腹に収めたら、次の仕事は修士論文。朝のミーティングで、ご機嫌斜めの指導教授から散々文句を言われたせいで、今晩の仕事がどっさりと増えた。そのくせ、その教授は寿司を食べた後はえらいご機嫌になって、一時間も笑い処がイマイチ分からんブラックなジョークを話し続けた。朝に寿司を出せば良かったか…。 そんなわけで、現在せっせこと論文を直しています。BGMは、ひさーしぶりに聴いたミスチルの「深海」。たぶん魚つながりの連想が選んだ理由。それにしても、いいね、このアルバム。多分ミスチルの最高傑作。しーらーかーんす。ブログなんて書いていて、論文がちゃんと終わるのか、知らーんかーんす。 - [遂にフィニッシュ、修士論文!!](http://hiroono.com/ja/2007/08/17/eeyoyyeyayyaciiae/) - 遂にフィニッシュ、修士論文!! 身一つでアメリカに乗り込んで丸二年。本当に山あり谷ありだった。日本の同級生たちに、半年の遅れをとっての修士卒業。やー実に感慨深い。 本当にいろいろと苦労した。指導教官がみつからない。授業の宿題を消化しきれない。主張したいことの半分も伝わらない。でも、そうして人より苦労した分、人よりいい経験がつめたはず。思い返してみて、本当に分厚い二年間だった。 これで一区切り。明日の朝の飛行機で日本へ。アメリカに帰ってきたら、別の指導教官の下で、PhDを目指します。 - [夏の終わりの Saturday in the Park](http://hiroono.com/ja/2007/09/02/aeiiei-saturday-in-the-park/) - 水曜日、二週間ぶりにボストンに戻ると、早くも紅葉が始まっていた。札幌と同じ緯度にあるボストンでは、夏は遅く来て早く去る。 僕が留守の間、ボストンはだいぶ冷えたらしいが、今週末は暑さが戻った。もっとも、ボストニアンが言う「暑さ」は、東京の「暑さ」とは全く違う。日差しは強いけれども風はさわやか。人々は冷房の効きすぎた屋内から、通りへ、公園へ、お日様を浴びに出てくる。 (↑ Newbury St.) そんなわけで、久々に暇な週末を楽しみに、街へ散歩に出た。自宅の目の前を流れるチャールズ川を渡り、ボストンで唯一のショッピング街・NewburySt.に沿って、ボストンの中心にあるPublic Gardenへ。日比谷公園の半分ほど敷地に、芝生があって木があって、銅像があって噴水があり、池があってカモがいる、そんな、アメリカのどこの街にもあるような公園が、Public Gardenだ。 面積はNew Yorkのセントラルパークの30分の1にも満たないが、歴史ならばこっちの方が長いぞ、というのがボストニアン達の自慢。そう、ボストンは何かとNYに対抗意識を燃やすのだが、規模ではどうにも勝てっこない。そこで、何でも大きいことを自慢するあちら様に対して、こちらは何でも古いことを自慢にする。全米最古の地下鉄、大リーグ最古の野球場、全米最古の公共図書館、そんな具合だ。 自転車を押して、Public Gardenに入る。冬は閑散とするこの公園も、夏の休日は太陽と老若男女で溢れている。ストリート・ミュージシャンの歌をBGMに、徒党を組んでそぞろ歩きする観光客、芝生で日光浴を楽しむカップル、子供の写真を撮るのに忙しい親たち、犬を散歩させる飼い主たち、あるいは飼い主を散歩させる犬たち。 白いふわふわの毛をした大きな犬が、通りかかったミニチュア・ダックスに突進し、紐がベンチに絡まる。たちまち二匹のマスコットは、微笑ましい仕草に足を止めた通行人たちに囲まれる。ダックス君は尻尾を股の間に挟み、びくびくしながら白い犬に近づく。白い犬がペロリとダックス君の鼻を舐めると、びっくりして後ずさりする。ダックス君本人は必死なのだろうが、通行人は笑うばかりで何も助けてくれない。肝心の飼い主も、向こうの飼い主とお喋りに夢中で相手にしてくれない。喋ってないで助けてよ!そんなダックス君の文句が聞こえてきそうだ。 スペイン語を喋る二人が、池を渡る橋の上で写真を取っている。一人は腰が曲がったおばあさん、もう一人はその娘だろうか。娘に肩を抱かれたおばあさんが、この上なく嬉しそうな顔をしている。娘は故国を離れ、アメリカへ出稼ぎに出て10年。ようやく親を呼び寄せるお金も貯まり、涙の再開をした後、初めての休日に、母親にボストンを案内している。そんなありきたりな物語を造って、彼女たちに当てがってみる。 噴水前で写真を撮る新郎新婦の横を通り過ぎ、池の端のベンチに腰を下ろす。近くではギターの弾き語りが延々と続く。隣のベンチに子連れの親子がやってきて一服する。しかしベンチなんて疲れた大人のもの。子供たちはそんな退屈な場所にじっとしていられない。親の膝から滑り降りて、よちよちと道を歩き、ギターを弾くお兄さんを下から覗き込む。彼はコーラスの途中で歌を止め、ピックを持ったまま子供に手を振る。すると子供は嬉しそうな顔をして親のところに戻ってくる。 乳母車をよちよちと押して歩く三歳くらいの女の子と、妙に目が合った。彼女が三度目にこっちを振り向いたときに手を振ると、四度目に振り向いたときに手を振り返してくれた。 知らない曲のギターの弾き語りは、どれも同じに聞こえてしまう。一度だけ、知っている曲が流れる。Pink Floyd の "Wish You Were Here". ついつい歌ってしまうのが僕の性分。気付くと、隣のおじさんも鼻歌を鳴らしている。 喉が渇いたので、再び自転車を押して、公園の隣のStarbucks Cafeに向かう。カメラマンがまだ花嫁を追いかけている。その花嫁は少し疲れ気味だ。アイスコーヒーを買ったのち、公園に戻る。 この公園のマイナーな名物が、「カモさんお通り」の親子カモの像。母ガモが、元気がいい子ガモを8匹、連れて歩いている像だ。母ガモが高さ70cmくらい、子ガモが30cmくらい。要は、子供がまたがるのに丁度いい大きさ。こんなものが公園にあれば、使われ方は自ずと決まってくる。子供がカモにまたがってはしゃぎ、親はそれを写真に収めて喜ぶのだ。 子供が4、5人、連なってカモにまたがる。先頭の母ガモにまたがった坊やは得意げだ。後ろを向いて、子分たちに、「俺についてこい」と威張る。その親たちが、どのようなアングルで写真を撮れば我が子がかわいく写せるか、思案に暮れている。しかし、1分もじっとしていられないのが子供というもの。いいアングルが見つかった頃には、子供たちはその中にはいない。 2、3歳の坊やが、お父さんに肩車をされてやってくる。恐ろしく眼力が強い子で、まばたきひとつせずに子ガモの像の一羽を睨んでいる。彼が両手でお父さんの頭をモミモミしたのは「下ろして」の合図だったらしい。下ろされる間も常に視線はロック・オン。地面に足が着くと、睨んでいたカモの像を目がけてガニ股で突進し、満足そうにまたがった。そろそろ行くぞ、と父親が近づくと、彼はガニ股でよちよちと逃げる。それを父親は後ろからひょいと抱き上げ、肩に乗せて、歩み去っていった。 しかし、こうやってアジア人の男が独りで30分もベンチに居座り、子供を見ながらニヤニヤしているのはいかにも怪しい。間違いなく誘拐犯だ。そろそろ行くか。帰って片付ける仕事がいくつかある。読むべき論文も何本かある。来週から学期が始まるから、取る授業も考えなくては。そんなことを考え、溜息をつきつつ、自転車を押して公園の出口に向かい、その去り際に、太陽と人で溢れた公園を振り返って見て、ああ、結局幸せってこういうものなのかもしれないな、などとジジくさいことを想ってみたりした、夏の終わりの、Saturday in the Park. - [月とベトナム](http://hiroono.com/ja/2007/09/11/ieyuyeyeya/) - "In the Shadow of the Moon"という映画の試写会がMITであったので行ってきた。人類を月へ送り込んだアポロ計画のドキュメンタリー映画である。1961年のケネディの演説から始まって、1969年に星条旗が月面に掲げられるまでの、アメリカの偉大なる宇宙開発の歴史を、実際に月に行った宇宙飛行士たちのインタビューを交えて紐解いてゆく、という、まあ言ってしまえば、至極ありふれたドキュメンタリー、ありふれたアポロ賛歌だ。 僕が宇宙工学を志して、はや五年。日に日に、自分がやっていることへのジレンマが深まっていくのを感じる。小さい頃からの宇宙好きで、紙とセロハンテープでアポロ宇宙船の模型を作って遊んでいた。それがそのまま突っ走って、自分の専門になった。しかしこの五年間で、僕の宇宙工学への見方は、確かに変わった。知れば知るほど裏が見えてきたせいかもしれない。旅や留学を通して世界が広がったせいなのかもしれない。いずれにせよ、五年前のように、宇宙工学をただただ「かっこいい」とは、思えなくなってきた。 今日の映画のラスト近くで、アポロ13号の船長、ジム・ラベルが、感慨深げにこう言う。 「アポロ計画の意義は、科学的成果に留まるものではない。人類が始めて地球を出たことで、人類が地球を知ることになったのだ。月の軌道から見れば、地球なんて親指に隠れてしまうほどの大きさだ。その上に、30億人の人が住んでいるのだ。30億人が、小さな地球を分け合っているのだ。アポロ計画は、そのことを客観的に人類に知らしめた点において、大きな意義があった。」 忘れてはいけないことがある。ジムが宇宙船の窓の外を眺め、地球を親指で隠しては人類共存の幻想に浸っていた頃、彼の親指の向こう側では、彼の母国が、ベトナムの街に爆弾を落とし、森に枯葉剤を撒いていたことだ。 結局、アメリカが月へ人類を送り込み、「人類の共存共栄」という素晴らしい理想を得てから、意地を捨ててようやくベトナムから撤兵するまで、実に4年もかかることになる。戦争が終結するまでにはさらに2年を要した。理想は具現化されることなく、理想のままで終わった。 宇宙開発、とりわけ有人宇宙開発が人間社会にもたらす利益を語る時、使われる言葉は、上に引用したジム・ラベルのそれのように、常に壮大で、魅力的で、希望に満ちていて、そして抽象的で曖昧だ。例えばNASAのWeb pageの言葉を引用すれば、アメリカが人類を月や火星に送ろうとしているのは、"for purposes of human exploration and scientific discovery" (人類の探検と科学的発見のため)で、"critical milestones in America's quest to become a truly spacefaring nation" (アメリカが真の宇宙開発国家となるための道のりにおいて、欠くことのできないマイルストーン)だそうだ。 科学的知見を広げてゆくことは、間違いなく人類に課せられた使命であると僕は信じる。また、アポロの成果自体は何ら否定されるべきものではない。あれは間違いなく、人類の歴史に高々とそびえる金字塔だ。もしも有人火星探査に成功すれば、それはアポロを超える偉大な業績となるだろう。しかし一方で、そこから得られる人類への利益は、どれも抽象的なものばかりな気がしてならない。探検。発見。冒険。そんなもので、飢えている子供の腹は満ちない。エイズの薬は届かない。埋められた地雷は消えない。死んだ母は戻らない。 こんな偉そうなことを言いながら、そしてジレンマを抱えつつも、自分は九月からMITの航空宇宙の博士課程に進学した。なぜか。見栄を張れば、宇宙工学だって使い方次第で具体的に人の役にたつ仕事ができるという希望を持っているから。弱気になれば、いまさら道を変えられないから。少し意地を張れば、一度自分で選んだ道から、何も成さぬまま逃げたくないから。一方で、研究の軸足を宇宙からロボットに移しつつあるのは、このジレンマのせいもあるかもしれない。 博士課程卒業後の人生プランは全くの白紙。このまま宇宙を突っ走るのが賢明か。それとも、PhDを区切りとして何か新しいこと始めるべきか。そろそろ真面目に考えなくては、と思いつつも、もう煩わしいことは一切捨てて、世界を放浪でもしたいな、なんていう風に考えが反れたり。 上の写真は、アポロ11号が人類初の月面着陸を成し遂げたあと、月に残してきたプレートだ。そこにはこう書かれている。 Here Men From Planet Earth First Set Foot Upon the Moon July 1969 A.D. We Came in Peace For - [アメリカの「性」より始まった考察](http://hiroono.com/ja/2007/09/22/ycyayeyioaeeithai/) - これといってすることがない金曜の夜。作り置きしたカレーを食べながら、テレビのコメディー・チャンネルの映画をぼんやり眺めていたのですが、コマーシャルで「セックスは結婚するまで待とう!」という公共広告が流れていて、びっくりしました。小さな子供が何人も出てきて、結婚までセックスを控えればこの子達の明るい将来が拓けますよ、という内容。間違いなくキリスト教右派が流しているのでしょうが、ここまでするか、というのが所感です。 「アメリカは性に奔放だ」と思われがちかもしれませんが、決してそんなことはありません。平均すれば日本よりもよっぽど厳しいのではないのでしょうか。分散が非常に大きいだけです。つまり、奔放な人たちは本当に奔放だし、厳格な人は本当に厳格です。 (追記:2007/9/24) 現在までにアメリカの16の州で、双方の同意の上での婚前交渉も罪とする法律が成立しているそうです。多くは連邦最高裁によって違憲判決が出ているのですが、モルモン教の本拠地、ユタ州では、未だに婚前交渉が罪になるそうです。(参考ページ)(追記おわり) 数年前、スーパーボールのパフォーマンスで、ジャネット・ジャクソンが「ポロリ」をして大問題になったのを覚えているでしょうか。僕なんかは、お祭りなんだし目の保養になるし、いちいち目くじら立てなくてもいいじゃん、と思うのですが、アメリカの保守的な人たちは、あの手のことを決して許しません。 日本のテレビもここ数年は随分厳しくなりましたが、一昔前は、新春かくし芸大会の裏番組で野球拳をやっていたり、深夜には地上波でもエロ番組を流していたりしましたよね。僕も中学生くらいの頃は、毎週土曜日の深夜、親が寝静まるのを待って静かに寝室を抜け出し、テレビの電源を入れた瞬間に音量を最小、チャンネルを12にセットし、深夜2時に「ギルガメッシュナイト」が始まるを、ドキドキしながら待ったものです。 アメリカの地上波では、どんなに夜遅くでも、あのようなエロ番組が放送されることは決してありません。「ミニスカポリス」程度のお色気番組でもNGです。紅白のDJ OZMAのパフォーマンスも確実にNGでしょうね(笑)そんなものを流せば、キリスト教右派から非難轟々でしょう。ダチョウ倶楽部や江頭2:50がお得意のお下品ネタもNGです。 同性愛に関しても同様です。「アメリカは同性愛に寛容」というイメージが日本ではあるでしょうが、そんなことは決してありません。僕の住むマサチューセッツ州では、3年前に同姓婚が合法化されましたが、それはマサチューセッツがアメリカで最もリベラルな風土を持つからです。中部や南部の保守的な州で同姓婚が合法化されることは決してないでしょう。僕の好きな"RENT"というミュージカルにはゲイやレズのカップルが出てくるのですが、ミュージカル好きのキリスト教徒の友達は、「RENTは好きじゃない」と言っていました。また、別の熱心なキリスト教徒の友達が、日本のコメディーを見たいというので、レーザーレモンHGを見せたところ、ひどく怪訝な顔をして「全く面白くない」と言っていました。ゲイの上にお下品、HGがアメリカのお茶の間にデビューするのは不可能なようです。 アメリカはもともと、ピューリタン(清教徒)などが先駆けて移民して出来た国です。そのせいかどうかは知りませんが、キリスト教右派(福音派など)に属する人が非常に多く、強大な政治的影響力を持っています。現在の不人気な大統領、ジョージ・W・ブッシュもメソジスト教会の信徒で、キリスト教右派は彼の強力な支持母体です。 彼らの保守的な態度は、性に対してだけではありません。科学に対しても同様です。とりわけ、彼らは進化論を目の敵にします。「神がアダムとイブを創った」という聖書の教えと矛盾するからです。 2005年にカンザス州で、学校の理科の時間に、進化論と同様に「インテリジェント・デザイン説(ID説)」も教えなければいけない、という決定がなされました。ID説とは、「生命は『偉大なる知性』によって創造された」と説く、なんともいかがわしい「科学」です。要は、宗教色を薄めて「科学」の隠れ蓑を着せるために、聖書の「神」を「偉大なる知性」に置き換えただけのものです。「偉大なる知性」などという反証可能性のない存在を仮定している時点で科学ではあり得ないのですが、キリスト教右派はこれを「科学」だと主張し、小学生に刷り込もうとするわけです。 余談ですが、このID説を皮肉ったパロディーで、「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」というのがあります。なかなか面白いので、時間があれば上のリンクを見てみてください。 どうも僕はこの「キリスト教右派」に対して好感を持てません。彼らが保守的な思想を持つこと自体は一向に構わないし、彼ら自信がそれを実践するのも何も問題はありません。しかし、困ったことに、彼らはその強大な政治的発言力を使って、違う考えを持つ人たちにも自分の考えを押し付けようとする傾向があります。イスラム原理主義が武力を使って彼らの考えを他人に押し付けようとするのと、似ていなくもないですよね。 拡散した話をそろそろ収束させなくては。つまり、アメリカという国は、日本で思われているよりもずっと保守的な国です。同時に、人々の価値観のばらつきが非常に大きな国でもあります。出る杭を打たなくては気がすまない日本と違い、平均から外れた考えを持っていても胸を張って生きられる国だ、ということでもあります。一方で、保守 vs リベラルの対立軸が非常にはっきりしていて、進化論、同性愛、妊娠中絶、銃規制、移民問題など、論争は尽きません。それなのに、星条旗の下、国の結束は常に保たれている。多様性と対立を内包した結束。これこそが、アメリカの強さの源なのではないか、とも思います。 --- 参考:「純潔」を訴える団体 True Love Waits Silver Ring Thing Free Teens --- 追記 (6/16): ケイティ・ペリー (Kety Perry)というアメリカの女性歌手が、"I Kissed A Girl"という曲で女の子同士のキスを歌ったところ、「思春期の子供を持つ全米の保護者が猛反発」とのこと。新しい情報をシャットアウトすることで既存の価値を守ろうという姿勢、僕は好きではありません。 参考:全米の保護者を大激怒させた、お騒がせアーティスト - [25歳、新しい始まり](http://hiroono.com/ja/2007/10/11/25dhcithe/) - 二週間ほど前に、25歳になった。四半世紀、区切りの歳、二十代後半の始まり。加えて、アメリカでは年度も九月に始まる。留学三年目、ドクターの一年目。新しい研究室、新しい環境、新しい研究テーマ。去った友達と、新しい仲間。別れと、出会い。もうすぐ秋が終わって長い冬に入り、短い春が過ぎれば夏になる。切れ目のない輪に恣意的につけられた印は、しかし僕にとっては確かに様々の終わりと始まりを意味する。 その印は、25年前、僕がこの輪の上に落ちてきた時に、親が付けてくれた。その時から、僕はこの輪を25周も回ったことになる。始めは親に抱かれて、しばらくすると四つん這いで。やがてヨチヨチ歩きで、そして最近やっとまともに歩けるようになってからは、自分の力で輪を回った。印を通るたびに、昔は長かった一周も最近はこんなに短いものかとびっくりし、自分の歩みのペースがどんどん上がっていることに気付く。足に溜まった疲れはむしろ心地よく、消化した道のりは素晴らしい景色に溢れていて、26周目がますます楽しみになる。 (↑「火星ローバー」の乗ったケーキ) 誕生日の夜は、友人が数人の仲間を集めて、近くのアイリッシュ・レストランで夕食会を開いてくれた。牛追い祭りで有名なパンプローナ出身の彼は、酒に酔った牛のイラストが描かれたTシャツをプレゼントしてくれた。 親からも誕生日プレゼントが小包で届いた。中身は箱いっぱいの和食と和菓子だ。ホタテの貝柱は僕の大好物。即席みそ汁、和風スパゲッティーソース、胡麻ふりかけ。血行促進肩こり解消の秘薬「にんにく卵黄」に、「毎日飲んでください」と母からの手紙が添えられている。 最近あった日本文化紹介イベントのついでに、友人がサプライズでケーキを作って祝ってくれた。しかもケーキの上にはチョコレートでできた「火星ローバー」が乗っている。なんとも粋でGeekyな計らいが、本当に嬉しかった。 友人が旅先から葉書をくれた。差出日が計らずも僕の誕生日で、それが妙に嬉しかった。 そして、新しい日々が始まった。三度目の正直か、二度あることは三度あるか、賽を投げる前は不安と期待が五分五分で、でも勢いまかせに投げてしまえば、実は不安なんて取るに足らないものだったと思えてくる、そんな自分の楽天的な性格に感謝。巡り合わせの幸運と、巡り合った人の優しさにも感謝。今まで何も知らなかったから、一歩進むごとに新しいものが見つかるのが嬉しい。ゴールも予定も決めていないから、今踏み出す身軽な一歩が楽しくてたまらない。そう、僕は決して頑張っているのではない。楽しんでいるのだ。 - [寿司 in USA](http://hiroono.com/ja/2007/10/18/e-in-usa/) - 寿司。ヘルシーな食べ物としてアメリカでもすっかり市民権を得ていて、お昼になれば大学のコンビニにも寿司の弁当が並びます。味も悪くはない。醤油はヤマサ、創業1645年、お前らの国よりも130年も古いんだぞ、どうだ、参ったか。 しかーし、アメリカの巻き寿司、何かがおかしい。何がおかしいかって、海苔が内側にあって、ご飯が外側にある事。どうもアメリカ人は歯の裏にひっつく海苔の食感が嫌いらしく、直に口に触れるのを好まないそうな。 (↑今日の昼ごはん。左はアナゴ、右はキュウリと数の子、ネタもなかなかセンスがいい。$7.75は若干割高か。) にしても、食べにくい、食べにくい。素手で食べたら手がべとつく。箸で食べたらすぐに崩れる。スプーンで食べるのは寿司に失礼。いっそガーッとかき混ぜて、ちらし寿司にしてやりたい気分。 と、文句を垂れつつも、和食は和食。ドーナッツやピザと並べると後光が差して見える。留学しても寿司が食べられるなんて、ありがたや、ありがたや。グローバル化万歳。合掌。 追記(10/18 EDT): さきほど、裏表逆の寿司の作り方を覗いてきました。 1. 海苔の上にすし飯を薄く平らに盛る。ここまでは日本と同じ。 2. 1.で出来たものを裏返し、すし飯が下、海苔が上に来るように置く。 3. 海苔の上に具を盛る。 4. 具が内側になるように巻く。 5. ひとくちサイズに切る。 裏返して海苔の上に具を載せるとは、日本人にとってはまさにコペルニクス的転回。今度アメリカ人を日本でもてなす時は、ぜひとも肉でパンを挟んだハンバーガーを振舞ってあげたいですね。 - [三味線になったつよし](http://hiroono.com/ja/2007/10/21/iatheeaae/) - そろそろ満4歳になる、我が愛用のノートパソコン「つよし」。前回の故障もHDDの交換で乗り越え、まだまだ健在です。 しかし最近、ちょうつがいが緩くなって、画面が向こう側にペッタリと倒れてしまい、非常に使いづらくなってしまいました。そこで大修理を決行。とことんパソコンを分解し、ちょうつがいを締めるネジを探したのですが、結局見つからず。 仕方なくクラシカルな解決法。画面の上とキーボードの手前の間に糸を張り、画面が倒れてしまわないようにしました。 写真の通り、ご老体のつよし、見事復帰。張られている糸、見えますか? 単にパソコンが直っただけではなく、この糸、ふたつの予想外の楽しい効果も生みました。 ?ネタになる。カフェでパソコンを開くと、見知らぬ人とも話題が生まれる。 ?楽器になる。糸を弾けばベンベンと三味線のような音がします。蓋に力を加えると音の高さを変えられる。小刻みに振動させればビブラートがかけられる。左手で軽く弦に触れながら右手で弾くと、ギターのカッティングのような音が得られる。 張った糸はナイロン線なので、クラシック・ギターの弦と同じ素材。じゃあつよしにサウンドボックスをつければ、ギターの音がでるのか? 今、ふと思い出したのだけれども、小学校の国語で、「スーホの白い馬」という話、ありませんでした?愛馬が殺されて、馬頭琴になる話。じゃあ愛用ノーパソがギターになる話を書いたら売れるだろうか。 ところで、分解して直したとき、なぜか余ったネジが1本…まあ動くから問題なし! --- 補足:もちろん、「つよし」という名前は、稀代のスーパースター、新庄剛志から取ったものです!! - [さあ、Dice-K](http://hiroono.com/ja/2007/10/21/uccdice-k/) - 日本は中日の5タテで沸いているようだが、メジャーリーグもプレーオフの真っ盛り。我がレッドソックスは2連勝で3勝3敗に戻し、リーグ優勝は明日の第7戦の結果にかかっている。そしてこの天下分け目の試合に登板予定なのが、Dice-Kこと、松坂大輔。 勝てばヒーロー、負ければA級戦犯。どんな気持ちで今晩を過ごしているのか。98年の甲子園、準々決勝は延長17回を投げきり、準決勝は松坂がリリーフ登板したとたんに6点差をひっくり返しての逆転勝利、そして決勝はノーヒット・ノーラン。鳥肌が立った。あの松坂をもう一度みたい。甲子園を見ていなかったアメ人たちに、本物の松坂を見せつけて欲しい。 しかし、松坂は自分とたった2歳しか離れていないのに、全ての日本人とボストニアンからの期待を両肩に載せて、世界を舞台に戦っている。それと引き換え自分は未だに大した結果も出せぬまま、無為に時間だけが過ぎていく。もちろん、自分と松坂を比べるなんて大げさだし、まだ25歳、焦ることなんてないんだろう。でも、自分は少なからず、名を挙げたい欲、大きな事をしたい欲があると思う。松坂のように自分と歳が近い人が活躍しているのを見ると、日ごろは抑えているそのような欲たちがモゾモゾと動き出す。 25歳。源義経は平家を滅ぼして新しい時代を拓き、アインシュタインは特殊相対性理論を発表して物理の常識を覆し、ポール・マッカートニーはSgt. Pepper's Lonely Hearts Club Bandでロックに革命を起こした歳。ガロアに至ってはとっくに死んでいる。一方で、カエサルが力をつけたのは35歳を過ぎてから、北条早雲が浪人から身を起こして歴史の表舞台に立ったのは50を過ぎてから(実年齢に関して異説があるらしい)。 一生、「大器晩成型」で終わりたくなんてない。でも、まだ焦る必要はないはず。きっと大事なのは、持続する意志。日々を悠長に過ごしつつも、きっといつかは、と信じながら、目の前にあるものをこなしていくしか、ないのだろう。 追記:今、メールをチェックしたら、修士の時の指導教官からのメールがあった。僕の修士の研究内容で出した論文が通ったらしい。松坂にはちっともかなわないけれども、少しだけ、前に進めた気がする。追記2:もう一度よくメールを読み直したら、通った論文は、僕がfirst autherで出した方ではなく、second autherで出した方だったみたい。First autherの方も無事通ればいいんだけどな・・・。 追記3 (2007/12/10): First autherで出した論文も、無事に通ったとです! - [勝った!!!!!!](http://hiroono.com/ja/2007/10/22/a/) - 勝った、勝った、勝ったーーーーーー!!! スポーツ・バーで六甲颪を歌ったら、アメ人に「何の歌?」と聞かれて説明に困った。 今年のレッドソックスは阪神よりも強いかも!! - [Let's go, Red Sox!!!!!](http://hiroono.com/ja/2007/10/29/lets-go-red-sox/) - Red Soxやったーーーー!!!!パペルボンすげーーー!!優勝ですよ、優勝!!!!ボストンは大騒ぎ、窓からの外からは人の叫び声や車のクラクションが絶え間なく聞こえます。花火もあちらこちらから。 やー、まじ幸せ。今年の阪神の不甲斐なさを補って余りあるRed Soxの活躍でした!!! さあ、次はセルティックス&ペイトリオッツ!!! - [パペジマ](http://hiroono.com/ja/2007/10/30/ynyuyyth/) - 2005年の阪神の優勝の立役者がJFKならば、今年のRed Soxの優勝の立役者は「パペジマ」です。 「パペジマ」。若きコワモテ・クローザーのパペルボンと、サムライ・セットアッパーの岡島、この無敵のリリーフ陣を、二人合わせてそう呼びます。パペジマ。パペジマ?パペジマ、マペジマ。青パペジマ、赤パペジマ、黄パペジマ。パペジマを横縞に。 たぶん「オカルボン」の方が語呂がいいと思うんですよね。 「オカルボンは笑ったよ。」 「オカルボンはかぷかぷ笑ったよ。」 うーん、コワモテのパペルボンは決してかぷかぷ笑わないかなあ…。 話が逸れました。日本のメディアは「影のヒーロ、岡島」などと書きますが、全くもって「影」なんかじゃありません。正真正銘正々堂々、ヒーローです。なんたって岡島は史上最強リリーフ陣「パペジマ」の一角。阪神で言えばJFK。確実に本物のヒーローです。 きのうの日記でも書きましたが、昨晩はボストンはものすごい騒ぎでした。人は叫ぶし、車はクラクション鳴らしっぱなしだし、路上で何か燃えているし、トラックはひっくり返るし。特にFenway球場の周りは大盛り上がりだったらしく、逮捕者も出たとか。その詳しい様子は、Fenwayの近くに住んでいる友人のブログをご参照あれ。 しかし、死者まで出た3年前の優勝の時と比べれば、これでも随分とおとなしかったみたいです。何せ3年前は86年ぶりの優勝。確かに2003年、18年ぶりの阪神優勝の方が、2005年よりも興奮したからなぁ。 そういえば2003年、阪神のリーグ優勝が決まる試合に、前日の晩から列に並んで開場を待っているファンがいました。その人にマスコミが 「いつからここで待っているのですか?」 と質問すると、彼はこう応えました。 「18年前からや。」 これぞ、この日を待ちに待ったファンの想いをたった一言に凝縮した名言。ボストニアンは86年も待ったのです。そりゃあ嬉しいさ。 こんな感じで、二言目にはすぐに阪神、阪神と言うクセを直すのが、僕の25歳の目標ですね。 しかし最近、Red Soxのことしか書いていない気がする…。 以下、第4戦の朝にMITの学生に回ってきたメールの引用。Good afternoon all,We want to reiterate the importance of remaining safe during the potential Series win tonight. Have fun and celebrate the hopeful win (today or within the next few days) yet this means using good judgment - [Red Sox 優勝パレード](http://hiroono.com/ja/2007/10/31/red-sox-iyynyiye/) - "World Champion"になったRed Soxの凱旋パレードを見てきました! ボストンは小さな街で、パレードの出発点のFenway球場も、終点のダウンタウンも、うちから自転車で10分です。午前の仕事を早めに切り上げ、橋を渡ってBoylston St.へ。既に赤いシャツを着た大勢の人が通りの両側を埋め尽くしていました。 パレードは"Duck Tour"の車に乗ってきます。"Duck Tour"とは、第二次世界大戦で使われた水陸両用車でボストンを巡る観光アトラクションのこと。道路の上からボストンの名所を巡った後、ザッバーンと川に飛び込むのが売りです。 3年前の優勝の時は、この水陸両用車に乗って、MITの目の前を流れる川の上でもパレードが行われたそうですが、川に飛び込むファンがいたので、今年は道路の上だけになってしまいました。やっぱりRed Soxには阪神と同じ空気を感じる…。 優勝トロフィーです。 自信ないけど、たぶん左が新人王候補で恐怖の二番打者のペドロイア。 お待たせしました、我が松坂大輔!! 「ダイスケー!」と叫んだら振り向いてくれました。大抵は面倒しか起こさない僕の大きな声も、こういう時は役に立ちます。 拡大してみた。彼のおかげでRed Soxを応援する楽しみが増えました。異国での一年目は辛いことも多かったと思う。来年はさらなる活躍を期待!! たぶん左端のアジア人が岡島!!かと思いきや、通訳だったらしい。。。。 いまいちどれが誰かわからん。分かる人、教えてください!! 追記:「子供をだっこしてるのがCrisp、そしてその右がDrew」だそうです。 さて、パレードを見た後、日本食マーケットに寄って食料を買い込み、橋を渡ってMITに戻ると、なにやら警察が交通整理をしていました。まさか、と思ったら、来た!!パレードが帰り道にMITの前を通るのに偶然遭遇したのです!!下の写真の背景は僕が住んでいる寮です。なんたる幸運。日ごろの行いパワーですね(笑) しかし、Red Soxが "World Champion"と呼ばれることには、未だに違和感を感じます。恐らくメジャーリーグが世界で最もレベルが高いリーグである事に異論はないでしょうが、アメリカとカナダのリーグでしかないMLBのチャンピオンを、何の疑いもなく「世界チャンピオン」と呼んでしまうことに、この大きな国の小ささを感じます。 追記:僕が当てずっぽうで書いた人名がことごとく外れていたので、修正しました。Mさん、ご指摘ありがとうございます。 - [羯諦羯諦](http://hiroono.com/ja/2007/11/02/aeauaeau/) - 以前の日記に書いた、原爆を投下したB29に自分の母親の名前を付けた機長が、今日、鬼籍に入ったらしい。 「2006年8月に読売新聞が行ったインタビューでも『広島、長崎への原爆投下は戦争終結のために必要だった』、『今も全く後悔はない』などと語っていた。」、とのこと。 そりゃあそうさ、30万人が死んだんだ、少しでも後悔し出したならば、あまりにも重たい罪の意識にたちまち押し潰されて、全うに生きていくことなんて出来なかろう。自分を保つためには、頑として正当性を主張し、自分の精神を鎧で固めて守らなくてはならい。完全密封して、少しでも水が入ってくる隙間を与えてはならない。 「同氏は死後に抗議運動が展開されることへの懸念から、葬式を行ったり墓石を造ったりしないよう、友人に頼んでいた」という。鎧の中で怯え続けた人生だったのかもしれない。死んだ後まで怯え続けなければいけないとは、なんとも哀れだ。或いはそれが報いなのか。 何はともあれ、これで落とした側も、落とされた側も、向こうへ行ったわけだ。人間は必ず死ぬという当たり前な事実を再確認して、ふと胸に現われたのは安心感。されども人事ではないのを思い出すと、強烈な恐怖がそれに取って変わった。そうして結局、彼と自分との間には紙一重の違いもないことに気付く。 羯諦羯諦波羅羯諦、波羅僧羯諦菩提薩婆訶。 - [秋](http://hiroono.com/ja/2007/11/09/47/) - 秋の心と書いて「愁(うれ)い」と読む。真っ青な空や色鮮やかな風景を、なぜか寂しいと感じる季節、それが秋だ。そしてボストンの秋の愁いは、東京のそれよりも深い。過ぎた夏が短かったからか。来る冬が長く厳しいからか。街が小さいせいもあるだろう。そこかしこに色づいた街路樹があるからかもしれない。いづれにせよ、たぶんその愁いの真ん中にあるのは、日本への郷愁。 十月の上旬に、New HampshireのWhite Mountainsへ紅葉狩りに行った。あいにくの天気だったが、谷に溜まった低く白い雲が背景になって、逆に山の色が際立って見えた。写真はケーブルカーから撮ったもの。(撮ったのは僕ではなく、一緒に行ったMITの学生新聞のフォトグラファー。) MITも色づいた。背景の奇怪な建物が、僕のいるコンピューターサイエンスの棟。 黄色い絨毯。自転車を放ってカメラを向けた。黄色く見えたものが黄色く写らないのは、カメラのせいか、僕の腕のせいか、あるいは実際は黄色くないものに、僕の目が勝手に黄色を投射していただけなのか。 秋は時々、風が全く吹かない夜がある。赤信号で通りの車が止まると、不気味なほどに静かになる。そう、この街に秋の虫は鳴かないらしい。そんな静かな夜には、チャールズ川が大きな一枚鏡になり、ボストンの夜景をさかさまに映し出す。写真は僕の部屋から撮ったもの。つくづく素晴らしい部屋を得た。来年、出なくてはならないのがなんとも惜しい。 - [ワイン・オープナーは井戸の中?](http://hiroono.com/ja/2007/12/02/yiyyoyyyeiaeiiaae/) - 酒屋で "Wine opener をください"、と言ったら、 "Wine opener...? ああ、corkscrewのことね。" とのこと。corkscrew、直訳すると「コルクねじ」。どうやら"Wine opner"という言葉は、スペース・アルクには載っているものの、少なくともアメリカでは一般的ではないようだ。僕の英語、まだまだだなぁ。 --- 文章を書いて先生に出せば、内容よりも英語の添削の方が多い。冠詞、時制、三人称単数・・・MITの教授に中学英語の赤ペン先生をさせているのかと思うと、情けなくなる。 街を歩いていて人に道を聞かれ、僕がものすごい訛りの英語で説明しだすと、相手の顔に一瞬、不安の表情が浮かぶのが見える。少し悲しくなる。 聞き取りも、昔に比べればだいぶマシにはなったけれども、未だに苦戦するのがジョークだ。前置きの部分までは聞き取れるのに、肝心のオチが聞き取れない。ゲラゲラう周りの人たち。オチを聞き返しても白けるし、かといって一人だけムッツリしていたくもないので、作り笑いをして分かったフリをする。寂しくなる。 日本にいるときは、周りにいる大抵の日本人よりも英語が出来た。 そんなことで、妙な自信を得ていた。 「半年もすれば英語なんてネイティブ並になるさ」 なんてタカをくくっていた。 それから2年半。未だに英語に苦しみ続ける自分。井の中の蛙、大海では思い通りにいかないことが多いもんだ。 --- 時々、街行くアメリカ人から、「ニーハオ」と話しかけられる。「アジア人≒中国人」と思っているらしい。覚えたての中国語で米中友好を図ろうとしているのか。 そんなとき僕は、にっこりと笑って中国語でこう答える。 「ウォー・シー・リーペンレン。 (私は日本人です。)」 するとアメリカ人は、「うん、俺の中国語もちゃんと通じるじゃないか。」と、満足げな表情で去ってゆく。それを見て少々の優越感を感じ、なぜか日頃の仕返しをした気分になっている、性格の悪い僕。このやり取りを向こうから眺めながら苦笑いしている、本物の中国人たち。 --- 向上心は決して捨ててはいけないけれども、自分は駄目だと悲観することもないよね。結局世の中、みんな井戸の中で楽しく暮らしているんだ。無知こそ幸せ、とまでは思わないけれども、井戸の中のぬくぬくを否定することもない。大海へ漕ぎ出して、漕ぐのに疲れたとき、またもう一度がんばるために、ゆっくり休んで英気を養う港は必要なんだと思う。 - [初雪](http://hiroono.com/ja/2007/12/04/assieaae/) - (↑ 写真は初雪ではなく、2度目の雪のもの。) 昨晩、初雪が積もった。 先月もちらほら舞った事は何度かあったが、どっかり降ってざっくり積もったのは昨夜がはじめて。ボストンで一番長い季節、一番厳しい季節、そして、一番美しい季節が始まった。 冬はつとめて、雪の降りたるはいふべきにもあらず。それはボストンでも同じ。朝起きて、寒さに曇る窓から見る静かな雪のボストンは本当に美しい。寮のすぐ隣を流れるチャールズ川が凍結すると、その上にも真っ白な雪が一面に積もり、それが朝日に輝く景色は神々しささえ感じる。 しかし、その美しさは、除雪が始まるとすぐに失われてしまう。雪国の除雪はとても迅速で、雪が降った翌日の昼にはもう完了する。そしてここは適当大国アメリカ、いちいちスコップで雪をのけたりはしない。代わりに、道路に塩をまくのだ。すると融点が下がって勝手に雪が融ける。なぜか塩にはピンクの色が付けてあって、除雪後は融けそびれた雪が毒々しいピンクに染まる。また、塩水を跳ねて走る車の車体は、非常に汚らしくなる。 --- ボストンで三度目の冬。今年も暖冬らしいが、氷点下にならなければ「暖かい」というボストンでは、「暖冬」に大した期待はできない。ボストン近郊に名門大学が集まる理由は、「長い冬に外で遊べず、勉強をするしかないから」という。実際に住んでみると、強ちジョークではないと感じる。 夏のチャールズ川の河原は、日光浴をする家族やカメラを持った観光客でいつも溢れていて、週末になれば毎週のように花火や野外コンサートやウォーキング・イベントが催されていた。あの賑やかさが嘘のように静まりかえった、冬の散歩道。やれやれ今年もいっぱい踏まれたもんだ、やっと一服できる季節になったわい、そんなことを言っている気がする。 - [帰省](http://hiroono.com/ja/2007/12/30/uce/) - きのう、高校の同窓会に出てきた。同期の友達のほとんどは既に就職していて、職場も散り散り。みんなが一同に会せるのは、この時期しかない。 幹事の厚い人望のおかげで、25人もの仲間が集まった。ただ、担任の先生が風邪で来れなくなってしまったことだけが残念だ。「東はボストンから、西は京都まで、はるばるお集まりいただいて…」という幹事の挨拶に続いて乾杯。男子校だから、当然25人全員が男。話題は半分が近況報告、半分が下ネタ。途中、Yが立ち上がり、「皆さんに報告することがあります」と、来春の結婚を報告した。するとIも続いて立ち上がり、「実は俺も…」と。イッキのコールに乗せてビールを飲まされる彼らは、とても幸せそうだった。 Yはいかにも、だけどさ、Iまで結婚だぜ。そういえば俺らも25歳、そろそろ結婚ラッシュなんだなー。んでさ、結婚ラッシュが終わらないうちに、出産ラッシュが来るよ。でもさ、5年、10年すれば、離婚する奴がポツポツ現われたりして。その頃には、小野がハゲた、佐藤が勃たなくなった、そんな同窓会になるよ。でさ、50年後には、小野が死んだ、佐藤も死んだ、うちらもそろそろお迎えがきますな、きっとそんなんになるんだよ。こうしてなぜか忘年会でブルーになる、25歳男子たち。 会の後は、もちろんYとIを胴上げ。その後、迷惑を省みず、路上で「赤組コール」。高校の頃はエロ本を読んではオナニー談話に明け暮れ、授業を寝倒し運動会の準備に没頭した、そんな仲間が、今じゃみんな彼女を作り、立派な仕事を持ち、結婚はいつだ、今度はどこへ出張だ、そんな話をしている。これだから、古い仲間は楽しいんだ。 --- 酔って帰って11時間も寝て、起きたらもう午後だった。「ダウンタウン・ガキの遣い・年末総集編」なんぞを見ながら、山のように餅を食う。すると、「子供二人が揃うのは珍しいから」と、おばあちゃんがわざわざやってきて、再びお茶にお菓子に果物。食って寝て食って寝る生活。「たいした額じゃないけどね」と、おばあちゃんがお年玉をくれた。25にもなってお年玉とは恥ずかしいが、それでもやっぱり貰えるのは嬉しい。孫にお年玉をあげるのが、おばあちゃんの幸せなのよ、と両親は解説する。 おばあちゃんが帰ったあと、やっとシャワーを浴びて服を着替え、散歩に出たらもう夕焼けだった。洗足池まで自転車で行き、池の周りを歩いて一周。久しぶりの洗足池公園の、相変わらずののどかさに、安心感を覚える。 父子がかくれんぼをしている。お父さんは木の裏というクラシカルな場所に隠れ、「もーいーよ」と言う。その声を聞くと、子供は「どこだー!」と声を張り上げ公園を走りまわるのだが、大きな声と足音で、鬼さんの位置がお父さんに筒抜けだ。お父さんは意地悪をして、子供の位置にあわせてポジションを変え、見つからないようにする。すると子供はだんだん不安になってきて、「お父さん、どこなのー?」と、半泣きになる。お父さんは笑いながら「ここだよー!」と叫んで助け舟を出すと、子供は嬉しそうに声のするほうに駆けてゆく。 池に突き出した木道に立って、カモに餌をやる老人がいた。袋を開けてパンの耳を池に撒きだすと、池じゅうのカモが老人の前に集まってきた。袋いっぱいのパンはすぐに売り切れ、袋をさかさまにしてパン粉を池に落とすと、「ごめんな、また明日な、」と言って、柵に立てかけてあった杖を取り、去っていった。 家に帰り、ベトナム旅行のことでもブログに書こうとパソコンを開いたのだが、隣で本棚の整理をする父が、あれは読んだか、これを読んでみろ、といちいち聞いてくるので、ちっとも集中できない。そうするうちに、「コーヒーを煎れたよ」と母に呼ばれる。テレビでは笑点が始まり、父は本棚の整理を続けながらフヒフヒ笑っている。夕飯は外食の予定だったが、「あるもので済まそう」と、母はキッチンに立った。お年玉をもらうことがばあちゃん孝行ならば、手料理を食べることが母孝行なのだろう。 脱いだら脱ぎっぱなし、電気はつけっぱなし、ヒロが帰ってくると急に生き甲斐が増えるよ、と親は嬉しそうに愚痴る。ならば電気をつけっぱなしにすることも、立派な親孝行なのかな。 --- 追記: 「たけしの超常現象スペシャル」、おもしろいー!まあ最後に大竹まことがコメントした通り、ほとんどがデタラメであることを、製作側も視聴者側も了解の上での番組なのだけれども、こういう暇で大げさな番組をだらりんと眺めていると、あぁ日本の年末だなー、と平和で幸せな気分になる。 しかし最後にあった、アポロ14号の司令船と月着陸船を同時に映したフィルム、何なんだろうなー、「NASAが保管庫で厳重管理していたフィルム」なんていう前フリがいかにも怪しいけれども (笑) この「アポロ偽造説」は、アメリカでも騒がれていて、MITの授業でも触れられていた。その授業での結論は、「計画には何万人もの人が関わっていた。その全てを30年間も口止めさせるのは不可能だし、彼らも含めて騙されていたとしたら、騙す仕掛けを作る方が、実際に月にいくよりもお金がかかる」とのこと。 真偽は実際に証拠写真を撮るまではっきりしないけれども、きっと陰謀説派は、その証拠写真をも「捏造」と言うのだろう。いつでも、どの時代も、「陰謀説」は人気があるものなんだろうな。 - [2008年!!](http://hiroono.com/ja/2008/01/01/cic/) - 明けまして!喪中につき、みだりに「おめでとう」を連発してはいけないそうなのですが、それでも新しい年を迎え、そばを食べ、人ごみにもまれて寺に参り、マイ・ピクチャに "2008" というフォルダを作り、そんなことをしていると、なんだか心がウキウキします。 抱負は?と聞かれ、ここ数年は毎年、「笑う門には福来る!」と答えています。「抱負じゃないじゃん!」と突っ込まれるのですが、いやいや、笑って笑って福を呼ぶ、立派な抱負じゃないですか。 昨晩は関内のバーでカウントダウンをしてクラッカーを鳴らし、今朝の帰りの電車から金色の朝焼けと真っ白な富士山を見て、なんだか今年もいいことがある気がしてきました! (クイズ: 架線の柱は、本来は地面に対し垂直に立っているはずなのに、上の写真では斜めに写っています。なぜでしょう? ヒント:この写真は、走る電車の中から携帯電話のカメラで撮影しました。) そんなわけで、2008年もどうぞ宜しくお願いいたします! - [緒野雅裕と小野雅裕](http://hiroono.com/ja/2008/01/10/onomasahiro/) - どういう巡り会わせか幸運か、ふとした思い付きで書いた小説が、「織田作之助賞・青春賞」という栄誉にあずかることになった。真面目に文学も勉強したことのない僕がこんな素晴らしい賞を授かるとは、天地が裏返るほどの幸運で、この上なく嬉しくもそら恐ろしい。1月10日の毎日新聞誌上で発表されるそうなのだが、アメリカに住んでいては売店で朝刊を買って確認することもできず、もしも受賞が取り消されていたらどうしよう、散々友達に宣伝してしまった後では、もう顔を出して外を歩くことができなくなる、などと心配し、ここ数日そわそわしている。 僕の小説やブログを友達に見せると、決まって「普段のアホそうな小野と全然違う」「キャラ違い」「何を真面目ぶってるんだ」などと野次られる。たぶん僕には二つの面があって、両面を使い分けているのだと思う。「緒野雅裕」とは受賞が決まった後に急ごしらえで考えたペンネームなのだが、本名の「小野雅裕」が外に出て人付き合いをして飲んで騒ぐ時に見せる面で、「緒野雅裕」が家に帰ってパソコンを開き文章を書くときに現われる面なのかな、などと後付けで考えている。小野雅裕は、お茶らけて、大雑把で、騒ぐのが大好きな人間だ。一方の緒野雅裕は、暗くて、生真面目で、とんがっている。だからといって別に、「二つの人格が自分の中でせめぎあっている」などという仰々しい事態が発生しているわけではない。ただ単に、紙に表と裏があるように、違う色をした二つの面が、背中を合わせて座っているだけだ。 小学校の頃の僕は、両面を使い分けることなく友達にさらけ出していた。そして、いじめられっ子だった。いや、きっと「いじめ」とは大げさすぎる表現で、葬式ごっこなどをされるほど過酷で陰湿なものでは全くなく、また、今から考えれば、勉強は出来るくせに足が遅い生真面目君がクラスにいたら、そりゃあ誰でも少しはいじめたくなるだろう、と笑ってしまうのだが、それでも当時の僕はそれなりに悩んでいた。その状態は中学に入っても続き、いよいよ悩みは深くなった。そして中学二年のある日、何月何日何曜日だったかは忘れたが、それが部活帰りの大井町駅のホームだったことは覚えている。その時、僕はこう思い至ったのだった。 「きっといつも難しい顔をしているからいけないんだ。笑おう。」 そして、その日を境に自分を変えた。いや、実際は変えたのではなくて、片方の面を隠しただけなのだが。毎朝玄関を出るときに緒野雅裕を制服の内ポケットにしまい込み、小野雅裕だけを襟の外に出して登校した。そして家に戻って制服を脱ぐと、誰にも見られないように緒野雅裕を取り出し、ほっと一息ついて、ソファに寝そべるのだった。それなりの努力を要した自己改造計画の効果はてきめんだった。友達関係で悩むことはなくなり、毎日を心から楽しめるようになった。久しぶりに会った友達に「小野、変わったね」と言われたことが嬉しかったのを覚えている。 それが、ここ一、二年くらいで、隠していたはずの緒野雅裕を、徐々に文字の上でさらけ出すようになった。留学をして環境が変わったからかもしれないし、単に隠れていることに我慢ならなくなったからかもしれない。緒野雅裕は、ポケットにしまわれていた十年の間、言いたいことを全部飲み込んでは蓄えて、いつかそれらを大声で吐き出してやろうと腹の中で熟成させながら、機を伺っていたのだと思う。だから、いざ緒野雅裕から猿ぐつわを外してやると、彼はびっくりするほどよく喋った。喋るのは本当に気持ちよかったし、そのせいで再びいじめにあうことなども、もちろんなかった。堂々と両面をさらけ出す自分を受け入れてくれる友人達が周りにいてくれたことは、本当に有難いことなのだと思う。 しかし、まさかそれが新聞に載るほどの大事になるとは思ってもいなかった。こうなってしまった以上は、もう「緒野雅裕」を隠すことは出来ないだろう。それどころか、僕の小説を読む人たちは、小野雅裕より先に緒野雅裕を知るのだ。この受賞で緒野雅裕はどういう立場に立たされるのか。あんな未熟な文章が世に出れば、きっと厳しい批判をたくさん受けるだろう。一方で、次作を期待してくれる人もいるかもしれない。隠れる場所を失った緒野雅裕は、今こそが頑張り時なのだと思う。批判に耐え、期待に応え、一発屋では終わらないために、これからも本業の傍ら、時間の許す限り、緒野雅裕が腹に溜め込んだ十年分の思いを、文字に吐き出していこうと思う。 --- 未熟な作品にも関わらず最大限の評価を下さった審査員の先生方、大阪文学振興会、毎日新聞の皆様、この場を借りてお礼を申し上げます。推敲にあたって貴重な意見を下さった馬上さん、励ましてくれた友達、家族、それからチコちゃんとミーミ、本当にありがとう。 --- 小説の全文はこちら。 - [Monterey](http://hiroono.com/ja/2008/01/25/monterey/) - 一週間ほど、カリフォルニアはモントレーへ行ってまいりました。ついこの前にベトナムに行ったくせにまた旅行かよ、と言われてしまいそうですが、 今回は(建前上は)マジメな出張です。僕の研究室がモントレー水族館付属研究所(MBARI)とコラボレートしていて、そこの無人潜水艦の自動操縦アルゴリズム云々というようなことをしてきたわけです。 (↑ 右手にある、緑の屋根の建物が研究所) 海の研究をしているんだから、当然研究所は海が綺麗な場所にあります。目の前に広がるモントレー湾は、生き物番組で年に一回は出てくるケルプの森(長さ50mにもなる海藻の群生地帯)になっていて、ラッコやらアシカやらクジラやらがうようよいます。特にラッコは東京で野良猫を見るくらいの頻度で見ることができ、昼間には研究所の裏手にある港で幸せそうに昼寝をしたり毛づくろいをしたりしています。オフィスから潮騒が聞こえ、太平洋に沈む夕日が見えるという、なんとも贅沢な環境。研究所の職員はサーファーが多く、サーフィンのメーリングリストまであるそうです。 (↑ 水に浮いて昼寝する二匹の幸せなラッコたち。研究所近くの港にて。) (↑ モントレーのカフェ) 月火水木と働いて、金土日はカリフォルニアでのバカンスを満喫しました。モントレーは海もさることながら、町も素晴らしかった。ここはかつてカリフォルニアがメキシコ領だった頃の州都で、人口3万の風光明媚な町です。今も昔も漁業が盛んで、穏やかな気候、太陽と海、そして美しい景色を目当てに、全米から多くの観光客が集まります。一月だというのに燦々と降り注ぐ太陽の下、Tシャツ一枚で海際を散歩すれば、ハチドリが花の蜜を吸い、そこかしこからアザラシのガヒガヒと鳴く声が聞こえ、カモメの群れが糞の雨を降らせながら(2発喰らった・・・)空を舞っています。過去にシエラネバダ山脈や太平洋を越えてカリフォルニアを目指した人たちが妄信した「地上の楽園」とう謳い文句、それは強ち間違いではないと思いました。 (↑ アザラシ君:「今日は何曜日だっけか?」 カモメ氏:「知らん。」 モントレーの海岸にて。) モントレー周辺をドライブすれば、魅力的な町や景勝地の数々を訪れることができます。ギャラリーや小洒落たレストランが並び、町全体が美術館のようなカーメル。海と交わる谷の底にある、絵葉書一枚に収まってしまうほどに小さな町、キャピトラ。17 mile driveはモントレー半島を海に沿って一回りし、州道一号は海へせり出した崖の上を走ります。また、今回は訪れる機会がなかったのですが、モントレーの隣町のサリナスは、「怒りの葡萄」で知られるスタインベックの出身地です。 (↑ ふてぶてしいペリカン。「そこのけそこのけ、俺様通る。」 サンタ・クルーズの桟橋にて。) (↑ Big Sur. 州道1号より。) 宿泊費は研究室から下りるというのに、わざわざ一泊25ドルのユースホステルのドミトリーを選んでしまったのは、旅行好きの悲しい性でしょうか。されども一期一会こそが旅の醍醐味と信じる僕にとっては、これほど上等な場所はありません。ホステルのオーナーや宿泊客たちはとても親切で、旅の思い出をさらに膨らませてくれました。 以下は、ユースホステルのguest bookに書き残してきた文字たちです。 --- この場所に7泊し、今日、発ちます。さんさんと降り注ぐカリフォルニアの太陽、それを受けて輝くティールブルーの海、岩の上で昼寝するアシカの群れ。モントレーの町が素晴らしかったのは言うまでもなく、長居してしまったこのホステルも、本当に素敵な場所でした。 僕が7泊した間に、いろんな人が大きなバッグを背負ってチェックインしました。彼らはここに滞在した間、バッグの中から彼らの思い出を取り出してこの場所に残していく一方、この場所の思い出をバッグの空いたスペースいっぱいに詰め込んでチェックアウトしていきました。そう、普通のホテルならば、思い出とは宿泊客が一方的に持っていくものなのに、ここでは思い出は交換するものなのです。 僕がチェックインしたとき、先客にlanguage schoolの学生たちがいて、中国語、ロシア語、フランス語、各々が様々な言語を学んでいました。 モントレーで家を探すドイツ人の女性がいました。夫がこの町に駐留するアメリカ軍の軍人で、この町で一緒に住むそうです。 北米中を旅するデンマークの男性は、ロスから北へ向かう途中、一泊だけこの町に立ち寄りました。 サンフランシスコで勉強している日本人留学生がいました。彼女は高校の先生を辞め、自費で留学しているそうです。 今日チェックアウトする僕を見送ってくれるのは、賑やかな家族の一団です。四家族から成るその集団はシリコンバレーから来ていて、夜遅くまで大人子供混じってゲームで盛り上がっていました。 僕はボストンに住む留学生です。博士号を目指し、2年半前にこの国に来ました。僕の研究室がモントレー水族館付属研究所(MBARI)と共同プロジェクトをしていて、今回の旅の目的も実は半分は仕事です。気の長いプロジェクトなので、きっとまた、この町に来る機会があると思います。そのときは是非、この宿に戻ってきたいと思います。 (↑ Capitolaの町) --- (追記) カリフォルニアは20度、ボストンはマイナス10度。おかげですっかり風邪を引いてしまいました。。。 - [さよならだけが人生だ](http://hiroono.com/ja/2008/02/05/ueeeaiaa/) - 土曜日の朝、MITで一番お世話になった先輩を、空港で見送った。 彼は恐らく、両親以外で僕の今まで人生に最も大きな影響を与えた人だと思う。僕が留学という道を選ぶ直接的なきっかけを与えてくれたのは、間違いなく彼だった。留学への漠然とした憧れだけをぶら下げながら、具体的なアクションを何も起こすことなくモラトリアムを謳歌していた大学三年の夏、日本に帰国中の彼と出会った。彼が語ってくれた留学の話は、まさに目から鱗だった。アメリカの大学院では、国籍に関係なく、学費を免除され生活費まで支給されながら勉強することができることを知り、もはや憧れるだけでアクションを起こさずにいる理由を失った。挑戦すべき目標が定まった。僕の人生が幹から枝分かれした。 MITに来てからも、彼にはお世話になり続けた。授業や研究のアドバイスから確定申告の方法まで、嫌な顔ひとつせずに相談に乗ってくれた。僕が今までMITで生き残ってこれたのも、彼に負うところが大きい。 彼はMITの航空宇宙でPhDを取得し、今週からNASAのJPLで働くそうだ。NASAは9・11以降は外国人を滅多なことでは雇わなくなった。その慣例を破っての就職は、彼の傑出した能力の証左であり、ボストンの日本人コミュニティーの誇りだ。 一昨日の空港には、早朝だというのに12人もの人が見送りに集まった。重量制限ぎりぎりの荷物を抱えて、彼は保安検査のゲートの中へ去って行った。空港からの帰りの車は一人少なくなった。寂しいのはもちろんのこと、いままでみんなが頼ってきた柱が抜けてしまった不安も感じた。 翌日も、別の先輩を空港に見送った。STeLAでお世話になった先輩で、彼のプラグマティックな物の考え方と、勉強熱心で決して知ったかぶりをしない姿勢を非常に尊敬している。彼は半年前にMITを卒業して日本に戻っていたのだが、先週は学会でボストンに来ていたのだ。半年前に空港での見送りをし損ねたので、その仕切りなおしだった。 前日と全く同じ場所で、彼を見送った。恥ずかしがりの彼は、照れくさそうにゲートに入っていった。また一人少なくなった帰りの車の中で、次は誰だろうね、俺はまだまだかな、そんな話をした。 --- 時間は過ぎ、ぽつりぽつりと人が去ってゆき、残った人たちが1マスずつ進んで、できたスペースに新しい人が入ってきて、そうして日常は循環し、時間は過ぎ、もう1マス進むとまた誰かが去っていき、新しい誰かが入ってきて、それは自分が去る時まで続く。 「さよならだけが人生だ。」 だからこそ人生は面白いんだ。 . - [アメリカ大統領予備選挙 - Obama Phenomenon](http://hiroono.com/ja/2008/02/13/acayiiieauo/) - アメリカ大統領予備選挙、面白すぎる。いままで選挙がこんなに面白いものだとは思いませんでした。 大統領選挙 = アメリカ第5のプロスポーツ 民主党、共和党が半年をかけて全米50州を回り、50回の予備選挙を行う。そして各党の予備選挙を勝ち抜けた一人ずつが、11月の本選で一騎打ちをし、勝者が大統領になる。これはさながらプロスポーツです。つまり、セ・リーグとパ・リーグが半年間のリーグ戦を戦い、その勝者が日本シリーズで激突する、という構図と同じです。選挙演説はバスケットボールのアリーナなどを借り切って行い、何万人もの観客を動員する。客は候補者の言葉のひとつひとつに手を叩いて声援を送り、決めゼリフを発した直後はホームランを打ったような大盛り上がりになる。その模様は生中継で全米に放送され、朝晩のニュースで繰り返し流される。 今年の選挙戦をさらに面白くさせているのは、言うまでもなく民主党予備選での、バラック・オバマ上院議員の猛烈な追い上げです。 The Obama Phenomenon つい数ヶ月前まではヒラリー・クリントンに支持率で大差をつけられていたオバマが、リーグ戦の天王山・Super Tuesdayで引き分けに持ち込み、昨日の「ポトマック川決戦」で遂にクリントンを逆転しました。 "Obama phenomenon (オバマ現象)"や"Obama surge (オバマ旋風)"とマスコミは呼びます。クリントンは、オバマ優勢が伝えられる来週のハワイ、ウィスコンシンを早くも諦め、彼女の支持基盤であるヒスパニックやブルー・カラーが多い三月のテキサス、オハイオに選挙活動を集中し、Firewall (非常線)を張りました。 クリントンは言わずと知れた前大統領の妻。すでに敗北宣言を出したエドワーズは2004年の民主党副大統領候補。他方の共和党でトップを走るマケインはベトナム戦争の英雄で、24年も国会議員を務める重鎮。こんなそうそうたる顔ぶれのなかで、オバマは当選回数たった1回、46歳の若造。「小泉チルドレン」と大差ない経歴です。そんな彼がなぜ「オバマ旋風」を起こすまでになったのか。 最大の理由は、彼の感動的なまでの演説の上手さです。彼が並べる言葉は、「アメリカをひとつにする」「ワシントンを民衆の手に取り戻す」など、文字に書いてしまえば平凡で抽象的なことばかり。にも関わらず、彼がこの言葉を発すると、なぜか鳥肌が立つほどの興奮を人々に与えるのです。 "Our time has come" びっくりしたのが、Super Tuesdayの晩の演説でした。選挙速報が伝える予想は両者ほぼ互角で、獲得代議員数では僅かにクリントンが優勢だったものの、勝った州の数ではオバマが優勢でした。クリントンは「私はニューヨークで勝った、カリフォルニアでも優勢だ・・・」と、自分の勝ちを強調し、支持者を盛り上げます。 一方のオバマは、演壇に上がってまもなく、「我々は今日の開票結果を待つ必要はない。」と言い放ちます。あっけに取られる聴衆に向かい、こう続けました。 「開票結果を知らずとも、たったひとつ、確かなことがある。」 静まり返る聴衆。しばらく間を取ったあと、彼は高らかに宣言しました。 "Our time has come." (「時は来た。」 完了形であることがポイント。) 瞬間、聴衆は狂喜乱舞です。僕もテレビで見ていて、鳥肌が立ちました。しかし冷静に考えれば、Super Tuesdayの結果は引き分けとしか言いようがなく、"our time has come"とは、たいへんな大ほら吹きです。しかしそんな「大ほら」も、なぜか彼が言うと説得力が伴う。その後、テレビのニュースは "our time has come"の部分を繰り返し放送し、それはあたかもオバマが勝ったかのような印象を与え、その勢いを駆って彼はSuper Tuesday後の予備選挙を7連勝しました。 これはもう、カリスマと言うほかないでしょう。 草の根運動に支えられたカリスマ 票集めと共に、選挙資金集めも重要な選挙活動です。今までに集めた選挙資金の累積総額では、クリントンが$118M ($1M = 100万ドル = 約1億円)で、オバマの$104Mに勝っています。しかし、今年の1月に集めた金額を見ると、オバマの$32Mに対し、クリントンは$17.5Mしか集まらず、さらに$5Mの借金まで作ってしまいました。資金面でもオバマは猛チャージをかけているのです。 この猛チャージの理由は、資金集めの方法の違いにあります。クリントンは古参の民主党支持者からの、大口の献金に頼っています。一方のオバマは、インターネットなどを通し、小口の献金を広く大衆から集めています。いわば「草の根」的な運動をしているわけです。 しかし、金持ちを味方につけたクリントンよりも、なぜ「草の根」運動に頼るオバマが強いのか。 実は、予備選挙の候補に対する個人献金の上限は$2,300まで、と法律で決められているのです。つまり、クリントンが頼る大口の献金者たちはすでに上限の$2,300を投じてしまい、これ以上献金したくても献金できないのです。一方のオバマは、インターネットを通して、5ドル、10ドルの単位で資金を集め続けています。これが彼の強みです。 正直、どっちでもいい? "Obama phenomenon"のもうひとつの原因は、票の流動性です。オバマとクリントンの間には、政策にそこまで大きな違いはありません。オバマ支持者もクリントンを嫌いなわけではなく、クリントン支持者もオバマを嫌いなわけではない。嫌いなのは、ブッシュであり、共和党であり、ネオコンなのです。 クリントン支持という寮の隣人に理由を尋ねたところ、「今年の大統領選は、みんなブッシュと共和党が嫌いだから、クリントンでもオバマでも、おそらく民主党が勝つだろう。オバマのカリスマは民主党が劣勢の時にこそ必要となる。だから、オバマは今回は温存するべきだ。」とのこと。代打の切り札・八木を温存するような論。つまり、絶大な人気がある両候補から一人を選ぶ理由は、その程度しかないのです。 だから、小さなきっかけで票は流れる。「旋風」は、票をクリントンからオバマの方へ、やすやすと押し流しているわけです。逆に言えば、クリントンも流れを取り戻すチャンスが十分にあるということになります。 - [いざ!](http://hiroono.com/ja/2008/02/17/69/) - 来週はいよいよ織田作之助賞の授賞式@大阪!!あと7時間ほどでボストンを発ちます。 しかし、僕の周りの締め切りたちが申し合わせたように2月末に重なってくれたおかげで、帰国前後のスケジュールは火の車。でもこんな時こそ楽しくやらなきゃ、ということで、きのう借りた"Mamma Mia!"のサントラを聴きながら、ノリノリで論文をカキカキしています。 そんなわけで、行ってまいります! ゆーあーざだんしんくいーん♪ - [大阪のおじいちゃん、おばあちゃん](http://hiroono.com/ja/2008/02/29/acaiaaocdhcaao/) - 織田作之助賞の授賞式で大阪を訪ねた翌日、十数年ぶりに「思い出の場所」に行ってきた。 大阪府茨木市穂積台。「大阪のおじいちゃんおばあちゃん」と呼ぶ、母方の祖父母が住んでいた町だ。幼稚園や小学校の頃は、夏休みや春休みの度に遊びに行き、何週間も大阪のおじいちゃんおばあちゃんの家で過ごした。母が妹の出産で大変だった頃も、大阪のおじいちゃんおばあちゃんの家に預けられた。僕は二人にとって初孫で、とりわけかわいがってもらった。僕が東京育ちなのに阪神ファンなのは、物心付く前からの、二人の「刷り込み教育」の成果だ。 彼らの家の周辺はそれなりの住宅街だったが、駅から遠いせいでゴミゴミとはしておらず、車の通りもまばらで、子供が平気で車道で遊んでいるような場所だった。おじいちゃんおばあちゃんの家から西へ100メートルほど行くと滑り台のある公園があり、東へ100メートル行くと「ひっつきむし」(オナモミ)が生えている空き地、南は崖なので道は通じておらず、坂を下って北へ100メートル行くと従兄弟の家。この半径100メートルの半円が、僕の全行動範囲だった。 その半円の外には、2kmくらい歩けば万博記念公園があり、よくおばあちゃんに連れいってもらった。必ず途中のパン屋でパンの耳を一袋もらって行き、鯉や鳩に撒いた。臆病な僕は、太陽の塔の顔が怖くて正面から見ることができず、エキスポランドのジェットコースターの音を聞くだけで泣き出した。一方、伊丹空港に勤務していたおじいちゃんには、よく飛行機を見に空港に連れて行ってもらった。おじいちゃんの車に乗せてもらう時、僕はいつも座布団を三枚重ねて助手席に座った。おじいちゃんの運転は荒いから、と母はいつも不安そうだったが、実家には車がないこともあり、僕にはそれが楽しみで仕方なかった。 おじいちゃんは若い頃はスポーツマンで、父や父方の祖父がひょろっとしているのと比べ、がっしりとした体格をしていた。また、彼は筆まめな人で、阪神タイガースのこと、ラグビーのこと、若い頃に漕いでいたボートのこと、そんな話を葉書に細かい文字でびっしりと書いて、毎週送ってくれた。 僕の動物好きは、おばあちゃんから遺伝したものだ。昔、おばあちゃんは「チビコ」という元気のいい犬を飼っていた。地面を掘るのが大好きな犬で、いつも鼻の頭が泥だらけだった。僕は五歳の頃、首の腫瘍で大手術をしたのだが、それが治るのと入れ替わるようにチビコは癌で死んだ。「雅裕の身代わりになってくれたんや」とおばあちゃんは言った。チビコがいなくなってしばらくして、野良猫が庭でぎょうさん仔猫を産んだ。おばあちゃんは一番元気のいい一匹だけを残し、あとは孫たちに内緒で保健所に引き取ってもらった。残った一匹は「ラッキー」と名付けられ、 ラッキーのお母さん、叔母さんと共に庭に住み着いた。おばあちゃんはとても可愛がり、猫達もよくなついた。 (↑ミニ四駆を走らせた溝。向こうのフタの下に入ったっきり、出てこなくなった。) 十数年前、僕が中学生の頃、大阪のおじいちゃんおばあちゃんは、母を頼って東京へ引っ越してきた。家も車も売り払い、猫たちはお隣さんに預けた。新居は僕の実家のすぐ近く、大田区の住宅街のど真ん中の、2LDKの賃貸マンションだった。元の家にあった仏壇は大きすぎるからと、新しく小さな仏壇を買い、位牌を移した。するとおばあちゃんの夢に仏様が出てきて、「狭い、狭い」と言ったそうだ。 それでも、自分の娘と孫たちのそばに住めるのは、二人にとっては嬉しいことだったようだ。よくお互いの家を行き来し、チコちゃんとミーミもよくなついた。正月も一緒に祝った。船旅が好きで、しょっちゅう二人でクルージングを楽しんだ。 相変わらず大阪弁は抜けなかったが、東京の暮らしにも慣れ、それなりに「第二の老後」を楽しんでいるようだった。 数年して、おじいちゃんが癌を患った。発見時にはだいぶ進行していたが、肺を3分の2も切り取る手術の末、なんとか命は助かった。しかしそれ以後はすっかり弱ってしまい、大好きだった船旅にも行けなくなった。僕が留学してからは、日本に帰るたびに元気がなくなっていくのが分かった。野球好きのおじいちゃんに買って帰ったレッドソックスのTシャツがダボダボで、こんなに小さくなってしまったのかと悲しかった。痴呆も進み、昨年から老人介護施設に移った。一人暮らしになったおばあちゃんのマンションを訪ねた時、「おじいちゃんは情けなくなっちゃったねぇ」と溜息をつきながら彼女は呟いた。介護の疲れか、彼女の腰が随分と丸くなったことに気付いた。 (↑おじいちゃんおばあちゃんの旧家) 織田作之助賞に応募した理由は、ひとつには大阪に縁を感じていたからだった。元々、授賞式のついでにおじいちゃんおばあちゃんの旧家を訪ねる考えはなかったのだが、御堂筋線のアナウンスで「せんりちゅうおう」という地名を聞いたとき、遠い昔に聞き覚えがあるその響きが僕の脳の奥をくすぐって、突然行くことを思い立ったのだった。 おじいちゃんおばあちゃんの家の辺りは、昔は駅から遠くて不便だったが、モノレールが開通して随分アクセスがよくなった。駅を降り、郵便屋に道を聞きつつ歩くと、よく見覚えのある道に出た。景色は変わらないくせに道がやけに狭く感じるのは、僕が大きくなったからか、それともアメリカ帰りだからか。ひっつきむしが生えていた空き地は駐車場になり、その目の前に巨大なマンションが建っていた。周りを見渡せば、他にも見慣れない大きなマンションがたくさんある。モノレールの効果は大きい。路上で小さな女の子三人が仔犬と遊んでいた。「モコはな、ちゃんとお座りができるんやで」と楽しそうに話してくれた。去り際に、少し離れて座っていた若いお母さんがこちらに向かって会釈した。 池の端に沿って進み、従兄弟の家があったマンションを右に見て坂を登れば、おじいちゃんおばあちゃんの家はすぐそこだ。昔、大きな荷物を抱えて東京から大阪に遊びに来たとき、わくわくしながらこの坂を登った。すぐそこにおじいちゃんおばあちゃんが待っているんだ、と。その坂を今、期待と不安の入り混じった気持ちで登っている。まだ家はあるだろうか、誰が住んでいるのだろうか、猫はまだいるだろうか、と。 おじいちゃんおばあちゃんの家は、昔と全く変わらない外観で、そこに建っていた。嬉しくて、写真を撮り捲くった。元気な頃の二人が中で待っている気がした。呼び鈴を押せば、「雅裕君、よく来たねえ」と二人が玄関から出てくる気がした。 (↑ 小さい頃、怖くて正視できなかった太陽の塔。 モノレールの中の僕を睨んでいた。) (↑モコと女の子達) (↑ひっつきむしが生えていた場所) 東京に戻った翌日、大阪の写真を印刷して、おばあちゃんに見せに行った。まだ家がそのまま残っていることを喜んでいた。「地震でだいぶ傷んだ家なのに、いい値段で買ってもらってねえ・・・」と話した。 その後、おじいちゃんのいる羽田の老人介護施設に向かった。春一番が吹き荒れ、京浜東北線が止まり、道は大変な混雑だった。タクシーで施設に着くと、ちょうど午後の休憩の時間で、おじいちゃんは他の数人の老人達とロビーに座っていた。皆、何も喋らず、テレビや窓の外をぼーっと眺めていた。声をかけると、おじいちゃんはびっくりした顔で僕を見上げ、フガフガ言いながら細い手を伸ばして握手を求めた。僕は早速大阪の写真を見せたのだが、彼は全く関心を示さない。母曰く、目の前にいる人は認識しても、写真や文章は理解できないそうだ。 僕はおじいちゃんの車椅子を押し、最上階のラウンジへ向かった。羽田空港の滑走路が見えるこの場所は、飛行機が好きなおじいちゃんの特等席なのだ。離陸し、着陸し、離陸し、着陸する飛行機を見ながら、おじいちゃんは何度も「雅裕君、大きくなったな」と同じフレーズを繰り返した。何度目かに僕は吹き出して、「おじいちゃんが小さくなっちゃったんだよ」と答えた。 --- [追記: 2009-2-9] この記事を書いた5ヵ月後、おじいちゃんが他界した。 そして今日、エキスポランドの閉園が決まったとのニュースを見た。 大事な人が、一人、また一人、いなくなる。思い出の場所が、ひとつ、またひとつ、消えてゆく。時間が経つとは、そういうことなのか。 - [半年間まとめ記](http://hiroono.com/ja/2008/04/07/ecotheau/) - 書こう書こうと思って書かないまま、この半年で溜まったものたちを、備忘録も兼ねて列挙します。 新しい研究室(9月) 8月に修士課程を終え、9月より研究室を移りました。新しい研究室があるのは、こんな建物。イメージは3歳児の積み木。↓ 外観もカオスならば、内側もカオス。僕の居室は19角形をしています。↓ 広々とした空間に、カラフルな壁、直角が少ない間取り、遊び心に溢れていて、圧迫感を全く感じないのがいいところ。一方、ぐちゃぐちゃな間取りのせいで、部屋番号を知っていてもその部屋に辿り着けない。地図を見てもさらに混乱する。 設計したのはフランク・ゲーリーという名の知れた建築家なのですが、雨漏りはするわ、ヒビは入るわで、MITがゲーリーを訴えたそうです。しかしゲーリーは、「設計は間違っていない。工事が悪いんだ」と主張しているんだとか。 Reach The Beach Relay (9月) ニューハンプシャー州の北から南まで、200マイル(320km)を12人でリレーするという駅伝に参加してきました。一昨年のLowell マラソン以来の大きなレース。ワゴン車を二台借りて、交代で走り、運転し、食べ、睡眠を取る。走力だけでなく、チームのロジスティック戦略が大きくタイムを左右します。 結果は25時間46分27秒で完走。総合で28位に入る健闘。でも誤解がないように補足すると、この好成績は僕以外のメンバー達がツワモノ揃いだったからで、僕自身はだいぶ楽な区間を走らせてもらいました。 (↑完走記念の一枚) (↑ ゴールは砂浜。 New Englandの9月の海は凍るように冷たかった。この写真を以って、僕はまだ若いと主張します。) White Mountaisへ紅葉狩り (10月) ボストンに住んで、長くて寒い冬にはうんざりだけれども、冬が寒い分だけ、四季の変化はより鮮やかになる。秋には葉が色づき、春には花が咲き、冬の白さと夏の青さは一年に明瞭なコントラストを与える。案外、日本人には住みやすい街なのかもしれない。 秋田の子供たち (1月) 秋田県より天才ちびっこ達がMITを訪ねてくれました。彼らはみんな算数や理科が大好きな子たちで、MITの奇妙奇天烈なロボットを見て大喜びしてくれました。僕も彼らくらいの頃に父親に見せてもらったあれやこれやが、僕を今の人生に導いてくれた。秋田の子供達も、今回のMIT訪問でいい刺激をいっぱい受けて、将来へのモチベーションにしてくれたら、と思います。 日本6日間5都市周遊 (2月) 織田作之助賞の授賞式で帰国した際、6日間で福岡→門司→京都→大阪→東京(実家)、鬼のような日程で日本を縦断してきました。はじめて見た関門海峡。ボストンの家の前を流れるチャールズ川より狭い海峡を、大きな船がひっきりなしに行き交う。長江、メコン川と同じカテゴリで、僕のお気に入りの場所に登録。このカテゴリで絶対に行きたいのがイスタンブル。旅はすればするほど、次の場所への期待が膨らみます。 京都では八坂さんにお参り。東京は後楽園で3年ぶりに梅を眺めた。駆け足だったけれども、いい帰国の旅でした。 読書あれこれ 「ローマ人の物語 すべての道はローマに通ず」塩野七生 「ローマ人の物語 終わりの始まり」塩野七生 「壁」安部公房 「深い河」遠藤周作 「武器よさらば」ヘミングウェイ 「東京タワー」リリーフランキー 「手紙」東野圭吾 「異邦人」カミュ 「陰の棲みか」玄月 「黒い雨」井伏鱒二 「グッピー・クッキー」堂垣園江 「からだ、不可解なり」澤井繁男 「内乱記」カエサル 「アジアン・ジャパニーズ」小林 紀晴 「空港にて」村上龍 などなど。 「ローマ人の物語」、時代が下るにつれ、ポエニ戦役やカエサルの巻ほどの迫力はなくなったけれども、やはり面白い。「深い河」、もし、人間とはいかなるものかを知りたい宇宙人がいれば、僕はこの小説を勧める。日本語を読めれば、の話だけれども…笑。「東京タワー」、母への想いを真っ直ぐな言葉で書き綴った好著。僕の母にこの本を勧めたら、母はこの本を僕に勧められたことを喜んでいた。 ミュージカル6本 RENT (9月、Broadway) Chorus Line - [行ってきます!](http://hiroono.com/ja/2008/04/17/oaaeth/) - カメラを買いました。オリンパスのStylus 840。 これからきっと長い付き合い、このカメラを持ってどんな場所を旅するのか。ケチって保険に入らなかったから、大事に扱わなきゃ。 初写真は、春に向かうボストン、 と、今日見に行ったバスケットボールの試合、 自慢の光学5倍ズームはねーちゃん達を撮るのにフル活用。 そんなわけで、明日からコスタリカに行ってきます! - [ボストンにも咲きました](http://hiroono.com/ja/2008/04/25/yuyyeyoeaeth/) - コスタリカから帰ったら、ボストンの桜が満開になっていました。早い年もあり、遅い年もあるけど、ちゃんと律儀に一年に一度咲く花。なんだか僕の歳を数えられているようで、怖くなることがあります。まだまだ「あと何回桜が見れるか」なんて考える歳じゃないけど、それが有限回であることは確か。散り始めた桜を見ながら、次に咲くときには自分は何を成し遂げているのだろう、前に咲いたときから何を成し遂げたのだろう、などと考えてしまいます。 周りの友達はみんな就職して、道を見つけて、立派に生きている中、まだまだ学生を続けている自分。きっと俺だって、遅咲きでも満開の花を咲かせてやるんだ。咲かずに散ってたまるものか。咲くべき時はきっと来る。蕾を膨らませてその時を待とう。今年も一年、頑張ろう。 - [コスタリカ・ニカラグア (2) 国境の町にて](http://hiroono.com/ja/2008/04/27/yyyyeyyeyyeyycniaeae/) - 勢い任せのノリ一発でコスタリカから国境を越えてニカラグアまで行こうと決めたものの、いざニカラグアへ向かう船に乗る時、僕らはずいぶん怯えていた。遊園地の遊覧ボートほどの大きさしかない船には、大きな荷物が屋根の上にまでぎっしり積まれ、定員いっぱいに乗り込んだニカラグア人たちは、岸壁の上に立つ珍しいアジア人の旅行客二人を、まるでパーティーに紛れ込んだ招かれざる客を見るような目で睨んでいた。行くのを止めた方がいいかもしれない。でも、ここまで来て止めると言うのも格好がつかない。そんな、ジェットコースターに並ぶ小学生のような葛藤をしている間に、列は順調に進んでゆき、僕らは押されるように船に乗り込んで、落ち着かない気持ちで最前列の席に浅く腰掛けた。背中に感じる乗客たちの目線と、彼らの不気味な沈黙が、僕らの不安に追い討ちをかけた。時々聞こえる話し声さえも、尖っているように感じた。 「俺ら、睨まれてるぜ。」 「さっき写真を撮った時、デジタルカメラが彼らの目についちゃったかな。」 「もしもSan Carlosが廃墟みたいな町だったら、今日の夕方の船ですぐコスタリカに帰ってこよう。」 僕らはそんなことを、できるだけ小さな声で話した。 コスタリカは、1949年に軍隊を廃止し新憲法を制定して以降、政情は安定し、地理的にアメリカに近い恩恵も受けて、中米で最も豊かな国のひとつとなった。一方、地理的にアメリカに近い迷惑をもろに被ったのがニカラグアだ。1979年に親米独裁政権が革命で倒され、左翼政権が誕生すると、アメリカの裏庭・中米の赤化を許してはならぬ、というわけで、アメリカは露骨に反政府ゲリラを支援した。その結果起きた内戦は十年も続き、国は疲弊して、政情が安定した現在もニカラグアは中米で最も貧しい国のひとつのままでいる。 水が高い場所から低い場所へ流れるように、人は貧しい場所から豊かな場所へ流れる。近年、ニカラグアからコスタリカへ大量の出稼ぎ労働者が流入し、社会問題になっている。コスタリカ人の対ニカラグア感情はあまり良くないそうだ。僕らが乗った船の乗船名簿を見てみると、僕ら以外は全員ニカラグア人だった。日本人や欧米人はおろか、コスタリカ人すら一人もいない。恐らく皆、ニカラグアに里帰りする出稼ぎ労働者なのだろう。 大勢のニカラグア人労働者と、通路を埋め尽くす荷物の山と、その中で怯えて縮こまっている二人の日本人を乗せた船は、Los Chilesの岸壁を離れると、土色に濁ったRío Frío川を、熱帯雨林の中を縫って進んでいった。20分ほど行くと国境を示す標識があり、少し先のニカラグア軍の監視所で船はいったん停止した。銃を持った兵士がやってきて、書類をチェックすると、「行け」と手で合図した。さらに40分ほど川を下ると、船はニカラグア湖に出て、間もなくしてニカラグア側の国境の町・San Carlosに着いた。いよいよ来てしまったぞ、と拳を握り締め、僕らは船を下りた。 船着場は青いペイントがあちこちで剥げた簡素な木造平屋の建物で、それが入国管理局を兼ねていた。パスポートを見せ、7ドルの入国税を払うと、あっさりと入国審査は終了し、僕らは薄暗い廊下を通って出口へ向かった。すると白いポロシャツのおじさんがやってきて、もう2ドル払えと言う。理由を聞いたが、彼のスペイン語が聞き取れない。疑心暗鬼の僕らはしばらく渋っていたのだが、彼がIDを見せたので、信じて払うことにした。彼は日本人の珍客に興味津々で、いろいろと日本のことを聞いてきては、周りの観光地のことなどを教えてくれた。経験上、こういう人に捕まると、ホテルやタクシーの手配から不必要なツアーまで、いろいろと面倒を見られては手数料を取られるのが王道パターンだ。しかしこのおじさんは一通り話が済むと、「よい旅を」と言って、親切に出口に案内してくれた。初めは疑ってかかったが、どうも純粋にいい人だったようだ。 入国管理局の建物を出ると、太陽の眩しさに目が眩んだ。通りに出てきょろきょろしていると、手に札束を持ったおじさんが近づいてきた。いかにも怪しい。聞くと、cambio (両替屋)だという。どうせ悪いレートをふっかけて、ぼったくるに決まっている。しかし、物は試しにとレートを聞いてみると、コスタリカで予め調べておいた正しいレートと同じだった。ぼったくる気はないらしい。僕らはなんだか拍子抜けしてしまった。 町の建物はどれも質素で、壁のひびや汚れを隠すようにカラフルなペイントがされていた。日曜日だったこともあり、石畳の通りには人が溢れていた。店番をしながら隣の店主とお喋りするおばちゃん。路上でキャッチボールをする子供。仔犬を猫かわいがりする兄ちゃん。僕らが前を通るたび、みんなアジア人の旅行客を物珍しげに眺めていた。 僕らはホテルを探した。今まで行った国では、先進国からの旅行客には高い値段を言うのが常だった。そんな時、「高いからいらない」と去るポーズをするのが僕の常套手段だ。そうすると大抵、客を引き止めるために相手は値を下げる。しかし、どうもニカラグアでは要領が違った。去ろうとすると、たいていは値下げもせず、引止めもしない。しかも、彼らの言い値は二人で一泊5ドル?8ドルと、十分に安い。どうも高い値段をふっかけて儲ける気はないらしい。 何件かホテルを回ったのち、僕らはテラスから湖の見える安宿に決め、部屋に荷物を置き、軽装になって町を歩いた。人口七千人のこの小さな町は、端から端まで300メートルほどしかなく、30分も歩けば町の全体を把握できる。湖沿いにあったバーの窓から、明らかに酔っ払った兄ちゃんが僕らを手招きした。入るなり、案の定「チノス?(中国人か?)」と聞かれ、「ノー、ソモス・デ・ハポン(日本からだ)」と答えると、ハポンか!と、いかにもラテンの大げさなリアクションが返ってきた(中米では「アジア人=チノ(中国人)」と思われている)。スペイン語があまりできない僕らに、彼はできるだけ簡単な単語を選んで、ジェスチャーを交えて話してくれた。日本には速い鉄道があるんだろう、高い建物もあるんだよな、東京までは何時間かかるんだ?「メ・グスタ・ハポン(僕は日本が好きだよ)」と言ってくれるのは、たとえその場のノリだと分かっていても、とても嬉しい。 ニカラグアは暑い。たまらずに売店でジュースを買うと、店のおばあちゃんが、座って飲んで行け、と中に入れてくれた。彼女は孫の写真を見せながら、娘と孫はコスタリカのSan Joseにいるんだ、と話した。 湖を見下ろす展望台にいた子供たちは、珍しいアジア人(いや、チノス?)に恐怖半分、好奇心半分なようで、距離を置いた場所からチラチラとこっちを見てくる。僕が景色を眺めている時、背中に気配を感じたので振り向くと、いつのまにか真後ろにいた子供達が走って逃げていった。僕の足元には、かわいらしい赤い花が置かれていた。 公園では、男の子たちが野球をしていた。そばを通ると、どでかい声で「チノス!」と呼び止められ、有無を言わせずに僕らは守備につかせられた。しかしこの野球、ルールは皆無に等しい。守備位置はランダム、打順は早いもん勝ち、点もアウトもカウントしていないし、誰がどっちのチームなのかもよく分からない。野球と言うより、「ボール付き鬼ごっこ」に近い。今回一緒に旅をした友人は肉体系の芸が得意なのだが、子供たちが野球に飽きてきた頃、彼が逆立ちを披露してやると、みんな大喜び。一瞬で、「ボール付き鬼ごっこ」は、「集団逆立ち大会」に変わった。子供と無邪気に戯れる「チノス」を、通行人は面白がって見ていた。やっと子供達から解放された時には、空は夕焼けに染まっていた。 翌朝、僕らは早起きして町を散歩した。旅程が短い僕らは、今日にはこの町を発ってコスタリカに戻らなくてはならない。月曜日の朝のSan Carlosの町は、学校へ向かう子供達の賑やかな声で溢れていた。熱帯の太陽は朝でも容赦なく、子供達の白い制服を眩しく照らす。朝食を食べ、郵便局で葉書を出したのち、僕らは荷物を持って、昨日の船着場に向かった。町のちょっとした有名人になった「チノス」の二人に、店の人たちが笑顔で手を振ってくれた。 本当にいい町だった。きのう、ニカラグアに渡るときに怯えていたのが馬鹿みたいだった。入国管理局では、前日に僕らから2ドルを徴収したおじさんが、親切に出国手続きを教えてくれた。時間になって船に乗り込むと、きのうと同じように、コスタリカへ向かう大勢のニカラグア人労働者たちが、大きな荷物を抱えて座っていた。彼らに「オラ!(ハロー!)」と言うと、「オラ!」と笑顔で返してくれた。珍しい「チノス」を興味津々に眺める彼らの表情は皆、とても穏やかに見えた。 (了) ホントは先輩なのに、ためらわず僕の事を「友人」と呼んでくれる、今回の旅の友の日記 コスタリカ・ニカラグア? 適当旅行のススメ 旅の補足情報 (本記事の情報は全て、2008年4月現在のものです。この情報に基づいて行動した結果について、筆者はいかなる責任も負いません。必ず現地で最新の情報を入手してください。) 日本人はコスタリカ・ニカラグアとも、ビザは必要ない。 Los Chiles – San Carlos国境は、陸路の通行が制限されており、一般の観光客は船でしか越境できない。スペイン語圏は同じ名前の町がたくさんあるので注意。コスタリカのLos Chiles (ロス・チレス)のバスターミナルから出ている ”San Carlos”行きのバスは、コスタリカにある同名の都市San Carlos行きである。一方、ニカラグアのSan Carlos(サン・カルロス)からも “Los Chiles” 行きのバスがあるが、こちらはニカラグアのLos Chiles行きである。 船の出航時間は一定していないので、現地で必ず確認する必要がある。曜日によっても異なるし、その日の客の集まり具合によっても変わるようだ。日曜日は一便のみで、Los Chilesを11時から1時の間に、San Carlosを4時から6時の間に出航するらしい。平日はもっと便が多いようだ。出航時間の情報は聞く人によってまちまちなので、必ず港にいる複数の人に時間を聞いて、入念に確認を取るほうがいい。僕らはLos Chilesを11時半に出航と聞かされていたので悠長にメシを食べていたら、船のおじさんがレストランにやってきて、突然「あと五分で出航する」と聞かされた。30分も出航が早まったのだ。でも、わざわざレストランまで来て教えてくれるあたりが、コスタリカ人の親切なところ。 また、自分で船をチャーターして国境を越えることもできるらしい。船のチャーター代は、おおよそ100ドルとのこと。 コスタリカの出国手続きは、Los Chilesの港から500メートルほど離れた入国管理局 (migración、ミグラシオン、「オ」にアクセント)で行う。出国カードに記入してサインし、パスポートを出してスタンプをもらえば終わりだ。入国・出国とも同じ窓口なので、かならず出国する旨を伝えること。船のチケット(tiquet、ティケトで通じる)は、入国管理局の出口で買えた。おばさんが待ち構えていたので、お金(10ドル or - [薄紅 花景色 切なさを知った春](http://hiroono.com/ja/2008/04/30/coe-oe-aueuoaiao/) - 今まで何気なく聞き流していた曲だったのが、改めてちゃんと歌詞を読んでみると、実はものすごくいい歌だった、なんてことありませんか? 今日、そんな歌をひとつ発見。「魔女の宅急便」のBGMに流れている「海の見える街」というインスト曲なのですが、「めぐる季節」という別の題名で歌詞がついています。これが本当に素敵。特に歌い出しの「薄紅 花景色 切なさを知った春」という下りが好きです。「凍えた手のひらで融けて行く粉雪は、涙に良く似てた 温もりに出会う冬」という部分もいい。 海風の吹く街、色鮮やかな季節、物想いに耽る私。憂愁の陰を落としつつも、語尾には希望が満ちている。女の子の思春期って、こんな感じなのだろうか。 「幸せを探す人が一番幸せ」、きっとその通りだよなぁ。 --- 「めぐる季節」 作詞:吉元由美/作曲:久石譲 薄紅 花景色 切なさを知った春 はかなく散ってゆく 風の指先触れて 静かに見える波 眩し過ぎる夏の日 心の海岸で 白く砕けて行った 過ぎ行く季節の果てに たたずむ人は 誰なの? 揺れる思い 自分を抱きしめたの 一人 明日はどんな日に 頬杖の窓辺から 形の無い夢をきっと見つけに行こう 色付く街行けば 誰かに会いたい秋 やさしくなれそうな 夕暮れの淋しさよ 凍えた手のひらで 融けて行く粉雪は 涙に良く似てた 温もりに出遭う冬 幸せを探す人が 一番幸せだって めぐる季節 想い出に変えながら 二人 明日はどんな風 歩き出す窓辺から もうすぐ見えてくる 夢を渡って行こう --- このページでメロディーを聴けます。 --- 追記:この曲を作詞した吉元由美さんが、僕が愛して止まないミュージカル「RENT」の訳詞を担当することになったそうです!公演は2008年の11月から、日比谷のシアタークリエ(元芸術座)にて。今までもRENTの日本語版はあったのですが、正直いって全く上手い訳詞とは言えず。オリジナルはゴスペルのような神々しさに満ちているのに、それをB級青春ドラマに落としてしまった感がありました。 吉元由美さんの訳詞に大いに期待しています!! - [コスタリカ・ニカラグア (1) 適当旅行のススメ](http://hiroono.com/ja/2008/05/09/yyyyeyyeyyeyyccaaoioiyyya/) - 適当人間には適当人間なりの、旅の美学、哲学がある。 出発前から分刻みで予定が決まっている旅なんて面白くない。スケジュールを正確に消化し、目的通りの写真を撮るだけが旅ではない。冷房の効いた大型バスで日本の快適さを持ち運びながら、ガラス越しに外国を見下ろすのが旅ではない。 現在地を見失って、日本語も英語も通じなくて、路頭に迷うのが旅だ。その晩を過ごす宿が見つからなくて、通りがかった人に助けられるのが旅だ。わけの分からん物を食べて、吐き戻して現地人に笑われるのが旅だ。クッションのないバスの座席に長時間揺られたお尻の痛み、重いバッグを背負って歩き回った足の疲れ、言葉が通じないのに酒を飲み交わし歌って騒いで何故か心が通じた瞬間、日本の位置を説明するためにレシートの裏に描いた下手な世界地図、そんなものが旅なのだ。 適当旅行の適当ないきさつ そもそも、今回の旅の行き先を決めたのは、出発の4日前でした。友人から電話があり、「コスタリカなんてどう?」「おう、いいねえ。」そんな経緯で行き先はあっさり決定。その後、数時間で航空券の予約が完了。コスタリカの首都はSan Joséであることを知ったのも、その時でした。 一日目 ボストン→San José 朝6時にボストンを出発。友人は前日に飲んでいたとかで徹夜、僕も前夜のバスケ観戦から帰って旅行の準備を始めたので、睡眠は3時間。お互いにフラフラの状態で飛行機に乗り込み、疲れ切った体でSan Joséに到着。されども熱帯の輝く太陽を見てテンションは急上昇。カラ元気とはまさにこのことです。 初日の宿泊は、友人がネットで見つけた安宿に「決めて」いたのですが、その宿への道案内が「サバナ・ノルテ、レストラン『チコテ』の近く」という至極適当なものしかありませんでした。まずもってサバナ・ノルテってどこだ?「チコテ」なんて地図に載ってないぞ?「近く」って、情報量が少なすぎだろ。 「まあきっと見つかるだろう」と根拠のない期待をもとにサーチ開始。散々歩き回り、あらゆる通行人に聞きまくって、なんとか「チコテ」までは辿り着けたのですが、目的の宿には辿り着けず、連絡もつかず。結局、近くに別の安宿を見つけたものの、重い荷物に睡眠不足で1時間も歩き回った後では、疲労はマックス、テンションはどん底。なんとか気力を回復させるため、旅行初日から日本食レストランに駆け込んでしまった、しょうもない二人でした。 (↑ San Joséの街角。誰某か曰く、コスタリカは「世界三大美人が多い国」だそうな。) 二日目 San Jose→La Fortuna 当日の予定は当日に決めるのが、適当旅行の哲学その一。なんて偉そうなことを言って、本当は前日に疲れきって、翌日の予定も決める間もなく寝てしまっただけなのですが…。ガイドブックを一通り眺め、火山と温泉と熱帯雨林のあるメジャー観光地、La Fortunaに向かうことに決定。 適当旅行の哲学その二は、「計画性のなさは行動の早さで補え」。そんなわけで、行き先を決めたらすぐ出発、通勤客たちに混じって路線バスに乗り、朝の仕入れで賑わう市場を通り抜け、相変わらず通行人に道を聞きまくりながら、長距離バスターミナルに到着したのが午前8時でした。 切符を失くし、危うく途中の街に置いてきぼりにされつつも、人の温かさに支えられ、無事にLa Fortunaに到着。さすがメジャー観光地だけあって、熱帯雨林ツアーはなかなか面白かった。「生き物ウルルン紀行」的なTV番組に頻出のハキリアリ(葉っぱを切って巣に持ち帰って、キノコを育てて食べる蟻)なんかも見ましたよ。悪天候でアレナル火山はお隠れになっていたものの、帰り道に温泉に立ち寄り、満足のゆく一日の締め。 (左:何かしらんの猿、右:ハキリアリ) この日の晩に泊まったのは典型的なバックパッカー宿でした。休暇シーズンでもないのに悠長にバックパック旅行をしている世界各国代表の適当人間達が、酒の瓶を囲み、もうじき戻らなくてはいけない仕事への文句を垂れながら、自分の国の自慢話をしている。旅の武勇伝を競い、「結局、女とは・・・」と虚勢を張っては、世界平和について持論を展開する。 きっと人生を消費するばかりではいけないのだけれども、先物に投資してばかりでも空しいよね。せめて酒の瓶が空になるまでの時間は、その場限りの笑いと両替して、明日に持ち越さずに使いきってしまおう。そんな旅の夜の時間は、額面通りの価値を伴って、相場を読むのに疲れた僕の心を、豊かに緩やかに流れてゆきます。 (たぶん続く) コスタリカ・ニカラグア? 国境の町にて - [宇宙基本法を考える](http://hiroono.com/ja/2008/05/19/aedheueoie/) - 少し前のニュースになるが、「宇宙基本法」が衆議院を通過した。最大の論点はもちろん、この法律によって自衛隊が偵察衛星を持つことが可能になる点だ。 もし僕が国会に議席を持っていたならば、すっきりしない気持ちながら、これに賛成票を投じると思う。 --- 今や日本の新聞の社説をアメリカからオンラインで見れる便利な時代なのだが、やはり、という感じで、読売新聞はこの法案に諸手を挙げて賛成、一方の朝日新聞は法案の内容から議決方法まで言葉を尽くして嫌悪感を表明している。日本という国が抱えるジレンマをよく表していると思う。 宇宙工学を学ぶ僕にとって、想いは複雑だ。世界のほとんどの国が宇宙開発を軍事と表裏一体で進める中にあって、日本の宇宙開発が(少なくとも表面上は)軍事と切り離されて発展したことは、日本の誇りであった。それがこうも軽々しく覆されるのは、今まで守り抜いてきた貞操が強引に破られるような気分であり、感情的には非常に受け入れ難い。日本のエンジニアの多くも、恐らく同じ思いだろう。 一方で、感情を排して考えれば、日本の「軍事アレルギー」は少々行き過ぎている感があるように思う。もちろん僕は、日本が再び軍国主義に走るのを見たくはない。しかしそれと同時に、北朝鮮のミサイルが東京を瓦礫の山にするのも決して見たくはない。 1998年にテポドンが日本上空を通過した事件を、忘れた人はいないだろう。脅威は現実に存在するのだ。宇宙からの目があれば、ミサイルが日本に向けて発射される前に、その兆候を察知できる。また、偵察衛星は戦闘機や軍艦とは違い、直接人を殺め、他国を攻撃する能力はない。日本が衛星を対外侵略の支援に用いることも、ないと信じる。純粋に日本の安全を守るため、東京にミサイルが降るのを防ぐためのものならば、反対する理由は薄いのではなかろうか。 とはいえ、国同士が疑念の目で宇宙からお互いを監視し合わなければならない世の中であるのは、なんとも悲しいことだ。脅威ではなく信頼によって世界に平和がもたらされる時代が一刻も早く来ることを、ただただ望むばかりである。 - [幸せの風景と、悲しみの風景と](http://hiroono.com/ja/2008/05/25/aeueueiee/) - アメリカの今週末は、Memorial Day (戦没将兵追悼記念日)の三連休だ。 日本では「戦争」とは半世紀以上前の歴史の中の物語だが、アメリカでは戦争は現在進行形で起きている。平和が当たり前になった幸せな国では忘れ去られた悲しみの風景が、この国にはまだ存在する。 とあるカメラマンが昨年のMemorial Dayに撮影した上の写真は、多くのアメリカ人の胸を打った。あえて僕の個人的な意見は伏せて、代わりに、この写真とともに"TIME Annual 2007"に掲載された文を、以下に全訳する。 --- メモリアル・デイ連休の日曜日、メアリー・マックヒューさん(26)は、彼女の婚約者であったジェームズ・レーガン軍曹の墓前で、悲嘆に暮れていた。歩兵第75レンジャー部隊に所属していたレーガン軍曹(当時26歳)は、2007年2月9日、バグダッド郊外を車両でパトロール中、路肩爆弾の爆発に巻き込まれ死亡した。レーガン軍曹はニューヨーク州マンハセット市出身で、高校とデューク大学在学時はラクロスのスター選手だった。高校のラクロスのコーチだったジャック・モランさんは、「(彼の死の)ニュースを聞いたときは、トラックに撥ねられたようなショックを受けたよ。彼ほど素晴らしい人は他にいなかった。」とニュースデイ誌に語った。レーガン軍曹はデューク大学を卒業後、ロースクールに進学するための奨学金を受けたが、(それを辞退し、)兵士になる道を選んだ。「彼は、『俺がやらなきゃ、だれがやるんだ?』と言って軍に入ったのよ。」と、(婚約者の)マックヒューさんは語った。 (この写真を撮影した)写真家のジョン・ムーア氏は、彼のブログに以下のように書いている。「この写真は(彼女と死んだ婚約者との)プライベートなもの(で、撮影するべきではなかったの)ではないか、という人もいた。しかし私は、この写真を見た多くの人たちと同じように、彼女の悲しみに沈む姿にショックを受け、亡き婚約者への愛の深さに心を動かされたのだ。」 2007年9月18日までに、3,791人のアメリカ軍兵士がイラクで死亡し、27,936人が負傷した。 (TIME Annual 2007より) *** 今日は僕の周りの結婚ラッシュで、三組が式を挙げた。東京では留学仲間でもあったハトコが、ボストンではMITのラボの仲間二組が。僕はそのうち一方のパーティーに参加。ダンスが特技の彼は、みんなの前で彼女をリードし、サルサを披露した。 ダンス・フロアの上に二人きり、祝福の目線とフラッシュの光を背中に受けながら、彼らは照れを隠すように顔をうつむかせ、幸せを確かめるようにお互いの手を握って、軽快な音楽に合わせて体を揺らした。 目の前に溢れる幸せの風景に浸りながら、東京とボストンで花開くもう二つの幸せの風景を思い描いていると、「幸せ」というものの普遍性に少しの疑いも挟む余地が無いように思えてしまう。しかし、白いチューブトップ・ドレスを着て踊る新婦の華奢な背中が、婚約者の墓前に突っ伏して嘆き悲しむ女性の背中と重なって見えたとき、目の前にある幸せの風景と、写真の中の悲しみの風景との境界は曖昧になり、たった今確信したはずの幸せの普遍性は脆く崩れ、ただひとつ普遍であるのは、人間と人間だけなのだと気付かされた。 *** レバノンで「中東和平」をしている友人のブログ。平和が当たり前になった日本には存在しない、もうひとつの風景がある。 Memorial Dayの写真を撮影した写真家のブログ。 - [「犬 痴呆 鳴く 迷惑 保健所」](http://hiroono.com/ja/2008/06/19/o-aoeo-ia-iaic-eyoe/) - アクセス解析を見たら、「犬 痴呆 鳴く 迷惑 保健所」という検索キーワードでこのブログに辿り着いた人がいたことを知った。 飼っている犬が老いて、呆けて、鳴いて、手に負えなくなって、保健所に持っていこうとしているのだろうか。人それぞれ、犬それぞれ、いろいろな事情があるだろうから、巷に流布している道徳を無理やり押し付けて、「それはいけないことだ」と断罪することはできない。人間と違って犬は老人ホームに預けるわけにはいかないし、仕事があるから一日中介護できない、鳴いてご近所に迷惑になる、そんな仕方ない理由があったのかもしれない。 それでもやはり、僕は過去に可愛がっていた犬を失った経験を持つだけに、このような検索ワードで飼い犬の処分方法を探している人がいたことを知ると、なんとも悲しい気持ちになってしまう。 --- 間違いなく世界で一番かわいい犬だったチコちゃんが死んだのは、もう三年半も前のことだった。キャバリアという犬種は生来心臓が弱い子が多く、チコちゃんも例に漏れずに心臓病を患っていた。 その日、チコちゃんが急に悲鳴をあげて倒れ、母と妹が慌てて病院に連れて行った。酸素吸入と注射で小康状態を取り戻した後、病院の先生はその後の処置について、母と妹にこう尋ねた。 「もし今晩入院させれば快方に向かうかもしれないが、夜のうちに死んでしまう可能性もあります。しかし、もし家に連れて帰れば、おそらく今晩も持たないでしょう。どうしますか?」 どうしようか迷っている母と妹に向かって、チコちゃんは酸素室の透明な容器の内側から、目でこう訴えたそうだ。 「寂しいよ、置いて行かないでよ。」 それを見て、二人はチコちゃんを家に連れて帰ることに決めた。そして、酸素室から出し、母が抱き上げた瞬間、チコちゃんは目を見開き、手足を硬直させ、そして力を失った。一番好きだった母の腕の中で迎えた、最期だった。 僕がチコちゃんの死を知ったのは、バイトから帰宅したあとだった。その晩はお気に入りだったリビングルームの寝床にチコちゃんを寝かせ、それを家族四人で囲み、泣きながら彼女の思い出を語り明かした。 「ああやって寝ている姿、生きている時とちっとも変わらないね。あの怠け犬は、一日中あそこ寝ていたもんね。」 「キッチンの裏の犬小屋よりも、みんなが見えるあの寝床が好きだったんだよね、チコちゃんは寂しがりやだったから。」 翌朝、父が仕事に出る前に、家族四人で庭にチコちゃんを埋めた。小さなチコちゃんが入る穴は、すぐに掘れた。穴の底にタオルに包んだチコちゃんを寝かせ、好物だった鳥のササミと、「さくうま」という犬用スナックを、たくさん添えてやった。 「そんなに山盛り、チコちゃん食べきれないよ。」 と妹が言うと、皆、泣きながら笑った。 最後に、タオルを少しめくって、顔を見た。本当に可愛かった。手で少しずつ土をかけていったのに、あっという間にチコちゃんは見えなくなった。 --- そんなことを思い返すにつけ、チコちゃんは本当に幸せな犬だったと思うし、僕らも本当に幸せだった。たった九年の短い命だったけれども、最期までチコちゃんと一緒にいれた幸運は、どんなに感謝しても足りないくらいだと思う。 「犬 痴呆 鳴く 迷惑 保健所」、こんな検索ワードを見つけたとき、保健所の暗く狭いガス室の中で、他の大勢の犬達に混じって、震えながら鳴いているチコちゃんのイメージが、ふと脳裏によぎった。彼女はこう、目で訴えていた。 「寂しいよ、置いて行かないでよ。」 追記: 前述の検索ワードに引っかかったのは、恐らくこの記事。 - [消費、カオナシ、かめはめ波](http://hiroono.com/ja/2008/06/26/aencaencaen/) - Costcoという、「いかにもアメリカ!」という感じの巨大なショッピングセンターを見物してまいりました。 店というよりも、倉庫。信じられないくらいの量を、信じられないくらいの安値でまとめ売りします。例えば・・・ ミネラルウォーター: 35本で5ドル (1ドル≒105円) パスタ: 4kgで7ドル 豚肉: 3kgで15ドル まずもって単位が違います。肉はグラムで量るものでしょう。 まとめ売りは食料品ばかりではありません。例えば・・・ スーツケース: 3個で189.99ドル コードレスフォン: 5個で99.99ドル 日本だと、そもそも5つ以上の部屋がある家に住める人なんて稀なのに・・・。 --- 「人間はここまで太れるのか」と感心してしまうくらいに太ったアメリカ人が、スナック、冷凍食品やダイエット・コークを山のように積んだショッピング・カートを押していました。それを見てふと連想してしまったのは、手から金塊を出してあらゆるものを食いまくる、肥大化したカオナシです。ダミ声で「千を出せ」なんて言ってそう。湯婆婆にカメハメ波でやっつけてもらいましょう。 --- 行けども行けども果てのない商品砂漠を彷徨っていると、面白い光景に出会いました。キリスト教のシスター(修道女)が、修道服を着てショッピングカートを押していたのです。思わず写真を撮ってしまいました。 なんと世俗的な神の僕たち(笑) いやいや、こんな場所でも修道着を脱がないのだから、それだけ敬虔なのだと捉えるべきでしょうか。 --- 大量に買った商品は、ショッピングカートに積んだまま駐車場まで運び、車のトランクに満載して自宅へレッツ・ゴー。これぞまさに消費社会です。生産に必要な労力はすべて一枚のクレジットカードに集約され、消費に思考は求められない。コミュニケーションは商品のラベルを通してのみ行われ、価値は全てドルという一次元座標に投射される。 もちろん、これを悪だと安易に決め付けるつもりは決してありません。それに、ミネラルウォーターの35本パックを購入した僕も、しっかりと消費社会の恩恵を受けて生きているわけです。しかし、一歩引いて冷めた目で観察すると、「気味が悪い」と、ふと感じてしまうことがあります。 さて、一通りアメリカの悪口を言ったところで、わが国・日本を振り返ってみて、果たしてどうでしょうか・・・。 --- [追記] 友達の書き込みによると、日本にもCostcoが出店しているそうです。そして「コストコ」と読むそうな。なんだか響きがかわいらしいですよね、「コストコ、ハム太郎」みたいな感じで(笑) 英語の読みは「コスコ」のような感じで、最初の「コ」にアクセントです。 - [ストレス?](http://hiroono.com/ja/2008/07/12/yyeyiy/) - ブログにはいつも陰鬱なことばかり書いておりますが、いつぞやの日記に書いたように、実生活では(少なくとも外見上は)のんのん呑気に生きており、「小野は悩むことなんてなさそう」などと言われること数多です。そんなとき、心では「けっ、俺にだって一人前の悩みくらいあるさ」などと思ったりもするのですが、口では「おー、悩んでばかりいたら早死するからね」などとお茶らけて答えております。 さて、昨日、研究室でパソコンに向かい、出来の悪いプログラムのバグ取りをしていたら、突然右目の視界に、明るいものを直視した後の残像のような、光り輝く斑点が現れました。しばらく放置していたのですが、その斑点は色や形を変えながらだんだん大きくなるので、さすがに怖くなり、ミーティングをキャンセルして眼科に飛んで行きました。眼底検査をしてもらったところ、異常はなし。先生が "Congratulations!"(おめでとう!)などと言うところがアメリカっぽいと思いましたが、何はともあれ、特に心配は要らず、疲れやストレスが溜まっているときに起きる症状なのだ、とのこと。 プログラムのバグに悩まされて研究が遅々として進まないことに加え、目前に迫ったSTeLAの準備にも忙殺され、その他諸々の個人的悩みも重なり、最近ちょっと疲れていたのかも。や、そんなことを言いながら、先週末はニューオリンズ、今週末と来週はシカゴ、忙しい割に旅行ばかりしているから、「やっぱり呑気だ」と言われても仕方ないのですが・・・。 そんな最近、専ら聴いているのが "Carpenters Singles 1969-1981"。 とりわけて心に染みるのが"I need to be in love"という曲、「青春の輝き」という邦題のほうが有名でしょうか。きっとこんな曲のおかげで、少し気持ちが休まって、また頑張ろう、という気持ちになれるのだと思います。 --- こんなことを書いたら、いつもこのブログをチェックしている心配性の両親が過剰反応しそう。なんだかんだで元気にやっているから大丈夫だよ、ご心配なさらずー! --- (追記:7/12) 予想通り、両親から過剰反応メールが届きました。「心配症はやめられません。」だと(笑)まあ面倒なことも多いけれども、自分を心配してくれる人がいるのは幸せなことだ。 - [おじいちゃん、ありがとう。](http://hiroono.com/ja/2008/07/26/ceecaao/) - おじいちゃんが死んだという知らせを聞いて、僕は飛行機に飛び乗り、16時間のフライトの末に成田空港に着くと、大きなリュックを背負ったまま、おじいちゃんのいる斎場へ直行した。 斎場は街の賑やかさからは少し隔たった平和島公園の一角にあり、僕が到着した夜8時には、通りを行き交う車の音の他は、背後にある公園の黒い木々からセミの声が聞こえるのみだった。その闇からぬうっと浮かび上がるように、真っ白の大きな看板が玄関に立っていて、そこにはまだ墨汁が乾ききっていない黒光りする毛筆で、「故 村上光一 儀 葬儀式場」と書かれていた。それを見た瞬間、今までは1万キロの距離によってボヤけていた「おじいちゃんの死」という情報は、この黒と白と黒のコントラストのように明瞭な事実となって、屹然と僕の前に立ち現れた。僕の心は逃げられないようにきつく縛り上げられ、縄目がグイグイと音をたてて心に食い込んで行く感じがした。 その縄に引きずられるように斎場の中に入ると、すでに葬儀の準備は整えられていた。誰もいない部屋には椅子が整然と並べられ、花で飾られた祭壇の前には、白い棺が寂しそうに置かれていた。 若干の躊躇の後、棺にある観音開きの窓を開けると、その中でおじいちゃんが目を閉じて静かに眠っていた。眼鏡をかけたままなのは、きっとおばあちゃんの心遣いだろう。四角い顔にぼってりした鼻。重たそうな瞼に柔らかそうな耳。禿げた頭に僅かの白髪。全てが元気だった頃と変わらない、優しい寝顔だった。これこそ最も明瞭な事実の提示であるはずなのに、その顔を見て、僕は逆に安堵感を覚えた。心を縛り付けていた縄がするすると解けていくように感じた。僕は棺の蓋を開け、おじいちゃんの冷たい頬に触れながら、「ただいま」と言った。 --- 翌朝の葬儀には、ごく親しい身内ばかり、15人ほどが集まった。ほとんどが関西の人で、久々の再会だったこともあり、軽快な大阪弁で話は弾み、笑いが絶えず、まったく湿っぽくない葬式だった。 「ケンゴおじちゃんに続いてパパおじちゃん(おじいちゃんのあだ名)も逝きはって、上の世界はずいぶん賑やかやろうなあ」と誰かが言う。母は、僕が寝坊して飛行機を乗り過ごしたエピソードをわざわざ言いふらして回り、「うちの息子はどうも抜けててねぇ」と笑いのネタにすれば、大阪から車で駆けつけた叔父は、東名が通行止めだったので下の道で箱根を越えてきたそうで、「久々に山を走って楽しかったわァ」などとおどけた。 しかし、式が始まり、ナンマイダブと念仏が唱えられると、さすがにみんな静まりかえり、すすり泣きさえ聞こえた。出棺の前、おばあちゃんが便箋を広げ、涙に声を震わせながら、「愛する良人(おっと)」への感謝と、一緒に連れ添った60年の思い出を書いた手紙を読み上げるのを、涙なくして聴く人はいなかった。 人が多い東京では焼き場も予約がぎっしりだそうで、葬儀は滞りなく進められ、おじいちゃんは定刻通りに焼き場のエレベーターに入っていった。 おじいちゃんに少々の熱さを我慢してもらっている間、僕らは冷房の効いた待合室で昼食。その席で叔父が立ち上がり、スピーチをした。 「オヤジはほんま立派な男でして、強い奴には噛み付いたけれども、弱い者にはいつも味方でした。僕は若い頃、オヤジとよう喧嘩して、心の距離が開いた時期もありましたが、大人になって年を取るにつれて、僕もオヤジみたいな男になりたいな、と思うようになりました。」 それに続いて、おばあちゃんがヨイショと立ち上がり、遠路はるばるよう来てくれはった親戚の皆々様本当に有難う云々と、気合を入れてスピーチを始めたのだが、絶妙のタイミングでピンポンパンとアナウンスが入り、「村上光一様のご遺族様、ご収骨の準備ができました」と爽やかな声がスピーカーから流れたせいで、おばあちゃんの話は完全に腰砕け。どんな些事も拾いあげてコントに仕立ててしまうのが関西人気質で、「ばあちゃんの長話にえぇ落ちが付いたわァ」とすかさず合の手が入り、これには一同大爆笑だった。 収骨室へ行くと、おじいちゃんは真っ白な骨になってエレベーターから出てきた。それをみんなでわさわさと箸で拾い、骨壷に入れていくと、特大の壷はすぐに一杯になった。焼かれている間に崩れてしまうことも多いという頭蓋骨も、きれいにお椀の形を留めていて、「オヤジは頑固者やったけど、頭の骨までカチンコチンやったんや」と叔父が言うと、お骨を囲んでまた笑いが起きた。 こうして「パッケージプラン」の簡素な葬儀は手際よく終わり、おじいちゃんは白い布がかぶさった骨壷に収まった。タクシーに乗って帰途につく人たちの顔にもう涙はなく、皆口々に「ええお葬式やったわ」と笑顔で振り返った。 「派手すぎず、寂しすぎず、おじいちゃんらしい式やったなぁ。」 「あの若いお坊さんの声も良かったし、葬儀屋のお兄ちゃんも誠実やったし、パパおじちゃんもきっと喜んでるわぁ。」 皆、悲しみを分け合いつつも、決して後悔も悲壮感もない。賑やかな笑い声に溢れた式は、喪失への悔い恨みではなく、おじいちゃんが楽しく逞しく生きた84年の人生への祝福だった。唱えられた念仏は、癒されぬ魂への鎮魂歌ではなく、皆を愛し皆に愛された幸せな魂への賛美歌だった。おじいちゃんもきっと天国で、皆に混じって、あのガラガラ声でガハハと笑っていたのではなかろうか。 --- 翌朝、僕は慌しく成田空港へ向かった。日本滞在はたったの二泊、最短記録の更新だ。散々泣き、散々笑ったあとで、ボストンへ向かう飛行機に乗る僕の心の中にあったのは、もはや悔いでも無念でもなく、ただひたすら、優しかったおじいちゃんへの感謝だけだった。 おじいちゃんは誰にでも優しかったが、初孫の僕はとりわけ可愛がってもらった。父方の伯母が打って寄こした電報にはこう書かれていた。 「…雅裕君の誕生の際、大阪の家でお会いした時のお父様の笑顔が忘れられません。心からご冥福を…。」 僕の誕生を祝い、成長を喜び、僕が病気をすれば自分が病気になるほど心配し、僕が大学に入った時は自分のことのように嬉しがってくれた。僕が言葉を喋る前から膝の上で六甲颪を教え込み、結果僕は阪神ファンになった。乗り物好きの僕に飛行機を見せるため、よく車の助手席に乗せて伊丹空港まで連れて行ってくれた。電車で出かける時、幼稚園児は運賃を払わなくていいのに、わざわざ子供用切符を買い与えてくれた。丸印に「小」と印刷された切符を握り締め、僕はなんだか大人になった気分で、とても嬉しかった。 おじいちゃん、本当にありがとな。僕はこれからも頑張るから、よう見といてや。 - [顔に泥を塗る](http://hiroono.com/ja/2008/08/05/eeayoaee/) - STeLA Leadership Forum 2008が遂に開幕しました!去年の如く、いや、それ以上に、新しい知識や経験が怒涛のように押し寄せる毎日です。 寝る間もないほど忙しいので、今日は写真を一枚だけ。 STeLAの準備の一コマです。泥人間になってみました。気が狂ったわけではありません、大真面目です。 一体何をしていたのかは、フォーラム後に報告します。 - [マジック Rock You](http://hiroono.com/ja/2008/09/08/ythyyay/) - どうした我が阪神タイガース、すっかり元気がないぞ。5連敗を脱してマジック再点灯と思ったら、また負けて一日で消滅。 最近YouTubeで見た「世界のナベアツ」のQueenの芸のせいで、意気消沈した僕の脳に「シャボン玉飛んだ」のメロディーが無限ループ、そしてふと思いついた替え歌を、「我ながら上手いな」と部屋で一人ほくそ笑むばかりでも気味が悪いので、つまらないと批判を受けるリスクを覚悟の上、大公開します。 --- ♪マジックが消えた、減らずに消えた 点いたらすぐに、敗れて消えた 巨人よ勝つな、優勝させてーーーーRock you♪ (「シャボン玉」のメロディーで。) --- 久々の更新なのに下らない内容でごめんなさい。STeLAの事を書こうとするも、あまりに膨大な情報量のためなかなかまとまらず。近々アップデートいたします。 - [顧みられない病気 - Neglected Diseases](http://hiroono.com/ja/2008/09/10/usseieeau-neglected-diseases/) - 今年のSTeLAフォーラムで取り上げたトピックをひとつ、紹介しようと思う。"Neglected Disease Problem"[1]、「顧みられない病気」(または「見捨てられた病気」)という問題だ。 --- 「エイズ」や「癌」という病名を、皆さんはご存知だろうか。もちろんだろう。馬鹿にするな、という声が聞こえてきそうだ。誰もが怖れるこれらの難病を克服するため、先進国では莫大な資金が投じられ、日々新しい薬の研究開発が続けられている それでは、「内臓リーシュマニア症(Kala-azar or Visceral Leishmaniasis)」という病名をご存知だろうか。「アフリカ睡眠病(Trypanosomiasis)」はどうだろう?「シャーガス病(Chagas disease)」は?「住血吸虫症 (Schistosomiasis)」は?恐らく、知る人は少ないのではなかろうか。そして新薬の研究開発も、エイズや癌に比べれば、活発には行われていない。 では、これらの病気の知名度が低く、薬の研究開発も活発でないのは、危険な病気ではないからだろうか。あるいは、患者が少ない稀な病気だからだろうか。そんなことは決してない。例えば先に挙げた「内臓リーシュマニア症」は、世界に約50万人の患者がおり[2]、毎年その1割、約5万人を死に至らしめる危険な病気だ[3]。「住血吸虫症」は世界に約2億人の患者がおり[4]、年間4.4万人が命を奪われている[3]。致死率こそ低いが、子供の成長を阻害し、知的障害を引き起こし、膀胱癌などを誘発するため、社会経済的な被害は非常に大きい。 なぜこれほどまでに深刻な病気が、病名すら知られず、薬の研究開発もままならず、ほったらかしにされているのだろうか。答えは、これらの病気は日本や欧米などの先進国ではほとんど発生せず、アフリカやアジアの貧しい国に患者が集中しているからだ。対岸の火事とばかりに、先進国は知らんぷりをしてきたわけだ。これらの病気が"neglected diseases"、「顧みられない病気」と呼ばれている所以である。 --- では、「顧みられない病気」の薬の研究開発が盛んではない理由は何だろうか。新薬の開発には十年以上にも及ぶ期間と、数十億から数百億円もの費用がかかる。これだけの費用を負担できるのは先進国の大手製薬会社しかないのだが、彼らとて、莫大な投資をして薬を開発しても、貧しい国にしか患者がいないのでは、その薬を売って収益を上げることができない。だから「顧みられない病気」の薬の研究開発に消極的になる。 ならば大手製薬会社なんかに頼らず、自力で薬を開発しようとするNPOやベンチャー、発展途上国の機関なども存在する。しかし、彼らの前に立ちはだかっているのが、分厚い「特許の壁」だ。大学や製薬会社などが薬の開発に必要となる特許を多く抱え込んでいて、それらを使うには莫大な特許使用料を払う必要があるのだ。 こんな話をテレビ局にでも持ち込めば、「拝金主義」やら「人道軽視」などといった安易な言葉でズバズバと批判してくれるだろう。しかし、問題はそう単純ではない。 いかなる会社も、投資に見合う収益をあげられなければ倒産してしまう。そして製薬会社の経営が立ち行かなくなれば、「顧みられない病気」の薬どころか、我々が日常に必要とする薬の開発も滞るだろう。収益を上げられる病気の薬に優先して投資することは止むを得ないのだ。 では、特許の方はどうだろう。特許とは、研究が持続して続けられるために必要な制度だ。研究という仕事は、新しいアイデアを産み出して給料をもらう職業である。そのアイデアの著作権が特許であり、研究者の給料の出どころが特許使用料なのだ。音楽の違法コピーがはびこっては作曲家がメシを食えないように、特許を無制限に公開しては研究者が職を失う。そして研究者がいなくては、薬の開発に必要なアイデアが産み出されなくなってしまう。(カタカナ語を使えば、イノベーションを起こすインセンティブが失われる、ということ。) 「金儲けは汚い」と言うのはたやすいが、市場原理を無視しては、長期的に問題解決に取り組むことはできないのだ。 さらに、もし収益性や特許の問題を乗り越えて薬の開発にこぎつけても、まだまだ問題はある。「顧みられない病気」の患者が多い貧しい国では、道路や病院といった社会インフラが未整備な場所が多く、必要な患者に必要な薬が届けられないのだ。医者が一人もいない村で、どうやって患者に薬を適切に処方し投与できるのか。電気がない町で、どうやって冷蔵保存が必要なワクチンを保管できるのか。 先進国の政府がお金を出して、薬の開発も貧しい国のインフラ整備も請け負えばいい、という論もある。その通り、日本や欧米の政府が「顧みられない病気」に真剣な投資をすれば、問題は解決に向かうだろう。しかし、国内で癌やエイズが大きな問題になっている時に、国民が払った税金が癌・エイズの研究ではなく、遠い国の名も知らぬ病気の研究に使われることを、国民は素直に納得するだろうか。身内に癌の患者がいる国民は、どう思うだろうか。 --- このように、「顧みられない病気」という問題には、製薬会社、大学、研究機関、政府、NPOなど、ありとあらゆる人や団体が関与していて、その利害関係は複雑に入り組んでいる。問題の深い深い根は地下で複雑混沌と絡まり合い、地上に見えている問題の幹を切り倒しても、すぐに根から新たな幹が生えてくる。 そして忘れてはならないのは、僕たちのような先進国に住む一般の国民もこの問題に深く関与していている、ということだ。なぜなら、我々先進国の国民がこの問題に無知でいたことこそが、「顧みられない病気」が今まで顧みられなかった根本の原因であるからだ。 近年、大手企業が競って「エコ」を売りにするのは何故か。国民の環境意識が高まったため、「エコ」によって企業イメージを上げ、長期的な収益に結びつけることができるようになったからだ。狂牛病は人間への感染リスクが非常に低いにも関わらず、政府が莫大な額の税金を注ぎ込んで全頭検査を行うのは何故か。国民の狂牛病への関心が膨らみ、政府が税金を使う必要性を国民が認めたからだ。 同じように、「顧みられない病気」が先進国世論に広く認知され、国民が大きな問題意識を持ってはじめて、大手製薬会社が「顧みられない病気」の薬を開発し、大学が特許を公開する動機が生まれる。国民の理解を得てはじめて、先進国政府も税金を使って「顧みられない病気」の対策に乗り出すことができる。 結局のところ、「顧みられない病気」を顧みなかったのは、製薬会社でも大学でも政府でもなく、我々自身なのだ。土を取り払えば根は枯れる。我々がこの問題に光を当て、声をあげれば、顧みられない病気はもはや「顧みられない」病気ではなくなるのだ。 --- 近年、ここアメリカでは、俄かに「顧みられない病気」への関心が高まっている。そしてそれに呼応するように、明るい兆しも見え始めている。2004年、カリフォルニア大学バークレー校が、人道目的のプロジェクトに対して特許を無料で公開することを決めた。現在では全米の多くの大学がバークレー校に追随している。また、2005年以降、マイクロソフト会長のビル・ゲイツ氏の慈善基金団体であるビル&メリンダ・ゲイツ財団(Bill & Melinda Gates Foundation、B&MGF)が、途上国を対象とした生物医学研究におよそ500億円の寄付を行った。 一方、日本ではまだまだ「顧みられない病気」への関心が低いようだ。僕がブログにこの記事を書いたのも、少しでも多くの人にこの問題を知ってもらうためだ。この記事を読んだ皆さんにも是非、「顧みられない病気」のことを友人などに伝えてもらいたい。先進国の国民が広くこの問題を「知る」ことが、問題解決への第一歩なのだから。 --- [1]顧みられない病気、neglected diseasesは、"neglected tropical diseases"、または単に"tropical diseases (熱帯病)"とも呼ばれる。これらの病気が貧しい国に集中するのは、衛生状態が悪いからだけではなく、貧しい国が熱帯地方に多いことも原因だ。いや、あるいは熱帯病が原因で貧困が結果なのかもしれない。 [2]WHO(世界保健機関)より、http://www.searo.who.int/en/Section10/Section2163.htm [3]WHOより、http://www.who.int/healthinfo/bod/en/index.html [4]WHOより、http://www.who.int/schistosomiasis/en/ [統計]WHOの統計によると、2002年の原因別死者数は、癌が711万人、エイズが291万人、結核が156万人、マラリアが91万人で、「顧みられない病気」の合計が21万人である。しかし、死者数だけでは病気の被害の大きさを正しく評価できない。後遺障害や死者の年齢なども考慮に入れて病気の被害の大きさを測る、DALY (Disability adjusted life years) という指標で比べれば、癌が12100万、エイズが15284万、結核が5870万、マラリアが5864万で、「顧みられない病気」の合計が3467万である。「顧みられない病気」に分類したのは、Trypanosomiasis, Chagas disease, Schistosomiasis, - [秋は寂しさ](http://hiroono.com/ja/2008/10/07/iau/) - 夏の終わり、秋の始まりは、三暖四寒を繰り返して寒くなってゆくのだけれども、その中でふと、「もう後戻りしないだろうな」と確信するような寒さの日がある。そんな日が先週にあった。雨が三日も降り続き、久しぶりに晴れた朝、目を覚ましてベッドから下りると、窓を通り抜けて部屋に入り込んだ冷気に身震いがした。一枚余分に着重ねて玄関を出ると、寒さに体が締め付けられる感じがした。 そうして、ボストンに来て四度目の秋が来た。留学四年目の始まりでもある。どうして欧米の人は、こんな寂しい季節を一年の始まりに選んだのだろうと思う。赤や黄に染まる景色に終わりの予感を見出し寂しさに浸るのは、日本人独特の感覚なのだろうか。 毎週飽きもせずぐだぐだと溜まっては飲む日本人の仲間たちがいて、自虐的に"KBSM" (Kawari-Baeno Shinai Mentsu, 変わり映えのしないメンツ)などと自称しているのだが、そのKBSMの友人の一人が、もうすぐ卒業して日本に帰ってしまう。彼は三年前に一緒にボストンに来た同期だから、寂しさはなおさらだ。明後日の晩は彼の卒業をビールかけで祝う予定だ。その夜くらいはこの冷え込みが和らいでくれないものか。 一方の僕は26歳になった。誕生日の晩は友達が僕の新居に集まってパーティーを開いてくれた。ある友人はケーキを焼いてくれ、ある友人はシャンパンを持ってきてくれた。例のもうすぐ帰国するKBSMの友人は、いつも通り酔い潰れて僕のベッドを占領し、結果、僕は誕生日の夜に床で寝る羽目になった。彼がベッドの上に嘔吐しないか気を揉みつつも、こんな仲間に囲まれて誕生日を迎えられることこそが素晴らしい幸せなのだと思った。 --- 僕は寂しがり屋なのか、それとも寂しさが好きなのか、一体どちらなのだろうと思う。もしかしたら二つは同じものではなかろうか。寂しさとはきっと、魚を待つ釣り糸の緩みのようなものだ。その緩みは常に魚を求めつつ、目的を達成した時に緩みは消え失せる。寂しさとは本質的に自己否定の作用なのだ。だから寂しさを愛する人は、必然的に寂しがり屋でなくてはならない。 だから秋は寂しさだ。冬へ向かう作用が秋で、その目的を達成したときに秋が終わるからだ。しかし、ならば冬こそが寂しさだとも言えよう。春を待つ作用が冬で、その目的を達成したときに冬が終わるからだ。ならば春は…。すると結局、生々流転する世界は全てが寂しさか。 だからといって、僕は決して悲観に暮れているわけではない。釣り人が糸を垂らして待つ時間を楽しむように、僕も新しい何かを期待して、この秋の寂しさを楽しんでいるのだ。 しかしボストンの街は、ゆっくりと秋の寂しさに浸らせてはくれない。長い冬がもうすぐ始まる。 --- [追記] 忙しさにかまけて小説書きがすっかりご無沙汰なのだが、半年ほど前に書いたものが一本ある。あまり評価が芳しくなくてお蔵入りしたのだが、上の記事でその一部を使ったので、この機会にアップロードすることにした。 もし読んでいただけたならば、意見をいただけると嬉しいです。 - [シルク・ド・ソレイユ/Go Red Sox!!!](http://hiroono.com/ja/2008/10/19/yyeyyeyyiyyaego-red-sox/) - Cirque du soleil (シルク・ド・ソレイユ)、直訳すれば「太陽のサーカス」。カナダの中にあってフランス語圏であるモントリオールで生まれた、とってもお洒落なサーカスです。ツアーがボストンに来ていたので、観て参りました。 瞬きひとつする間もなく終わった2時間でした。思わず息を呑んでしまうスリリングなサーカスの技術はもちろんのこと、ストーリー仕立ての構成、生演奏の音楽、ポップでカラフルな衣装、シンプルなステージを七色に染める幻想的な照明。テントの中に完全なひとつの世界が作り上げられています。スリルとスリルの合間に挟まれるコメディーも見事。もはや単なるサーカスではなく、芸術であり、総合エンターテイメントです。 折りしもつい最近、東京ディズニーリゾートで常設公演が始まったそうです。一見の価値あり、どころか、見なくては損!機会があれば是非観にいって下さい! --- ところでこの日はボストン・レッドソックスのプレーオフ第5戦がありました。ここまでレッドソックスは1勝3敗で、もう後がない。そんな試合でチームの命運を託されたのが、我らが松坂大輔!!サーカス中は忘れていたけれども、ひとたびテントを出れば試合の行方が気になって仕方ありませんでした。 我慢できずに電話で友達に聞くと、「松坂がボコボコに打たれ、5点差で負けている」とのこと。これにはすっかり意気消沈。地下鉄の中では、「今シーズンも終わってしまったね」などと肩を落としていました。 ところがどっこい、部屋に帰るとルームメイトが「同点に追いついた」などと騒いでいます。半信半疑でテレビを覗けば、9回裏で7対7!そして飛び出したDrewのサヨナラ・タイムリー!!!うごぉぉぉーーーーー!!!!!きたーーーーーー!!!!全ボストンが大絶叫!!!神がかっているぞ、レッドソックス!!!!! そしてその勢いで第6戦でもレイズを撃破し、ついに3勝3敗のタイに持ち込みました!明日が勝負の第7戦、気合を入れて応援します!! --- アメリカという国は非常にエンターテイメントが充実しています。一年を通して何かしらプロスポーツが盛り上がっているし、ミュージカルやコンサートもレベルが高くて敷居が低い。 とりわけボストンは恵まれています。街が小さいから全てが地理的に凝縮されている。レッドソックスの本拠地・Fenway Park、バスケとアイスホッケーが行われるBanknorth Garden、ミュージカルのツアーがやって来るColonial TheatreとOpera House、ボストン交響楽団のシンフォニーホール、すべて僕の家から徒歩圏内です。しかも世界のエンターテイメントの中心・ニューヨークまでもバスで4時間! いくら勉強のための留学とはいえ、こんな恵まれた場所に住んでいるのに部屋に篭って勉強だけしていたのでは損。ナイアガラに行って滝を見ずに帰るようなもの。これからもあれやに首を突っ込んで、芸の肥やし(?)にしていこうと思います。 --- 振り返ってみれば、東京だって非常にエンターテイメントに恵まれた街であると思います。ただ、スポーツは別として、ショーに関して言えば、舶来のものを何でもかんでも仰々しく祭り上げる日本人の悪癖か、何事も敷居が高い。単にチケットの値段が高いだけではなく、不必要に堅苦しい。 今年の夏に帰国したときに初めて帝国劇場にミュージカルを観にいったのですが、観客のリアクションの少なさに驚きました。道化役がジョークを言っているのに、客席は静まりかえっている。どうしたものかと周りを見れば、洒落た服を着飾ったおばちゃんたちが背筋を硬直させて真剣にステージに見入っている。天皇に謁見するわけじゃあるまいし、ジーンズにセーターで映画を観る感覚で楽しめばいいのに。なぜ大衆文化であるはずのエンターテイメントを、上流階級たる資格試験にする必要があるのでしょうか。 僕も東京にいたときは、そんな堅苦しさを敬遠して、ミュージカルやコンサートに行ったことは全くありませんでした。エンターテイメントの純粋な楽しみ方を知ったことも、アメリカに住んだ収穫のひとつであると思います。 --- 阪神、勝ってくれーーー!! --- [追記:10/20] 昨晩、レッドソックスがレイズに負けて、ALCS (アメリカン・リーグ・チャンピオンシップ・シリーズ)敗退決定…。そして今朝起きたら、阪神が中日に負けてCS敗退決定。野球厄日だーーー。。。 - [時は転がり、揺れ動き・・・](http://hiroono.com/ja/2008/10/27/after-changes-upon-changes/) - 「冬の散歩道」というブログのタイトルからご察しの方も多いと思いますが、僕はサイモン・アンド・ガーファンクル(Simon and Garfunkel)の曲が大好きです。 (Fresh Pond, 2008/10/26) 黄色や赤に染まったボストン、久々の暖かな日曜日、散歩に出て、満たされた気持ちで家に帰り、仕事はあるけれどもやる気が起こらず、何とはなしにパソコンを開き、Youtubeのビデオたちの上を無為に漂っていると、Simon and Garfunkelが最近のテレビのトークショーで、"The Boxer"という曲を、オリジナルとは違う歌詞で演奏していたことを知りました。 アルバム「明日に架ける橋」に収録されている"The Boxer"は、田舎からニューヨークに出てきた一人のボクサーの孤独を、一人称の物語調の詞で歌う曲です。オリジナルでは間奏が入る部分に、新しいコーラスが追加されていました。その部分の詞が非常に良かったので、紹介したいと思います。 Now the years are rollin' by me, they are rockin' evenly, And I'm older than I once was, younger than I'll be, that's not unusual, Though it isn't strange, after changes upon changes, We are more or less the same, after changes we - [トイレの中にATM](http://hiroono.com/ja/2008/10/31/yeyyiiaaeeatm/) - アメリカには不思議なものがたくさんあります。そんなものたちのいくつかを紹介。 トイレの中にATM 昨晩、友人たちとカラオケに行ったのですが、そこのトイレに何故かATMが置かれていました。便器と共に個室の中に鎮座しております。 これさえあれば、うっかりトイレットペーパーが切れてしまっても、ドル札を下ろして代わりに使うことが出来ますね。 ATMの日本語 旅行でサクラメントに立ち寄って、コンビニのATMでお金を下ろそうとした時のこと。さすが西海岸、日本人がたくさん住んでいるようで、言語オプションに日本語があるではないですか。ちょっぴり嬉しくなって日本語を選択すると・・・ (注: トランザクション = transaction = お取引) うーん、なんだかエラそう・・・。「賦課」とか「現金出金顧客」とか、やたらと角張った言葉を使っている。英和辞典を引き引き、一生懸命訳したのかな。"Transaction"は辞書に適当な訳が見つからなかったのだろうか。 しかし、一通り笑ったところで我が身を振り返れば、きっと僕の英語もアメリカ人にはこんな風に聞こえているのでしょうね。いつも笑いをこらえて僕の英語を聞いてくれているアメリカ人達に感謝しなくては。 ちなみに処理中にはこんな画面が出ます。 住所が分数 欧米の住所は、通りに沿って建物に番号を振っていくシステムです。例えばFlower Street沿いにある家ならば、"35 Flower St." などという住所になります。道の片側には偶数、反対側には奇数を振っていくので、"35 Flower St." の両隣は 33 と 37 になります。 ところで、一件の家を壊して二件の家を建てたら、住所はどうなるのだろうと、かねがね疑問に思っていました。ひとつの番号を二件で共有するのは紛らわしいし、まさか通りにある全ての家の住所を振りなおすわけにもいかない。 そんなことを考えつつ、ボストンの住宅街を散歩していたら、この疑問を見事に解決してくれる物件に出くわしました。 99と1/2。なるほど、分数になるのか!うーん、コロンブスの卵、ハリーポッターの駅。こんなアメリカの大雑把さが大好きです。 じゃあ、この家を潰して二件の家を建てたら、1/4という住所が出現するのかな?それをまた二分割すると、1/8になるのだろうか? Halloween ところで明日はハロウィーン、またの名を全米コスプレパーティー。この日ばかりは大人も子供も関係ありません。教授が授業にコスチュームを着てきたこともありました。コスチューム屋のチラシを見てみれば、「バットマン・ダークナイト」のジョーカーなどが今年の人気のようです。 僕が住む寮にもこんな飾り付けが。 明日は学校にカメラをもっていかなくては。 - [祭り - Las Parrandas de Remedios, Cuba](http://hiroono.com/ja/2008/12/31/e-las-parrandas-de-remedios-cuba/) - メキシコのユカタン半島を横断した後にキューバへ飛び、クリスマスはレメディオス(Remedios)という町で過ごした。この人口5万人の小さく静かな町が、毎年12月24日の晩は、キューバで一番賑やかな祭りの舞台になるのだ。 祭りの名はLas Parrandasと言い、直訳すれば「ザ・どんちゃん騒ぎ」。クリスマス・イブであるにも関わらず、キリスト様マリア様サンタクロースなんて一切関係なしに、町内総出の乱痴気騒ぎを繰り広げる。飲む、歌う、踊る、ありとあらゆる手段を尽くして騒ぎまくるのがこの祭りの趣旨だが、何と言っても圧巻なのが花火合戦だ。町の人たちが「雄鶏チーム(gallo; 正式名称はSan Salvador)」と「雌鶏チーム(gallina; 正式名称はEl Carmen) 」に分かれ、ぎゅうぎゅうに混み合う狭い広場の中から何万発もの花火を打ち合い、その派手さ、激しさを競うのだ。安全など二の次、人ごみに花火が飛び込んで破裂することも度々、鼓膜を突き破る爆音、雨のように降る灰と火の粉、広場にもうもうと立ち込める煙、さながら戦場のよう。そして翌朝にラジオで勝敗が発表され、勝ったチームは町をパレードする。 しかし、形式上は雄鶏チームと雌鳥チームの競争ではあるが、敵対的な雰囲気は一切なかった。むしろ、熱気立ち込める広場に溢れていたのは、交わる男女がお互いを激しく攻めることによってお互いの興奮をエスカレートさせ、しまいに高温で融けてひと塊になってしまったような、そんな官能的な一体感だった。 僕がRemediosの町に着いたのは、祭りの二日前の夕方だった。早速広場に行くと、既に準備は始まっていた。雄鶏チーム、雌鶏チームそれぞれが、広場の両側に、クレーンを使い、高さ10メートルはある巨大な山車を組み上げていた。子供のための移動遊園地もやってきた。普段は静かな田舎町が、日常という服を脱ぎ捨ててゆく。 祭り前日の朝六時、突然鳴り響いてきた爆音に僕は叩き起こされた。広場に行ってみれば、早くも人々が大勢集まり、花火を打ち、太鼓を叩き、トランペットを鳴らして騒いでいた。祭りの前戯が始まったのだ。 夕方にはロックバンドの演奏が始まり、人々はビールやラム酒の瓶を片手に、歌い、踊り、飛び跳ねる。僕がそれを遠巻きに見物していると、突然見知らぬおばちゃん二人に両脇を抱えられ、無理矢理踊りの輪の中に投げ込まれた。本番を明日に控え、徐々に人々の興奮は高まってゆく。徐々に肌が熱くなってゆく。 人間も温度が上がれば化学反応が起きやすくなる。だから祭りは格好の出会いの場だ。祭りの当日、女の子たちはセクシーな服で着飾って広場に集まり、男の目にアピールする。そして相手を見つければ、大音量で流れる音楽にあわせて、腰と腰をぴったりと付けて踊る。 祭りの夕、空が暗くなるにつれて、広場の人はどんどん増えていった。山車の電飾に明かりが灯され、各チームの旗が振られる。本番の開始を待ちきれない人たちが、既にあちこちで花火を打ち始める。トランペットが音を鳴らせば、周りの人たちは手を叩き、奇声を発し、肩を組んで腰を振る。誰も高まる一方の興奮を抑えられないし、抑えようともしない。温度は臨界に達した。もう、我慢できない。 夜10時、増水した川が堤防を突き破るように、本番が始まった。先に攻めるのは雌鳥チームだ。直径15cm、高さ60cmほどの大きな花火の発射筒をずらりと並べ、男達が松明で次々と点火する。間近で発射筒が炎を吹く瞬間、周囲に立ち込める煙は真っ赤に染まり、熱が顔を焼き、爆音が腹を殴る。 対する雄鶏チームは量で勝負する。約500本のロケット花火を吊るしたラックを20脚ほど一列に並べ、一斉に点火するのだ。計1万本のロケット花火は、甲高い音を立てながら、各々がランダムな軌道を描いて飛んでゆく。大部分は空へ向かって飛ぶが、一部は建物の壁に当たって破裂し、一部は見物客に向かって真っ直ぐに飛んでくる。 この雄鶏と雌鳥の激しい攻め合いが5時間にもわたって、かわるがわる何度も繰り返される。がぶがぶ飲んだラム酒の酔いが回り、危険の感覚を麻痺させる。興奮が高まるにつれ、熱も爆音も火傷の痛みも全てが快感に思えてくる。そうして祭りはエスカレートし、雄鶏と雌鳥はさらなる刺激を、興奮を、エクスタシーを、お互いに求め合う。 しかし午前3時頃、祭りの雰囲気は突如一変した。花火が止み、音楽は優美な曲調に変わる。そして色とりどりの電飾で華やかに輝く両チームの山車が、壮麗な衣装を着た男女を載せ、ゆっくりと広場の中を進んでゆく。花火の打ち合いを五時間も続けたあとのこの変化に、ちょうど体位を変えた時のように、新鮮な空気が広場に流れ込み、祭りは再び活気付く。 そして午前5時、祭りは最後の局面に入った。酔いと興奮と疲労で頭がもうろうとする中、両チームとも残っているありったけの花火を打ち尽くす。声は枯れ、肌は汗と灰にまみれる。やがて絶頂に達した興奮のうちに夜が白みだした。そして最後の花火が爆発するように、太陽が昇り、空は真っ白の光で溢れかえった。 祭りは、果てた。 - [2009年 - 線形時間と円環時間](http://hiroono.com/ja/2009/01/02/2009c-athathoessatho/) - みなさま、あけまして。今年も喪中につき「おめでとう」は禁句だそうですが、あのおじいちゃんなら「そんなこと気にせんでええ」などとと言っていそうな気がします。 正月前にキューバからカンクンを経由し、ボストンに戻って参りました。ボストンは大晦日にドカ雪が降り、ホワイト・ニュー・イヤーです。最近"Japan TV"なるチャンネルがうちのケーブルテレビに入ってくれたお陰で、紅白歌合戦を見ながらの、なんとも和な年越しができました。 今回の旅行でメキシコのマヤの遺跡に行った際に(少々雑な説明ではあったが)、次のようなことを聞きました。 「現代人は過去から未来へ一直線に流れる時間の概念を持っているけれども、マヤ人は輪のように循環する時間の概念を持っていた*。」 しかし、この円環時間の概念は、現代人もある程度は感覚的に持っているものだと思います。一直線に流れる時間を365日ごとに区切り、その終わり至っては過ぎた一年を振り返り、そして次のラウンドの始まり立っては気持ちを新たにする。繰り返す季節、循環する時間の中で、次の一周はきっと前の一周よりもさらに飛躍しよう、そんな螺旋のような生き方をするのが、我々なのだと思います。 とはいえ、出会い、別れ、誕生、死、こればかりは決して繰り返すことのない、一直線に流れる時間の上での出来事です。2008年は僕を心底かわいがってくれたおじいちゃんを亡くし、彼女と別れ、何人かの大事な友達がボストンを去った。しかしその一方で、素晴らしい出会いにも恵まれた。いろいろとあったけれども、2008年も、僕にとって非常に充実した一年でした。 2009年もますます充実させていきたいと思います。みなさま、本年もどうぞ宜しくお願い致します。 --- 注* どうも古代文明を語るときは、現代文明との違いを殊更に強調する傾向があるようで、この説明もそんな誇張が含まれているように思えた。というのは、博物館にあった解説によると、マヤ人たちは"13.0.0.0.0.4 Ajaw 8 Kumk'u"という日(それが実際にいつなのかは不明)を起点とした日数によって時間を表すシステムを持っていたらしい。この解説を信じるならば、彼らは円環時間だけではなく、一直線に流れる線形時間の概念も持っていたことになるまいか。おそらく、現代人とマヤ人との違いは、二つの時間の概念のどちらを使うか、ではなく、両者の間に置く比重だけであろう。 - [迷いカモメと雪のボストン](http://hiroono.com/ja/2009/01/03/iayyayaecaaiyuyyeyo/) - きのう、今日と二日続けて、自室の窓からカモメが飛んでいるのを見ました。海から3kmの距離だから不思議ではないのだけれども、二日続けてというのは珍しい。もしかしたら迷い込んだのかな、あるいは冷たい海風から避難しているのだろうか。 ボストンは年が明けてから冷え込みが厳しく、大晦日に積もった雪は一向に溶ける気配がありません。年始で車の往来が少ないから、道端の雪も泥にまみれず、綺麗な白のままです。雪の街、霞んだブルーの冬空に、真っ白な翼を広げて羽ばたかずに滑空するカモメ。僕はあと何年、この街で過ごすのだろう。 - [Only light can...](http://hiroono.com/ja/2009/01/10/only-light-can/) - 極東の平和な某国では、首相が給付金を受け取るか受け取らないかなどという至極どうでもいいことを一生懸命に議論しているそうだが、世界の関心事は、経済、そして、ガザの紛争だ。 --- イスラエルとパレスチナの終わりのない暴力の連鎖を見るにつけ、思い出さずにはいられない言葉がある。1960年代のアメリカで、非暴力を以って人種差別と戦った、キング牧師の言葉だ。 "Darkness cannot drive out darkness; only light can do that. Hate cannot drive out hate; only love can do that." Martin Luther King, Jr. 「闇が闇を消し去ることはできない。それができるのは光だけだ。憎しみが憎しみを消し去ることはできない。それができるのは愛だけだ。」 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア --- 僕がこの言葉を知ったのは、ニューオリンズを旅行したときのことだ。墓地の壁にあった殴り書きがふと目に留まり、レシートの裏に書き留めた。旅行から帰ったあと、インターネットで調べて、これがキング牧師の言葉である事を知った。 親や子供を殺され、憎悪の塊になった人たちに、「愛で憎しみを克服しなさい」などと説教しても、ただ虚ろに聞こえるだけなのかもしれない。しかしキングは、政府の妨害を受け、自身が投獄されながらも、"I have a dream"と説いて非暴力抵抗運動を続け、遂には黒人の人権を勝ち取ったのだ。理想は理想でしかないのだけれども、きっと辛抱強く理想を持ち続けることが、理想を実現するための唯一の方法なのだと思う。 "You may say I’m a dreamer, but I’m not the only one. I hope some day you’ll join us, and the - [ちびっ子の駆け落ち](http://hiroono.com/ja/2009/01/13/123/) - ドイツで起きた、何とも微笑ましい「事件」を紹介します。先輩のブログから転載させてもらいました。 BBC NEWS: Child elopers' Africa plan foiled (ちびっ子駆け落ち、アフリカを目指すも失敗) 以下にこの記事を勝手に翻訳します。 --- 太陽の眩しいアフリカへ駆け落ち婚をしようとしたドイツの5歳と6歳のカップルが、警察によって保護された。 このかわいらしいカップルはミカ君とアナ・レナちゃん。二人は水着とサングラスとエアマットをバッグに詰め込んで、空港へ向かう途中だった。 二人は結婚式の立会人として、アナ・レナちゃんの7歳の姉も一緒に連れて行くことを忘れなかった。 三人はハノーバー駅に着いたところを、警察に保護された。 警察のスポークスマンであるHolger Jureczko氏がAFP通信の記者に語ったところによると、カップルの二人は「とても深く愛し合っている」と語ったそうで、アフリカで結婚しようとした理由は、「暖かそうだから」とのこと。 二人が駆け落ち婚を思いついたのは、彼らの家族が揃って大晦日の晩にパーティーをしていた時に、ミカ君がアナ・レナちゃん姉妹に、最近行ったイタリア旅行の話をしたのがきっかけだった。 翌朝、大人たちが寝ている間に、勇敢な三人は1kmの距離を歩いてランゲンハーゲン駅へ行き、そこから路面電車に乗ってハノーバー駅へ向かった。 しかし、三人がハノーバー駅で空港行きの電車を待っていたところを警備員に怪しまれ、警察に通報された。 警察は、航空券やお金がなくてはアフリカに行けないことを彼らに言って聞かせ、落ち込んだ三人に警察署を案内してあげて慰めた。その後すぐに三人は警察署に駆けつけた親に引き取られた。 こうして彼らのアフリカへの駆け落ち婚の計画はご破算になってしまったが、警察は彼らの計画を真っ向から否定はしなかった。 警察のスポークスマンは、「将来、二人がこの計画を実行できる日が来るかもしれませんね」とAFP通信に語った。 --- 小さい頃、世界はとても単純で、真っ直ぐで、だからこそ僕らは純粋でいられた。「とても深く愛し合っている、」理由はたったそれだけで十分だった。アフリカ、アジア、ヨーロッパ、夢は何にも縛られず、自由に世界中を駆け巡った。 今はどうだろう。お金、距離、予定、都合。立場、配慮、安全、安定。そんな角張った言葉たちが純粋さの中へ混じり込み、世界は迷路のように入り組んだ。真っ直ぐな気持ちは捻じ曲がり、虹色の夢は色褪せた。思い通りにいかなくて駄々をこねれば、「それが現実なんだよ」と教えられ、僕らは「これが大人になることなのか」と渋々に納得した。 人間は社会で暮らす生き物なのだから、どれもこれも仕方のないことなのかもしれない。それでもこんな話を聞くと、あの頃の純粋さへの憧憬を抑え切れない。例え泥にまみれた雪だるまになったとしても、その真ん中の部分くらいは真っ白なままでいたい。 - [オバマ就任/アメリカが抱く価値](http://hiroono.com/ja/2009/01/25/yydhythccycyayeyeuaai/) - T字路のオヤジ 半年ほど前だったか、ボストン中心部の目抜き通りを歩いていると、突然けたたましいクラクションが鳴り響いた。何かと思って見てみれば、野球帽を被った中年オヤジがT字路の交差点の真ん中に仁王立ちして、「T」の縦棒の道から来る車を通せんぼしていた。彼の前にできた車の列は、五台、十台と、みるみる長くなってゆく。訳も分からず道を塞がれ苛立った運転手たちは、バーバーとクラクションを鳴らしながら、窓から身を乗り出し、「どきやがれクソ野郎!」などと大声で怒鳴る。それでもオヤジは平然と通せんぼを続けていた。 このオヤジは何をしているんだ。疑問に思いながら、彼が大声で喚いて指さす方向を見て、僕は彼の目的を理解した。「T」の横棒の道の向こうから消防車がやって来るのだ。消防車に道を空けるために、彼は車を通せんぼしていたらしい。 とはいえ、消防車は未だサイレンの音も聞こえづらいほどの遠くにいる。こんな早くから道を空ける必要はあるのだろうか。それに、消防車が見えていない車の運転手たちには、このオヤジの良心も意図も分かる筈がない。彼らにしてみれば、このオヤジは単なる迷惑以外の何物でもないのだ。 暫くして消防車はT字路を通過し、それに向かってオヤジは嬉しそうに"Go! Go!"と叫んで手を振った。程なくして彼は封鎖を解いた。なおも運転手たちから罵声を浴びせられ続けながらも、オヤジは「いいことをしたぜ」と言わんばかりの満足そうな顔をして、T字路から歩み去っていった。 そのオヤジをみて、いかにもアメリカ人らしいな、と僕は思った。 アメリカが抱く価値 自由、平等、民主主義、そして、正義。そんな、抽象的で漠然とした、ワンフレーズで表される価値を、アメリカは愚直なまでに固く信じている。正しいと信じる価値の実現のために、真っ直ぐに、時には盲目的に行動し、結果、T字路のオヤジのように、周囲に多大な迷惑をかけることも度々である。だからアメリカは嫌われる。そして僕もアメリカに住むまでは、この国のそんな独りよがりな面が大嫌いだった。 しかし、この国に住んで、実直なアメリカ人たちと直に接し、加えて巨視的視点も持つようになって、アメリカのそんな面も、だんだんと好意的に受け止められるようになってきた。 アメリカ人が盲目的に連呼する「自由」や「正義」の定義は漠としていて、個人によっても、民族によっても意味付けは異なる。自分が定義した「自由」や「正義」を他人にまで押し売りすることが、アメリカの間違いと言えよう。とはいえ、この世の誰が不自由を望もうか。誰が悪を望もうか。誰が被抑圧を望み、誰が被差別を望もうか。確かにアメリカは視野が狭くオツムが弱いかもしれないけれども、彼らが求める価値は、抽象的なレベルにおいては、人類に普遍的なものではなかろうか。 そして最も大事なのは、アメリカという社会は自浄作用を持っている、ということだ。日本が戦争に負けて初めて自らの間違いに気付いたのと比較して欲しい。アメリカは、とても長い時間がかかるけれども、多様な社会の中での葛藤を通して、自らの間違いや矛盾に気付き、自らを正し、そしてより普遍的な「自由」や「正義」に近づいてゆく力を持っている。 アメリカ社会の自浄作用 人種差別がその好例である。1796年のアメリカ独立宣言は、"all Men are created equal" (全ての人間は生まれながらにして平等である)と「平等」の理念を高々と謳い上げたが、一方で奴隷制度は疑いなく続けられていた。白人本位の、矛盾を孕んだ「平等」だった。 奴隷制度自体は1862年に廃止されたが、人種差別は、人類が宇宙に飛び出した1960年代になっても続いていた。南部の多くの州では、レストランやバスに白人用座席と黒人用座席があり、黒人の選挙権は間接的に制限され、人種間の結婚やセックスは法律によって禁止されていた。 この状況を劇的に改善させたのが、キング牧師の非暴力抵抗運動に代表される公民権運動である。運動には黒人だけではなく、多くのリベラルな白人も加わった。キング牧師は言った。 "Now is the time to make real the promises of democracy. Now is the time to rise from the dark and desolate valley of segregation to the sunlit path of racial justice. Now is - [キューバ人の横顔/テレビが作り上げるイメージ](http://hiroono.com/ja/2009/02/01/yyaydhiieyaeyiyoieaeyyay/) - 「怖い国」「ヤバい国」「抑圧国家」。アメリカ人がキューバに対して持つイメージは、ちょうど日本人が北朝鮮に対して持つイメージのようだと言ってよいでしょう。海を隔てた目と鼻の先にある、反米、独裁、社会主義国家。核兵器のごたごたを起こしたのも同じです。 しかし、キューバを自分の足で歩き、自分の目で見て、そんなイメージは真実のほんの一部分しか捉えていなかったことを知りました。 キューバ人は、他のラテンアメリカの国の人たちと同じく、とても陽気で、フレンドリーで、適当、悠長、かつエロエロです。国民は概して政治に関心が薄く、興味の中心は野球、レゲエ、サルサ、そしてお尻の大きいお姉ちゃん。思想を規制し行動を監視するような風潮もなく、祭りではロックバンドがアメリカの音楽を演奏していたし、泊めてもらった家ではアメリカの映画を家族で観ていました。治安も非常に良く、夜中に街を一人歩きしても何の問題もありません。 社会主義国家にありがちな指導者への個人崇拝も行われておらず、カストロの銅像なんてどこにもないし、お札の肖像画にもなっていない。新聞やテレビが政府を批判することは禁止されているけれども、車や家の中ではみんな口々にカストロの悪口を言い合っていました。 --- 「怖い国」「ヤバい国」「抑圧国家」。そんな風にアメリカ人に思われているキューバで、人々はどんな暮らしをしているのか。彼等の横顔を、撮り溜めた写真で紹介したいと思います。 ハバナの海岸にたむろうオジサンたち "NO TOCAR LOS PERROS" = 「犬に触るな」 道端で英語を勉強していたおじさん。練習相手になってくれ、と呼び止められた。過去にアメリカに亡命しようとして失敗したことがあるらしい。 日曜の午後、ハバナ旧市街の広場、子供達がかわいらしい劇を披露していた。 学校の校庭を覗くと、生徒達が放課後にダンスの練習をしていた。 ハバナ旧市街にて ヘミングウェーの旧家の前で、野球をしていた子供達。 僕のガイドブックに興味津々。 サンタ・クララの広場。 レメディオス、簡素な移動遊園地。 キューバではドミノが非常に人気のあるゲームだ。 レメディオスの祭りの風景。 コックをしているライネル君は、非常に流暢な日本語を喋る。彼が日本語の勉強を始めた理由は、漫画が好きだから。将来は日本語を生かせる仕事に就きたいと言っていた。 「アチョーッ!!」 道端で絵を描いていたオッサン。カメラを向けると、とっさに謎なポーズをした。 --- 僕がキューバで出会った人たちの屈託のない笑顔は、「怖い国」「ヤバい国」「抑圧国家」、そんな、アメリカ人がキューバに対して一方的に抱く灰色のイメージとは、かけ離れたものでした。アメリカの政府やマスコミは、「反米国家・キューバ」の危険を宣伝するために、大勢の人が写っている写真の中から怖い顔、怒った顔のみを切り抜いて、大きな絵の中から灰色の部分だけを切り抜いて、それを継ぎはぎして作ったコラージュを、テレビの電波で流します。そうやって、キューバのネガティブな面ばかりが強調された、偏ったイメージが作り上げられるのです。 では、日本人が抱く北朝鮮のイメージは、どうでしょうか。「カメラが捉えた北朝鮮の真実」などという安っぽいタイトルで、お昼のワイドショーがしきりに北朝鮮の貧困や抑圧、将軍様への個人崇拝、そんな映像を放送しています。さらに、低い声の女性の、おどろおどろしいナレーションが付け加えられ、怖ろしいイメージを増長させます。 もちろん、それらは決して嘘ではないでしょう。監視と抑圧の下で苦しみ痛めつけられている人々が大勢いることは事実でしょう。しかし、テレビが伝える映像だけが、本当に北朝鮮の全てでしょうか。もしかしたら、僕らが無批判に受け入れている映像は、実は視聴率を稼ぐために、大きな絵の中からセンセーショナルな部分だけを切り抜いて、つぎはぎして作ったコラージュであったりは、しないでしょうか。 僕は北朝鮮の肩を持つわけでは決してありません。しかし、テレビが植えつける偏った先入観に支配された結果、本当ならば分かり合える筈の人たちを、不必要に遠ざけるような愚も、犯したくはありません。 テレビの映像を無批判に受け入れることの危険性。自分の足で歩き、自分の目で物事を見ることの重要性。この二つを、キューバの例を以って、訴えたいと思います。 - [親からのメール](http://hiroono.com/ja/2009/02/09/aeeiyaye/) - アメリカで一人暮らしをするようになって以来、親との連絡手段は専らEメールになった。手軽でお金もかからないし、時差を気にする必要もない。便利な時代だ。 父親はパソコンからメールを送ってくる。普段は僕を呼び捨てにしているのに、メールだとなぜか「雅裕君」と呼ぶのが若干気味悪い。文体も「です・ます調」だ。昭和人間にとっては、メールを書く時も手紙をしたためる気分なのだろう。父が正座してパソコンに向かっているような気がして、笑ってしまう。 一方、「パソコン」と聞くだけで眩暈がする機械音痴の母親は、携帯電話からメールを寄こしてくる。それでも、母が携帯電話で漢字を打てるというだけで、僕にとってはこの上ない驚きだった。母は父のように堅苦しい文体は使わないが、聞くところによると、一通のメールを一時間もかけて打つそうだ。母が正座して携帯電話と格闘しているような気がして、可笑しい。 頻度はおおよそ週に一度。内容は様々だが、要約すれば、親が「元気か」と聞き、僕が「元気だよ」と答えるのがパターン。非常に健全な親子会話である。 先週、珍しく父親が電話を寄こしてきた。彼は出張でフロリダに来ていたのだが、同じ国といえどもボストンとフロリダでは気軽に会いに行く距離ではない。それでも声くらいは聞いておこうと思って、電話をしたようだ。 しかし。電話をくれたこと自体は嬉しいのだが、御年六十一の早起きおじさんは、朝っぱらの八時半に電話を鳴らしてくるのである。遅寝遅起きが文化のMITでは、八時半は日の出前に等しい。当然、僕は寝ていた。目覚ましを止める感覚でふらふらと電話を取ると、久々に息子の声が聞けて嬉しい父親が、受話器の向こうからハイテンションで喋りまくってくる。悪いけど僕にはそれに付き合う元気はない。脳は完全に寝ていたから、脊髄反射で適当に受け流し、電話が切れたら即ベッドに戻って二度寝した。 しかるに。僕の寝ぼけた声を、早起きおじさんは「元気がない」と勘違いしたらしい。彼は母親に「雅裕の声が元気なかった」と報告した。それを聞いた心配性の母親が、早速メールを寄こしてきた。 母のメール: ボストンは寒波でとても寒いんだって?お父さんがアメリカで雅裕と電話したとき 雅裕の声が元気なかったって言ってるので 気になってます。ちゃんと食事して 具合いが悪ければ お医者さんに 行ってください。(中略)どうあれ 健康でいることです。では 僕の返信: 違うよ…。あの早起きおじさん、朝一番に電話してくるんだもん…。寝ているところを電話で叩き起こされた訳です。眠たくてたまらなかった。元気な筈がない。電話が終わった後は即ベッドに戻って二度寝したよ。早起きおじさんに、電話する時間を考えろと叱っておいて(笑) 早とちりの父親に心配性の母親。困ったカップルである。そんな二人の歳を足せば間もなく百二十。息子の心配ばかりしていないで、自分の身体に気を遣い、ボケずに長生きして欲しいものだ。 --- [追記] このブログを読んだ父親からメールが来た。 ひとつ言い訳すると、9時に教授と約束していたので、8時半はぎりぎりだったのですよ。ちなみに5時から起きていました。 約束の後に電話しろって。。。そして相変わらずのスーパー早起き(笑) - [【April fool】アメリカで寿司が半額!](http://hiroono.com/ja/2009/04/01/ycyayeyceeue/) - 4月1日に以下の記事をポストしましたが、エイプリル・フールの大法螺です:) 騙された人、ごめんなさい! --- オバマ大統領のStimulus Plan(景気刺激策)の一環として、健康に良い食品23種に対し、本日4月1日より一週間の間、50%の補助金が連邦政府より支給されるそうです。景気刺激と共に、国民の健康を促進し、政府の医療関連支出を抑制するのが狙いだそうです。 そしてなんと、23種のリストの中には、寿司が含まれているとのことです! これに伴い、僕が住むボストン界隈の和食レストランも、今晩より一斉に寿司全品を半額にするそうなのです! 和食からは、コンニャクも23種のリストに選ばれたそうです。他にも、ゴイ・クン、トッポギ、パッタイなど、23種リストの約半数をアジア料理が占めています。野球だけではなく、食においても、これからはアジアの時代ですね! --- あまり関係ないかもしれませんが、Youtubeもびっくりして逆さまになってしまったようです。 http://www.youtube.com/watch?v=AjiGMLkoOHg&flip=1 --- [追記] どうもエイプリルフールとは、うっかり忘れてしまう行事だ。だからこそ人は騙される。騙されて初めて、今日がエイプリル・フールだったと気付く。 とりわけ日本では、4月1日は年度初めの大事な日。重要な行事があれやこれや目白押しで、すっかりエイプリルフールだなんて忘れてしまっていた人も、多かったのではなかろうか。 - [なぜ旅をするのか](http://hiroono.com/ja/2009/04/04/eioei/) - 金曜の夜の飲み会を「忙しいから」と先に抜けてきたのだが、寝る前に書き留めたいことがあるので、書いておこうと思う。 なぜ、僕は旅をするのか。漠然と好きだからだ。でも、なぜ好きなのか、いまいち明快に言葉に出来ずにいた。言葉に出来ずにじれったさを感じたことも度々だった。それが今日、飲み会中の何気ない友達との会話の中で、僕が旅を好きな理由の(全てではないけれども)一つが、ふと言葉になって現れた。それを書き留めたい。 少し話を巻き戻す。今日のようなランダムな飲み会では、初対面の人が必ずいる。お互いに名乗ったあと、次に必ず僕が相手に聞く質問、そして相手が僕に聞く質問は、「何のお仕事をされているのですか」「どんな研究をされているのですか」。自分でそんな会話をしつつ、僕はこれがあまり好きではない、と思う。もちろん、仕事、研究は、自分の人生の中でとても大きなウエイトを占める大事なものだけれども、自己定義の手段の筆頭に仕事や研究が来ることに、寂しさを覚える。自分が矮小化されてしまったように感じる。自分は絶対にそれ以上のものだと思う。大阪生まれの東京育ち、阪神ファンでミュージカルが好きで、趣味は旅行で、性格は適当で、こんな家族がいて、友達がいて、昔、とても可愛い犬と猫を飼っていて・・・。 そんな風な思いを近くに座っていた旅好きの友人に素直に話すと、「でもさ、旅行の間とかだと、そうはならないよね」と彼は返した。そうか、と思った。そうだ、確かにそうだ。旅路の途中の安宿で、バスの中で、見知らぬバックパッカーと出会い、名乗り、次に聞く質問は、"Where are you from?"だ。そしてその次に聞くのが、昨日はどこに行ったか、そして明日はどこへ行くのか。あそこの街の何が面白かった、あそこに行くとぼったくられるから止めたほうがいい。お互いの深くまで入り込むような質問は決してしないけれども、旅人である今の自分を、そのままの旅人として定義してくれる。肩書きによって自己定義をする必要のない、その気軽さ、心地良さ。それがきっと、僕が旅を愛する理由の一つなのだ。 そうして自己紹介した翌日、各々が前日に告げた通りの行き先に向かって旅立って行く。もう彼らと会うことはない。メールアドレスを交換したりもするけれども、連絡が続くことは稀だ。一期一会。でも、それでいいのだ。それがいいのだ。 前の旅行から、早、三ヶ月。そろそろ次の行き先を考え出すかな。 --- そして、ボストンで本当に素晴らしい友人たちに恵まれたことを、つくづく感謝。 - [夏が行く/帰省](http://hiroono.com/ja/2009/08/07/aeouce/) - 日本への帰省を明後日に控え、溜め込んだ締め切りに追われている。おおよそのものは片付けたが、飛行機に持ち込むことになりそうな仕事もいくつかある。今日は共同研究をしている研究室にプレゼンテーションをした。終わった後、疲れに負けて研究室のソファーに横になった。いつの間にか熟睡して、起きたら午後七時だった。空腹を感じ、研究室を出て寮へ向かった。 ボストンは今、一番清々しい季節を迎えている。緯度が高く日が長いので、午後七時でもまだまだ昼間だ。ちぎれ雲を浮かべる薄いブルーの空はなんとも爽やかで、空気は暑いけれども、東京の夏のように肌にまとわりつく感じはない。通りを歩く女の人が見せる肩、川面で風を受ける白い三角帆、この開放的な雰囲気が僕は大好きだ。しかしボストンの夏は短い。僕が日本から帰ってくる8月終わりにはもう秋の気配が漂いだす。僕にとってボストンの夏は、あと1日だけになってしまった。 研究室から寮へ帰る途中にスーパーへ寄った。いつもより小さいサイズの牛乳と、一番量の少ない鶏肉のパックを選んで、レジへ持っていく。帰路、赤信号無視をしようとタイミングを見ていたら、自転車の兄ちゃんが大声で説教を垂れながら通り過ぎていった。歩道を歩いていると、道の反対側から僕に向かって大声で何かを叫んでいる人がいて、振り返ると彼は急に恥ずかしそうな顔をして黙った。人違いだったらしい。 今年も短い夏だった。学会に、二度のフロリダ、ニューヨーク、相変わらずよく旅行した。Thesis Proposal Defenseを終え、ちょっとした研究のアイデアが閃き、なかなか良い結果を得た。短い論文が一本受理され、9月のギリシャでの学会に行けることになった。週末はあちこちのパーティーに勤しんだ。こうして書き並べれば、充実した夏だったと言えるだろう。でも僕の胸にあるのは、夏の真昼のように飽和した充足感ではなく、むしろ秋の夕方のような寂寥感だ。 寮に着き、郵便受けを開けた。かわいらしい字体で宛名が印刷された封筒があり、開封すれば、また募金のお願いだった。給料を貰うようになって、いくつかの募金プログラムに参加したのだが、そのせいで僕は慈悲深い人だと思われたのか、そこらじゅうの名も知らぬ慈善団体から募金をせがむ手紙がわんさか来るようになった。「この国にはどれだけ慈善団体があるんだ」と毒づき、その手紙をゴミ箱へ棄てた。散らかった部屋に戻り、Eメールをチェックしたが、何も面白いメールは来ていなかった。汚れた台所で親子丼を作りながら、朝の食器を洗った。テレビでは「大統領の成績表」という番組が、オバマのアフガニスタン政策を批判していた。 夏が終わっていく。時間は何の取っ掛かりもなく、さらさらと水のように指の間を通って流れ出ていく。爽やかなボストンの夏の景色は、自分がその中に立っているのではなく、スクリーンに映された映画のようで、僕はただそれを椅子に座って見ているだけのような気がする。きっとそれは、今の僕には、一緒に川原に座って景色を眺める人がいないからではないか、と思った。過去を振り返り、今の自分と比べてみて、惨めな気持ちになったあとで、そうしたことを後悔した。 夕食を終え、食器を流しに置いて洗うのは後回しにし、パソコンを開けて、この日記を書いた。明後日の出発までに片付けるべき仕事のリストを頭の中に書き出し、優先順位をつけ、このあと寝るまでの数時間に何をこなすべきかを考える。外はもう暗くなった。窓から吹き込む夜風が涼しく、気持ちよい。 日本へ帰るのが楽しみだ。僕の帰りを待っていてくれる家族がいて、僕と飲むためにわざわざ東京へ出てきてくれる友達もいて、なんと僕は幸せなのだと思う。体を焼くような太陽の熱、肺を焦がすような空気、鼓膜を圧迫するセミの声、乾かない汗、あの東京の夏にもうすぐ帰れると思うと、胸が高鳴る。 ボストンでの四年目が終わった。 --- [追記: 8/10] 昨晩、東京に着きました。冷夏でした。。。。 - [留学説明会のスライドとビデオ/自分の喋り方を反省する](http://hiroono.com/ja/2009/09/06/232/) - 以前にこのブログで宣伝したとおり、「アメリカ大学院留学説明会」を8月に東大にて催して参りました。 そのスライドをアップロードしました。また、ビデオもYoutubeへアップロードしました。 しかし、僕の喋り方が拙い上に、音声のクオリティーも悪く、声が非常に聞き取りづらくなってしまいました。ヘッドフォンで聴けば、すこしはマシになるでしょうか・・・。坂本さん、西野さんのパートは聞き取り易いので、そちらのほうだけでも。 説明会には150人近くの生徒さんたちが詰め掛けてくれました。講演後も質問がある人たちが列を成し、何人もの人がメールで問い合わせをくれました。改めて日本の留学熱の高さを実感しました。 しかしどうして、実際に留学をする日本人は依然少ないのでしょうか。留学のハードルが高いからか、あるいは夢を見るだけで何も行動を起こさずに終わってしまう人が多いからでしょうか。どちらにしても、留学を志す生徒さんたちの夢を実現し、世界に羽ばたいた優秀な人材が世の中に貢献していくことに、僕のこの活動が少しでも役に立てばよいと思います。 --- それにしても。僕の話し方はとても聞き取りづらいですね。ビデオを見ながら猛省しています。まず喋るのが速すぎる。発音が不明瞭。語尾の声量が小さい。「えー」「あー」「うー」が多い。何度も何度も人から指摘され、心がけているつもりなのに、全然改善していない。説明会に参加してくれた皆様、申し訳ありません。これは絶対に矯正しなくては。 - [2009年9月8日のアメリカ](http://hiroono.com/ja/2009/09/09/2009c9i8aeuiycyayey/) - 今日、オバマ大統領がバージニアの高校で、学生に向けたスピーチを行った。それが先週以来、未だ誰もスピーチの内容を聴いていないというのに、ちょっとした論争の的になっていた。オバマを嫌う右派の人たちが、こう騒ぎ立てたのだ:オバマはこのスピーチで、彼の「社会主義的な政治思想」を子供の脳に刷り込もうとしている、けしからん、と。子供にオバマのスピーチを聞かせたくないといって、学校を休ませた家庭まであったらしい。しかし、そこはバランス感覚に優れたオバマ大統領だ。いざスピーチの内容が公表されてみれば、政治の話など一切無く、子供が学校で真面目に勉強に取り組むように励ます内容だった。右派の批判は空騒ぎに終わった。 今日はMITで新学期が始まる日だ。全ての学生はこの日、指導教官とミーティングをして、今学期に取る授業を決める。僕も僕の指導教官のBrianも暫く休暇でオフィスを空けていたので、会うのは一ヶ月ぶりだ。Brianのオフィスに入ると、彼はにこやかな顔で迎えてくれた。ミーティングの前半は、お互いの休暇中の旅行のお土産話だった。彼は妻と小学生の子供二人と、西部の国立公園を巡ったそうだ。僕は成田空港で買った安物の漆塗りの名刺入れを、日本土産だと言って渡した。すると彼は、「日本の習慣では、贈り物を贈り手の目の前で開封するのは失礼に当たらないか」とわざわざ聞いた。僕が「どうぞ開けてくれ」と言うと、彼はいかにも日本的な過剰包装を、ひとつひとつ丁寧に開けていった。名刺入れを取り出すと、「ビューティフル」と喜んだ。「ヒロの名刺を一番に入れなきゃな」などとおどけた。 僕の研究室は、廊下との間の壁がガラス張りになっていて、廊下から見える場所に実験で使う火星ローバーの模型やロボット・ハンドなどが展示してある。同じ建物には大学の託児所が併設されていて、夕方には迎えに来た親と手を繋いで歩く子供たちが廊下に溢れる。今日の夕方、僕が研究室を出るとき、若い母親に連れられた二人の小さな女の子が、ガラスに顔を貼り付けて、展示されているロボットに見入っていた。僕が扉を出て親子の脇を通るとき、母親が僕を呼び止めた。「すみません、あなたもロボットなのですか?」唐突な質問に面食らったが、僕の顔を興味津々に眺める二人の女の子の目を見て母親の意図を理解し、「そうですよ」と答えた。すると二人の子供は、手を叩いて無邪気に喜んだ。去り際、母親は僕に笑いながら、サンキュー・ベリーマッチ、と言った。 その後、無料のバーベキューに誘われてキャンパスにたむろしていると、バンドの演奏が聞こえてきたので、あまり美味しくないハンバーガーを片手に聴衆の輪に入った。なかなか良い声の黒人ボーカルに、ソフトなロックの演奏。しかし、何か様子がおかしい。聴衆が皆一様に、穏やかな笑顔を浮かべながら、何かに感じ入っているのだ。妙な一体感が、場を支配していた。そこで歌詞をよく聴いてみると、ひたすら神とイエス・キリストを讃える内容だった。そう、ロックの賛美歌だったのだ。ある人は空に両手を掲げ、ある人は目を瞑り掌を合わせつつ、皆同じ恍惚の表情を顔に浮かべていた。他の人にとってはただ日常の喧騒が行き交うだけのキャンパスの一角で、彼らは神を感じ、恵みを全身に受け、その喜びを、あの一様な笑顔で表現しているのだった。その中にはよく知っている友達の顔もあった。彼らには失礼だが、僕は気味が悪いと思い、その場を離れた。 家に帰った後、着替えて外をジョギングした。その途中、交差点で赤信号を待っていると、横断歩道を渡るヒゲ面の男のすぐ脇をかすめて乗用車が右折しようとした。すると男は突然激怒し、車を拳で思い切り殴った。運転手が車を停め、窓を開けて男を睨むと、男はファックだのシットだのと大声で喚き散らして、歩み去っていった。 --- アメリカの客商売のサービスの悪さに苛立たされるにつけ、日本人留学生たち同士でよく、「これだからアメリカは」などと文句を言う。他方、日本の大学や職場の硬直性を批判するときには、「アメリカではこうなのに」と思う。日本の大衆誌なども、アメリカの対外政策を「アメリカ帝国主義」などと揶揄する一方、国内へ批判の矛先を向けるときは、しばしばアメリカを先進性の象徴として引き合いに出す。「アメリカ」という言葉を日本人が発するとき、そこには信奉と不信、憧憬と侮蔑が、混在し、同居している。 僕が日本からアメリカを眺めていた頃、アメリカは幾つもの顔を持つ、怪人二十面相のような物なのだと思っていた。そして、いくつかの面に憧れ、尊敬し、またいくつかの面を嫌い、見下していた。しかし、アメリカに四年住むうちに、それらの面が一つへ統合されていく感覚を得た。二十の顔を持つと思っていたアメリカは、実際には、例えばジャガイモのような、いびつな形をした一つの塊にすぎず、僕はそれを二十の方向から見て、違う形にスケッチしていただけなのかもしれない、と思うようになった。そして四年のうちに、このいびつだけれども、とても人間的な形をした塊に、僕は親しみを感じるようになった。 - [灰と土 - アフガニスタン文学](http://hiroono.com/ja/2009/11/01/yeau-ycyoyyeyyyoeo/) - アフガニスタンの大統領選挙は、カルザイ氏の不正に加え、彼の対抗馬のボイコットによって、さらに混迷を深める様相だ。アメリカではアフガン駐留軍の増派を巡る議論が続いている。現地司令官は治安回復のために4万人の増派を要請した。オバマ政権内では、積極論、慎重論、意見が割れている。CNNのニュースは、4万人のアフガン増派にかかる費用が年間1兆8千億円になるだろうと報道した。一方の日本では、給油活動に代わる「アフガン貢献策」の模索が続いているそうだ。 アフガン。アフガン。アフガン。テレビやインターネットで毎日耳にし、目にする言葉。悲惨、混乱、深刻、そんな一定のネガティブなニュアンスを持つ言葉。その言葉が語られる時にはだいたい、民主化、安定、人権、貢献、そんな抽象的な言葉を伴う。アフガン、アフガン、アフガン。この言葉は人間たちが住んでいる具体的な国を指す固有名詞なのに、一日に何遍も聞くうちに、アツカンだが、ヨウカンだか、イヨカンだか、なんだか暗い色をした一つの塊、そんな漠としたものを指す一般名詞に聞こえてくる。 --- ちょっとした気まぐれで、アフガニスタン出身の映像作家、アティーク ラヒーミー (Atiq Rahimi) 氏による中篇小説「灰と土」を読んだ。是非、これを紹介したい。 (作者自身による監督で2004年に映画化され、カンヌで賞も取ったそうだ。) 1980年代、ソ連侵攻下のアフガニスタンの片田舎。老人は、耳が聞こえなくなった孫を連れて、橋の検問所で炭鉱へ行く車を待っている。そこで働く息子に、彼の母、嫁、そして兄弟の死を伝えるために。 老人の深い悲しみの源は、身内の死だけではない。村がソ連軍の砲撃を受けた時、共同浴場にいた息子の嫁が真っ裸で外を逃げ惑うのを、彼は見てしまったのだ。イスラム世界では、女性が人前に裸体を晒すなど、あってはならない醜態だ。老人は言う。 「わたしの目が潰され、恥辱にまみれた嫁を見ずにすみさえすればよかったのに。」 その映像はトラウマとなり、何度も何度も老人の夢で繰り返される。 老人の息子の「誇りは山のように高く、勇気は地のように広大」である。家族の悲劇や被った陵辱を彼が知れば、必ず復讐を果たしに行くだろう。それを老人は心の片隅では期待しつつも、もう片隅では、無意味な復讐のために息子まで命を落とすことを怖れている。息子に事実を伝えるべきか、止めるべきか、炭鉱へ向かう車に乗った後も迷い続ける。 この小説は終始、主人公の老人に向かって「きみは」と語りかける、二人称体という珍しい形式で書かれている。語り手は政治的な見解を差し挟むことも、「戦争の悲惨さ」を殊更に強調することもなく、ただ淡々と老人の行動と心の動きを追いかける。そうすることによってこの小説は、抽象的な塊としてのアフガンではなく、日本人やアメリカ人と同じ大きさの一人の人間を、明瞭な輪郭で描き出す。社会、政治、宗教、文化、そんな集合名詞の中に埋め込まれてしまった一人の人間を掘り起こし、読者の眼前に現させる。 僕は、「日米のアフガン政策は現地の国民の視点を欠いている」「この本を読んでアフガンの現実への理解を深めよう」、そんなチープな主張をするつもりはない。世の中には、マクロな視点で取り組まなくては解決できない問題もある。しかし、ニュースが語るアフガンの話は、どうしても政治、経済、原理、主義、そんな視点に偏らざるを得ない。日本やアメリカでも政治や経済とは異なる次元で人々が日々喜び、楽しみ、怒り、悲しむように、アフガニスタンでもニュースで語られるのとは異なる次元に、人間の感情が溢れる世界がある筈だ。アフガンの話題が頻繁に語られるこの機会に、その人間的な側面を、こんな小説を通して覗いてみるのも良いのではないかと思う。 --- インプレス社がこの優れた小説の日本語版を出版し、日本へ紹介したことは非常に尊敬する。しかし、帯に付した「恥辱をすすげ、息子よ」「弔いは、復讐は、果たされるのか・・・。」という売り文句には、強い違和感を覚える。上述した通り、この小説は父が息子に復讐を促しに行く話では、決して、断じて、ない。帯の言葉に釣られず、誤解せずに読んで欲しい。 - [学研「科学」休刊](http://hiroono.com/ja/2009/12/04/ooeouu/) - こんなニュースを見つけました。 --- 雑誌、苦境一段と 学研が「科学」「学習」休刊 学研ホールディングスは3日、小学生向け学年別学習誌「科学」と「学習」の休刊を正式発表した。小学館も学習誌「小学五年生」「小学六年生」を 2009年度末で休刊することを決定済み。両社とも創業以来の看板雑誌に幕を下ろす背景には、深刻化する出版不況と時代のニーズとのずれがある。 「十人十色ではなく一人十色だ」。学研幹部は今の子ども事情をこう表する。ゲームやインターネットの普及で、子どもたちが求める情報が細分化。趣味の多様化も進み、男女を分けずに学年で分ける「学年別学習誌」はもはや、時代の変化に合致しない存在となっていた。 http://www.nikkei.co.jp/news/main/20091204AT1D030AQ03122009.html --- 学研「科学」、小学生の頃にとてもお世話になった雑誌です。宇宙、恐竜、車や飛行機、そんな子供心にわくわくするような理学や工学の話が満載で、難しい内容も漫画や写真を豊富に使って子供に分かりやすく書かれていました。一番の楽しみは付録で、ホログラム、プラネタリウム、カブトエビの飼育キットなど、学校の理科室にもないような、面白くて質の高いものばかりでした。毎月学研のおばさんから雑誌を受け取ると、まず付録の箱を開けて、夢中で組み立てたのを覚えています。僕が宇宙工学の道に入り、アメリカにまで来てしまったのも、きっと「学研」で体験したワクワクが理由のひとつなのではないかと思います。 時代の変化にいちいちケチをつけるほど僕はまだ老いぼれてはいないつもりだけれども、あのワクワクが、ゲームやインターネットに取って代わられてしまったならば、今の小学生たちは不幸だな、と思います。 - [MIT生の性生活](http://hiroono.com/ja/2009/12/04/427/) - MITの学生新聞 “The Tech”に、一月ほど前、”Sex@MIT”という特集が組まれました。内容はご想像のとおり。特集は全部で10ページにも渡り、同性愛、アナル/オーラルセックス、レイプや玩具のことまで、包み隠さずにあけっぴろげに書かれているのがいかにもアメリカです。(紙面のPDF) とりわけ面白かったのが、MITの学部生を対象に行ったアンケートの結果です。全体の40%、1,729人から得た回答をもとに、MITの学生がどんな性生活を送っているのかを浮き彫りにしています。(原文はここ) --- MITはドウテイが多い? 東大や東工大にはハタチにもなってドウテイを捨てられないオタクがうようよいるとの偏見がありますが、こちらでも「MITはセックスに興味がないオタクの巣窟だというステレオタイプ」があります。そしてアンケート結果によると、このステレオタイプはある程度事実のようです。アンケートに回答したMITの学部生のうち42%が、自分はバージンだと答えました。(英語では男性に対しても「バージン」という言葉を用います。)大学一年生の未経験率は63%だそうです。一方で、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)の統計によると、高校三年生のアメリカ人の平均バージン率は53% (2003年)とのこと。たしかにMIT生はバージンが多いようですが、そこまで大きな差でもありません。してないわけでは決してないぞ、というのが、学生新聞の主張です。 アメリカではキリスト教の影響が強いためか、結婚までセックスはしないというポリシーを持つ人が多くいます。未経験者のうち、男性の23%、女性の39%は、できないからしていないのではなく、しないと決めているからしていないのだそうです。本音の人、負け惜しみの人、両方の人、きっと色々でしょう。 ちなみに、MITの学生の15%がアナル・セックスの経験があるそうですが、そのうち2.5%の人は、依然自分はバージンだと考えているそうです。つまり彼らは、アナル・セックスはセックスではないと定義しているのです。なんだか屁理屈っぽい純潔の守り方ですね。 MITの学年別バージン率。左から、一年生、二年生、三年生、四年生、留年生です。マニアだらけのMIT生も、ちゃんとオトナの階段を登っているようです。 学科別、寮別の傾向 専攻によって、バージン率に明らかな傾向があるようです。経験豊かな学科ベスト3は、政治科学科(9.9%がバージン)、経営学科(27.5%)、地球大気惑星科学科(28.3%)。一方、20年物の未開封ボトルが多く蓄えられている学科ベスト3は、化学科(48.2%)、人文学科(45.7%)生物工学科(45.4%)。トップ3を見れば文系のほうが経験豊かなのだと取れますが、一方で人文学科が純潔第二位に入っているあたり、傾向が読めません。 学科以上に強い傾向が現れるのが、住んでいる寮ごとの統計です。アメリカの大学の学部生はキャンパス内の寮に住むのが一般的で、それぞれの寮には独自の文化、独自の雰囲気があります。「ハリー・ポッター」でもそうですよね。MITには12の学部生寮があり、そのなかで最もはっちゃけているのがSenior Houseで、バージン率は20.4%。一方、最も真面目な人が集まるMcCormick Houseでは、バージン率は驚きの82.4%にも達します。 寮別バージン率 性的嗜好 87%の学生がストレートで、3.5%が同性愛者、6%がバイセクシャルだそうです。僕の周りにもゲイの友達が二人います。アメリカの中でもリベラルなボストンでは、同性愛者は堂々としています。自分の性的趣向を公表することをいとわず、パーティーにも同性のパートナーを連れてきて、平然とした顔で”This is my boyfriend”などと紹介します。 13%の人が、同性とのセックスの経験があるそうです。性別での内訳は、男性が10%に対し、女性が16%。女性のほうが同性セックスに積極的のようです。Comparative Media Study (比較メディア学?)学科では、なんと42%の学生が同性セックスの経験があるそうな。メディアは前衛的で芸術家肌の人が多そうなイメージがあるので、なんとなく納得です。 How? Why? 66%の男女が、セックスの質に満足しているそうです。「なぜセックスをするのか」理由を尋ねたところ、92%が「自分の満足のため」、77%が「パートナーと親密な関係を築くため」、そして16%が「嫌なことを忘れるため」と答えたそうです。MITは授業も研究もタフで、精神的負担が大きく、鬱病になる人はもちろん、自殺してしまう人も毎年のようにいます。ガス抜きは重要ですよね。 セックスの満足度 その他もろもろ この号の特集には、統計だけではなく、MITの性に関する様々な記事が並んでおりました。性感染症の予防に関する真面目な記事から、「わたしの初体験」を語る投書コーナー、ポルノ映画、レイプを防ぐ方法からオモチャの紹介まで。全紙面がPDFで閲覧できるので、興味がある方はぜひ見てみてください。 オモチャ紹介のコーナーの書き出しがいかにもMITっぽくて面白かったので、以下に翻訳します。 MITの必修科目である物理を習った人なら皆、摩擦は運動の敵であることを知っている。摩擦は常に動きに抵抗し、性交のように二つの物体が接触するときには必ず摩擦が発生する。ある程度の摩擦は良いものだが、強すぎる摩擦は辛い経験となる・・・ うむ、セックスも物理学の問題として扱っているようでは、MIT生のバージン率が全国平均より高いのも頷けますね。 最後に、「私の初体験」に寄せられた投書をいくつか翻訳したいと思います。 モーテルに彼女を連れ込み、二回して、帰った。 SUVの前部座席で、デブ男と。 私の初体験は結婚の後でした。意味のあるものにしたかったからです。 泥酔して何も覚えていない。 ボーリングの初体験のことだよね?え、違うって?えっと、気にしないでくれ! - [冬の散歩道](http://hiroono.com/ja/2009/12/16/assieaae-2/) - Time, time, time, see what's become of me While I looked around For my possibilities (時、時、時よ、僕を見てくれ 自らの可能性を追い求めているうちに どんな風になってしまったかを) 就職活動を始めた。卒業まであと一年半、日本に帰るかアメリカに残るか、そもそも就職するか研究を続けるのか、道を迷いに迷っている真っ只中だ。だからこそ、自分にどのような可能性があるのか見極めたく、就職活動を早めに始めることにしたのだ。11月の週末に日系企業が大挙してやってくる「ボストンキャリアフォーラム」というイベントがあった。慣れないスーツにネクタイで首を絞め、他の大勢の同じ格好をした就活生たちに混ざった。 I was so hard to please But look around, leaves are brown And the sky is a hazy shade of winter (僕は満足などできない人間だった でも周りを見てごらん、木の葉は茶色 そして空には霞んだ冬の陰) MITへ来た頃、将来の夢は単純明快だった。宇宙開発の現場で働くこと。しかしやがて、政治に振り回される宇宙開発の現実を思い悩むようになり、それが本当に自分の一生をかける価値のある仕事なのか、疑問を抱くようになった。日々の仕事がどんなに楽しくても、それを40年続けた後に過去を振り返って、これが世の中の何に役に立ったのだろうと虚しさを感じるようなことだけはしたくない。 生きがいが欲しい。自分はこのために生きているのだと本音で堂々と言いたい。客観的に定義され得る存在価値が欲しい。毎日を、惰性ではなく、目的を持って生きたい。そして死ぬときは自分の人生に満足して死にたい。 Hear the Salvation Army band Down by the riverside, it's - [ダカールの風景](http://hiroono.com/ja/2009/12/27/yayyeiee/) - アフリカ旅行も明日で終わりです。たった一週間の旅なのに、手元の旅日記はすでに15ページ、二万字に。この膨大な量の経験や感情や思考をまとめるのは帰国後にして、とりあえずは、旅の出発点であり、時間の約半分を過ごしたセネガルの首都・ダカールの写真をアップロードします。 ダカールは大都会。道路を作らずに街が膨らんでしまったから、渋滞がひどいのなんの。 この国では車よりヤギのほうが強いようです。 市場。 ゴミをゴミ箱に捨てる習慣がないと、大西洋の夕景もこうなります。 - [謹賀新年](http://hiroono.com/ja/2010/01/01/aic/) - [Smiling Coast のAmerican Dream ? Gambiaにて](http://hiroono.com/ja/2010/01/13/smiling-coastiamerican-dream-a-yyoyoyceae/) - 奴隷海岸、笑顔海岸 奴隷海岸、象牙海岸、黄金海岸、胡椒海岸…。そんな名前が、かつて西アフリカ各所の大西洋に臨む海岸に付けられていた。大航海時代以降にヨーロッパの商人が西アフリカ沿岸へ押し寄せたときに、それぞれの地域の主要な「産物」に応じてこうした名前が付けられたのだ。Slave Coast、奴隷海岸といえば一般的にはトーゴからナイジェリアの沿岸を指すが、僕が今回旅したセネガルやガンビアの海岸からも、約五百万人の黒人奴隷が船に積まれて南北アメリカ大陸へ「出荷」されたという。 そんな時代から数百年が経った。奴隷隷貿易は昔話となり、アフリカ各国がヨーロッパの植民地支配から脱した今、ガンビアの人たちは、自国の海岸を、誇りを持って、 “Smiling Coast” (笑顔海岸)と呼ぶ。 (写真:ダカール沖に浮かぶゴレ島には奴隷貿易に使われたという商館が残っており、世界遺産に指定されている。) Smiling Coastの住人たち 朝7時にセネガルの首都・ダカールを発った僕は、ボロボロの乗り合いタクシー*1と今にも沈みそうなフェリーを乗り継ぎ、8時間かけて、アフリカ最小の国であるガンビアの首都・バンジュールに着いた。ダカールは人口が百万人を越える大都会であったのに対し、こちらの首都は人口三万五千人の田舎町だ。二階建ての民家のような建物に”Ministry of Industry” (産業省)という看板がかかっていたり、「7月22日広場」という、独立記念日を冠した仰々しい名前の広場が単なる芝生のサッカー場だったりと、なんとも牧歌的な雰囲気が漂う。特筆すべき観光地も全く無いので、大抵の外国人旅行者はこの町を素通りしてリゾートホテルが集まる大西洋岸へ向かうのだが、一人旅のバックパッカーにリゾートなど無用だ。僕はこの町にガンビア初日の宿を取ることにした。 (写真:ガンビア川の河口は幅が10kmもあり、瀬戸内海の最狭部よりも広い。そんな大河を過積載のおんぼろフェリーで渡ると、ガンビアの首都・バンジュールに着く。) ホテルを見つけ、荷物を降ろし、夕涼みに川沿いの砂浜へ出ると、そこには街中よりもずっと多くの老若男女が群れていた。三分の一の人はサッカー。三分の一の人はジョギング。残りの三分の一の人はビーチに座って友達と駄弁っている。当たり前だがほぼ全員が黒人で、稀にいる観光客も大抵白人だから、アジア人の僕が歩いていると、兎に角、目立つ。100メートル歩くごとに声を掛けられ、有名人になった気分だ。ただし、初めの一声は決まって「ニーハオ」である*2。だから、”No, I’m Japanese!!”と訂正するところから会話が始まる。この国では日本の評判はすこぶる良いようで*3、僕が日本人だと分かると「座って話していけ」と大歓迎される。ガンビアは英語が公用語なので、会話にも困らない。 “Welcome to the Smiling Coast!” (笑顔海岸へようこそ!)と、彼らは笑顔で言う。初対面の僕に”my friend”や”my brother”と呼びかける。初めは慣れないが、これが彼らの距離感なのだ。そして必ず、”How do you like Gambia?”(ガンビアは気に入ったかい?)と聞く。いい国だ、と答えてやると、彼らは喜んで思い思いの方法でもてなしてくれる。「食え」とよく分からない物を食べさせられ、「聞け」と耳にイヤフォンを突っ込まれてレゲエを聴かされ、「来い」と家に招待され、「蹴れ」とサッカーの試合に参加させられる。 おおよそ、ガンビア人の男の脳みその半分は音楽に、半分は女のことに占められているようだ。後者は全世界共通なので特筆すべきことはない。ただ、ムッツリスケベが多い日本人に比べて、ガンビア人はとても素直である。音楽の方はというと、若者はみんなレゲエとヒップホップに夢中だ。英語圏なのでアメリカやジャマイカの曲を好んで聞く。ちょうど僕がガンビアを訪れた週末に、レゲエ界のカリスマ・Lucianoがジャマイカからこの小国へやってきてライブをするそうで、それはもう国中が大騒ぎだった。あらゆる場所にポスターが貼られていて、誰と話してもLucianoの話題が出ないことはなかった。 この国では外国人観光客は女の子に滅法モテる。女の子の方から電話番号を聞かれたことが、果たして今までの僕の人生で一度でもあっただろうか。「私をガールフレンドにして」と短刀直入に言われることさえある。その意図が何であれ、悪い気はしないものだ。人生に三度しか来ないという「モテ期」の一回を使ってしまったのではないかと心配になる。 散歩を終えた帰り道、Pacoという名の、外国人向けレストランでウエイターをしている気立ての良い兄ちゃんと仲良くなった。僕が密かに「ガンビアン・慶応ボーイ」とあだ名した彼には五人のガールフレンドがおり*4、六匹の犬を飼っている。いかつい体格に似合わず、柔らかい声で爽やかに笑う。ヒップホップ狂で、喋り方も歩き方もなんとなくリズミカルだ。彼の友達の家で「ベネキン」というガンビア式チャーハンをご馳走になり、その後は仲間一味と共にバーへ酒を飲みに連れていってくれた。 (写真:こいつがガンビアン・慶応ボーイ) Bakaryのアメリカン・ドリーム 翌朝、僕は、ガンビア川を首都Banjulから50kmほど遡った場所にあるBintang Bolongという町へ、チャーターした車で向かった。運転手はBakaryという名の28歳の青年で、普段は外国人向けリゾートホテルで働いているそうだ。さすがは主要産物が笑顔であるSmiling Coast、彼も気持ちよく笑う陽気な男で、未舗装の道路を土煙を巻き上げて走る二時間半の行程の間、話題が尽きることがなかった。サッカーが好きだそうで、ヨーロッパのクラブチームでプレーしているガンビア人も沢山いるのだと誇らしげに語った。「カンフーと空手」を習っているそうで、二つの格闘技を混同している気配がプンプンするのだが、流派は一応、「セイドーカン」だそうだ。イスラム教徒の彼はとてもピュアで真面目な性格で、死んだ父からいつも「良い友達を持て、そして友達には分け隔てなく優しくしろ」と言われて育ったのだという。 (写真:Bakaryとオノマサヒロ) ガンビア人と話すと決まってガールフレンドの話になるのだが、彼には一人も彼女がいないらしい。こいつは慶応ボーイではないようだ。 「ガンビアで彼女を作るなんて簡単さ。でもいい子を捕まえようと思うと、お金が必要なんだ。」 なるほど、さてはこいつ、高望みしすぎなのだな。そう思い、どんな子が好きなのかと聞いた。すると彼は唐突に、アメリカ人かヨーロッパ人のガールフレンドが欲しい、と答えた。 「欧米人を嫁に貰って、アメリカかヨーロッパに移住したいんだ。それで、1年か2年に一度、嫁と子供たちを連れてガンビアに戻ってくるんだ。そんな暮らしが俺の夢なんだ。」 そして、陽気だった彼は急に真面目な口調になり、こんな過去を語った。昔はガンビア人の子と付き合っていた。いい子だった。でも、その子をヨーロッパ人の男に横取りされた。とても悲しかった。しかしヨーロッパ男はすぐに、あっさりとその子を捨てた…。 彼はそれ以上の詳細を語らなかった。急に重たくなった空気に、話しが暫く途切れた。その間に僕の想像力は、次のようなストーリーを組み上げた: *** Bakaryが付き合っていたのは、彼が普段働いている外国人向けのホテルの同僚の子だった。ある日、そこへ休暇で泊まりに来たヨーロッパ男が、この国ではやたらとモテることに気を良くし、旅の開放感に任せて彼女を誘惑した。彼女にもきっと、この男と結婚すればヨーロッパに移住できるという打算があったのだろう。だから彼女はその誘惑に乗り、Bakaryを棄てた。しかしヨーロッパ男には彼女を嫁に取って帰ろうという考えなど、さらさらなかったに違いない。おそらく彼は、彼女とセックスに耽る時、コンドームをつけることを忘れなかっただろう。 やがて1ヶ月の休暇はあっという間に過ぎ、ヨーロッパ男が国に帰る日が来た。彼は帰国日を彼女に教えていなかった。早朝、彼女に見つからないように、逃げるように空港へ向かった。その後、何も知らない彼女がホテルへ出勤すると、ヨーロッパ男は既にチェックアウトした後だった。 そしてそんな経緯を、同じホテルで働くBakaryは傍から複雑な想いで眺めていた。彼女が棄てられたとき、彼はヨーロッパ男に激しい憎悪を燃やしつつも、決して彼女を赦さなかった。傷口から流れ出る真っ赤な血がやがて黄色く膿むように、彼の純粋な失恋の悲しみは屈折した願望へと姿を変えた。彼女の代わりに、俺が欧米人の妻を娶ってやる、と…。 *** Bakaryが僕に何やら話しかけてきて、僕の空想は途切れた。彼の口調は陽気に戻っていて、また尽きない話が始まった。しかし、彼がやたらとアメリカの暮らしについて質問してくるのが気になった。 「アメリカ人での暮らしは楽しいか。」「どんなものを食べるのか。」「みんな車を持っているのか。」 彼の欧米へ移住したいという願望は、もちろんヨーロッパ男への復讐心からのみではあるまい。他の多くのガンビア人たちと同様に、欧米へ行けば楽しく幸せに暮らせるだろうと純粋に信じているのだ。そんな無邪気なアメリカン・ドリームが彼の質問の裏に透けて見える度に、僕は複雑な気持ちになり、何と答えたらよいのか分からなくなった。 そう、僕は今、アメリカに住んでいる。彼の「夢」に住んでいるのだ。思い返せば、キューバでも、メキシコでも、ニカラグアでも、人々の目はいつもアメリカへ向いていた。アメリカへ行きさえすれば幸せになれると思っていた。そんな単純で抽象的なアメリカン・ドリームは、過去の日本において、現世に希望を持てない貧しい農民たちが、極楽浄土へ行くことを願い必死に念仏を唱えたのと、似てはいないだろうか。 そして僕はボストンの街で、アメリカン・ドリームの成れの果てを沢山見てきた。それはマクドナルドの店頭に、バスやタクシーの運転席に、清掃中のトイレの中に、いくらでも見出すことができる。アメリカへ念願叶って移民してきた人たちが、夢の地で手に入れる肩書きは「低賃金労働者」だ。貧しいだけではない。彼らは社会の嫌われものだ。アメリカ人の保守的な人たちは、自らの祖先も移民だったことを棚に上げ、スペイン語やアラビア語、中国語を喋る新しい移民たちに対してあからさまな敵意を抱く。過去に差別されてきたアフリカ系アメリカ人でさえ、彼らの職を奪う存在として、新しい移民を快く思っていない人が大勢いる。 - [夢に見る](http://hiroono.com/ja/2010/01/19/iee/) - 飼っていた犬のチコちゃんが死んでもう五年が経つが、未だに夢に見ることがある。 今朝がそうだった。僕はリードを引いて、チコちゃんと一緒に山手線の電車に乗った。車両の端の三人掛けの席の、ドアに一番近い場所に座り、ドアの脇の手すりにチコちゃんのリードを結びつけた。チコちゃんは鳴きもせずにいい子でお座りをしているので、僕は安心して寝てしまった。 はっ、と目を覚ますと、降りるつもりの駅だった。慌てて席を立ち、「チコちゃん、降りるよ!」と言って足元を見ると、そこにチコちゃんの姿はなく、繋ぎ止める相手を失ったリードは手すりからだらりと床に垂れていた。僕は慌てた。「チコちゃん!」と叫び、車内を見回し、見つからず、ホームに飛び出し、見回し、見つからず、発車ベルが鳴り、ドアが閉まろうとした時、隣の車両の座席の上に、チコちゃんがお座りしている姿が、ふと目に入った。僕は閉まりかけていたドアをこじ開けて元いた車内に戻り、隣の車両との間のドアを開けると、寂しがり屋のチコちゃんは、キャンと鳴いて一目散に僕の胸に飛び込んできた。手足をじたばたさせて嬉しさを表現するチコちゃんが車両と車両の間の隙間に落ちてしまわないか心配で、僕は両手で必死にチコちゃんを押さえつけた。両手で触れるチコちゃんの毛の感触。僕の顔に何度もぶつかってくるチコちゃんの濡れた鼻の頭。僕も嬉しくて嬉しくてたまらなかった。 そして、そんな激しい感情に揺すられて、僕は目を覚ました。チコちゃんのいない現実の世界へ。ここがボストンの一人暮らしの寮の部屋で、チコちゃんはもう死んでいるのだいうことを思い出すのに、若干の間を要した。胸に大量に放出された黄色く暖かい化学物質はまだ残っていたが、現実を理解した後は、その残留物質は僕に嬉しさの代わりに空虚な気持ちを与えた。時計を見れば、起きるつもりの時間の三十分前だった。 僕は夢の続きが見たくて、もう一度眠りに入ろうとしたが、眠ることはできなかった。だから、この夢の記憶が薄れないうちに、それを文章に書き留めることにした。 こうして僕は、夢と現実の間を毎日往復し続けるうちに、再会の喜びと喪失の悲しみを何度も何度も何度も繰り返す。しかしそれでも、こんな身近に、しかも写真などではなく五感を伴って死者と再会できのは、とても嬉しいことだ。 これからもチコちゃんには気兼ねなく、僕の夢に会いにきて欲しい。 --- 追記: この日記を書き終え、アップロードした後、ふと気付いた。今日、まさに今日が、チコちゃんの、五度目の命日だ。 - [平和と貧困と幸福と ?セネガル・ダカールにて?](http://hiroono.com/ja/2010/01/25/eiaeei-ayyiyyeyayyeeaea/) - 外国の旅はたいてい、大都市から始まる。国際線のほとんどは国の中心都市の空港に着くからだ。スペインならマドリード、キューバならハバナ、モロッコならカサブランカ、そういった具合だ。今回の旅の起点となったセネガルの首都・ダカールも西アフリカ随一の大都市で、都市圏人口は250万を数える。 都市は単なる人間の集積ではない。都市には色がある。音がある。味があり、匂いがあり、温度がある。都市は外国人にとってはその国の顔であり、現地に住む人にとってはその国の心臓である。旅人がその国ではじめての一日をその都市で過ごす時、その国でのはじめての食事をその都市でする時、その国の人とはじめてその都市で話した時、その国について感じる何かがある。 例えば、二年前に訪れたベトナムのサイゴン(ホーチミン)。夕方に空港に着き、タクシーで市内へ入るやいなや、僕らは前後左右を凄まじい数のバイクに囲まれた。スーツを着た仕事帰りのサラリーマン、二人乗りのカップル、四人乗りの家族、あらゆる種類の人たちが、小さなバイクのハンドルを両手でしっかり握り、車などものともせず、ぶつかる寸前の車間距離で前へ前へと走っていた。まるで大河を濁流が流れ下るようで、その中で身動きが取れなくなった僕らのタクシーは、流れに呑み込まれんとする岩のようだった。安ホテル街でタクシーを降りれば、狭い道の両側に不揃いな高さや形のビルが壁と壁をくっつけてぎっしりと並び、見上げれば電線が縦横無尽に走っていた。おびただしい数の看板たちが肩と肩をぶつけ合いながら必死に自己主張をし、その下にある露店は夜遅くまで賑わっていた。フランス植民地時代に「東洋のパリ」と呼ばれたこの街から感じたのは、鞭を入れられた馬が全力で前へ駆けるような、躍動感に溢れるエネルギーだった。 しかし、「西アフリカのパリ」を自称するダカールからは、そんなエネルギーはあまり伝わって来なかった。むしろそこで感じたのは、のどかで、貧しいけれども平和で、そして少々退廃的な空気だった。 僕がダカールに到着したのは真夜中で、初めて街を歩いたのは、翌朝、ダウンタウンのガンビア大使館へビザを取りに行くときだった。馬車の時代から道路整備を怠ってきたからだろう、ダウンタウンの狭い道では、僕らが乗ったタクシーは人が歩く早さでしか進めなかった。それほど多くの人々が通りに溢れているから、街は賑わっているように見えるのだが、しかし何かが違う。人の半分は、道にシートを広げたり、首からカゴをぶら下げたりして何かを売っている。携帯電話のプリペイド・カード、日用雑貨、お土産など、品は様々だ。しかし売り手の数が過多で、どこも売れている気配がちっともない。そして残りの半分の人はといえば、手ブラで歩いている。彼らは何をしているのだろう?買い物をしているわけでもないし、物を売っているわけでもない。仕事に行くわけでも、仕事をしているわけでもなさそうだ。ある人は足を止めて友達と立ち話をし、ある人はおもむろに路肩に腰を下ろす。そして、そんな呑気な人たちの多くは、働き盛りの歳の男だった。 「この国ではね、失業率が45%もあるのよ。」 案内してくれた友人が教えてくれた。 「そして、税金を納めている人は5%しかいないの。」 ビザ申請と観光を済ました後、Medinaという、商店街と町工場街と住宅街が混然と一体になったような地区を歩いた。通りに溢れていたのは、散らかり放題のゴミの山、そこから放たれる悪臭、フラフラと歩くヤギたち、彼らが落として行く糞、そしてやはり、何をするでもなく店先に腰を下ろして友達と雑談に耽ったり、ヤギたちと共にフラフラと手ぶらで歩く、働き盛りの男たちだった。そんな人々の顔には切迫感も緊張感もなく、むしろ平和で穏やかな笑顔に満ちていた。道で少年たちがサッカーに興じているのはどこの国でも見かける光景なのだが、この街では二十歳を過ぎた青年たちも昼間から道でボールを追いかけていた。 コンクリートむき出しの状態で放置されている、建設途中の建物を頻繁に見た。働いている人が誰もおらず、工事を先に進める気がまるで無いようなものも多かった。工事中のまま、とりあえず完成している部分に人が住んでいる建物もあった。 人々の貧しさは言うまでもない。友人の話によると、この街では月給2万円の仕事にありつければ御の字だそうだ。どこの家族も失業者だらけだから、その薄給で大勢の兄弟や子供を食べさせなくてはいけないのだという。しかし一方で、ここよりは断然豊かな中南米と比べて、骨と皮だけになって死にそうな人を路上で見る頻度は、低いように思えた。助け合いの精神があるからだろうか、それとも、すぐに死んでしまうからだろうか。そういえばこの街では、老人をほとんど見かけない。 帰り道に歩いた街の西側の大西岸では、夕焼けがとても美しかった。イメージ通り、と言ったら失礼かもしれないが、セネガル人はスポーツが好きだ。海岸沿いの通りでは人が列を成してジョギングや散歩をしており、砂浜は群れて体操やサッカーをする人で溢れていた。そんな光景はとても平和でのどかだった。そして海岸は相変わらず、ゴミだらけだった。 平和で貧しい。旅から帰った後、セネガルとガンビアはどんな国だったかと聞かれれば、僕はそう答える。 事実、セネガルはとびきり平和な国だ。セネガルの殺人発生率(人口10万人あたり)は0.33 で、アメリカ(5.51)はもちろん、日本(1.10)よりも少ないのだ(2000年)[1]。 戦争もない。アフリカには年中行事のように戦争をしている国が数多くあるが、セネガルは1960年に血を流すことなく独立を達成し、それ以降も、南部カサマンズ地方の独立紛争*1を除けば、一貫して平和が保たれてきた。複雑な民族構成を持つが*2、民族同士が銃を向け合うことはほとんどない。 そしてこの国には、アフリカでは珍しく、独裁も、恐怖政治もない。独立以降、クーデターも一度も起きていない。また、物価も比較的安定している。インフレ率は長らく一桁台に抑えられてきた。HIV感染率も1%[2]である。 もちろん、セネガルで平和と安定が保たれている理由のひとつには、金やダイヤモンドなどの奪い合いの対象になる資源が無かったこともあろう。しかしそれだけではなく、穏やかで争い事を好まない国民性も作用しているのではないかと思う。 そして、言わずもがな、貧しい。セネガルの一人当たりGDP(購買力平均)は1,600ドル[2]で、日本の20分の1である。これでもアフリカの中では悪くない方だとはいえ、国連が定義する後発開発途上国(俗に言う最貧国)のひとつに数えられる。人々は、自分が生きている間に自国が豊かになるという希望など持っていない。だからみんな国を捨てて欧米へ移住したいという、安直な夢を持つ。その方法は、前回の日記で紹介したBakaryのように欧米人の妻を探すか、大西洋沖に浮かぶスペイン領カナリア諸島へ木製の船で密航するかだ。 ベトナムも、かつては最貧国のひとつだった。泥沼のベトナム戦争が1975年に終わった後も、懲りもせずに中国やカンボジアと戦争を売ったり買ったりし続けたせいで、国土は荒れに荒れ、国際社会からの援助も途絶えた。社会主義に基づく計画経済も全く上手くいかず、文字通り貧しさのどん底に陥った。 しかし、1986年にドイモイ政策によって自由市場経済が導入され、1989年にようやく戦火が収まると、ベトナム経済は、春を待っていた芽が一斉に吹くように、目覚しい成長を始めた。実質GDP成長率は毎年7%を超え、アジア通貨危機も大きな影響を受けずに乗り切った。90年代初頭には約50%あったという貧困率は、2007年には15%[2]にまで減り、現在も中国に次ぐ成長率で発展し続けている。そしてその原動力となっているのが、道をバイクが濁流の如く駆け回る都市、サイゴンである。サイゴンは、南北に長い国土の南の端から、エネルギーに満ちた血液を、国中に力強く送り続けているのである。 思い返せば、我が国日本だって、お隣の韓国だって中国だって、惨々たる状況から出発したものの、平和と経済の自由という二つの条件が揃った瞬間に爆発的な発展を遂げた。一方、セネガルでも、平和と経済の自由という条件は50年前から揃っているのだ。90年代後半以降は年率約5%の経済成長を達成しているとはいえ、どうしてこの半世紀の間にもっと豊かになりえなかったのだろうか。東アジアで起きたような爆発的で継続的な発展が、どうしてここでは起きないのだろうか。サイゴンで感じた、明日を予感させるようなエネルギーが、どうしてダカールの街では感じられないのだろうか。 もちろん、その責任の多くは先進国にあろう。出稼ぎ労働者が来ることを拒み、自国の農業を保護するために農産物の輸入を渋る。溜め込んだ富の再配分を拒んでいるのだ。また、セネガルの人たちに言わせれば、過去の過酷な植民地支配のせい、と言うかもしれない。 しかし、それだけではない気がする。 少々乱暴な議論かもしれないが、ぼったくられたり怪我をしたりしながら一週間セネガルとガンビアを歩いた末に思ったのは、結局のところ、差は「文化」にあるのではないか、ということだった。勤勉を美徳とする文化。教育を重んじる文化。コツコツと計画的に貯金する文化。こうした、東アジアではあたり前の「文化」がこの国では希薄なことが、人々が豊かにならない根源的な原因なのではないかと思った。 この国の人たちは基本的に、とても穏やかで人が良い。しかし一方で、彼らが勤勉であるとは言いがたい。 先に書いたとおり、セネガルの失業率は48%[2]にも上るのだが、そもそも路上で暇そうにしている人のうち、誰が失業者で、誰がそうでないのかを区別することは難しい。 例えば、ダカールの外国人が住むアパートには大抵、ガードマンが五人くらいいる。しかしこんなに平和で安全な国ではさぞかし暇なのだろう、そのうち四人くらいは門の前に輪になって座り、お喋りをしている。家具工場を覗けば、やたらと沢山の男が中にいるのだが、鋸を引いたりカンナをかけたりして手を動かしている人は僅かで、木を押さえている人や(そもそも万力を使えば人が押さえる必要もない)、それさえもせずにただ突っ立っているだけの男も何人もいる。市場でも、路上の商売でも、買い手よりも売り手も数のほうが多く、暇な店員は椅子に腰かけ、「暇だねえ」と隣の店の店員と雑談をしている。 「ワークシェアリングをしているのだ」と言えば聞こえが良かろうが、暇を持て余している人が勤勉に働けば、商売を改善する余地があるように思えてならない。ガードマンはともかくとして、例えば家具に装飾を施せば商品の付加価値は高まるだろうし、市場で客引きをすれば売り上げは上がるかもしれない。そんな考えは、間違っているだろうか。 一方、「失業」していても、場当たり的に小銭を稼ぐ方法ならいくらでもあるように思う。この国では商売に店舗は必要ない。道にシートを敷いてモノを並べたり、首から大きなカゴをさげて歩き売りしたりすればよいのだ。初期投資はほぼゼロだから、仕入れるモノさえあればすぐに商売が始められる。恐らくは似たり寄ったりの商売をする人から仕入れて、ほんの僅かの利益を乗せ、別の似たり寄ったりの商売をする人に売るのだろう。だからダウンタウンの道は、買い手もいないのに、路上の商人ばかりでごったがえす。 モノを仕入れる現金がない人は、ゴミの山からペットボトルを拾う。それが僅かな金で売れる。ペットボトルもなければ、どこかでモノを頂戴してきて、盗難品市場に売るという手もあるそうだ。 労働意欲は薄くとも、彼らはいかんせん貧しいから、お金は喉から手が出るほど欲しい。かといって穏やかな性格からか、強盗殺人のような大きな悪事を働くことは極めて稀だ。しかし、小さな悪事や些細なウソで小銭を稼ごうとする輩ならいくらでもいる。彼らの標的は専ら外国人である。例えば、頼んでもいないのに勝手に道案内をして「ガイド料」を取る。すれ違いざまに「今日の帰りのバス代がない」などと思いつきの理由をこしらえて金を乞う。演技もウソも下手っぴで、相応に金額も微々たるものだ。 もちろん、小さな悪事すら働かずに、真面目に生きている人の方が多かろう。しかし彼らの商売は、失礼かもしれないが、何かにつけて安直で短視眼的だ。例えば、ダカールの魚市場は砂浜にある。小船が取ってきた魚を、浜に着いたらそのままその場で売るからだ。市場といっても、屋根も建物もない。港湾施設も一切ない、単なる砂浜である。浜には干からびた魚がうち捨てられている。昨日の売れ残りだろうか。それなのに漁師は取れるだけ取ってくるようで、乱獲で漁獲量が減っているのだという。ちなみにセネガルで最も外貨を稼ぐ産業がこの漁業だそうだから、余計に頭が痛い。 働く悪事の規模が小さいことと関係があるかどうかは分からないが、商売もどれも規模が小さい。ダカールのMedina地区に数多く並んでいる家具工場やクチュリエ(縫製所)は、全て二階建ての一軒屋に収まる規模の家族経営である。街と街を結ぶ交通の主役は、バス会社ではなく、7人乗りのSept-placeと呼ばれる乗り合いタクシーだ。これも、車の所有者の個人経営である。 大きなビジネスは専ら外国資本である。隣国の話になるが、ガンビアの大西洋岸に並んでいた外国人向けリゾートホテルの殆どは、レバノンやリビアから来た商売上手のアラブ人が経営しているそうだ。ダカールで泊めていただいた友人夫婦の旦那さんは世界銀行に勤めているのだが、セネガル人が稀に持ち込んでくるビジネスの案件は、計画性に乏しくてとても融資できるようなものではないことが多いそうだ。セネガル資本の大会社といえば国営電力会社のSenelecくらいなのだが、何度も賄賂を払わなくては電気が来ないそうで、この上なく評判が悪い。 (写真:Sept-placeの乗り場。いっちょ前に"gare routière"、英語にすれば"bus station"を名乗っているが、実態は単なる駐車場である。チケット売り場も待合室もない。人が掲げる看板を頼りに目的地へ向かう車を探し、ドライバーと交渉して、お金は直接現金で渡す仕組みだ。) 青年海外協力隊として、セネガルの田舎の村の学校で教育の改善に取り組んでいる女性と会った。彼女は「セネガル人は他力本願だ」と嘆く。隊員から何かを学ぼうとするのではなく、彼らに何かをやってもらおう、という受身の姿勢の人が多いそうだ。例えば、農業の生産性を上げるための技術を教えようとした隊員がいた。彼は二年間の任期の間に一生懸命指導して畑を改善したが、彼が帰るとすぐに元通りになってしまったのだと言う。彼女自身も、村人から「青年海外協力隊はお金をくれないから意味がない」などと悪口を言われたことがあったそうだ。 なんだかセネガル人の悪口ばかり言っているようで恐縮なのだが、もちろん彼らの中にも勤勉な人たちはいる。友人夫婦が贔屓にしているクチュリエ(縫製所)がその例だ。彼らは勤勉なだけではなく、とても器用だ。たとえば手持ちのドレスと同じものがもう一着欲しい時、生地を買って、そのドレスと一緒にクチュリエへ持っていく。すると数日のうちに、元のドレスと寸分違わぬ複製品を、三千円くらいで作ってくれるそうだ。 そこで友人夫婦が彼らの器用さと勤勉さを買って、蚊帳を作るように頼んだ。マラリアがはびこるセネガルでは、蚊帳は必需品なのだ。お手本がないので、寸法は図面を引いて渡した。しかし誤算があった。彼らは図面が読めなかったのだ。だから、指定した寸法とは数十センチも違うものが出来上がったそうだ。図面を読んでゼロから物を作る能力は、器用さとは全く別物のようだ。 蚊帳ならまだ、これでもいい。しかし、これでは車の部品は作れない。機械部品は精度が命だ。例えば、日本の工業規格であるJISの最も粗悪な等級でも、直径10cmの歯車に対して、最大0.125mmの誤差しか許されないのだ(JIS B 1702-1:1998)。そして当然、お手本もなく、図面だけを頼りに加工することを要求される。 日本では、小学校の算数で、立体図形の辺の長さやら展開図やらを嫌になるまで勉強させられる。製造業で豊かになった日本にとって、あの教育がどれほど大事だったかが、身に染みて分かった。 しかるに、日本では子供が親にこんな不満を漏らす。 「数学なんて将来何の役にも立たないから、勉強する意味なんてねえよ。」 それに対して、親はこう叱りつける。 「何言ってるの、ちゃんと勉強しなさい!」 それがセネガルでは逆のようだ。子供がこう言う。 「お父さん、学校で数学を勉強したいよ。」 それに対して親がこう叱る。 「数学なんて何の役に立つのよ。そんなものを勉強する暇があったら、畑を耕しなさい。」 だから学校は、親に子供を通学させることを納得させるために、「役に立つ」ことを教える。これは隣国のガンビアで聞いた話なのだが、学校の「理科」の授業では、物理や化学はいい加減に済ませ、代わりに農業を教えるのだそうだ。もちろんそれは短期的には地域経済に役立つことなのだが、それでは人は図面が読めるようにならず、製造業を担うエンジニアも育たない。とはいえ数学や物理のような「役に立たない」教科を教えようものなら、そもそも子供が学校に来ない。悩み深いジレンマだ。 (写真:セネガルのおバカな大統領 - [A Day In The Life ? 一万日を生きて](http://hiroono.com/ja/2010/02/21/a-day-in-the-life-a-ieuaeuoaae/) - 僕が生まれた日 - 1982年9月26日(日)、大阪 僕は大阪で産まれた。家は東京にあるのだが、母が僕を産むために実家に戻っていたからだ。僕は出産予定日を過ぎても母のお腹の中に居座り続けていた。居心地が良かったので出たくなかったのだろう。やっと外に出る気になったのが、予定日を一週間も過ぎた朝。陣痛が始まると、祖父は「安全運転、安全運転」などと言いながら、真っ赤な顔で車を運転して母を病院へ連れていったそうだ。母にとってはじめての子ならば、祖父母にとってもはじめての孫なのだ。 僕は胸囲よりも頭の周囲のほうが大きい、頭でっかちの赤ちゃんだった。そのでっかい頭がつかえたのか、僕は外へ出るのに相当苦労した。10時間もお腹の中で暴れていたそうだ。どでかい頭を狭いトンネルに無理やり押し通されたのだから、さぞかし母は苦しかっただろう。夕方の5時17分、僕はやっとのことで外へ這い出て、産声を上げた。看護婦さんに取り上げられてへその緒を切られ、母に挨拶をさせられた後、すぐに新生児室につれていかれたそうだ。 それが、僕のこの世界での最初の一日だった。 その後の数日 東方の三賢者は星によってキリストの誕生を知り、その下へ馳せ参じたそうな。僕の誕生時、東方にいた三人の子煩悩/孫煩悩たちは、電話で知らせを受けるなり、特急列車に飛び乗って大阪へやってきた。 一人目は東京にいた父。大阪に着き、僕を見るなり、大喜びの父は10時間も陣痛の苦しみに耐えた妻へのいたわりを忘れ、「やったね!次は女の子ね!」と無邪気にはしゃいだ。それを聞いて母はプッツン。「次はアキラさんが産んでよ!」と怒鳴ったそうだ。母が息子へ与えた教訓:「男も出産に立ち会うべき。赤ちゃんはドコデモドアから出て来る訳ではないことを自分の目で見ておくべきだよ。」 二人目と三人目は金沢に住む父方の祖父母。通称、金沢のおじいちゃん・おばあちゃん。工学博士で大学教授の祖父は、頭でっかちの僕を見るなり、「いっぱい勉強して博士になるのかな」と言った。一方、明治生まれの祖母は「あーら、大きなオチンチン。いっぱい子供が作れそうね」と言ったそうだ…。まったくオトナたちは、赤ん坊が言葉を解さないのをいい事に勝手な期待を吹き込むものである。 一方、初孫が嬉しくてたまらない母方の祖父、通称大阪のおじいちゃんは、毎日仕事から飛んで帰ってきては「どや、大きなったか?」と母に聞いた。 母のツッコミ:「そんな毎日大きくなったら化け物や…。」 やはり初孫が嬉しくてたまらない母方の祖母、通称大阪のおばあちゃんは、僕が生まれる前に山ほどオムツを縫ってくれた。生まれてからは汚れたオムツを毎日洗ってくれたそうだ。 以上の話は母が教えてくれたものだ。みんなの喜び方がそれぞれにとても彼ららしく、微笑ましい。当時の僕は寝ることと泣くこととオッパイを吸うことしか能がなかったが、まだ形を成していない僕の自我のその向こうで、みんな一心に僕の誕生を祝福してくれたのだ。そしてその後、僕を大切に大切に育ててくれた。どれだけ感謝しても足りることはない。 一万日後 - 2010年2月11日(木)、ボストン 寝起きが悪い僕の目覚し時計の音は超特大だ。そのけたたましい音に快い眠りを妨げられた僕は、不機嫌にベットから這い出て自動的に目覚ましを止め、何も考えずにベッドに戻った。そんな時のためのスヌーズ機能。目覚しは10分間の執行猶予の後、再びけたたましい音を鳴らす。僕は観念して起き上がり、脊髄反射のみでタオルとパンツを引っつかんで風呂場へ降りていった。熱いシャワーを浴びるとようやく脳が動き出した。 部屋に戻る。母と妹からメールが来ている。母:「1万日おめでとう!」、妹:「卒業論文の摘要をあと25時間で英訳してくれぃ?。」キッチンへ行く。朝食は、ご飯、味噌汁、目玉焼き、トマトの丸かじり、紅茶。メニューは毎日変わらない。ロシア人のルームメイトが卵を6個も使った巨大な卵焼きを作っていた。コレステロール、大丈夫か? 歩いて研究室へ向かう。大雪の予報は外れ、雲は街を薄く雪化粧しただけで去り、空は気持ちよく晴れていた。毎朝一番の1時間は授業のReading Assignment(読書課題)を読むことに費やす。その後、パソコンの前に座り研究を始める。無人飛行機などの自動プランニング/スケジューリングをするソフトウェアの、時間的制約条件を処理するall-pairs shortest path algorithmがうまく動かなかったバグがようやく取れた。昼に僕の研究のスポンサーであるボーイングと電話でミーティングをした後、授業へ。「法と技術と公共政策」という授業。今日の講義は、法廷における科学的証拠の認定基準を示すことになった”Daubert v. Merrell Dow Pharmaceuticals”という判例についての議論だった。 授業後、ダウンタウンで友人たちと会い、ミュージカル”Dreamgirls”を観る。数年前に公開されたビヨンセ主演の映画や一発屋芸人による「和製ビヨンセ」が記憶に新しいが、元々は30年近く前にブロードウェイで上演されたミュージカルだった。そのリバイバル・ツアーがボストンへやってきたのだ。劇の出来は素晴らしかった。とりわけ第一幕の終わり、主役のEffie(そう、ミュージカルではDeenaではなくEffieが主役である)が夢を手中に収める寸前に突然の解雇を告げられ、何もないステージの上でただ独り、切り刻まれた心を、ど太くソウルフルな声で泣き叫ぶように独唱する場面。胃を裏返しにして心を吐き出し、それを観客の一人ひとりに投げつけるような、鬼気迫る演技。劇の終わり、彼女が挨拶をすると、客は我慢できずに一斉に立ち上がり、スタンディングオベーションの拍手を捧げ、僕も当然それに加わる。 劇の後は友人と連れ立ってバーへ行き、馬鹿話に花を咲かす。話は加速度的に盛り上がり、気付けば12時を回っている。地下鉄で家に戻り、E-mailにひととおり返信をして、目覚まし時計をセットし、電気を消してベッドに潜り込んだ。 二万日後 - 2037年6月29日(月) 朝6時に目が覚める。そのくせ爽快な寝起きではない。昔はやたらと早起きの父を笑ったものだが、自分も歳を取ればそうなった。鏡を見て、その中の自分に向かい、今週も頑張るぞと言いネクタイを締める。54歳の僕。キャリアは早くも終点に近づいている。夢は形になっているか。空想は現実になっているか。木は実を結んでいるか。雨滴は川を成しているか。まだ太陽は燃えているか。 それと、僕の人生の三大目標「ハゲない、ボケない、ニオワない」、これは達成されているだろうか。 三万日後 - 2064年 11月 14日(金) 今日は何曜日だっただろうか。孫たちが次に遊びに来るのはいつだろうか。ばあさん、散歩にでも出ようや。82歳にもなると歩くだけでいい運動だ。公園の紅葉がきっと綺麗だぞ。 四万日後 - 2092年4月1日(火) (おそらくもう、一人称で僕を語ることはできないだろう。二人称で僕に語ってくれる人も、もういないかもしれない。三人称で僕を語ってくれる人は世の中にどれくらいいるだろうか。オノマサヒロがいた世界は、オノマサヒロがいなかった世界にくらべて、確実に良いものになったと認められているだろうか。) 五万日後 - 2119年8月19日(土) きょうも地球はひとまわり。 くるりくるりとひとまわり。 蝉の鳴き声じりじりり。 波が砕けるざんざぶり。 きょうも地球はひとまわり。 幸せのせてひとまわり。 明日はもひとつひとまわり。 - [はやぶさ帰還/Falcon 9ロケット打ち上げ成功](http://hiroono.com/ja/2010/06/07/iaouucofalcon-9acaaau/) - 宇宙開発にとって嬉しいニュースが二つ続いた。小惑星探査機「はやぶさ」が地球へ帰還する軌道へ乗ったこと、そして民間で開発された大型ロケットFalcon 9の初打ち上げの成功だ。 無人の宇宙開発の意義は、おおよそ二つしかない。科学的知識の探求と、社会インフラの構築である。はやぶさの成功は前者に、Falcon 9の成功は後者に、大きく貢献する。 はやぶさ帰還/「ナンバーワン」であることの意義 「はやぶさ」は世界で初めて、小惑星の土のサンプルを地球へ持ち帰る試みである。今までに人類が土のサンプルを持ち帰ることに成功した天体は、月以外にはない。太陽の周りを回る惑星からのサンプルリターンは世界初である。もし、6月13日に地球に帰還するはやぶさのカプセルの中に小惑星「イトカワ」の土がほんのひとかけらでも入っていれば、それは宇宙開発の歴史に名を残す快挙となるだろう。 (Image courtesy of JAXA) 事業仕分けで「2位ではだめなのですか」ととぼけた発言した議員がいたり、「ナンバーワンよりオンリーワン」などという歌が流行ったりしたことは記憶に新しいが、宇宙における科学探査においては(そして他のいかなる科学の分野においても)、「ナンバーワン」でなくては、全く意味が無い。 「ナンバーワン」には二種類ある。世界で初めて何かを成功させること。そして、世界で最良の結果を得ること。とりわけ宇宙開発においては、「世界初」であることが重要だ。世界初の人工衛星スプートニク。世界で初めて宇宙を飛んだガガーリン。世界で初めて月を歩いたアームストロング。それらの名は世界に知れ、歴史に記憶される。しかし、世界で二番目の人工衛星、世界で二番目の宇宙飛行士、世界で二番目に月を歩いた人間の名を覚えている人は、どれだけいるだろうか。 「はやぶさ」は既に世界で非常に高い評価を得ている。それは一重に、その試みが世界初であるからだ。 しかるに、「はやぶさ」の価値を、日本の宇宙政策を練る人たちが正しく理解しているとは言い難い。JAXAの宇宙科学研究所が申請した後継機「はやぶさ2」の予算がなかなか通らず、計画の実現が危ぶまれているのだ。その間、日本から「世界一」を奪還すべく、アメリカは小惑星からのサンプルリターン計画「OSIRIS」を進めている。せっかく日本が打ち立てた小惑星探査における主導権を、みすみすアメリカに譲ることになるかもしれない。もちろん「世界初」の功績は歴史から消えないが、「世界最良」の結果はすぐに更新されうる。しかも「はやぶさ」は小惑星への着陸時にトラブルがあったため、13日に帰還するはやぶさのカプセルに土のサンプルがちゃんと入っていない可能性がある。その場合、「世界初」すらも、アメリカのOSIRISに奪われてしまうのだ。「はやぶさ2」に予算を付けなかった日本の宇宙開発の先見の明の無さには、落胆するのみである。 では、代わりに日本が進めようとしていた宇宙プロジェクトは何か。例えば、「月に二足歩行ロボットを歩かせる」などという、オモチャのような計画だ。日本ではアニメの影響で二足歩行ロボットマニアが多いこともありウケは良いかもしれないが、海外から見れば、失笑を禁じえない、馬鹿げた話である。そもそも、月はすでに、40年も前に人間が歩いているのだ。今更、二足歩行ロボットがその上を歩いたところで、「世界初」でも、「世界最良」でもない。つまり、全く何の意味も無い。ただし、もしその成功が(たとえ世界から失笑されても)日本国民の自信となるならば、いくぶんか価値はあるかもしれないが。 さすがにこの計画が馬鹿げていることに気づいたのか、この五月に公表された宇宙開発戦略本部の「月探査に関する懇談会」のレポートでは、二足歩行ロボットの計画は消え、無人探査機による月面基地に置き換わっていた。しかし、それでもまだ「世界初」や「世界最良」となる目標があるとは言い難い。無人探査機による月面走行や月からのサンプルリターンは、1970年代にソ連が既に達成しているからだ。もしこのまま「世界初」か「世界最良」となる目的を見つけられなければ、税金を使ってこの計画を進める価値はない。例えば、月に存在する資源の開発を目的とするならば、価値があるかもしれない。その場合は、「科学探査」というよりも「社会インフラ」としての性質が強くなるため、費用対効果や、月に存在する資源の利用可能性についての議論が必要である。 日本の宇宙における科学探査は、「はやぶさ」を先例として、野心的に「世界初」か「世界最良」を狙っていくべきである。 一週間後、はやぶさのカプセルが無事にオーストラリアに着陸し、そしてその中に小惑星の土がしっかりと入っていることを、願って止まない。 Falcon 9ロケット打ち上げ成功/民間宇宙開発によるコストダウン 長らく、宇宙開発はNASAやJAXAのような国営機関でなくてはできないという迷信があった。その迷信を完全に消し去ったのが、今回のFalcon 9ロケットの打ち上げ成功だ。 Falcon 9は、完全に民間によって開発された、日本のH-IIAロケットとほぼ同じ性能(低軌道へ10ドンのペイロード)を持つ、大型ロケットである。このロケットの単価はおおよそ45億円。約85億円するH-IIAとくらべると、約半分のコストである。 Falcon 9ロケットを打ち上げたSpace X社は、創業から8年のベンチャー企業である。なぜそんな小さな会社が、H-IIAの半分のコストで、同等の性能のロケットを開発できたのか。 先の事業仕分けで、1枚50円で裁判所向けにコピーサービスをしていた事業が批判された。彼らの言い分はたしか「裁判記録には品質の高いコピーが必要で、そのためには手間のかかる手作業が必要になる」、そんなものだったと思う。それは確かに、正直な言い分であろう。しかし、それでも「一枚50円」という常識外れのコストがかかる理由は結局、国相手の商売なので、「たとえ高くても買ってもらえる」からだ。競争に負けて淘汰されるリスクが無いので、自然とコストダウンをする努力がおなざりになってしまうからだ。 全く同じ構造が、ロケットにもある。どんなにH-IIAロケットが高くても、信頼性が低くても、必ず年間数本は日本国に買ってもらえる。もちろん、JAXAや三菱重工のエンジニア達はコストダウンや信頼性向上のために大きな努力をしただろう。しかしそれでも、「買ってもらえなければH-IIAが淘汰される」という危機感が無くては、無意識のうちにコストダウンの努力が甘くなるかもしれない。 同じことは他の国が運用するロケットにも言える。世界中の国が皆、国営事業でロケットを打ち上げているから、コストダウンの圧力もなければ、淘汰も起きない。 一方、Falcon 9のような民間のロケットは、競争に勝ち残らなければ会社が潰れる。だからエンジニアはコストダウンと品質維持に心血を注ぐだろう。そのような競争が世界中で起きれば、宇宙開発の未来は明るい。 そして、打ち上げコストが下がれば、通信、放送、GPS、気象観測、温暖化観測などの「社会インフラとしての宇宙開発」のコストも下がり、利用は拡大する。宇宙がより、地球上の人類の役に立つようになるのだ。 また、オバマ政権が月や火星に人類を送り込む「コンステレーション計画」を中止したのは、技術的理由ではなく、財政的な理由だ。コストがかかりすぎるからだ。Falcon 9が起爆剤となり、宇宙への打ち上げコストが下がれば、火星がぐんと近くなる。 ただし、Falcon 9ロケットは、まだたった一回の打ち上げを成功させたのみである。信頼性を実証するには、少なくとも連続十回の打ち上げ成功が必要だろう。Falcon 9が本当に試されるのは、これからである。 余談 - オーストラリアのUFOの正体は本当にFalcon 9か!? オーストラリア東部でUFOが目撃されたというニュースがあった。目撃証言によると"It had a distinct bright centre, much like a bright star, indicating an - [はやぶさの旅に想う](http://hiroono.com/ja/2010/06/14/iaouii/) - 七年間も宇宙を旅して、困難の度に満身創痍で立ち上がり、ついに役目をやり遂げて地球に還ってきて、その命の最後に我が身を燃やして一瞬の輝きを夜空に放ち、流れ星となって消えた。 カッコいい生き方だと思う。どれだけの人が、この小さな宇宙船の旅に、自分の人生を投影しただろう。 僕も、そんな生き方をしたい。 - [バックパッカーのバックパック](http://hiroono.com/ja/2010/07/22/ydhyayynyayiydhyayynyay/) - 二年間住んだ寮から、川沿いのマンションへ引っ越すことにした。 引越しの準備は大仕事だ。僕の場合、部屋にある物たちをただ段ボール箱に収めるだけでは済まない。物を捨てるのが苦手な性格で、部屋には要る物と要らない物が混然として散らかっているから、その整理から始めねばならないのだ。 物を捨てるには、精神的な労力が要る。旅先でもらったパンフレットやチケットの半券が出てくれば、それにまつわる思い出が蘇る。もう一年以上も着なかった服でも、まだ着る機会があるかもしれないと思ってしまう。蓋をなくしたタッパウェアーでさえ、雨漏りしたときの水滴受けに使えるかも、などと意味不明な用途を思いついてしまう。しかし、せっかくの新居までをもガラクタ屋敷にしたくはない。僕は決心を固め、邪念を振り切り、「ごめんなさい」と呟きながらそれらを断腸の思いでゴミ箱に放り込む。これでは腸が何本あっても足りない。ひとつ物を捨てる度にそんな具合だから、部屋は一向に片付かず、引越しの準備は捗らない。 今回の引越しで、僕はこの上なく思い入れのあるひとつの物を、ゴミに出した。このバックパックだ。 このバックパックを背負って、僕はどれだけ旅をしただろう。アメ横のすすけた看板の店の軒先でこれを買ったのは八年以上も前、大学一年生の春休みにはじめてのバックパック旅行で韓国へ行く前のことだった。その旅で味を占めた僕は、その後もこのバックパックひとつを背負って、アジア、ヨーロッパ、南北アメリカ、世界中の街を旅した。早朝のバスターミナルで、このバックパックを枕にしてベンチで寝たこともあった。そして留学のためにアメリカへ旅立った時も、このバックパックと一緒だった。 聞き慣れぬ言葉が飛び交い、見慣れぬ人々が行きかう異国の街、その中を漂う無防備な旅人にとってのバックパックとは、ダイバーが背負う酸素ボンベのようなものだ。自分が頼れるものは、その中にしかないのだ。たった一週間でもバックパック旅行をした人ならば、きっと自分のバックパックに特別な愛着を感じるだろう。 そのバックパックがついに壊れたのが一年半前、メキシコとキューバへの三週間の旅の、最後の最後だった。ボストンに帰ってきて、空港からバスに乗り込むとき、ビリっと音がして、バックの脇が破けたのだった。しかし、もし旅行の真っ只中で破けていたら大変だっただろう。三週間の旅の間、よく耐えてくれたものだと思った。余計にこのバックパックがかわいく思えた。 その後、新しいバックパックを買ったにも関わらず、一年半もの間、僕はこの古いバックパックを捨てられなかった。捨てられず、かといって何かに使えるわけではなく、一年半、棚の上に祭ったままでいた。(こんな調子だから僕の部屋は永遠に片付かないのだ。) そして遂に捨てる決心をしたのが昨晩。うちの寮では、ゴミは部屋の扉の外に置いておくと、清掃員が回収してくれる。僕は「最後に」と、空っぽのバックパックを背負って扉の外へ持っていき、床の上に置いて、部屋に戻った。 今朝、部屋を出ると、バックパックは無くなっていた。 --- [追記] こんな記事を書いている暇があったら、部屋を少しでも片付けるべきですよね。。。 - [六度目の冬](http://hiroono.com/ja/2010/12/11/iauiuiass/) - 川凍りて 昇る二つの 朝日かな チャールズ川が凍った。冬将軍の本格的なお出ましだ。夏に引っ越したアパートは部屋から川が望める最高の場所にある。はじめて、川が凍っていく過程を見ることができた。 きのうの朝、目が覚めてブラインドを開けると、川面が不気味なほど静かで、対岸のボストンの街の景色を鏡のように映していていた。静かな朝凪は珍しいことではない。しかし、ここまで静かな日は初めてだった。 シャワーを浴びてもう一度窓の外を見ると、川面に変化があった。ところどころにまぶしく朝日を反射する鏡の破片のようなものが浮いているのだ。その破片はみるみると面積を広げ、まだ残る僅かな水面は川の中を流れる川のようで、しかしそこもすぐに凍結し、川は一面が氷に覆われた。氷面の上にはボストンの街並みがピントの少しずれた写真のように映し出され、朝日を鋭く反射させて僕の目に突き刺した。全ての変化が終わるまで、たったの一時間だった。 ボストンで六度目の冬がやってきた。これがこの街で過ごす最後の冬になるだろう。 - [アメリカ大学院 RAの面接の心得](http://hiroono.com/ja/2011/03/20/ycyayeyacoraiiiauiaea/) - チャールズ川の氷が溶け、ボストンの長い長い冬の終わりが見え出す三月中旬。今年もMIT大学院の合格を手にした新入生たちが、続々とオープンハウスでキャンパスを訪れる季節になった。うちのラボにもRAを求めて多くの新入生が訪れ、僕もその何人かを面接した。彼ら彼女らの頭の良さはMITに合格する時点で折り紙つきで、甲乙付け難い。しかし、誰を研究室に入れたいかとなると、優劣は比較的ハッキリと付く。今回面接した学生たちの中で僕が気に入った二名は、教授が気に入った二名とピッタリと一致した。気に入られる学生には明らかな傾向がある。この記事では、選ぶ立場から見たRA面接のコツを書きたいと思う。 日本の大学においては、学生は研究室に「配属」される。つまり、学科が一元的に生徒を先生に割り当てる。一方、アメリカの大学においては、学生は研究室に「雇用」される。各教授は個別に学生をRA (Research Assistant)として雇い、スポンサーから獲得した研究費を用いて学費と給料を払うのだ。RAを求める学生に対して、教授はミーティングという名の面接を行って、取るか取らないかを判断する。詳細は僕が昨年に掲載した記事「レンガを積むが如く」を参考にされたい。 まず断っておくが、僕はまだ一介の博士学生でしかなく、誰を取るかを最終的に判断する立場にない。また、航空宇宙工学科におけるAI/制御の研究という、非常に限定的な分野での経験でしかない。以下の情報は一般的なものではなく、あくまで僕個人の経験に基づいた参考意見と思って読んで欲しい。とはいえ、アメリカの大学院に五年半在籍し、研究室の中では新入生の面接を先生に任されるシニアなメンバーであることから、日本から来る新入生に対しある程度は役に立つアドバイスが出来ると信じている。以下の情報について追加や異議のある先生方や留学生の方、是非ご指摘願えれば幸いである。 僕の私見では、RA面接において強い印象を残すために効果的なのは次の三点だ。 1. 研究/プロジェクトにおける経験を具体的に語れること 2. 実用的なスキルを持っていること 3. 自信のある話し方をすること 1. 研究/プロジェクトにおける経験を具体的に語れること 僕はこれが最も重要な要素だと思う。「僕はロボティクスに興味があり、関係する授業を履修してAを取った。あなたの研究室で行っている研究はとてもクールなので、ぜひ加わりたい」などと、とても抽象的な言葉で語る学生がいる。マイナス要素は全く無いのだが、これでは他の大勢の頭の良い学生たちから頭一つ抜け出すことができない。 面接する側の印象に残るのは兎角、具体的な情報である。 もちろん、学部を卒業したばかりでは論文を何本も出せるほど研究結果が積みあがってることは稀だし、教授もそれを期待してはいない。しかし、それでも具体的に語ることはできる。例えば僕が東大での学部時代のプロジェクトの経験を具体的に語れば、こうなる:"I participated in a project that designed and manifactured a remote-sensing satellite. I programmed a software and desined a circuit board for the satellites' communication subsystem. The 8kg hand-made satellite was successfully launched to the law Earth orbit and - [ボロボロの地図/さようなら、ボストン](http://hiroono.com/ja/2012/01/07/yuyiyuyiiaithueeecyuyyeyo/) - 8ヶ月もブログの更新をサボってしまった。言い訳すると、卒業を控えとても忙しかったのだ。その間の頑張りの甲斐あり無事にPh.D.を取得できたのだが、この話はまた今度ゆっくり書こうと思う。 そんなわけで、6年半も住んだボストンをあと数週間で離れることになった。部屋を引き払う準備のため片付けていると、ボロボロになったボストンの地図が出てきた。懐かしさに思わず手を止め、見入ってしまった。 この地図は6年半前、僕がこの街に移り住んだ直後に買ったものだ。まだ街に不案内だったから、外出するときはいつもこの地図をポケットに入れて歩いた。使い慣れた地図は便利だから、破れてもセロハンテープでつないで使い続けていた。地図を大きく広げキョロキョロしながら街を歩く僕は、見るからに新参者だった。 しかし、やがて暮らしに慣れ、道に迷うこともなくなり、いつのまにかこの地図を持ち歩くことはなくなった。両手をポケットに突っ込んで、我が物顔で街を闊歩するようになった。真新しかった地図のあちらこちらに書き込みが入り、汚れが付き、穴が空くように、六年半の間にこの街のひとつひとつの場所に僕の様々な思い出が染み付いた。 その地図を遂に捨てる時が来た。「記念にとっておこうか」という考えも浮かんだが、そうやって何でも「記念に」とっておくから部屋がガラクタの山になるのだと思い直し、写真を撮ってから、少々の決心とともにゴミ袋に突っ込んだ。 さようなら、ボストン。去るのがとても寂しい。 - [Ph.D.取得!/MITの卒業式の風景](http://hiroono.com/ja/2012/06/20/phdeaeamitiaeiee/) - 先日、僕はMITの卒業式に参加し、晴れてPhD(博士)のdiploma(卒業証書)を受け取った。この記事では、日本とはずいぶん違うアメリカの大学の卒業式の様子を紹介する。ボストンの街とそこでの思い出については、もう一方の記事に書いた。 「卒業式」の意味 卒業式のことを英語ではcommencementという。直訳すれば「はじまり」という意味だ。一方、日本で「はじまり」の式である入学式は、アメリカの大学では行われないことが多い。入学試験のないアメリカの大学では、入ることよりも出ることのほうが断然に大変だ。だから自ずと卒業式のほうが大きな意味を持つのだ。日本の学生は厳しい受験戦争を戦い抜いたあとに、入学式で気持ちを新たにして大学生活の「はじまり」に臨む。同じように、アメリカの学生は大変な苦労をして卒業をしたあとに、卒業式で気持ちを新たにして次のステップの「はじまり」に臨むのである。 アメリカの卒業式は、学年の終わりである5月末から6月始めに行われる。しかし、卒業自体は一年のいつでもできる。僕もPhD課程を卒業しMITを去ったのは2月だった。アメリカの卒業式は学業の終わりを記念する儀式ではなく、過去一年に卒業した人たちにdiplomaを授与する儀式である。だから、「卒業式」と呼ぶよりも、「学位授与式」と呼ぶほうが適切かもしれない。 「卒業」の定義もずいぶんと違う。日本では決められた年限を修了すれば卒業となる。対してアメリカでは、学位が認められるために十分な条件(単位数や研究業績)を揃えたら卒業となる。だから学位を取得するまでにかかる年数は定まっていないし、大学院では「学年」の概念すらない。博士号を3年で取る人もいれば、8年かかる人もいる。例えるならば、アメリカの学位とは42.195kmを完走したことに与えられる賞である。3時間で走っても、8時間かけて走っても構わない。対して日本の大学の学位は、5時間走ったことに対する賞である。当然、走る距離は人によってずいぶん違う。もちろん怠けすぎれば卒業できないのは日本でも同じだが、アメリカの大学では、5時間を少しオーバーしそうだからといっても、一切の手加減も配慮もしてくれない。僕はアメリカのシステムのほうが理にかなっていると思う。呑みこみが速い学生をみんなが追いつくまで待たせるのは時間の無駄だ。また、呑みこみが遅い学生だって、じっくり時間をかけさえすればちゃんと目標を達成できる人は多いだろう。もちろん遊び呆けて学業を怠る人は論外だが、ちゃんと頑張っているならば、少々人より足が遅くたって、「留年者」という負のレッテルを貼って失敗品扱いする必要などないのではないか。 ドレスコード アメリカの卒業式にはドレスコードがある。すなわち、全員がガウンを着用しなくてはいけない。このドレスコードは、壇上に並ぶ教授たちはもちろん、誘導をする係員にまで徹底している。ガウンのデザインは学校によって異なる。教授として参加するときには自分の出身校のガウンを着るのが慣わしである。だから壇上には様々な色のガウンを来た教授が並び、とてもカラフルになる。 ドレスコードがあるからと言って、式が堅苦しいものであるというわけではない。むしろその反対だ。イタズラ好きで遊び心豊かなMIT生たちは、角帽の上に奇抜な飾りをして人目を引こうとする。たとえば帽子の上にMITのキャンパスの模型を作ってしまった土木工学科の学生や、 帽子の上に火星の大地を再現し、火星着陸船の模型まで置いてしまった航空宇宙工学科の学生、 分子模型を乗せた化学工学の学生などなど。 赤ちゃん用のガウンを特注して愛息に着せてしまった子煩悩な卒業生もいた。 今や世界のヒーロー、ドラえもんも、ガウンを着て卒業生を応援してくれる。 卒業式の前後にガウンを着て道を歩いていると、すれ違う人がみんな”congratulations”と声をかけてくれるのが、嬉しくて、誇らしくて、すこし照れくさい。 Hooding Ceremony 博士号を授かる卒業生は、写真のように、首から背中にかけてセミの羽のような形に垂れ下がった「フード」をガウンの上から着用する。このフードは一人前の研究者として認められたことの証である。そしてそれを授与する式であるHooding Ceremonyが、卒業式とは別に行われる。 MITの場合、Hooding Ceremonyは卒業式の前日の昼に行われる。およそ400名の博士号取得者たちが一人ずつ名前を呼ばれ、壇上でMITのChancellor (MITではpresidentの次にエラい人。詳しくはここを参照)と所属学科の学科長の二人によって、フードを首からかけてもらう。これによって、壇上に並ぶ教授陣と同じ、一人前の研究者の仲間入りをしたことを祝うのである。 卒業式 国歌とスピーチ 卒業式の日は朝早くから、自慢の息子や娘の晴れ姿を少しでも良い席で見たいと願う親たちが、会場の前に長い列を作る。家族たちが観覧席に、教授陣が壇上に着席した後、卒業生たちが賑やかな音楽と満場の拍手に迎えられ、誇らしげに入場してくる。 式はアメリカ国歌の斉唱で始まる。余談になるが、日本の卒業式では国歌を歌うか歌わないか云々がずいぶんと議論になっていると聞く。僕は、国歌を歌うことにケチをつけるのはおかしいと思うし、また歌うことを強要するのもおかしいと思う。日本人は大袈裟に考えすぎなのではないか。自分の国を誇りに思っていれば自然と口に出るし、歌いたくなければ黙っていればいい。それだけだ。他人が歌うこと、あるいは歌わないことをとやかく言うものではない。 開式宣言など形式的な内容を手短に終えた後、guest speech (来賓祝辞)が始まる。Steve JobsがStanford大学で2005年に行ったスピーチや、ハリー・ポッターの作者であるJ. K. RowlingがHarvard大学で2008年に行ったスピーチは、もはや単なる祝辞にとどまらず、人生について深く考えさせられる、哲学的価値のある名スピーチだった。今回のMITでのguest speakerは、Salman Khanという、ネットで無料の教材を配信するNGOを立ち上げ話題になった人だ。彼のスピーチは、JobsやRowlingのそれほどではなかったが、自身の経験から学んだ人生哲学を気の利いたジョークを挟みながら説く、なかなか良いスピーチだった。その最後の部分を本記事の末尾に和訳を付けて抜粋する。Guest speechのあとには卒業生代表のスピーチが続く。KhanはMIT卒なのだが、彼は卒業式で代表としてスピーチし、「僕らが世界を変える」と宣言したらしい。彼は実際に学校教育の世界を現在進行形で変えている。有言実行。素晴らしい先輩を持ったものだと思う。 そして、学位の授与 いよいよ、diplomaの授与が始まる。全部で2千人から3千人いる卒業生ひとりひとりの名前を呼び上げ、diplomaを学長かchancellorから直接手渡しするのだ。時々、息子や娘の名前が呼ばれると、観客席からヒュー、キャーとサッカーファンの如く大歓声をあげる家族がいる。ブブゼラを鳴らす母親もいた。日本ならば眉をひそめられるだろうが、アメリカはこのようなことにとても寛容だ。中でもとりわけて黒人の家族はテンションが高いことが多い。想像だが、一家ではじめての大学出だったりするのかな、と思った。自分の息子や娘が誇らしくて仕方ないのだろう。僕が好きな卒業式の光景だ。 とはいえ、2,3千人にひとりひとり手渡しとなると、果てしなく長い。2時間はゆうにかかる。快晴で暑い日だったから、耐え切れずに木陰で休んだり建物の中で涼んだりする卒業生も多かった。全員に手渡しせず、学科ごとに集まって渡せばいいではないか、と不満を言う人も多い。 しかし、いざ自分の番が来ると、そんな些細な不満は吹き飛んだ。列に従ってステージに上ると、”Masahiro Ono”と僕の名前が呼ばれた。ステージの中央に立てば、何千人もの参加者が僕に視線を集め、その向こうには美しいボストンの街並みが見えた。MITの錚々たる教授陣や来賓たちを背にし、その後ろにはMITを象徴する建物であるGreat Domeがそびえている。会場を囲む建物には、アリストテレス、ニュートン、ダーウィンなど、人類の歴史を作った哲学者や科学者の名前が掘り込まれている。MITで苦労し、悩み、考え、見つけ、泣き、笑った記憶の全てが、一瞬にして脳裏によみがえった。僕はChancellorと固く握手をし、diplomaを受け取った。こんなに誇らしい気持ちになったことは今までになかった。 Diplomaをしっかり両手に抱えて、僕はステージを降りた。MIT時代は終わった。僕の胸は、あたらしい「はじまり」へと向かう気持ちで、熱く燃えていた。 ---------- Salman Khanのスピーチの抜粋 (全文はこちらに、ビデオはこちらに掲載されています。) …let me leave you with a thought experiment I use to help - [「宇宙を目指して海を渡る」補遺1 - MIT夜のキャンパスツアー](http://hiroono.com/ja/2013/01/11/oaeoiuoaeoaieeaa-mitieiyyayoynyyayc/) - またもや長いことブログを休んでしまった。二つばかり報告がある。 一つ目。昨年4月より慶應義塾大学にて助教として勤めているのだが、早々に転職が決まった。今年5月より、再び渡米して、NASA ジェット推進研究所(JPL)に移る。子供の頃からの夢だったこの場所で、宇宙開発の仕事をする。 二つ目。東洋経済オンラインに連載を持たせていただくことになった。「宇宙を目指して海を渡る」というタイトルで、MITへの留学、慶應での研究と教育、そしてJPLへの転職などについて書く予定である。隔週で全12回、来年6月まで続く。ぜひお付き合い願いたい。 連載では字数の関係で書きたいことを全て書けない。そこで、連載で書き残したことを、このブログで補おうと思う。 連載の第一回ではMITの「ハック」というイタズラについて紹介した。ご存知の方も多いかもしれない。屋根の上にパトカーやら月着陸船やらを載せてしまう、壮大かつユーモアあふれるイタズラだ。 では、ハックを行う学生、通称「ハッカー」たちは、どうやって厳重に施錠されている屋上に忍び込むのだろうか。詳細はここには書けないが、多くの人が想像するような、針金を鍵穴に突っ込むピッキングよりもはるかに原始的な方法を用いる。普通なら、施錠されているドアをそう簡単に開けられるはずがない。しかしアメリカ人は非常にいい加減だから、工事の際にドアを正しく取り付けないことがままある。そのようなドアは、鍵がかかっていてもいとも簡単に開けられる。それがハッカーたちの進入経路となるのだ。彼らはキャンパスのどこにそのようなドアがあり、どのような方法で開けられるかという知識を蓄積しており、代々受け継いでいる。 そのようなハックのノウハウは、「夜のキャンパスツアー」という秘密のイベントで先輩から新入生に伝授される。通称”Orange Tour”とか”Tangerine Tour”などと呼ばれる。もちろん学校の公式なイベントではないので、告知は一切なく、人づてにのみ情報が回ってくる。僕の友人に元ハッカーがいて、連載記事で紹介した月着陸船のハックに加担したそうなのだが、彼にこの「夜のキャンパスツアー」に個人的に連れて行ってもらった。この友人を、以下では「A君」と呼ぶことにする。そこで見聞きしたことを、書ける範囲で書こう。 A君曰く、屋根の上に物を置くなどの人目に触れるイタズラは、実はハックの一部に過ぎないらしい。日常的には、ハッカーたちはMITのキャンパス中にある「秘密の場所」を開拓し、探検して遊んでいる。その代表的な場所が、冷暖房などのパイプが通る屋根裏のスペースやトンネル、通風孔などだ。僕が「夜のキャンパスツアー」で連れていってもらったのも、そのような場所である。実際に歩いてみて驚いたのだが、このような隠れたスペースが建物には非常に多くある。しかもMITの建物はその殆どがお互いに繋がっているから、この隠れたスペースはラビリンスのように膨大かつ複雑なネットワークを形成している。ハッカーたちにとってまだ未発見、未到達の場所も多い。新人ハッカーたちは「夜のキャンパスツアー」で発見済みの様々な場所へ連れて行かれ、進入方法を学び、ハッカーとしてのスキルを磨く。新たな場所を自分で開拓できるようになれば一人前のハッカーだ。そして未到達の場所を制したハッカーは、月に降り立った宇宙飛行士が星条旗を立てたが如く、そこに自分の名前をサインする。もちろん本名ではなく、ハッカーの間でのみ通用するコードネームだ。 「伝説のハッカー」がいる。Sophoclesという古代ギリシャの詩人の名をコードネームとするハッカーで、何十年も前にMITに在籍した学生らしい。その正体は当然誰も知らない。SophoclesはMITのあらゆる場所を開拓し、通し番号つきのサインを残した。A君は僕に812番のサインを見せてくれた。それは、とある建物の最上階の屋根裏の通風孔の中にあった。つまり彼は千箇所近くの場所を開拓したのだ。そして、その場所を誰にも伝えずにMITを去った。だから、残されたハッカーたちにとって、Sophoclesのサインを再発見することがハックの目的のひとつとなった。通し番号が振られているが故に、欠けている番号があればそれが未発見であることが分かる。実際にまだ未発見の番号が多くあるらしい。ハッカーたちは現在もSophoclesのサインの捜索を続けている。進化のミッシング・リンクを求めて世界中を発掘して歩く古生物学者のようだ。まれに新たなサインが発見されると、ハッカーたちの間でメールが回り、ニュースになるらしい。A君曰く、もしかしたらSophoclesは意図的に欠番を作ったかもしれないとのことだが、それは本人以外、誰にも分からない。Sophoclesを名乗ったハッカーは、現在はきっと世界のどこかで研究者かエンジニアとして立派に活躍しているのだろう。卒業してから何十年もたった現在も、後輩たちが自分のサインを血眼になって探しているのを、ほくそ笑んでいるに違いない。 ハッカーたちしか知らない「夜景の名所」がある。MITのキャンパスはボストンからチャールズ川を挟んだ対岸にあるため、街を一望するには良い場所である。風がない日には川面が鏡のようにボストンの夜景をさかさまに映し、余計に美しい。そしてキャンパスの中でも夜景を眺める最高の場所は、もちろん屋上だ。とりわけ眺めのよい場所にある建物の屋上に、公園にあるようなベンチが置かれている。なぜそもそも立ち入り禁止の屋上にベンチがあるのだろうか。作業をする施設課の人が休憩するためのものだろうか。あるいはハッカーが勝手に持ち込んだのだろうか。もし後者だとしたら、それを撤去せずにいるのは、学校の粋な計らいなのかもしれない。「夜のキャンパスツアー」の最後に、そのベンチに座りながら、A君が微笑ましい思い出話をしてくれた。 「僕がはじめてのガールフレンドと最初にキスをしたのが、ここだったんだよ」と。 - [論文のアブストの書き方](http://hiroono.com/ja/2013/01/16/iaeiycyoyyeiney/) - 研究室の学生に対して論文のabstract (要旨/摘要)を書く際の考え方を指導したのですが、多くの人に有益と思うのでここに掲載します。 --- アブストを「要約」と思っていませんか。違います。「宣伝文句」です。世の中には皆さんの研究と似たものが山ほどあります。読者がその中からとりわけてあなたの論文を手に取り、読む気にさせる役割を担うのが、タイトルであり、アブストです。だから、アブストには、この100ページの文章を読まなくては決して得られない価値があることを納得させる文章なのです。 具体的には 1. 他との差別化 - この研究では何が特別なのか(つまり新規性) 2. 付加価値 - 提案する新規手法を使うと、どのような嬉しいことがあるのか これを簡潔に書く必要があります。 テレビやCMの宣伝はどう人に訴えているのかを参考にしてみるといいかもしれません。たとえばYoutubeから適当に拾ってきたこれ: 1. 「中まで浸透すること」をアピールして他の除菌剤との差別化をし、 2. それによって寝汗の菌を殺せるという価値を宣伝していますね。 ちなみに、このCMの前半では、「布団には寝汗がつく」という背景説明もしています。アブストでも必要に応じて簡潔な背景説明が必要になります。ただし、「簡潔」であることが重要です。 - [2013年慶應大学物理情報工学科卒業式 祝辞](http://hiroono.com/ja/2014/03/29/2013caoaeacoeiydheooeaee/) - 慶應を辞めて、もう1年になる。その最後の日が卒業式で、僕も「卒業」するからと、学科の卒業式で祝辞を述べさせてもらう栄誉に預かった。今年も卒業式シーズンになった。この機会に、その祝辞を公開しようと思う。改めて読み返して、これは学生に向けて話したというより、自分に言い聞かせていたのだとも思う。 今年卒業した学生のみなさん、本当におめでとう! --- みなさん、本当におめでとう。修論発表のときはみんな青ざめた顔をしていたけれども、今日は本当にいい顔をしています。素晴らしい論文を書いて卒業した人もいるし、一方で、中には先生方にお世話になりまくって、何とか卒業する野郎もいるでしょう。何であれ、慶應の修士を卒業するということは本当に素晴らしいことです。皆さんが自分で思っている以上に素晴らしいことです。どれだけ素晴らしいことか。日本で修士号を取得する人は年間約6万人です。君らの世代の人口のたった4%です。しかも、単なる修士号ではなく、誰もが知る名門、慶應義塾の修士号です。だから、皆さんの学業における達成は、日本の上位1%、ともすれば上位0.1%くらいかもしれない。これは本当に素晴らしいことです。心から祝福します。おめでとう! そんな素晴らしい栄誉とともに慶應を巣立ち、社会人となり、あるいは博士を目指して進学する皆さんに、今日、ひとつのことを伝えたいと思います。信じることです。努力や挑戦を続ければ、いつか未来に夢や目標が実現することを信じることです。そのために、少しだけ、僕の身の上話を聞いてください。 今日は、皆さんにとって慶應最後の日であるわけですが、実は僕にとっても慶應最後の日です。既にご存知の方も多いと思いますが、僕は昨年4月に日本に帰ってきて慶應に着任したばかりなのに、一年限りで辞め、再びアメリカに渡り、NASA JPL、ジェット推進研究所に転職します。そして子供のころからの夢だった宇宙開発の仕事をします。 よく、たった一年でまたアメリカに戻るならば、どうしてMITを卒業した後に直接JPLへ行かなかったのか、と聞かれます。いまさら隠しても仕方がないので言いましょう。僕は学生時代に一度JPLの面接を受け、落ちました。それだけの理由です。 ただ、僕は幸運でした。ある日本の名門大学から、みなさんが良く知る大学から、助教のオファーをもらえたのです。元々、大学での教職にも非常に興味があったし、ただの大学ではなく慶應大学だったから、願ってもないオファーでした。そういういきさつで僕はここへ来ました。 慶應での仕事は本当に楽しかったです。予想以上に楽しかったし、本当に充実していた。僕は何も、後ろに座っている先生方に気を使ってこう言っているわけではありません。これが僕の本心であることは、足立先生や、ここにいる足立研の学生さんたちがよく知っています。何と言っても、学生を育てるという仕事が本当にやりがいがありました。不満なことも、何一つありませんでした。 ただ本音を言うと、JPLに未練がなかったかといわれれば、そうでもありませんでした。悔しくなかったかと聞かれれば、めちゃくちゃ悔しかった。 僕にはもうひとつ、幸運がありました。慶應に着任する前に、2ヶ月だけ、JPLでインターンをする機会を与えられました。僕はその2ヶ月間でめちゃくちゃ頑張って、僕を採用しなかったことを心の底から後悔させてやろうと思いました。そしてその通りにしました。昼夜も土日もなく研究をしました。そして、3週間で国際学会で発表できる結果を出し、学会論文を投稿しました。さらに帰る前にもう一つ結果を出し、そちらは帰国後に論文にしました。 慶應に来た後も頑張りました。宇宙開発は日本でだって出来ます。たとえば、僕は国内学会に参加したとき、ちょうど招待講演で来ていたJAXAの先生を、休憩時間に捕まえて話して、自分の研究をアピールして、懇意になりました。そして、JAXAが2020年頃に打ち上げ予定のMELOSという火星探査機に積まれる、火星飛行機のチームに加わり、共同研究をすることになりました。 そうやって頑張っているうちに、思いがけない話が来ました。JPLが、僕に転職のオファーをくれたのです。去年の10月頃でした。 僕は迷いました。先にも言ったとおり、僕は慶應の仕事が本当に好きだった。こちらでの研究も軌道に乗ってきた頃だったので、何を今更、という感もありました。 いろんな人から、止めとけといわれました。慶應では僕は自分の部屋を持って、学生を従える身分です。一方、JPLでの身分は、大部屋に机を並べて仕事をする、いわば平社員、平研究員です。部下も、学生も、ひとりもいません。慶應にいれば最低三年は安泰だし、専任講師に上がれさえすれば、その後は終身雇用です。JPLは期限付きのポジションではありませんが、アメリカなので、景気が悪くなれば簡単に首を切られるリスクがあります。そしてなにより、日本で働いている妻を残して行かざるを得ませんでした。 でも、迷った末に、やはり行くことに決めました。それが子供の頃からの夢だったからです。後悔したくなかったからです。そして、自分がこの道で成功することを信じているからです。 みなさんの多くは、あと三日で新社会人です。もしあなたが、自分の夢を叶えるためのベストな仕事に、希望通りに就けたならば、それは素晴らしいことです。一直線に頑張ってください。 一方で、この中には、今度入る会社が第一希望ではなかった人もいるでしょう。本当にやりたいことは他にあったのに、妥協をし安全を取って大手に就職した人もいるでしょう。様々な事情があって職を得られなかった人もいるかもしれません。 僕はそんな人にこそ言いたい。信じることです。信じて努力を続けることです。努力を続ければ、いつか自分の夢や目標が達成されること、なりたい自分になれること、充実した人生を送れることを固く信じることです。それがどう達成できるか今は見えなくても、スティーブ・ジョブスが言ったように、将来後ろを振り返って点と点が線で結ばれることを固く信じて、努力を継続することです。どんなに辛い時でも成功を信じてください。失敗のどん底にある時こそ信じてください。すべてを失っても、信念だけは失わず、努力を続けてください。 努力を続けていれば、きっといつかチャンスが巡って来ます。転職のチャンス、起業のチャンス、あるいは社内で大きな仕事を任せられるチャンス。もちろん、挑戦にはリスクも伴うでしょう。でも、必ず上手くいくと固く信じて、清水の舞台から飛び降りてください。 もちろん、信じて努力を続け、信じてチャンスに飛びつけば、必ず成功するとは、僕は保障しません。でも一つだけ保障できます。信じなければ、成功できないことです。 ロベルト・バッジョという有名なイタリアのサッカー選手が居たのをご存知でしょうか。彼は1994年のワールドカップの決勝戦で、ペナルティー・キック、PKを失敗し、それが直接的な原因となってイタリアは敗れました。批判にさらされた彼はこう言いました。『PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ』。 繰り返します。成功を信じて努力を続けてください。成功を信じて挑戦を続けてください。人間が老人になるのは、夢よりも安定を選ぶようになったとき、成功を信じるよりも失敗を恐れるようになったときです。僕は死ぬまで若者でいるつもりです。みなさんも死ぬまで若者でいてください。 僕はまもなくアメリカに旅立つわけですが、まだ夢の入り口に立ったばかりです。僕の人生が成功だったといえるかどうか、宇宙開発の歴史に名を残せるかどうかは、これからの頑張り次第です。 実は僕は、将来成功して有名になったあとで、死ぬ前に言い残す言葉を一つ、既に考えています。本当は成功するまで隠しておこうと思ったのですが、今日、こんなに素晴らしい機会をもらったので、言ってしまおうと思います。 「成功はそれを信じる者に訪れる。失敗はそれを恐れる者にやってくる。」 ではどうすれば成功を信じられるか。こう思えば簡単です。先にも言った通り、皆さんは慶應の修士号を取ったということは、たとえこの中ではどんなに出来が悪い人でも、日本のトップ1%であるということです。みなさんが成功できなくて、日本の誰が成功できるでしょうか。大丈夫です。未来は明るい。道は皆さんに開けています。その道を自信をもって前へ歩けばいいのです。でも、長いキャリアの中では、失敗し、不安に駆られ、自信を失い、成功を信じられなくなる時があるでしょう。そんなときは、今日もらった卒業証書を見返し、それは日本のトップ1%である証であることを思い出してください。 「成功はそれを信じる者に訪れる。失敗はそれを恐れる者にやってくる。」 僕は海の向こうで、自分の成功を信じて努力と挑戦を続けます。皆さんもそれぞれが進む道において、成功を固く信じて、努力と挑戦を続けてください。 最後に、あらためて、おめでとう! 2013年3月29日 小野雅裕 - [著書『宇宙を目指して海を渡る』発売のお知らせ](http://hiroono.com/ja/2014/04/24/aonecaiaie/) - 僕の著書『宇宙を目指して海を渡る』が明日(4/25)に発売になります!紙版は早ければ今日の夕方から都心の大型書店に並び始め、徐々に地方や小店舗に伝播していくそうな。電子版も同時に出ます。 以下、序章の一部を抜粋することで、紹介文に代えさせていただきます。 -- 僕にとって、生きることとは宇宙を目指すことだ。この人生において宇宙開発の歴史に残る大きな仕事をしたい。だから僕は海を渡った。 夢を目指して頑張った、と言えば聞こえが良かろう。だが実際は、夢に取り憑かれていた、と言う方が正しいと思う。それは恋だった。病と呼んでもいい。夢は顔こそ美しいけれども本性は苛烈だ。井の中の蛙がMITで生き残り卒業するまでには大変な苦労を要した。その間に目標を見失い悩んだ時期もあった。現在勤めているNASAジェット推進研究所(JPL)からも一度は落とされた。それでも夢は僕に取り憑いて離れなかった。だから必死に頑張った。道中では多くの人に助けられ、多くの幸運に恵まれた。そしてどうにかここまで辿りついた。 「グローバル人材」がどうのこうのと最近の世の中はやかましい。正直、僕にとってはどうでもいいことだ。もちろん、MITで博士号を取ったことやJPLで宇宙開発をしていることは僕の誇りであり、卑下するつもりはない。だが、僕は「グローバル人材」などという安っぽいラベルが欲しかったから海を渡ったのではない。自分の夢を叶えるためのベストな道だと思ったからそうしたまでだ。東大とハーバードのどちらが偉いなどという議論に何の意味もない。日本で働くかアメリカで働くかということは、東京で働くか大阪で働くかということと本質的には何の差もない。ただ一つ僕にとって重要なのは、自分がこの人生で何を成したいかを知っていて、それに向かって日々頑張り続けていることだ。空の向こうに目指す星が明々と輝いていることだ。 自ずと、本書の多くのページは、僕のMITでの経験談や、アメリカの大学の仕組みの説明などに費やされることになるだろう。(中略)だが、誤解を招かぬようまず断っておきたい。本書の目的は、アメリカのあれやこれやを日本と比較してどちらが優れているなどと議論することではない。猫も杓子も海外に行くべきだと言いたいのでもない。ましてや昨今の「グローバル人材」ブームに加担したいわけでも、また逆に「人材流出」の危機感を煽りたいわけでもない。そんなことを論じるほど僕は偉くないし、そもそもそのような議論に興味がない。日本で成すべき志があるならば胸を張って日本で頑張ればいいし、夢を叶えるための最適な場所が海外にあるならば迷わずこの島国を出て行けばいい。ただそれだけだ。若者たちが安易な流行に踊らされず、一度きりの人生を最も充実させる道を選択するための判断材料にしてほしい。それだけが本書の目的だ。 (中略) JPLは子供の頃からの憧れの場所だった。三十年かけてやっと、その入り口の扉をこじ開けた。 そんな三十年分の身の上話が、本書を構成する縦糸である。宇宙を目指して海を渡る物語だ。(中略)そして横糸となるのが、MITやJPLでの経験を通して得た知見や哲学である。この縦糸と横糸を織り上げて一枚の布にするために、本書は少々変わった構成を採用する。即ち、プロローグ以下の十六の章のうち、奇数章に縦糸を成す個人的ストーリーを、偶数章に横糸を成す一般化された知見や哲学を配する構成である。それぞれの偶数章は隣接する奇数章からの帰納である。もちろん、順番に通して読んでいただくことを意図して執筆しているが、純粋な物語として読まれたい方は奇数章のみを、純粋な実用書として読まれたい方は偶数章のみを読んでいただいても構わない。 この物語は「半生記」などというほど大仰なものではない。僕はまだ、歴史に名を残すような大きな仕事など何もしていない。たった六、七年の海外経験で偉ぶるつもりなど全くない。 だが、人類にとっては目に見えないほどに小さな一歩でも、ひとりの人間にとってはとてつもなく大きな一歩というものがある。僕にとってはMITへの留学やJPLへの転職がそれだった。おそらく殆どの人にとって、人生とはそういう一歩一歩の積み重ねだろうと思う。ならば、僕の足跡を、それが風化する前にありのままに書いて伝えることによって、これから一歩を踏み出そうとする多くの人たちに少しばかりの貢献が出来るかもしれない。そう思って、この物語を始めることにする。 - [彗星ヒッチハイカー/NASA Innovative Advanced Concept](http://hiroono.com/ja/2014/06/21/aayoyayayiyynasa-innovative-advanced-concept/) - 喜びの報告です。2014年度のNIAC Fellowに選ばれました!! NIAC (NASA Innovative Advanced Concepts)とは、「SFを現実にする」ためのNASAのプログラムです。毎年数百件応募されるアイデアの中から10件程度を選び、それぞれに10万ドル(約1000万円)の研究費を与えて、実現可能性を調査してもらいます。 短いスパンで実現可能なアイデアは選ばれません。選ばれるのは、一見するとクレイジーで誰もが疑うような、でもよく考えると不可能とは言い切れないような、ハイリスクで、SFと現実のすれすれ境界のアイデアです。「物理法則を破らないこと」だけがルールです。 過去にも多くのクレイジーなアイデアがNIACによって研究されてきました。たとえば、火星有人探査のための人工冬眠の技術。核融合ロケット。「トランスフォーマー」という名の、薄い膜でできた、形を変えられるロボットなど。(過去のNIACのプロジェクトの一覧がここにあります。) 今回選ばれた僕のアイデアは「彗星ヒッチハイカー」です。NASAのページに掲載されたアブストラクトの日本語訳を、許可を得て、以下に掲載します。 --- 彗星ヒッチハイカー:小天体から運動エネルギーを獲得し、高速かつ低コストの深宇宙ミッションを可能にする* Masahiro Ono NASA JPL (*This is the Japanese translation of NASA's announcement about a NIAC Phase I study on Comet Hitchhiker.) 彗星ヒッチハイカーとは、文字通り彗星をヒッチハイクして太陽系を航行するコンセプトである。このコンセプトは、燃料の代わりにテザー(紐)を積んだ宇宙機を用い、ターゲットとする天体から運動エネルギーを獲得することで実現される。まず、宇宙機はターゲット天体の近くを通過する際に銛を打ち込み、テザーの一端をターゲット天体に固定する。その後、ターゲット天体が遠ざかっていくにつれて、宇宙機はテザーを繰り出しつつ、回生ブレーキをかけて緩やか(5G以下)な加速を行うとともに、電力を得る。 このアイデアは魚釣りの例えを用いると直感的に理解できる。小舟に乗った漁師が、高速で逃げる大きな魚を捕まえるシチュエーションを想像してほしい。熟練した漁師は、魚が釣り針にかかった後、釣り糸を固定するのではなく、緩やかな張力を保ちながら繰り出してゆく。もし十分な長さの釣り糸があれば、いづれボートは緩やかな加速を経て魚に追いつくことができる。 このコンセプトは3つのことを可能にする。第一は、燃料を用いない小天体への着陸や軌道投入である。カーボンナノチューブのテザーを用いれば、彗星ヒッチハイカーは最大で10 km/sの速度増分を得ることができると我々は試算している。このレベルの速度増分が得られれば、長周期彗星やカイパーベルト天体(KBO)への着陸・軌道投入が可能となる。(ちなみに長周期彗星やKBOは、まだどの探査機も訪れていない。)既存の技術では、そのそばを通り過ぎることしかできない。 第二は、重力を用いない小天体でのスイングバイである。彗星ヒッチハイカーは、獲得したエネルギーの25%を使ってテザーを巻き戻したりイオンエンジンを駆動したりすることで、約5km/sの追加の速度増分を得ることができる。望んだ速度増分が得られた後に、テザーはターゲット天体から切り離される。我々のコンセプトは、たくさんある小天体の高い相対速度と多様な軌道をフル活用し、太陽系の様々な目的地に短時間で到達することを可能にする。たとえば、近日点距離が0.5天文単位(AU)の彗星をヒッチハイクすることで、彗星ヒッチハイカーは現在の冥王星の距離(32.6 AU)まで5.6年、ハウメアの距離(50.8 AU)まで8.8年で到達できる。 第三は、深宇宙での発電である。回生ブレーキの効率が25%と仮定すると、2トンの彗星ヒッチハイカーは約25GJの電力を得ることができる。これは1 kWの電力消費の機器を290日にわたって駆動することが可能な量のエネルギーである。もし将来、ガソリンと同程度のエネルギー密度を達成できれば、25GJを500 kgの重さの電池に貯蔵できるため、彗星ヒッチハイキングは太陽系の外延部における有望なエネルギー源となりうる。 彗星ヒッチハイカーが可能にする科学ミッションは、学術的に面白いだけでなく、NASAの戦略的目標である「太陽系の構成、起源、そして歴史を解き明かす」ために必要不可欠なものである。そのようなミッションの例を3つ挙げると、1) 太陽系が生まれたときの化学的組成が残る原始天体の探査、2) KBOの詳細な調査、そして3) 惑星間塵の分布のマッピングである。この三つのミッションは、現在の技術では非現実的か非常にコストのかかるレベルの速度増分を深宇宙において必要とする。 我々のコンセプトは、関連するテザー・ベースのフライバイのコンセプトと比べて重要な優位性がある。テザー・ベースのフライバイとは、固定された長さのテザーを用いて、重力アシストのようにターゲット天体との相対速度の方向を変えるというアイデアである。この方法では相対速度を減らすことができないため、着陸や軌道投入には使えない。彗星ヒッチハイカーは、テザーを繰り出しつつ回生ブレーキをかけて加速をし、同時にエネルギーを獲得するという点において、決定的に異なる。このアプローチは宇宙機の速度をターゲット天体と一致させることを可能とし、結果として、未だ探査されたことのない長周期彗星やKBOへの軟着陸や軌道投入を可能とする。 彗星ヒッチハイカーによって、宇宙探査のフロンティアを太陽系のもっともエキゾティックな星々へと進めることができると、我々は強く信じている。 --- 余談1。昨年末に夜空を見上げてISON彗星を探していて、結局見つけられず、あーあ、と思ったときになぜか閃いたのが、この「彗星ヒッチハイカー」のアイデアでした。 余談2。選考通過の知らせは、NASA本部のプログラムマネージャーから直接電話で知らされました。電話を取って、状況を理解するのに5秒くらいかかったのだけれども、"Congratulations!"と言われたときには、受話器を持つ手が震えました。 余談3。今回共同研究者に加わってくれたのが、UCLAの天文学者で、KBOの発見者でもある、Prof. David Jewittです。 - [ギリシャ旅行を想い出す/アテネとテッサロニキ](http://hiroono.com/ja/2009/10/15/315/) - ギリシャから帰って、早くも三週間が経ってしまった。ボストンは既に晩秋だ。川沿いの木々はすっかり色付き、せっかちな木は葉を落とし始めている。今朝は曇りだった。灰色の空の下、マフラーと手袋をして外へ出れば、冷たく乾いた風が吹き付け、耳が痛かった。日が落ちて、雨が降った。初雪の予報は外れたが、雪になり損ねた雨は金属のように冷たく、重かった。落ち葉が雨に濡れ、人に踏まれ、崩れた茶色の断片となって歩道に散らかっていた。 忙しい三週間だった。一昨日に論文の締め切りがあり、加えて宿題、研究、その他諸々の雑務。起きてパソコンをつけ、研究室へ行ってパソコンに向かい、寝る前にパソコンを切る生活。葉の色の染まりゆくのを眺める余裕も無かった。 太陽が燦燦と降り注ぐギリシャの海、白壁の家の間を縫うように走る石畳の小道、あそこを旅したのはたった三週間前なのに、その眩しい風景は、ボストンの寒さと日常の忙しさによって遥か彼方に隔てられてしまった。まるで灰色の雲の裏に隠れた太陽のようだ。記憶の上にモヤがかかり、体験は明瞭な輪郭を失う。自分が写っている写真を見ても現実感が沸かない。こうなる前に旅行記を書いておくべきだったと悔やむ。太陽が完全に隠れてしまわないうちに、書いてしまわねばと思う。 古代ギリシャ人は日本人と同じように、神殿を山の上に作る習慣があったようだ。ギリシャを代表する建築であるパルテノン神殿も、アテネ市街を見下ろし、遠くエーゲ海まで望める切り立った丘の上に建てられている。今回の旅は授業をサボっての学会旅行だったので、アテネには一泊しか滞在できなかったのだが、ここだけは見ない訳にはいかない。 アテネに着いた翌日の朝、石畳の階段を登り、パルテノン神殿が建つアクロポリスの丘の頂へ向かった。神域の入り口を示すプロピュライアの門を抜けると、神殿の整然と並ぶ柱の列が、期待を全く裏切らない荘厳さで僕の目の前に立ち現れた。柱の黄ばんだ色や崩れた屋根は、この建築が2500年間もここに立ち続けてきたことの証拠であり、神殿の雄雄しい威容を増幅させていた。天気も良く、夏の終わりとはいえ眩しいギリシャの太陽光がコントラストの強い影を作り、神殿の大きさ、高さを強調して見せた。 しかし、残念なこともいくつかあった。一つ目は、神殿が修理中だったこと。17世紀の戦争でベネチア軍が無遠慮に大砲を打ち込んでくれたおかげで、神殿の屋根や内陣は瓦礫の山と化してしまっている。それを古代の姿に戻すべく、大規模な修復工事をしているのだ。僕は、継ぎはぎの修復で過去を覆い隠すよりも、敢えて破壊されたままの姿で保存して、瓦礫の山に2500年の歴史を語らせるほうが良いと思うのだが。二つ目の残念はスモッグだ。天気は良かったのだが、300万の人口を擁するアテネの街が吐き出すスモッグのせいで、遠景は霞み、エーゲ海も見ることが出来なかった。そして三つ目の残念は、観光客の多さ。僕も観光客の一人なのだから何も文句を言えないが、団体客の馬鹿騒ぎを耳にしながらでは、感慨も薄れてしまう。 神殿を後にした僕は、アクロポリスの丘を下り、その麓にあるアクロポリス博物館へ向かった。素晴らしい博物館だった。その展示物の充実振りもさることながら、3ヶ月前にオープンしたばかりの新しい建物は展示方法が非常に工夫されていて、順路を辿ればパルテノン神殿の中を歩きながら展示物を見ているような体験を得る。しかしとても残念なのは、神殿の周囲を飾っていた「エルギン・マーブル」と呼ばれる彫刻や浮き彫りの殆どが、イギリスに持ち去られ大英博物館に展示されているという事実だ。だから、この博物館に展示されているエギマン・マーブルは、殆どがレプリカである。こんなに素晴らしい博物館が本物の神殿を見上げる最高のロケーションに建ったのだから、是非ともエギマン・マーブルが返還されて欲しいと思うのだが、政治とはそう簡単なものでもないらしい。逆に考えれば、博物館を新築した理由のひとつに、イギリスにエギマン・マーブルを返還させる圧力を強めるという政治的な意図もあるのだろう。 博物館を凡そ見終わったころ、突然雷が鳴り、滝のような雨が降り始めた。さっきまでの晴天が嘘のようだ。ギリシャで雨に降られるとは思ってもいなかったから、傘など持っていない。幸い、展示品の充実ぶりゆえに博物館での雨宿りは全く退屈ではなかった。一時間ほど経つと、今度は今までの土砂降りが嘘のように止み、急に太陽が戻った。 「今だ!」と思った。僕は博物館を飛び出して、来た道を引き返し、再びアクロポリスの丘へと駆け登った。期待していた通りの景色がそこにあった。雨が観光客を追い払ってくれたおかげで、丘の上はさっきとは別世界のように静かだった。雨に濡れた石肌を太陽の光に輝かせて、パルテノン神殿は燦然と2500年の歴史を誇示していた。丘の外へ目を転じれば、雨がスモッグをすっかり取り払ってくれたおかげで、さっきは見えなかったエーゲ海がくっきりと見え、そこに浮かぶ何艘もの大きな船を数えることができた。古代ギリシャ人が、大変な苦労をしてこの場所に神殿を作りたかった理由が、とてもよく分かった。 アテネを後にした僕は、夜行列車に乗って、学会が行われるギリシャ第二の街・テッサロニキへ向かった。テッサロニキは、交通の要衝に立地し良港にも恵まれたおかげで、中世には永らく衰退していたアテネとは違い、ヘレニズム時代に創建されてから2300年間、一度も廃れることなく繁栄し続けた街である。だから、古代の遺跡が現代の人々の生活から厳密に隔離されている感のあるアテネとは異なり、この街の遺跡は、人々が日常を送る景観に溶け込んでいる。例えば、街の山側にビザンチン時代の城壁が残っているのだが、その城壁を壁の一面にしてしまっている民家がたくさんあって、ちゃんと人も住んでいる。 この街にはカフェやレストランがやたらと多い。海沿いはもちろんのこと、街の中心の通りにはどこも椅子やテーブルが並んでいる。ギリシャ人は屋外での食事が好きなので、店は歩道に席を設けるのだ。そして、どこのカフェやレストランも、平日の昼間や深夜でも地元の人たちで満席でだ。彼らはコーヒーやビールを飲みながら、実に楽しそうに友達と話し、或いはボードゲームに熱中し、時間を過ごしている。そんなカフェの端に僕も席を取り、楽しげな雰囲気をお裾分けしてもらいながら、しかし、疑問がひとつ沸いてくる。彼らはいつ働いているのだろうか。そもそも仕事をしているのだろうか。そして、昼間からカフェにたむろしている若者がこんなに沢山いるにも関わらず、どうしてギリシャの国もテッサロニキの街も繁栄を謳歌していられるのだろうか。事実、ギリシャの一人当たりGDPは日本とほぼ同じである。治安も良い。しかし、そんな僕の疑問をよそに、カフェで談笑するギリシャ人の顔には何の心配も切迫感もない。みんな実に大らかで、気持ちの良い笑い方をするのだ。 学会の手伝いをしてくれていたギリシャ人の学生たちと仲良くなった。彼らもいかにもギリシャ人という感じの、大らかで陽気で親切な人たちばかりだった。その一人に「どうしてギリシャでは若者が昼間からビールを飲んでいるのに、国が栄えているのか」と聞いてみた。すると彼は大声で笑いながら、”I don't know, it’s a magic” (さあね、きっと魔法だよ)と答えた。そして、アメリカ人や日本人は働きすぎなのさ、と笑い飛ばした。 学会の晩餐会で同じテーブルになったギリシャ人の子二人は、昨年に大学を卒業し、今は働いておらず、特に就職活動もしていないと言う。僕の隣りにいたフランス人はそれが納得できず、「将来の夢は何なのか」「どんな仕事をしたいのか」と彼女らを質問攻めにした。すると彼女らは困惑気味に、「今は人生を楽しんでいるのよ…」と答えた。 ギリシャ人たちは「食」が大好きで、それを人生の無上の楽しみとしている。だから、ギリシャ料理はシンプルなものが多いが、オリーブ油にトマトに肉、素材の味がそのままで、この上なく美味しい。一人のギリシャ人学生がこんなことを言っていた。”Americans eat to live. But we live to eat.” (アメリカ人は生きるために食べているだろう。でも俺らは、食べるために生きているのさ。) 「ハララ」。こんなギリシャ語を教えてくれた。「ゆっくりしろよ」「急ぎすぎるなよ」、そんな意味だそうだ。忙しそうにしている友達がいれば、「ハララ」と声を掛けて、「人生」に引き戻してやるそうだ。 学会最終日の夜、ギリシャ人の学生たちが、ギリシャ流の夜の過ごし方を教えてやると言って、彼らの行きつけのレストランへ、僕たちみんなを連れていってくれた。路地に並べられた簡素なテーブルに着くと、ワイン、ビール、サラダに、肉、デザートと、テーブルに載りきらないほどの料理が運ばれてきた。隣のレストランからはギターの演奏が聞こえ、別のレストランでは客がサッカーの中継に熱中していた。そんな音を背景に僕らはギリシャ最後の夜を楽しんだ。学会が終わった開放感も手伝い、会話は弾み、店を梯子して、気付けば夜の二時だった。 彼らは心底気持ちのいい、そしてこの上なく親切な人たちだった。メールアドレスを交換し、またギリシャにおいで、また来るよ、と言って、握手をして別れた。 翌朝、僕は遊び疲れた体を叩き起こして空港へ向かい、ボストンへと飛んだ。 そうしてまた、寒いボストンでの、忙しい学生生活が始まった。忙しくて疲れて溜息を付いたって、頑張れと励ましてくれる人は沢山いるけれども、「ハララ」と声を掛けてくれる人はいない。 もっとも、ギリシャののんびりした生活は、恐らく観光資源に恵まれているからこそ可能なのであって*1、資源も外交力も軍事力も無い日本の若者が皆、昼間からカフェでビールを飲んでいては、決して国が持たないだろう。今の日本の繁栄は、僕たちの両親や祖父母の世代が、アメリカ人やヨーロッパ人の二倍も三倍も働くことで築き上げたものだ。まして少子高齢化の時代、若者がニートだの何だのと悠長にしていられる余裕は、日本にはない。 それでも、忙しくて疲れて破裂しそうになった時、締め切りに追われ夜も眠れず、紅葉を眺める余裕すらない時、頑張れ頑張れと根を詰めてばかりいるのではなく、時々は自分に「ハララ」と声を掛けて、カフェにでも行ってコーヒーを啜って、忘れてしまいがちな「人生」を、思い出してみてみたいと思う。 *1 ギリシャのGDPの約15%を観光が占める。 - [ギリシャ、テッサロニキ](http://hiroono.com/ja/2009/09/24/yyeyyacyaeyayuyiyey/) - ひねもすのたり、のたりかな うみにおふねをうかばして、いってみたいなよそのくに うみはひろいなおおきいな、つきがのぼるし、ひがしずむ - [物乞い](http://hiroono.com/ja/2008/12/18/edh-yayeyaie/) - カンクンからバスで西へ向かい、チチェン・イツァー遺跡を見学した後、ユカタン州の州都・メリダに着いた。メリダはスペイン植民地時代の街並みが残る美しい歴史都市であるだけでなく、ユカタン半島の交易の中心となる商業都市で、街全体が市場であるような、活気溢れる街だ。 海外の大きな街を旅行すれば、必ずといっていいほど物乞いに出くわす。例外的にカンクンの高級リゾートでは、警察が取り締まっていたのか、物乞いは一切いなかったが、このメリダのような「普通の」街ならば、市場で、食堂で、バスターミナルで、ぼろぼろの身なりをした物乞いたちが、魂の抜けたような目をしながらふらふらと近寄ってきて、泥だらけの掌を差し出して小銭をねだってくることが度々ある。 同じ物乞いでも、一芸がある人はまだ恵まれている。ハーモニカを吹きながら人ごみを歩けば、たとえそれが聞くに堪えない下手な演奏でも、人目を引くくらいの役には立つ。 体が不自由な人は、それを使って物乞いをする。指のない手やひん曲がった足を通行人の前に突き出して、同情を買おうとする。 子連れの物乞いも多い。小さな子供が悲しそうな顔をして小銭をねだってくれば、誰でもつい心が動いてしまうものだ。 では、芸もなく、小さな子供もおらず、しかし手には五指が揃い足も曲がっておらず、かといってもはや人ごみを歩き回る体力はない老婆はどうするか。彼女らは、ミサが終わる頃の時間に、教会の出口に座り込む。教会から出てくる人たちはジレンマに襲われる。たった今神父から説かれた「隣人愛」とやらの大事さは理解している。しかし自分だって、毎日朝から晩まで働いて、やっと家族を養っているのだ。ミサの度に物乞いに喜捨をするほどの余裕はない…。だから多くの人は目を合わさずに黙って通りすぎる。何人かの人は「これで許してくれ」と言わんばかりに、ポケットから一番小さなコインを取り出して、物乞いが差し出す紙コップに投げ込み、逃げるように去ってゆく。 --- 6年前に旅した中国で、忘れられない、そして後味の悪い経験を二度した。 一度目は北京の王府井。街で一番の繁華街だ。夜10時頃だったか、おいしい中華料理をたらふく食べた後、地下鉄の駅に向かって歩行者天国の道を歩いていた時のことだった。突然、ワッーという喚き声をあげて、小さな男の子が路肩から飛び出し、友達の片足にしがみ付いたのだ。僕らは一体何が起きたのかさっぱり分からない。いくら振り払っても男の子はしがみついたまま離れず、大きな声で喚き続けるので通行人にもチラチラと見られる。ようやく子供がお金を乞うているのだという状況を理解し、彼の手にコインを一枚握らせるが、もっとくれといって、まだ足から離れようとしない。困った友達は、コインをもう一枚ポケットから出し、少し遠くへ投げて、子供がそれを拾いに行く間に、僕らは走って逃げたのだった。 二度目は、山西省の大同という地方都市から、郊外にある遺跡へミニバンで向かっていた時のことだった。トイレ休憩にと、運転手が路肩に車を止めた。地元の人たちは観光客がその場所で休憩することを知っていて、停車するや否やミニバンの周りに子供が十五人ほども集まってきて、カラフルな色の帯が付いた小さな鈴をチリンチリンと鳴らし、皆必死の形相で「この鈴を買ってくれ」と叫ぶ。子供たちのあまりにも悲しそうな目に僕は耐えられなくなり、一番近くにいた子の手から鈴を取り上げて、一元札(約15円)を渡した。するとどうだろう、その子をめがけて周りの子供たちが飛び掛り、一元札の奪い合いの喧嘩を始めたのだった。 あの一元札は、誰にも少しの幸福ももたらさなかったどころか、子供たちに更に辛い思いをさせる結果となった。こんなことなら、黙って無視したほうがよほど良かった。罪悪感から逃げるために起こした僕の安易な行動は、さらに僕を罪悪感の底へ突き落とした。トイレ休憩を終え、再び走り出したミニバンの振動で、バックパックの中にしまった鈴が、チリンチリンと虚しい音を立てた。 --- 言わずもがな、世の中は不平等にできている。財力、身体、才能、全てにおいて、生まれながらにして、人間は不平等である。そして僕は、平和で豊かな国に、五体満足の身体で、両親の愛情を全身に受けて生まれてきた、この世で一番恵まれた人間だ。狭い日本の中で僕の世界が完結していた頃は、そんな自分の幸運を全く認識せずに生きてきた。しかし旅をするようになって、自分と目の前にいる人たちとの間にある絶対的な不平等を痛感せずにはいられない場面にたくさん出くわして、自分が持つ特権的な身分を、否が応でも認識するようになった。そしてそれは自然に、罪悪感に結びついた。 僕はその理不尽さに憤る。どうして俺がこんな罪悪感に苛まれなくてはいけないんだ?俺はただ、気付いたら「小野雅裕」として生まれていただけだ。その何が悪い?そうだ、俺は幸いなる者だ、でも俺は俺の生まれに対して何の責任も無い。恨みたい気持ちは分かる、でも恨む相手は俺じゃない、神様が振ったサイコロだ…。しかし、そんな問答は、罪悪感の解消に何の役にも立たない。 だから、罪悪感からの逃げ口を探して、今日も僕は、メリダの街角に立つ多くの物乞いたちの中から数人を選んで、1ペソ玉を渡した。しかし、ほんの少しだけ和らいだ罪悪感のあとに現れたのは、果てしない無力感だった。あの1ペソは、物乞いの空腹と僕の罪悪感を、ほんの一瞬だけ和らげるのに役に立ったかもしれない。しかし明日にはまた、あの物乞いは、今日と何も変わらず、空腹に苦しみながら、恥も尊厳も捨て去って、市場を行き交う人に小銭を乞うだろう。そしてその脇を通り過ぎる僕の心もまた、今日と何も変わらない罪悪感に占められているのだ。 砂漠に水を一滴だけ垂らしたら、足元の砂の上に小さな染みができた。しかしそれは強烈な太陽に干されて、ものの数分で跡形もなく消え去った。僕が垂らした一滴は、砂漠には何の痕跡も残さず、唯一残った事実は、僕の水筒の残りがほんの少し減ったということだけだった。もし僕に井戸を掘る力があったならば!水路を割って川から水を引いてくる力があったならば! そんな無力感から自分を救うために始めたのが、STeLAなのだと思う。そして、その成果かどうかは分からないが、最近では少し、ポジティブな考えを持てるようになった。まずもって僕は一人じゃない。一人きりで井戸を掘り、一人きりで水路を割る必要はない。世界には同じ思いを抱く人がたくさんいる。だから彼らと力を合わせて砂漠の砂を掘ればよいのだ。その大事業の中で、僕が自分の専門を生かして役に立てる部分を見つければいいのだ。 そして、僕はまだ若い。今は砂漠に水滴を垂らす力しかなくても、これからの勉強、研究、仕事を通して、力をつけてゆけばよいのだ。旅から帰っても、いま強烈に感じているこの想いを忘れずに、日々を頑張ってゆきたい。 - [セントロの女の子たち](http://hiroono.com/ja/2008/12/16/yyoyeyiiioa/) - 学会が終わり、研究室のお金で泊まっていたカンクンのリゾートホテルを追い出され、セントロ(ダウンタウン)の安宿に移った。高級リゾートホテルが並ぶゾーンは、英語が通じるし、物価も高いし、マクドナルド、フーターズ、すっかりアメリカナイズされていたが、バスで20分ほどしか離れていないここセントロはメキシコ人の街だ。メキシコ本来の、気取らない、陽気な生活が、ここにはある。 しかし、アメリカナイズされてはいないといっても、セントロにも僕のような外国人観光客はたくさんいて、メキシコ人たちは彼ら相手に商売を営む。僕らのバカンスが、彼らの生活を支える仕事になるのだ。そして街のあちこちで、若い子たちが一生懸命に、そして元気に働いているのに出会った。 どこで夕食を食べようかと友達とあちこちのレストランを物色していたところ、何の変哲もない食堂の間口で、背の低いかわいらしい女の子が客引きをしているのに呼び止められた。拙い英語で「フィッシュ・タコスがおいしいですよ」などと言うのが可愛く、また少し上目遣いの笑い方も可愛らしい。彼女のスマイルに負けてその店に入ることに決定。「看板娘がいる店は強いよねー」などと鼻の下を伸ばして話す男二人を、一緒にいた女友達は呆れ顔で見ていた。 彼女の名はマリアといい、20歳だそうだが、小さい背丈と垢抜けない身なりのせいで高校生くらいに見える。レストランは家族経営で、彼女はウエイトレスと客引きの一人二役で大忙しだ。しかしどんなに忙しくても、客に呼ばれればあの上目遣いのスマイルを忘れない。客と話す時は照れながら小声で話すのに、キッチンにいる母親を呼ぶ時はびっくりするほどの大声で「ママ!」と叫ぶのが面白い。 彼女が注文を取りに来たとき、どこから来たの、と僕らに聞き、日本で育って今はアメリカで勉強している、と答えた。色んな国に行けていいな、私は20年間ずっとメキシコよ、と言い、また上目遣いに笑った。そのときだけ、笑顔の奥に少し陰が見えた。 友達がトイレに立つ時、「『トイレはどこですか』はスペイン語で何て言うの?」と彼女に聞いた。すると彼女は、紙ナプキンに"¿Donde está el baño?"と書いて、テーブルに持ってきてくれた。グラシアス、と言うと、「どういたしまして」と、また上目遣いに笑ってくれた。その笑顔には少しの陰もなかった。 --- セントロで泊まった安宿は、「カーサ吉田」という、日本人バックパッカーが集まる宿だ。どうしてメキシコまで行って日本人宿なんだ、と思われるかもしれないが、この方が抜群に安全度が高いし(わざわざ日本人旅行客がスリなどしない)、情報交換もしやすい。 宿に着き、チャイムを押す。従業員も日本人だと思い込んでいたが、出てきたのはメキシコ人の顔をした、中学生くらいの、小太りの女の子だった。慌ててスペイン語に切り替えて「空き部屋はある?」と聞くと、彼女は流暢な日本語で「はい、ありますよ」と答えた。 聞いたところ、彼女はハーフで、お父さんが日本人らしい。小さいのにしっかりしていて、宿の門限やその他のルール、トイレ、キッチンの場所などを、はきはきとした日本語で説明してくれた。家族経営のこの宿では、掃除が彼女の役目のようで、デッキブラシを持ってテラスを掃き、椅子の上に立って天井の埃を払っていた。 宿は一階が客室、二階が家族の部屋になっていて、彼女は仕事が暇になると、二階へ上がっていく。時折二階から大音量で音楽を流れてきて、彼女がそれに合わせて歌うのが聞こえる。「呼んでいる胸のどこか奥で…」彼女は「千と千尋」が好きなようだ。一階ではしっかり者の彼女も、二階の自分の部屋に篭るとき、普通の中学生の女の子に戻る。 --- キューバ行きの航空券を買うために、目抜き通りを歩いてキューバ航空のオフィスに向かっていた途中、旅行会社の客引きをする女の子が "Flight to Cuba?"と呼ぶのが聞こえ、丁度良いと足を止めた。モスグリーンのキャミソールにショートパンツ、いかにもメキシコ人らしい開放感のある、年頃の子だった。「どうして僕がキューバ行きの航空券を探していると分かったの?」と聞くと、「日本人はなぜかみんなキューバに行きたがるのよ」と、少々訛りのある英語で答えた。「どうしてなんだろう?」と聞くと、「さあ、あなただって行きたいんでしょ?」と言って、カラカラと笑った。気取らず、飾らない、爽やかな笑い方だった。「キューバは綺麗な場所だよ、私は行ったことがないけれども…。」 値段交渉は少々面倒で、彼女が僕の条件を電話でエージェントに伝え、そのエージェントが航空会社と交渉した後、電話を返してくる、といった手順だった。19日は空きがない、18日ではどうか、いや早すぎる、20日はどうか、それだと高くなる、ディスカウントは無いか…。そんな交渉を何往復もする度にエージェントからの返事を待たなくてはいけなかったので、その暇にいろいろと彼女と話しをした。 彼女の名はアレハンドラ(アレクサンドラのスペイン語名)と言い、メキシコシティー郊外の小さな町から来たそうだ。メキシコシティーは人が多すぎて嫌いだ、と言った。三年前にカンクンに来て、昼は歌とダンスの学校に通い、夜はこの旅行会社で働いてお金を稼いでいるそうだ。僕がボストンに住んでいると言うと、ニューヨークに近いことを羨んだ。ぜひブロードウェーで「オペラ座の怪人」を観てみたいそうだ。「ニューヨーク、行きたいのだけれども、高いから…」 ようやく交渉がまとまったのは店仕舞いの時間で、その後に彼女と近くの店にビールを飲みに行った。若いと思っていたが、歳を聞くと、僕と同い年だった。ダンス学校の卒業はいつなのかと聞くと、実は3ヶ月前から母が病気で、看病のために学校を休んでいるのだと言った。 そして、彼女の両親の素敵な馴れ初めを聞かせてくれた。父が歌手で、地元のラジオで歌っていたのを母が聴いて惚れ込み、友達のつてを辿って彼のマネージャーに取り次いでもらって、知り合ったそうだ。父が歌うのを聴いて育ったから、自分も歌手になりたいのだ、と言った。 旅行会社という商売柄か、日本語に興味があって、「日本語のアルファベットを教えてくれ」と言う。テーブルの紙ナプキンにカタカナの五十音表を書いてやると、それを使って僕のガイドブックの「レ・ス・ト・ラ・ン」という文字を読み、「分かった、これってrestaurantの意味だよね?」と、無邪気に喜んだ。「この難しい文字たちは何?」と聞かれ、「それはカンジだ」と言うと、それも教えてくれという。「千文字もあるから書ききれない…」と言い、日、月、山、川、火、人の六文字だけをナプキンに書いてやった。その中の「月」という字を指でなぞり、「私は月が好きなの」と言って、耳にぶら下げている月の形のピアスを嬉しそうに見せた。 時計を見ると宿の門限を過ぎていた。店を出て、「お母さんをお大事に」「キューバ楽しんできて」と別れた。素直で爽やかな、いい子だった。 彼女は望み通り歌手になれるのだろうか。歌手を志す人にとって26歳という年齢は決して若くはなかろうし、お金にも恵まれてはいない。その上、母親のこともある。正直、道は険しいだろう。しかし彼女が自分の夢を語る時、微塵の悲壮感もなく、「私は歌うのが好き」と無邪気に言う時、本当に心からそう言っているのだと思った。是非彼女には夢を叶えて欲しいけれども、例えもし叶わなかったとしても、きっと素敵な人生が彼女を待っているだろうと思う。 --- 以前の日記でも書いたが、旅を彩るのは、こうした一期一会の数々だ。遺跡や観光地巡りが旅の縦糸ならば、一期一会はそれに織り込まれてゆく色とりどりの横糸だ。今朝、長居をしてしまったカンクンを発ち、西へ向かう長距離バスの中でこの日記を書いている。まだ旅は先が長い。きっと素敵な一期一会が、たくさん待っている。 - [メキシコへ向かう飛行機で、ニューオリンズを想い出す。](http://hiroono.com/ja/2008/12/07/yayyyotheoouccyeyayyeyoyoaudh/) - どうして出発の前は、いつもこんなに忙しいのだろう。まるで僕のバカンスを妬んで嫌がらせをしているかのように、仕事は出発直前を狙いすまして降ってくる。昨日はスポンサーとのミーティング、プロジェクトの提案書が2本、なかなか取れないプログラムのバグ、そんなものたちの処理にてんてこ舞いの時に、教授から呼び出しがかかり、行ってみれば嫌な予感が的中、突然の来客の世話を押し付けられた。 おかげで旅行の準備は後回し、家を出るべき時間になっても、あれが無い、これが無いと、部屋中を引っかき回す。今回も結局、地下鉄では間に合わないので、30ドルを払ってタクシーで空港に向かった。 チェックインを済ませ、空港のロビーでやっと一息ついた。今回の旅行の名目は学会。しかし学会の場所が北米有数のビーチリゾート・メキシコのカンクンとあっては、来る人はみんなバカンス気分だろう。学会が終わったあとは、メキシコ、キューバ、バハマと、太陽の眩しい中米カリブ海を渡り歩く予定だ。予定といっても、もちろんホテルの予約もなければ、キューバに行く飛行機すら予約していない。相変わらずの適当旅行だ。旅程は三週間。今までで二番目に長い旅になる。 そういえば久しくブログの更新をさぼっていて、前に行ったいくつかの旅行のことも、書かないままだった。今乗っている飛行機が常夏のカンクンに着陸して、新しい旅が始まる前に、書きそびれた今までの旅のことを書いておこうと思う。 --- ニューオリンズ 異なる街には異なる香りがあり、それが飽きずに旅を続ける理由のひとつでもある。香り、といっても、それは嗅覚で感じる香りだけではない。五感のすべてに個人的な体験が絡まりあって感じるのが、街の香りだ。今までも強烈な香りを放つ街をたくさん旅した。スペイン・グラナダ。滅びたイスラムの栄華を遺すアルハンブラ、建物の壁の褐色のレンガ、土産物の店主が弾くクラシック・ギター、美がその意思に反して朽ちゆくとき、熟れすぎた果物のような甘い香りを放つ。イタリア・ナポリ。サッカーボールを蹴る子供たち、青く眩しい地中海と同じような気持ちのいい笑い方をする陽気な人々、灰色の建物に挟まれた裏路地にも、搾ったレモンのように爽やかな香りが満ちていた。ベトナム・サイゴン。道を埋め尽くすバイクの排気ガス、市場の喧騒、人混みですれ違う人々の汗の臭いに、暗い過去を拭い去り豊かな明日を求めようとするエネルギーを感じた。 それと比べて、アメリカの街は香りが薄い。どこの街も巣晴らしい魅力がある筈なのだが、それがビニールの袋に入れられて密封され、スーパーの棚に並んでいるようだ。 しかし、ニューオリンズは違った。かつてフランスの植民地だった頃の面影を残す綺麗な街並み、路面電車の内装は木造のベンチに裸電球、ケイジャン料理の粗く濃くも美味な味。3000kmに渡ってアメリカ大陸を流れてきた大河ミシシッピの最下流に建つこの街は、河を伝った交易で富を得たが、一方で繰り返す河の氾濫に悩まされ続けた。現在は街の人口のほとんどが黒人で、アメリカ北部の街では低賃金労働者扱いの彼らも、この街ではメインストリートの真ん中を肩で風を切って歩いている。そしてこの街こそが黒人音楽の都であり、路上の至る所にシンコペーションの多いメロディーを奏でるストリート・ミュージシャンたちがいて、レストランやバーの多くにも生演奏のバンドがおり、ダウンタウンのどこを歩いても楽器の音が途切れることはない。 そんな豊かな香りが漂うアメリカ深南部の街を、僕は7月の独立記念日の連休に訪れた。空気が肌にまとわりつくような蒸し暑さに、ボストンからの距離を感じた。ユースホステルにチェックインしたのち、真っ先に僕はミシシッピ河の堤防に向かった。河は大地の怒りをすべて呑み込んだような土色をしていて、増水した川の流れは緩やかだけれども力強かった。 祭り好きのニューオリンズの人たちが、独立記念日の夜を静かに過ごす筈がない。ミシシッピ河に面した広場には巨大なステージが設けられ、まだ日が高いうちから様々なバンドがアクの強いビートを刻み、夏の長い日が暮れた後のクライマックスでは、河から派手な花火が打ちあがった。ライブが終わった後は、祭りの中心はバーボン・ストリートに移る。ダウンタウンを東西に貫くこの通りは、両側に隙間無くクラブやミュージック・バーが並び、黒人たちは酒を片手に、夜が明けるまで歌い踊る。 過去にはジャズの聖地だったこの街でも、今や主役の座はR&Bやロック、ラップに取って替わられたが、今も昔も変わらないのは、この街の黒人たちが常に音楽と共に生き、音楽と共に死んでいったことだ。黒人音楽のルーツは、彼らが奴隷として虐げられた歴史にある。彼らは日々の悲しみとその中のささやかな喜びを、アフリカから持ち込んだリズムに乗せて表現した。今や奴隷制や差別は過去のものとなったが、2005年のハリケーン・カトリーナでミシシッピが氾濫し、この街に新たな悲しみを残した。街の郊外を走れば、まだ壊れた家々を多く目にする。しかしそれにも関わらず、バーボン・ストリートで賑やかに歌い踊り狂う黒人たちの顔は、本当に幸せそうだった。黒人たちがミシシッピ河岸のこの街で産んだ偉大な音楽は、人間と自然から圧搾され続けてきた彼らが、なおも日々を幸せに生きるための必要から産まれたものだったのだ。ニューオリンズの街にあふれていたのはそんな、命の逞しさの香りだった。 --- 話はメキシコ行きの飛行機の中に戻り・・・ ニューオリンズのことを書き終えたところで、飛行機が着陸態勢に入ってしまった。シカゴからボストンまでのアムトラックの旅や、9度目のニューヨークのことなどは、またの機会に書こうと思う。 これから始まる旅で訪れるメキシコやキューバ、バハマの街は、どんな香りがするのだろうか。学会が終わった後の二週間は、長い長い一人旅になる。こんなに長い一人旅は初めてだ。前にも書いたが、僕はきっと寂しがり屋で、でも寂しさが好きな人間だ。一人で異国を歩き、意味のわからない外国語をBGMのように聞きながら、街に漂う豊かな香りに包まれている時、きっと僕はそこで孤独に浸っている。それを楽しむわけでもなく、嘆くわけでもなく、ただ、浸っている。 そして僕は話し相手がいなくて寂しいとき、代わりに文字を書く。文字を書くことによって、孤独と会話する。だからもし僕が旅の途中でこのブログを更新しているのを見つけたら、「あ、緒野は今、寂しがっているな」と、ほくそ笑んでやってください。 --- 追記: そんなわけでカンクンのホテルに無事到着。すぐ目の前が青い海、白い砂浜!!つい昨日、極寒のボストンで仕事に駆けずり回っていたとは信じられない。しかしどうやってこんな場所で学会に集中しろと言うんですか(笑)学会に水着を着ていこうかな。 しかし高級リゾートなだけあって、英語通じまくり。ホテル周辺の物価はアメリカと変わらん。太った白人が恥ずかしげも無く小さな水着に贅肉を揺らして波と戯れている。綺麗な場所であることに変わりはないが、僕の性には会わない。そもそもビーチリゾートなんて、カップルで来なきゃつまらんよな。こりゃあ学会が終わったら速攻退散だ。 - [Vietnam (3) 垢抜けないリゾートにて、グローバル化を考える](http://hiroono.com/ja/2008/01/06/vietnam-eeyeyyeeaecyyiydhyeoie/) - (前回よりつづき) ベトナムの急速な経済発展の中心都市・サイゴンから車で僅か4時間の位置にあっては、垢抜けないリゾート・Mui Neも、いつまでも垢抜けないままでは許されないだろう。あと数年もすれば、住民はみんな英語を話すようになり、お椀舟やレンタル・バイクの料金もシステム化され、漁村の収入源も魚醤作りから観光業に変わるだろう。僕らとお椀舟に同乗した二人のちびっ子も、お父さんのように漁師になることはないのかもしれない。 先進国からベトナムへやって来る旅人は、自分の国にはもう見当たらない、垢抜けない素朴さに浸っては郷愁にかられ、「将来もこの素朴さを失わないで 欲しい」などと願う。一方で、しつこい物売りを罵倒して追い払っては、「この国も資本主義に毒されたか」などと嘆く。しかし、そんな願いや嘆きは、僕ら金持ち旅行者のわがままでしかない。ベトナム人の年収にも相当するような大金を財布に入れて彼らの国を踏み荒らし、各地で米ドル紙幣をばら撒きながら、彼ら に対しては資本主義に毒されるな、貧しいままでいろ、と言うのは、なんとも矛盾した要求である。彼らが一度、外の世界を知ってしまった以上、より多くの富 を得ようとするのは、至極当たり前の行為である。そして、彼らの村へ「外の世界」を持ち込んだのは、他でもない、われわれ旅行者だ。Mui Neが経験している変化は、グローバル化する世界の、暖流と寒流が交じり合う渦のダイナミクスであり、それを媒介するのが、我々先進国の旅行者なのだ。仕切りを取り払えば、自然の原理に従って、熱水は冷水と混じる。それを良しとしないならば、門を閉ざし、壁で囲い込むしかないのだ。 (↑Mui Neではなぜか、ロシア語の看板を多く見かけた。) では、このままグローバル化に任せれば、Mui Neの素朴さは失われ、先進国と何も変わらない味っけない街になってしまうか。同じように、じきに世界中の独自の文化は淘汰され、全ては西欧化されるの か。そんなことはない、と僕は思う。文化とは、世界の歴史の大きな流れの中で、同化と分化が同時的に進行するものだからだ。 例えば、ベトナム料理だ。ベトナムの料理はおいしい。決して外れがない。「上海の西、デリーの東」(素樹文生著、新潮文庫)のなかで著者は、ベトナ ムの料理がおいしいのは、中国とフランスという、世界の食の二大中心に支配された歴史を持つことと無縁ではないだろう、と書いている。ベトナム料理がフラ ンスから受けた「同化」の結果のひとつが、パンだ。ベトナムのパンは細長いフランス式で、中が雲のようにふんわりしている。粉を固めただけのようなアメリ カのパンとは、文字通り雲泥の差だ。このフランスパンに、ハムや香菜などを挟んだベトナム式サンドイッチがベトナム庶民の定番で、街中の屋台で売ってお り、とてもおいしい。同化から発生した分化が、新しい庶民の味を産んだのだ。 かつてベトナム語は、漢字で表記された。しかし現代ベトナム語では、ローマ字にアクセント記号を付加したものが用いられる。ローマ字とは、3000 年前はイタリア半島中西部に住む一部族が使う文字に過ぎなかったものが、古代ローマ帝国の征服と同化の過程によってヨーロッパに広められたものだ。ローマ に支配され、元来の言語を失いラテン語圏に同化されたイタリア、フランス、スペイン、ルーマニア等のヨーロッパ各国は、その後2000年の間にラテン語を 基にして独自の言語を分化させ、現在のイタリア語、フランス語、スペイン語、ルーマニア語を形成した。そしてそれらの言語は、後に西欧列強の植民地支配に よりさらに広い領域へと伝えられ、ローマ字のアルファベットも世界に広まった。 ローマ帝国末期の最大のライバル、ササン朝ペルシアの遺跡から出土した壁画に、ある撥弦楽器が描かれていた。その楽器は、インドに伝わってシタール となり、中国ではピーパー、日本では琵琶となった。一方、それは中東でも独自の発展を続け、ウードと呼ばれるようになった。ウマイア朝のスペイン征服に よって、それはヨーロッパにも伝えられ、現在のギターの元となった。800年後、スペイン人がレコンキスタでイスラム勢力を駆逐した後、その勢いで南米を 征服したとき、彼らはキリスト教と一緒に、ギターも南米に持ち込んだ。アンデスに元々あったケーナなどの楽器は、西洋音階を取り入れてギターとアンサンブルし、現在のアンデス音楽「フォルクローレ」を産み出した。「コンドルは飛んでいく」の悲しくも大らかな調べは、あたかもギターが辿ってきた、人類の征服 し征服されの歴史を悠々と語っているようである。一方、イギリスからやってきたアメリカ人は、ギターに電気を流した。それは、奴隷としてアメリカへ連れて 来られたアフリカ人のリズムを取り入れてロックを産み出し、電波に乗って世界中に再輸出された。こうしてペルシア由来の撥弦楽器は、同化と分化の過程で世 界中の音楽をその胴体に飲み込んで、世界を一周したのだ。 文化の同化と分化は、もちろん日本でも起きている。日本はすっかりアメリカナイズされた、と嘆く人がいるが、そんなことはない。自動車社会になった あと、日本人は正月に神社で車をお祓いするという奇妙な習慣を始めた。和式便所が洋式にとって代わられたのち、日本人は「お尻洗浄」という不思議な機能を付け加えた。パン食がすっかり普及したら、日本人はその中にあんこやカレーを詰め込んだ。どれも皆、アメリカにはない文化だ。 (↑ 上:ムイネーの朝 下:ムイネーの夜) このように、いつの時代、いかなる場所でも、文化は歴史の流れに乗って拡散し、現地の文化を駆逐し、そして同化する。しかし同時に必ず、駆逐されたはずの文化は形を変えて新しい文化の中に忍び込み、新しい枝分かれを作ってゆく。 だからといって僕は、グローバル化万歳南無阿弥陀仏、地域固有の文化など消えてしまえアーメン、などと言っているのでは、断じてない。僕が世界のあちこちで出会った色鮮やかな音や形や言葉たちが消えゆくのは、旅行の写真を失くしてしまうようで、この上なく寂しい。自分を育ててくれた日本の文化が色褪せるのは、もっと悲しい。しかし、僕の郷愁などお構いなしに、グローバル化はこれからも確実に進行するだろう。一方で、世界各地で固有の文化を残そうという運動が繰り広げられている。この二つのベクトルが衝突し、融合する時、新しい文化が生まれるのだ。グローバル化と同様に、それへの抵抗も必然であり、ふたつの必然が出会う偶然が、新たな必然の発端となるのだ。 僕は、グローバル化が世界を飲み込む前に、世界の今の形をこの目で見たいと旅を続ける。その一方で、その旅が媒介するグローバル化によって、これからどんな新しい形が産まれてくるのだろうと、楽しみに未来を待っている。 固有文化の喪失は、「グローバル化」のほんの一端に過ぎない。近年盛んに議論される「グローバル化」とは、貧困、搾取、開発、環境破壊、疫病の流行などを含んだ、もっともっと規模の大きい問題であることを、最後に付け加えておく。 - [Vietnam (1) 笑顔とメコン川と](http://hiroono.com/ja/2008/01/01/vietnam_mekong/) - 一週間ほど、ベトナムをふらついてきた。わざわざ日本に帰省したんだから、のんびり温泉にでも行けばいいのに、と親は呆れ顔だ。外国に住んでいるんだからわざわざ海外旅行しなくてもいいじゃん、と友達も言う。しかし、アメリカに二年半も住むと、もうアメリカは「外国」ではなくなる。だからそろそろ、「外国」の空気が吸いたくなる。 陳腐な言葉だが、ベトナムは素晴らしい国だった。何を食べてもおいしい。どの場所も素朴な魅力に溢れている。治安も良い。(たぶんアメリカよりも良い。)旅行インフラも整っていて、移動にも宿泊にも全く苦労しない。そして、何よりも素晴らしいのは、人の笑顔だ。誇張でも何でもなく、たった30年前に泥沼の戦争をしたとは信じられないほど、平和な笑顔に溢れた国だった。ベトナムを売り込む人は「笑顔がまぶしい国」と言い、疲れたバックパッカーは「笑顔で人を騙す国」と表現する。笑顔の裏で何を考えているのかなんて分かるわけないが、正直、どっちだっていい。どっちだっていい、と思えるほど、素敵な笑顔たちだった。 (↑My Thoの市場の屋台) たとえば、街を歩くと3分に1度はバイク・タクシーの客引きに呼び止められる。"No, thanks" と言って彼らを払いのける。ここまではどこの国へ行っても同じ。しかしベトナム人はなぜか、売り込みに失敗すると笑うのだ。「そうかい、いらないかい、まあせいぜいよい旅を」と毒づいているのか、あるいは「やー、ちょっとふっかけすぎたかなぁ」と反省しているのか。とにかく、爽やかに笑う。 たとえば、少し田舎に行くと英語を全く喋れない人に出会う。僕らも「こんにちは」「ありがとう」くらいのベトナム語しか知らないから、身振り手振りで必死に用件を伝えようとする。それが伝わったか伝わってないか、いまいちよく分からないのだが、とにかく彼らは僕らの必死のジェスチャーを見ながら、穏やかに笑っている。 (↑ ウイ君) いちばん素敵だった笑顔は、Ben Tre省 (ベンチェー)の宿で働いていた、ウイ君のそれだ。My Tho (ミトー)市からメコン川を挟んで対岸のジャングルの中にあるその宿には、部屋は3つしかなく、宿泊客よりむしろ、My Thoからメコン川クルーズでやって来る日帰り客にお土産物を売るほうがメインの商売なようだ。僕らがウイ君に出会ったのも、朝のメコン川クルーズでその宿に立ち寄った時だった。彼はしきりに、今晩ここに泊まらないか、二人で一泊8ドルだ、と勧めてきた。少々怪しかったが、なかなか素敵な場所だったし、その晩に泊まる場所も次に行く街も決まっていなかったので、なんとなくその話に乗ることにした。 朝6時に出発したメコン川クルーズは午前中には終わり、昼にMy Thoの市場をぶらついた後、渡し舟に乗って宿のある対岸のBen Tre省へ向かった。6つの国と2つの首都を流れてきたメコン川は、その最下流のデルタ地帯で9つの支流に分かれる。My ThoとBen Treの間を流れる川はそのひとつにすぎないのだが、それでも川幅は2kmを超える。橋はまだ建設中で、人もバイクも大型トラックもすべて、この渡し舟でメコンを渡る。 Ben Treの船着場に、ウイ君は満面の笑みで迎えに来てくれた。宿はここからバイクで五分ほど。部屋に着くなり、ウイ君が、きれいな景色を見せてやるから一緒にサイクリングに行かないか、と誘った。どうせあとで高いチップを請求されるのがオチだろうと僕は身構えてしまったのだが、せっかくだから行ってみよう、と連れが言うので、その話にも乗ってみることにした。 ウイ君の先導で、ジャングルの中の細い道を、右へ、左へ折れながら走っていった。道の両側には溝があり、そこに溜まった水はメコン川と同じ色に濁っていた。たぶん、掘ればどこでもメコン川になるのだろう。このジャングル全体が、かろうじてメコン川に浮いているようなものなのだ。「ジャングル」といっても、100m おきくらいにベトナム式の解放的な家が立っている。新しい家も多い。新居の値段は100万円程度だという。ここらへんに住む人は、主にココナッツを採ってMy ThoやSaigonで売り、生計を立てているそうだ。 そうやってジャングルの中を20分ほど進むと、ひょっこりと広い水田に出た。ちょうど夕焼け時だった。「きれい!」と声をあげる僕らを見て、 「日本のお客さんは、みんなここが好きなんですよ。」 と、ウイ君が満足そうに笑った。きれいに整った水田に稲が実る景色は、日本人にとってはなんとも懐かしく感じる。しかし、日本と違う点がふたつある。ひとつめは、田んぼの背景にあるのがヤシの木であること。ふたつめは、黄色く穂を垂れている田んぼの隣には、青々と葉を伸ばす田んぼがあること。日本では春に田植え、秋に収穫と決まっているが、熱帯のメコン・デルタでは一年中稲が育つ。だから、隣り合う田んぼの田植えの時期は同時ではなく、収穫時期も同時ではない。さらに驚いたのが、メコン川が運んでくる豊富な栄養分のおかげで、ひとつの田んぼで年に四回も米を収穫できる、ということだ。日本でも暖かい地方で米の二期作が行われているが、メコン・デルタでは四期作なのだ。だから、関東平野とさほど変わらない面積のメコン・デルタだけで、ベトナム全人口を養って余りある量の米が収穫できる。(ベトナムの米の生産量は世界第5位、輸出量は第2位) 田んぼで夕日を眺めたあとは、ふたたびウイ君の先導でジャングルの中を走り、船着場に続く目抜き通りに出て、通り沿いの食堂でフォー(ベトナム式麺)を食べた。さらに屋台でフルーツの盛り合わせを食べたあと、洋服屋へ。なぜ洋服屋かというと、僕が連れにアオザイを買ってやりたい、と言っていたからだ。こんな汗まみれで試着させてもらうのは申し訳ない、などと言いつつ、試着室から出てきた彼女の綺麗さに、僕もウイくんも大はしゃぎ。ウイ君と彼女のツーショットをとってやると、鼻の下を伸ばして喜んだ。その後、彼女が服屋にサイズを調節してもらっている間、ウイ君に、 「ガールフレンドはいるの?」 と聞いた。すると彼は笑顔のまま下を向き、 「ここではお金がなきゃ、ガールフレンドもできないし、結婚もできないんだ。」 と答えた。父親のいない彼は、母を養う分も稼がねばならなず、なかなかお金が貯まらない。 「ウイ君は英語が上手だし、日本語だって話せる。だから上手くやればきっと儲けられるよ。」 と励ましたが、何の苦労も知らない金持ち旅行客の言葉に、どれほどの説得力があっただろうか。 宿に戻ると、オーナーの一家が鍋を囲んで夕食を食べていた。是非一緒に食べていけ、というので、その輪に加えさせていただいた。上半身裸の子供3人は、みんなまだ中学生くらいなのに、タバコを吸い、酒を飲む。彼らが飲むのは、バナナ・ワインというなかなか強いお酒なのだが、「友情の証」「絆」などと理由をつけては、相手を指名してショットで飲ませてゆく。彼らは日本からの来客とよほど強い絆を結びたかったのか、あるいはただ僕を飲ませたかっただけか、僕は光栄にも全員から何度も何度もご指名を頂戴し、海外旅行の開放感も手伝って、酒に強くもないのに、自分でもびっくりする勢いで飲みまくった。そしてやっとボトルがひとつ空いたと思うと、子供の一人が裏から新しいボトルを取ってくる、というお決まりのパターン。もう勘弁してくれ、と部屋に戻ったあと、トイレに駆け込むと、僕のメコン川が大逆流の大洪水。連れ曰く「胃袋を裏返したように吐いていた」そうだ。その後、僕らはウイ君に連れられて夜の散歩に出たらしいが、ほとんど記憶がない。唯一覚えているのは、橋の上で寝ていた犬を踏んでしまったこと、そして、そこから見た満月が不気味なほどに明るかったことだ。 翌朝、ウイ君に、バスの時間です、と叩き起こされた。大慌てでパッキングし、ウイ君が買ってきてくれたフォーを空っぽの胃に流し込む。Ben TreからPhan Thietへのバスが朝7時頃に宿の近くを通るから、通りで待ち構えてバスを捕まえよう、という計画だった。バイクに3人は乗れないから、ウイ君は二往復して僕と連れを通りまで運ぶ。しかし、僕が先に通りに着いて連れを待っている間、お目当てのバスがものすごいスピードで目の前を通り過ぎてしまった。数分後に連れを乗せて到着したウイ君に事情を話すと、彼らはそのままバイクでバスを追いかけ、僕はその間、走って船着場へ向かった。なんとか彼らは船着場でバスに追いつくことができ、僕も戻ってきたウイ君に船着場まで運んでもらった。バイクを飛び降り、連れを見つけると、満足に礼を言う暇もなく、ダッシュでバスが乗ったのと同じ船に飛び乗った。走る途中に振り返って手を振ると、ウイ君も満面の笑みで手を振っていた。いい笑顔だった。 結局彼は、一度もチップやガイド料を請求しなかった。夕食代と朝食代をだいぶ多めに渡したが、それだってせいぜい数百円だ。物価は日本と10倍は違わないから、現地の値段でも大した金額ではない。船の上で歯を磨きながら、結局ウイ君は何が目当てであんなに親切にしてくれたのだろう、と連れと話した。単に日本人が好きなだけなのか。ああした方が日本人は多めにチップを払うことを知っていたからか。いや、実は彼には大きな野心があって、こうやって日本人に親切にして、口コミで彼の噂を広めてもらい、将来大もうけしようと考えているのか。しかし実際のところ、僕らにとっては、どうだってよい。ただひとつ重要なのは、彼の笑顔が僕らに最高の思い出をくれたことだ。そして、もし彼に野心があるならば、ぜひともそれを実現して、素敵な奥さんを見つけてほしいと思う。 彼が働く宿の住所を、この記事の末尾に記す。ベトナムに行く機会のある人は、ぜひ一度、訪れてみてはどうだろうか。そしてこの記事が、ウイ君の「野心」実現の一助になることを祈りつつ。 (↑ なんとか間に合った。ほっと一息、船で歯磨き。) ウイ君のいる宿の住所と道順。My ThoからBen Tre行きの渡し船に乗り、船着場から1kmくらい。上に地図を載せたが、左に折れる道の入り口がとにかく分かりづらい。道の入り口をまたぐように看板があったが、ベトナム語だったので、何と書いてあるか分からなかった。僕がアオザイを買ったドレス屋(外に面したショーケースには、アオザイではなくウェディングドレス等が飾られている)が、左に折れる道の入り口のすぐ手前にある。しかし、上の地図を頼りに歩いて行くより、下の電話番号に電話して、船着場まで迎えに来てもらうのが無難だと思う。 上記が電話番号。"cho gan Oui"が、「ウイ君をお願いします」という意味のベトナム語。ただし、ベトナム語は声調言語なので、ローマ字を読んだだけでは通じない。大雑把に言うと、"cho"を高く、"gan"を低く、"Oui"を尻あがりに発音する。正しい発音はベトナム語の本を参照してください。 - [Vietnam (2) Mui Ne: 垢抜けないリゾート](http://hiroono.com/ja/2008/01/04/vietnam-ceeyeyyeeaecyyiydhyeoie/) - Ben Tre から Phan Thiet (ファン・ティエット)行きのバスに乗った僕らは、本来はPhan Thietのさらに北にあるPhan Rang(ファン・ラン)を目指すつもりだった。ウイ君の「3時間でPhan Thietに着く」という言葉を半信半疑にバスに乗り込んだのだが、しっかり6時間ほどかかって到着した。(ベトナム人は嘘つきだ、と言っているわけではない。ただ、適当なだけである。)結局予定を変更し、Phan Rangはあきらめて、Phan Thietからすぐ近くにある、Mui Ne(ムイネー)という新興のリゾート地へ行くことにした。 Mui Neはほんの十数年前までは漁村しかなかった場所で、リゾートと言っても、バリ島などと比べるとどこか垢抜けない感があり、それが逆に魅力でもある。 Mui Neの名物のひとつは、thuyen thung (テュエン・テュン)と呼ばれる、竹を編んで作られたお椀形の小船だ。早朝にはリゾートホテルの目の前でも漁師たちがこのお椀舟に乗って網を引いている。もちろん彼らは観光客相手の商売も知っていて、乗せる客あらばお椀舟は有料観光船に早代わりし、英語は喋れなくとも砂に枝で数字を書いて値段交渉をする。こんな風に、客商売は覚えたけれども、商売がシステム化されておらず、なんとも場当たり的なのが、僕が「垢抜けないリゾート」と呼ぶ理由のひとつである。 (↑ お椀舟によじ登る子供たち) 僕らは日の出を見るつもりで朝6時にビーチに出たのだが、ちょうど漁師の家族が網の準備をしていて、舟に乗らないか、と誘われた。値段交渉も10,000ドン(約80円)であっさりとまとまった。漁師のお父さんが舟を押して海に浮かべると、3歳と5歳くらいの小さな子供二人がどこからともなく現われて、大はしゃぎで舟に飛び乗った。そんなわけで、明らかに定員オーバーの5人(いや、3.2人か?)を乗せたお椀の舟は、朝の海の静けさを少しも乱すことなく、ゆっくりと沖へ出て行った。本当に僕らは、海にぽっかりと浮いていた。水平線から浮かび上がってくる朝日がきれいだった。小さい方の子供がお椀舟の底で延々と喋り続けては突然泣き出し、その度にお父さんが舟をこぎながら、優しそうな口調で子供をあやすのだった。お父さんはどんなことを子供に言ったのだろうか。きっと優しさに溢れた言葉に違いない。このときほど、ベトナム語を理解できたら、と思ったことはなかった。 (↑ 左:小さな便乗者 右:艪をこぐお父さん) 30分ほど海を漕ぎまわり、浜に上がったあと、ひと悶着あった。浜で待っていたお母さんに代金の10,000ドンを払おうとしたところ、10,000ドンではなく100,000ドンだ、と言うのだ。故意かミスかは分からないが、まあ、ありがちなトラブルではある。漁師一家は誰も英語を喋れないし、僕らの知ってる「こんにちは」「ありがとう」というたった二つのベトナム語の語彙は、こういう時に全くもって役に立たない。さすがにおとなしく100,000ドンを払う気にはなれないのだが、お母さんも頑として引き下がらない。間を取って60,000ドンで決着させようとしたのだが、お母さんはなおも100,000ドンをよこせ、と言う。僕らが困り果てていたところに、さっき舟を漕いでいたお父さんがニコニコと笑いながらやってきた。ああ、敵勢が増えた、と思いきや、お父さんはお母さんの背中をポンポンと叩き、もういいじゃないか、とでも言うように彼女をなだめ、僕らに笑顔で握手をし、その場を収めてくれたのだ。僕らは"Cam ong"(ありがとう)と何度も言い、立ち去った。こういうときこそ、たった二つの語彙が本当に役に立つ。 (↑ 二隻のお椀舟で網を引く若者たちが、僕らの舟を追い越していった。) Mui Ne に行く人は、ぜひともバイクを借りて、砂丘、漁村と、Fairy Streamを回ってほしい。バイクは、路上で暇そうにしているバイク・タクシーのおじさんと交渉すれば、簡単に借りられる。免許のチェックなどももちろんない。(そもそも免許という制度があるのかな…。)1時間2ドルで4時間借りたが、頑張ればもう少し値切れたと思う。僕らはホテル街から近いred sand dune止まりだったが、その奥にある white sand duneまで行きたい人は、6時間は見たほうがよいだろう。 (↑借りたバイクはヤマハの新品。ハンドルを握るのは連れ。女が運転で男が後ろ、という構図は非常に珍しいらしく(日本でも珍しいか 笑)、バイクを借りたおじさんに笑われた。) 砂丘では、青いプラスチック板に取っ手を付けただけのソリを持ち、"do you wanna slide?"と、砂丘ソリ滑りを売り込む子供達の一団に取り囲まれる。明らかな供給過多で、すれ違う観光客は必ず、10人以上の護送船団を従えている。静かに砂丘を見物させてくれよ、と最後まで拒否し続けると、女の子たちは悲しい顔で、男の子たちは「ファック・ユー!」と叫びながら、次の観光客の方へ去っていった。 砂丘の入り口でバイクを停めさせてもらった軽食屋の少年が、なかなか面白い奴だった。とにかくひたすら僕らに対して喋りまくる。左手で筒を作り、そこに右手の人差し指を出し入れして、セックス、セックスと叫び続ける。たまにバイクが通りすぎると、慌てて道に出て大声で客引きをするのだが、こんな調子では客が捕まる筈もない。お父さんもお母さんも、携帯電話をいじりながらハンモックで寝ている。つまり、一家全員まったく商売への情熱がない。客が来ないならば客単価を上げるしかないのだが、そこだけはしっかりしている。会計をすると、使ったおしぼりにジュースよりも高い値段がついていたのだ。大した金額でもないので、少年のセックス講話の聴講料と思って、文句を言わずに払った。帰り際、僕らがセックス少年を挟んで写真を撮ろうとすると、「真ん中で写されると、クッ(手で首を切るジェスチャー)」と言って逃げた。そう、面白いことに、ベトナムにも「三人の真ん中で写真を撮られると縁起が悪い」というジンクスがあるようなのだ。 (↑結局、僕が「クッ」のポジションに納まった。左がセックス少年。右下に、ハンモックで寝ているお父さんが写っている。) 漁村はホテル街から僅か10kmの場所にあるのに、未だリゾートに毒されておらず、漁村としての活気に溢れていた。湾には何千隻ものカラフルな漁船が繋がれていて、それはGoogle Mapの航空写真からも見ることができる。通りや浜には、所狭しと煮干のような小魚が並べられていて、浜にある魚醤工場(と思われる工場)では、大勢の男女が汗だくになりながら釜に向かっていた。一方で路上では、昼間から賭け将棋に興じる男達が群れていた。そう、ベトナムには何故か、せっせこ働く人がたくさんいる一方、そのすぐ傍らで暇そうにしている人も大勢いる。みんな金持ちそうでは決してないのだが、かといって困窮しているようにも全く見えない。これは社会主義と関係があるのか、ないのか。 Fairy Streamは、アメリカにあるザイオン国立公園のミニ版、といった感じで、浅く緩やかな川の右岸に真っ赤な砂山、左岸に熱帯の木々が茂る。そんな奇景を眺めながら、裸足になって川の中をじゃぶじゃぶと1kmほど歩くと、美しい小さな滝に辿り着く。こんなに素晴らしい景色であるにも関わらず、「歩き方」にも「ロンプラ」にも数行紹介されているだけなので、訪れる観光客は少なく、それをいいことに全裸になって滝を浴びた。さすがは「垢抜けないリゾート」なだけあって、途中には農家の牛が放牧されており、時々観光客を通せんぼする。彼らは全く何事にも無関心な様子で、観光客がすぐそばを通ろうとも、悠然と草を食み、小便を垂らす。 (次回へつづく) - [謙虚に、優しく、美しく](http://hiroono.com/ja/2014/09/24/uoeciyceth/) - 水曜日 水曜日の午後に成田空港に着くと、僕は急いで実家に電話をした。呼び出し音が鳴る間が不安でならなかった。母が出るなり、単刀直入にこう聞いた。 「おばあちゃん、まだ生きてる?」 母は、うん、と言ったが、その声は疲れていた。僕は胸をひとまずなで下ろした。祖母の病室で待ち合わせと決めて電話を切った。 母方の祖母の命があと3日から7日で尽きるという知らせを聞いたのは、9月中旬になっても猛暑の続くロサンゼルスの、いつも通りたまらなく暑い日曜日の夜だった。火曜日の早朝に飛行機に飛び乗った。太平洋を渡る11時間の間、家族と連絡を取れないのがもどかしかった。成田に着いたらもう祖母は死んでしまっているのではないかと不安だった。 空港から電車で病院へ向かった。窓の外には日本の田園風景が広がっていた。世界は祖母のことにまるで無関心で、そして美しかった。稲は実りの時期を迎えていたが、木々の葉はまだ夏のように濃い緑を湛えていた。バケツから水が溢れるように線路際のフェンスを蔦が勢いよく這い登っていた。ところどころに彼岸花が揺れていた。 日暮里から山手線に乗り換えた。車内には何の変哲もない日本の日常があった。シートに7人ずつが行儀よく座り、その大多数は黙々と携帯電話をいじっていた。立っている男子高校生3人は誰がなんとかカードをゲットしたなどと騒いでいた。目線を上げれば、竹中直人が金貸しの宣伝を、ローラが永久脱毛の宣伝をしていた。 電車を降り、僕は重いスーツケースと重い心を引きずって病院へ向かった。祖母がどんなふうになってしまったのか、その姿を見るのが怖かった。ためらいを振り切って、僕は祖母の病室の扉を開けた。 祖母は窓際のベッドに仰向けに寝ていた。1ヶ月半前に見舞ったときよりも更に痩せていた。肌は骨の上に直に張り付いているようで、黒ずんで生気を失っており、こげたパンの耳のようにパリッと割れて剥がれ落ちてしまいそうだった。腕には点滴の管が、鼻には酸素の管がつけられていた。胸につけられたいくつかの電極は、ベッドの脇にある心拍数のモニターにつながっていた。 「おばあちゃん」と僕は無理やり笑顔を作って呼びかけた。祖母が重たそうに薄目を開け、フガフガフガと何かを喋った。呂律が回らないのだ。何度か聞き返した後、「はねだから?」と言っているのに気がついた。「いや、今日は成田からだよ」と返すと、ウンウンと小さくうなずいた。頭ははっきりとしているのだ。またフガフガと何かを言った。「おかえり」だった。「ただいま」と僕は応えた。祖母はまたウンウンと小さくうなずき、満足そうに目を閉じた。 直後に母が合流した。1時間ほどフガフガフガと話したあと、「また明日も来るね」と言って立ち上がると、祖母は右手を重たそうに持ち上げて握手を求めた。僕はその手を握った。肉感はなく、驚くほど冷たかった。それでも祖母は、弱々しいけれども確かに僕の手を握り返してくれた。 木曜日 翌日は時差ボケで早く目が覚めたので、リビングでパソコンを開いて仕事をしていた。しばらくして冬眠明けの熊のようにノソノソと妹が起きてきてテレビをつけた。浮ついた声の女子アナウンサーが、まもなく発売されるというiPhone 6の新機能を大げさに説明していた。スコットランドの住民投票などのニュースの後、また浮ついた声の女子アナが登場して、「さあ、CMの後は今日の運勢で?す」などと無意味なことを言うのでテレビを消した。 妹が出勤してしばらくした9時半ころ、家の電話が鳴った。嫌な予感がした。果たして病院からだった。血圧が下がったのですぐに来いとのことだった。タクシーの中で母も僕も気が急いていた。道を塞ぐように僕らの前をノロノロと走るバスに腹が立った。 駆け込むように病室に入った。努めて平静な声で「おばあちゃん」と母が呼んだ。祖母はゆっくりと目を開けた。僕たちは胸をなでおろした。 すぐに妹も会社から駆けつけた。祖母は少し持ち直していて、血圧は低いながらも安定していた。祖母は元気な頃はとにかくお喋りだったが、この日も瀕死の人間とは思えぬほど、フガフガフガとよく喋った。 妹に何かフガフガとうれしそうに言った。どうやら「おめでとう」と言っているらしい。またか、と僕たちは顔を見合わせて苦笑いした。祖母はボケてはいなかったが、夢と現実の境界があやふやになっていた。ある日、妹が婚約した夢を見たらしい。しかも相手は40代のハゲのバツイチという詳細情報付きだ。そしてそれを現実だと思い込み、心から祝福していた。挙句の果てには結婚祝いまで前渡しして、調子の良い妹は喜んで受け取った。 今度は僕にフガフガフガと神妙な顔で言った。よく聞くと、「行ってきます…」と言っている。背筋が凍りついた。何と返せばよいのか分からなかった。困っている僕に、祖母がまた口を開いた。「…トイレに。」これには一同大笑いだった。 フガフガと喋るのは体力を使うようで、祖母は喋っては眠り、喋っては眠り、を繰り返した。祖母が眠っている間、母も妹も僕もベッドの脇で文庫本を読んで時間を潰した。会話は殆どなかった。薬品と排泄物の臭いが漂う白い壁の病室で、祖母がこの世界で過ごす残り少ない時間が、ゆっくりと、重たく流れていた。 ベッド脇の机に緑色の表紙のメモ帳が置いてあった。祖母が病床で付けていた手記だった。水や食事が制限されて辛い旨や、母が見舞いにきて何を差し入れてくれて嬉しいということが、小さな文字でびっしりと書かれていた。こんな一節もあった。 「…1、2時間ねられず、乾布まさつ等して白い天井を眺めて昔の事考えたり、楽しいことばかり思い出されます。時々やはり二人の孫の雅裕、アスの赤ちゃんの頃の事、アスはウンチがかたく真っ赤な顔をしていきみがんばる姿、ヒロは泉屋でおもちゃ売り場で坐り込む坐り戦術、じぃ、ばぁーはこれには降参です。」 昼下がり、母と妹と僕は、少し休憩を取ろうということで、コンビニでプリンを買ってきて、病室の外のロビーで食べた。その後に病室に戻ると、またおばあちゃんがフガフガという。その言葉にびっくりした。「プリン食べたい」と言ったのだ。今までも寿司やソウメンをねだったことはあったが、プリンはなかった。祖母のベッドからロビーは見えないはずだ。おばあちゃんが幽体離脱して見てたんじゃない、と母が冗談を言った。 見られては仕方ない。僕はもう一度コンビニに走って、プリンを買ってきた。喉につまってはいけないので、看護婦さんに付き添ってもらいながら、母が小さくすくって祖母の口に運んだ。「おばあちゃん、おいしい?」と聞くと、祖母はウンウンと小さくうなずき、口を開けてもう一口とねだった。次は妹が、そして僕が、順番に、一口ずつ、祖母の口にプリンを運んだ。何かの儀式のようでおかしかった。結果的にこれが祖母の最後の食事になった。 金曜日 夜中に病院から電話が来るのではないかと不安だったのだが、何事もなく朝を迎えた。この日のニュースは仲間由紀恵の結婚でもちきりだった。街角でマイクを向けられた男性が「俺のユキエを返せ?」などと馬鹿馬鹿しいことを言うのでテレビを消した。 病院へ向かう前に、母と駅の近くのそば屋で昼食を取った。隣のテーブルには生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた夫婦がいた。オギャーと泣くと母親がすかさず哺乳瓶を口に突っ込む。すると赤ちゃんはすぐに泣き止んで、一心不乱にミルクを吸う。そのあまりにも可愛らしい仕草に、母も僕も顔がほころんだ。 病院に着くと、看護婦がもう栄養の点滴をできなくなったと僕たちに告げた。それはつまり、祖母の命はあと1日ほどしかもたないことを意味した。 病室に入り、「おばあちゃん」と呼んだが、祖母はもう目を開けず、喋りもしなかった。一呼吸、一呼吸が苦しそうだった。意識がなくても辛いという感覚はあるのだろうか、時折足を苦しそうに動かすのがかわいそうだった。しばらく傍にいた後、「明日も来るね」と言って立ち上がった。祖母は何も返事をしなかった。 日が暮れた頃、また病院から電話があった。呼吸が止まりそうなので10分で来てくれとのことだった。タクシーを待つ間、母は明らかに取り乱していた。タクシーの運転手がまかせとけと細い裏道を通ったのだが、本当にこれが近道なのか疑心暗鬼だった。タクシーを降りて道を渡る時、停まってくれない車に僕は怒鳴ってしまった。 病室に駆け込んだ。祖母は口を大きく開け、時が止まったように静止していた。もう呼吸をしていないのは見てすぐに分かった。心臓のかすかな痙攣だけが、夕日が沈んだ後の淡い残光のように残っていて、心電図のモニターに頼りない波形を刻んでいた。それもやがて止まった。先生がやってきて書類に時刻を書き込んだ。看護婦が祖母の体から管や電極を全て取り外した。一連の事象は全て、時計が時計回りに時を刻むように、あまりにも自然に、当たり前のように進んでいった。それをベッド脇で座って見ていた僕の心は不思議なほどに静かだった。僕も母も泣かなかった。しばらくして妹が駆けつけた。彼女も泣かず、驚きもせず、祖母の肩に手を置いて、「おばあちゃんお疲れ」と言った。 祖母の死は、映画やテレビのようにドラマチックでも、悲劇的でも、英雄的でもなかった。きっとこの世界の大多数の人にとって、死とはそういうものだろう。祖母はただ、与えられた一日、一日を、明るく、謙虚に、逞しく生きた。それは元気な間も、闘病の間も同じだった。そしてある日、それがおしまいになった。ねじ巻き式のオルゴールが静かに鳴り止むように。 日曜日 季節の変わり目は亡くなる人が多いそうで、葬儀は火曜日まで待たねばならなかった。祖母が亡くなった翌日の土曜日に妻と父がそれぞれ海外出張から帰ってきた。 日曜日、僕は妻と散歩に出た。爽やかに晴れた、美しい秋の日だった。公園ではバザーをやっていた。ビートのきいた洋楽が流れ、人々が屋外のテーブルの周りや芝生の上に群れて、ビールを片手に楽しそうに時を過ごしていた。子供たちが広場でキャッキャと声をあげて走り回り、髪を緑や紫に染めた若者の一団がたむろしている間を、腰の曲がった老婆がカートを押してゆっくり歩いていた。 そうして、祖母がいなくなった世界には、普段と何も変わらない日常の時間が相変わらず流れていた。今日もこの空の下で何人の人が生まれ、何人の人が去っていくのだろうか。世界はそんなことにまるで無関心で、それでいて調和がとれていて、依然美しかった。 何も不思議なことはなかろう。たとえば偶然通った道の道端に咲く彼岸花を、僕は美しいと思う。けれどもその花が枯れても、僕はそれを知ることはなく、気に留めることもない。それで文句を言う花などどこにあろう。そんな謙虚な美しさの集まりこそが、この世界の美しさなのだ。祖母の命もまた、謙虚で、美しく、優しい、道端の一輪の花だった。 おばあちゃん、お疲れ様、そしてありがとう。 - [WordPress Resources at SiteGround](http://hiroono.com/2016/03/12/wordpress-resources-at-siteground/) - WordPress is an award-winning web software, used by millions of webmasters worldwide for building their website or blog. SiteGround is proud to host this particular WordPress installation and provide users with multiple resources to facilitate the management of their WP websites: Expert WordPress Hosting SiteGround provides superior WordPress hosting focused on speed, security and customer - [宇宙ステーションのライブ映像をWindowsの壁紙にする](http://hiroono.com/2014/05/11/aeyyaeyycyoiyeyyocauowindowsieeaeee/) - 注意:VLCをダウンロードする際、悪意のあるソフトが引っ付いてきた気がします・・・具体的には、Google Chromeの起動時に、勝手にconduit.comとdefault-search.netという怪しいサーチエンジンが開くようになったことです。現在のところ、それ以外の症状はありません。これが本当にVLCと一緒についてきたのか確認できませんし、もしかしたらインストール時に何かのチェックを外し忘れただけかもしれませんが、念のため、警告しておきます。以下のインストール・設定は、各自の責任の下で行ってください。 --- 最近、国際宇宙ステーション(ISS)に設置されたカメラが捕らえた美しい地球のライブ映像の、UStreamによる中継が始まったそうです。(画面が真っ黒の場合は、ISSが夜側を飛んでいるためです。)それを、以下のようにWindowsの壁紙にするための方法を解説します。地球の静止画ではなく動画として再生されます。OSはWindows 7 (64bit)を仮定して話を進めます。 なお、発端は@Yano_Akikoさんの次のようなツイートでした: このユーストを壁紙にすることはできないかなあ。ISSから見えてる地球の生中継。若田さんと同じ景色が見れるんだよ。 http://t.co/nBWzdCWewB ― 矢野顕子 Akiko Yano (@Yano_Akiko) May 9, 2014 僕のオフィスは小さなキュービクルで、部屋に窓もないため息苦しいのが難点でした。宇宙開発をしているくせに、仕事机から空すら見えないのです。だから、デスクトップに宇宙への「窓」を開けるのは楽しいアイデアだと思いました。以下、説明を始めます。 1. VLC Media Playerをインストールする。ここからダウンロードし、インストールしてください。以下のような、いまいちセンスを感じないアイコンが目印です: 2. VLC media playerを起動。 3. ツール→設定、を選択し、出てきたダイアログボックスの左側に6つ縦にならんだ縞々コーンの中から、「ビデオ」を選びます。で、「ディスプレイ」のグループにある「出力」のプルダウン・メニューから、「DirectX(DirectDraw)ビデオ出力」を選びます。最後に右下の「保存」を押してください。 4. いったん、Xボタンを押してVLCを終了します。その後、VLCを再起動してください。 5. メディア→ネットワークストリームを開く、を選択し、「ネットワークURLを入力して下さい」というボックスに、以下のURLを入力して、「再生」を押します。 http://iphone-streaming.ustream.tv/uhls/17074538/streams/live/iphone/playlist.m3u8 VLC上で、地球のライブ映像が再生されたでしょうか。画面が真っ黒や灰色である可能性がありますが、ご心配なく。ISSは時間の半分は地球の夜側を通過しており、その際は画面は真っ黒になります。45分後に再度見てみましょう。(ISSは90分で地球を一周するので。)灰色の場合は、中継が上手くいっていない、ということのようです。心配ならば、このページに映っているものと、VLSの画面を比べてみてください。 余談ですが、どうして宇宙ステーションからのライブ中継なんぞが可能か、不思議に思いませんか?たとえばISSが太平洋上を通過している際も映像がライブで来ていますが、そんな場所にアンテナなんてありません。実は、アメリカがTDRSという、宇宙用の中継衛星を静止軌道に何機か持っているので、そこを介してISSと地上局とが常時交信可能になっているのです。 6. ビデオ→壁紙として設定、を押します。これで美しい地球の絵が壁紙になったはずです!! Windowsの起動時に自動的に壁紙が設定されるようにする さて、これで一応は目標が達成されたわけですが、このままだと、上の設定をパソコンを起動するたびに行わなければならず、ともて面倒です。そこでスタートアップにショートカットを作ります。 1. スタートボタンを押し、一番下の「プログラムとファイルの検索」ボックスに、以下を入れてください: %AppData%MicrosoftWindowsStart MenuProgramsStartup で、表示された「スタートアップ」というフォルダを開きます。 追記:@yimamuraさんより以下のコメントをもらいました―ところで「スタートアップ」フォルダを開くのはWindows 8だとWin+Rで「ファイル名を指定して実行」を開き「shell:startup」と入力するのがよさそうです(Win8では「プログラムとファイルの検索」がない)。 2.フォルダ内で右クリックし、新規作成→ショートカット、を選択します。「項目の場所を入力して下さい」というボックスに、以下をコピペしてください。冒頭の二重引用符をお忘れなく。 "C:Program Files (x86)VideoLANVLCvlc.exe" --video-wallpaper --no-osd --qt-start-minimized --qt-notification 0 --qt-system-tray - [【告知】海外大学院留学説明会開催のお知らせ(早、慶、名、東、京、九)](http://hiroono.com/2010/11/29/udhaiuacoioaaianaiaieeaacacicaicuthcae/) - 3年前に思いつきではじめた留学説明会の活動が、全米の留学生の協力を得て、今冬は全国6大学で開催するまでに拡がりました。 大人たちは日本の若者を「内向き」だ、などと言います。しかし、僕たちの世代はそんな内向的じゃない。しっかり外を向いているけれども、ただ 情報がないから、周りに前例がいないから、一歩を踏み出すのに少し躊躇してしまっているだけなのです。この説明会は、そんな人たちに正しい情報を提供し、ほんの少しだけ背中を押してあげるためのイベントです。ふるってご参加ください! --- 私たち米国大学院学生は、海外大学院への学位留学を志す皆さんを支援する目的で、在米日本人留学生たちにより設立された団体です。学位留学について知っていただくために、12月下旬に全国6大学において「海外留学説明会」を開催します。会場は日程順に、早稲田・慶應・名古屋・東京・九州・京都の各大学です(詳細は本メール末尾をご参照下さい)。参加をご希望の方は、参加登録をお願いいたします: 皆さんは日々の研究や勉強に、十分な充実感をお持ちでしょうか。もし現状に物足りなさを感じているならば、海外の大学院へ学位取得のために留学する「学位留学」という選択肢を、ぜひ考えてみてください。 欧米のトップの大学院の多くでは、学生はRAやTAによって学費を全てカバーされるだけでなく、生活費としての給料も支給されます。世界中から集まった優秀な学生たちと切磋琢磨する環境は刺激に溢れ、挑戦する目標には事欠きません。そんな素晴らしいチャンスがあること、そしてきちんとした情報に基づいて準備をすれば、そのチャンスは実は手の届く距離にあること。この2つを、米国留学中の学生の生の声を聞いて知っていただくことが、本説明会の目的です。 参加費はどの会場も無料です。各会場の参加事前登録をお願いしています。事前参加登録なしでも聴講いただけますが、万が一、会場が満席になった場合は、参加登録をされた方を優先させていただきます。事前参加登録・説明会の内容・地図などは、米国大学院学生会のHPへアクセスし、各会場の詳細をご覧ください。 http://gakuiryugaku.net ◆早稲田大学 西早稲田(旧大久保)キャンパス 日時: 2010年12月20日(月) 午後6時?午後8時 会場: 55号館 N棟1階 第一会議室 ◆慶應義塾大学 矢上キャンパス 日時: 2010年12月21日(火) 午後6時?午後8時 会場: 創想館セミナルーム1(14棟201室) ◆名古屋大学 東山キャンパス 日時: 2010年12月22日(水) 午後1時?午後5時(受付開始12:40pm) 会場: 法政国際教育協力研究センター2階 CALEフォーラム ◆東京大学 本郷キャンパス 日時: 2010年12月23日 (木) 午後2時?午後4時 会場: 工学部2号館1階213号大教室 ◆九州大学 伊都キャンパス+遠隔講義システム 日時: 2010年12月24日(金) 正午?午後2時 メイン会場:(伊都キャンパス)センター1号館1308講義室 遠隔講義システムによって、箱崎・病院・大橋・筑紫の各キャンパスで中継を実 施します(詳細はHPを参照下さい) ◆京都大学 吉田キャンパス 日時: 2010年12月28日(火) 午後3時?午後5時 会場: 国際交流センターKUINEP講義室 - [日テレ日曜日午後6時「バンキシャ」に出る、かも](http://hiroono.com/2010/10/09/aeuyaeyiaeuieaeuaathoydhyoyyyaedheca/) - 今週の日曜日午後6時、日テレの「バンキシャ」という番組に映るかもしれません。「頭脳の海外流出」なんて文脈で取材を受けました。どんどん流出するべきだと言ってやりました。どう編集されるかは分かりませんが、お楽しみに! - [日経新聞に載りました!](http://hiroono.com/2010/10/04/aeudheeueth/) - 10月4日朝刊、益田隆司先生のコラム「海外に出ない大学院生 出身校の囲い込み改めよ」に、米国大学院学生会が紹介されています! 僕の名前のみが出ていますが、今夏の留学説明会は東工大の坂本先生とStanfordの宮崎さんが中心となって開催してくれたこと、そして米国大学院学生会の設立・運営には他の多くの方の尽力があったことを付け加えたいと思います。 - [「米国大学院学生会」設立/Kick-off Event](http://hiroono.com/2010/09/11/oeaenacooanassikick-off-event/) - 僕らの後に続いて留学を志す日本の学生を支援するため、仲間と「米国大学院学生会」を立ち上げました。 明日、9/11(Sat) 8:30pm(アメリカ東部時間)、9/12(Sun) 9:30am(日本時間)に、そのKick-off Eventを開催します!イベントをインターネット中継しますので、ぜひご視聴ください!また、Twitterを使った質疑応答も行います。 また、留学生・留学経験者の皆様、ぜひ「米国大学院学生会」へ加わってください! +++「米国大学院学生会」について+++ 「米国大学院学生会」がターゲットとする留学形態は、アメリカの大学院への「学位留学」です。つまり、日本で一般的な語学留学、交換留学や企業派遣ではなく、一般の学生としてアメリカの大学院へ入学し、海外の学生と同じ条件で学び、研究をし、そして学位の取得を目指す留学です。夢と野望に燃え、後先を考えずに身ひとつで飛び出してくるような元気のよい学生を、我々は応援したいと考えています。具体的な活動は、日本の大学にて留学生・留学経験者が講演する「留学説明会」、留学生と留学志望生を1対 1でマッチングしてアドバイスする「Mentor Program」、そして留学生の生の声を配信する「Newsletter」の三つを考えています。 同時に、全米に散在する学位留学生同士のネットワーキングも図って参りたいと考えております。 詳細はホームページ(http://gakuiryugaku.net/ )をご覧くださいませ。また是非、下記Kick-off eventにご参加いただき、質疑応答にてご質問いただければ幸いです。 +++ Kick Off Eventについて +++ 9/11(Sat) 8:30pm-9:30pm (アメリカ東部時間)、 5:30pm-6:30pm(アメリカ西海岸時間)、 9/12(Sun) 9:30am-10:30am (日本時間) にインターネット中継 (http://www.ustream.tv/channel/gakuiryugaku ) にて行うKick off eventでは、前半の30分に幹事メンバーにより「米国大学院学生会」の活動紹介を行い、後半30分にTwitter を用いた質疑応答を行う予定です。どなたでも視聴可能なイベントですので、是非お気軽にご参加くださいせ。 質疑応答に参加するには、Twitterアカウントをご用意いただき、上記URLのインターネット中継画面(Ustream) の右側のカラムの"Social stream"より、Twitterのロゴをクリックしてログインしてください。発言は必ず、Ustreamの画面より行ってください。Twitterより直接ご入力された発言は、social streamには反映されません。また、他人のtweet を閲覧するのみの場合は、ログインは不要です。上記URL よりUstreamにアクセスし、右側のカラムの"Social stream"をご覧くださいませ。 - [【告知】米国大学学部進学説明会&カレッジフェア](http://hiroono.com/2010/08/09/udhaiueaenacooeoeoaaianoyyiyayyoyyc/) - 高校からアメリカの大学への進学を考える方への説明会が開催されるようなので、ご案内申し上げます。 --- 2010年8月22日(日)午後1時?5時 現役学部生・日本在住卒業生有志による 米国大学学部進学説明会&カレッジフェア U.S. Undergraduate Forum in Japan 2010 アメリカの4年制大学(学部)受験・進学について、下記10米国大学にて実際に学部生活を経験した卒業生・現役学部生たちが体験談を交えながら、日本語にて説明会を行います。世界に活動の舞台を広げようと考えている日本の中高生、保護者、教職員の方々に、日本国内大学への進学という選択肢に加え、アメリカの4年制大学への学部進学という選択肢を紹介することが目的です。 ●当説明会参加確定学部生・卒業生の在籍中・出身大学名: ?イェール大学 ?ウェスリアン大学 ?コーネル大学 ?コロンビア大学 ? ジョージタウン大学 ?スタンフォード大学 ?スミス大学 ?ダートマス大学 ?ハーバード大学 ?マサチューセッツ工科大学 (上記10大学の他に追加の可能性あり) 上記大学に加え、グルー・バンクロフト基金も参加予定です。 ●当説明会企画・主催者: ・主催者:U.S. College Alumni Network of Japan(USCANJ、http://www.uscanj.net/)及び各参加各大学の現役学部生・卒業生 USCANJ(アメリカ学部卒業生ネットワーク)とは、米国大学の現役学部生・日本在住卒業生有志による非営利ボランティアネットワークです。当説明会の開催に合わせて発足しました。 ・参加対象:中学生、高校生、保護者、教職員 ・日時:2010年8月22日(日)13:00?17:00 ・会場:東京学芸大学附属高等学校 講堂 〒154-0002 東京都世田谷区下馬4-1-5 地図 http://www.gakugei-hs.setagaya.tokyo.jp/gazou/Map3.JPG ・参加費:無料 ・使用言語:日本語(一部英語) ・参加方法:定員がございますので、事前の参加お申し込みをお願いいたします。8月15日までにUSCANJ(アメリカ学部卒業生ネットワーク)のホームページ(http://www.uscanj.net)上よりお申し込みください。 ● 当日プログラム(予定): 12:30 開場 13:00 - 14:00 全体説明(米国式リベラルアーツ教育の意義、学費・奨学金制度、卒業後の進路) 14:00 - 15:00 受験プロセス説明(選考基準、願書、小論文、推薦状、SAT、日米大学同時受験) 15:00 - 17:00 カレッジフェア(大学ごとに設置されたテーブルの間を自由に巡回しながら、各大学の卒業生・学部生の一人一人に直接ご質問頂ける時間です) ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- Intercollegiate U.S. College Information Session and College - [7月30日 「海外大学院留学説明会」のお知らせ](http://hiroono.com/2010/07/13/7i30aeu-oacoioaaianiaie/) - Stanford大学の宮崎くんが中心となって、7月30日(金)午後5時より、東京大学本郷キャンパスにて、「海外大学院留学説明会」を催します。僕も登壇予定です。留学に興味がある方、是非お越しください。 二年半前に思いつきで始めた「留学説明会」の活動が、今夏は5月に東工大、そして7月にこのイベントと、他の人の手によって拡がっていっていることを、とても嬉しく思います。 この活動の効用をさらに爆発的に大きくする「仕掛け」を、現在準備中です。近々披露できると思うので、乞うご期待! --- 「海外大学院留学説明会」のお知らせ 日 時:2010年7月30日 (金) 17:00- 19:00 場 所:東京大学本郷キャンパス 工学部2号館1階211教室 現役の留学生が、海外の大学院のシステム、出願方法、奨学金の探し方、卒業後の進路、海外生活のノウハウなどを説明します。 海外のトップの大学院では、優秀な学生のほとんどが、学費を免除される上に、生活費を賄うための給料も支給されます。経済的な心配をすることなく、世界中のエリートが集まる最高の環境で勉学に励み、学位を取ることが出来る、そんな素晴らしいチャンスがあることを、少しでも多くの人に知っていただきたいと思っております。 一つの選択肢として、本気で「留学」を考えてみませんか。 なお当日は、説明会の後に懇親会も企画しておりますので、ご興味のある方はご連絡ください。 お問い合わせ:info@ut-osac.org 講演者: 宮崎 勇典 (米国スタンフォード大学・博士課程在籍中) 小野 雅裕 (米国マサチューセッツ工科大学・博士課程在籍中) 他パネリスト (米国ミシガン大学、英国ロイヤルカレッジオブアート、米国カリフォルニア大学バークレー校など) --------- 主 催:UT-OSAC(Overseas Study Advisory Community) 後 援:東京大学卒業生室、東京大学工学部国際交流室 - [留学生の皆さん、留学生だった皆さんへ](http://hiroono.com/2010/05/14/ioaiuocioaaauoo/) - 日本の元気で優秀な学生をモチベートし、海外へ飛び出して来る人を増やすため、「アメリカ大学院留学説明会コミュニティ」というメーリングリストを立ち上げました。是非、皆様にも加わっていただきたく、メールを回していただいた次第です。 アメリカの大学における日本人の存在感は薄まる一方です。例えば、2000年から2010年までの10年間に、MITで学ぶ世界各国からの留学生の数は倍増し、学生総数の3割超を占めるまでになりました。しかしその間に日本からの留学生の数は4割も減少しています(Source: MIT ISO)。日本人留学生の数が減ったからといって、何が悪いという訳ではないかもしれません。しかし僕にはどうもこれが、日本人の元気がなくなっていっていることの反映に思えるのです。「ナンバーワンよりオンリーワン」などという軽薄な言い訳で、衰えはせねど安寧とした日本国内の居心地の良さに安住し、先人たちが持っていた「欧米の鼻をあかしてやろう」という気概を失ってしまったように思えるのです。然るに、日本国内では「人材の海外流出阻止」などという視野の狭い議論が行われていると聞きます。僕はそれに異議を唱えます。優秀な日本人がどんどん世界へ飛び出し経験を積むことこそが、日本の衰退を食い止め、再活性化させる原動力になると、僕は信じます。 このような思いから、過去に二度(07年、09年)、東大にて「アメリカ大学院留学説明会」を行いました。両方とも百人を超える人が集まる盛況で、数人の学生がそれをきっかけに留学を決めたと報告してくれました。しかし一方で、この活動が僕個人の単発イベントで終わってしまっては、砂漠に水を数滴垂らす程度の効果しか生むことができないと、限界を感じました。砂漠に雨を降らせ、森を茂らせ、そこから昇る水蒸気がさらに雨雲を生むようなサイクルを回さなくては、「日本を元気にする」という目標を達成するには至らないと考えました。 そこで、同じ問題意識を持つ全米の大学の留学生や卒業生のネットワークを築けないかと思い立ちました。様々な人が各々の留学経験を語る機会を増やし、より多くの日本の学生をモチベートし、そのうち何人かが海を渡ってきて、僕らの仲間に加わって、そして彼らがまた日本に戻って後輩たちに経験を語り、次の世代をモチベートする。そんな正のサイクルが回り出せば、すぐに「留学」は特別な選択肢ではなくなると思います。海を渡った彼らは、僕らと同じように、きっと留学中に辛く惨めな経験を何度するでしょう。しかし、僕らがそんな辛く惨めな経験に育てられたように、彼らにとっても、そんな経験が未来の活躍の土台になるのだと思います。 この「アメリカ大学院留学説明会コミュニティ」は、かっちりとした組織ではなく、問題意識を同じくする人が緩やかに繋がりあうネットワークをイメージしています。個々人が講演会などのイベントを日本で催す際に、コンテンツや広報、ロジなどで、リソースとノウハウを共有し、助け合うためのネットワークです。活動への参加は任意で、MLに参加することによる責任も義務も一切ありません。気軽に加わっていただければ、と思います。ご興味がある方は、メーリングリストへご登録くださいませ。 また、このメーリングリストを、皆さんの日本人留学生仲間にも知らせていただけないでしょうか。同じ学校の仲間だけでなく、他の学校の友達へも転送していただけると嬉しく思います。 この夏は、5月31日に東工大の坂本先生(コロラド大学ボルダー校卒)が東工大で、7月にStanfordの宮崎さんが東大で、留学説明会を開催してくれます。また、僕自身は5月の帰国時に二つの中学校で講演をする予定です。是非、皆様からもインプットをいただければと思います。どうぞ宜しくお願いします。 - [告知:5/31(月)第三回 アメリカ大学院 留学説明会 @ 東工大](http://hiroono.com/2010/05/07/dhai531iaeo-ycyayeyaco-ioaaian-aiac/) - 過去に二度(第1回、第2回)東大で開催した「アメリカ大学院 留学説明会」。次は東工大へ行きます! 詳細はこのページをご覧下さい。 日時: 2010年5月31日(月) 午後6時?午後8時 場所: 東京工業大学 大岡山キャンパス 西9号館3階 W933教室 今回の主催は僕ではなく、東工大の坂本先生です。加えて、ミシガン大学准教授の倉林先生、ハーバード大学の丹治はるかさんも話して下さいます。 留学を目指している方、なんとなくリュウガクっていいなって思ってる方、留学なんて考えもしなかったけど、それも悪くないな、と思う方。 世界へ飛び出したい方、なんとなく日本に閉塞感を感じている方、旅行が好きで海外生活に憧れている方。 皆様、是非お越しください!僕は今回は喋りはしませんが、会場に顔を出す予定です。 - [UTADA "In The Flesh" 2010 @ Boston](http://hiroono.com/2010/02/08/utada-in-the-flesh-2010-boston/) - 「宇多田ヒカルがボストンでライブをするらしいよ。」 そんな話を友達から聞いたのが去年の11月。僕は取り分けて彼女のファンでもなかったのだが、折角だし一目見ておこうというミーハーな気持ちで、似たようにミーハーなMITの日本人の友達とチケットを買った。 会場は数百人規模の小さなライブハウス。チケットの値段は26ドル。日本ではスーパースターの彼女も、アメリカでは無名の新人扱いだ。ひねくれ者の僕は、「どうせ客はみんな日本人で、それなのにわざとっぽく英語でMCをし、それで日本に帰ったら『全米ツアーは大成功』とぶち上げるのだろう」などと思っていた。 そんな意地悪な予想は完全に外れた。冷やかしのつもりで行った僕は、すっかりウタダのファンになってライブハウスから帰ってきた。 ライブ当日の2月5日金曜日は最高気温が氷点下4度。その寒さの中、開演の3時間前にはもうライブハウスの外に行列が出来ていた。客のうち日本人は半分程度で、残りは日本語ではない言葉を喋る人たちだった。テニスコート程度の広さのライブハウスには座席はなく、平らな一階のフロアを二階のメザニンが囲んでいる。横に長い造りなので、どんなに後ろに立ってもステージまで10メートルもない。所狭しと器材が並ぶ飾り気のないステージは、赤と青の弱い照明に照らされていた。僕らはビールを片手に、前座のDJ何某かが流すいまいち盛り上がらない音楽を聞きながら、ウタダの登場を待った。 じれればじれるほどファンは盛り上がる。誰かがキャーと歓声を上げると皆もつられてキャーと叫び、遂にウタダの登場かと目を凝らすのだが、彼女は現れない。そんなことが何度も繰り返されたのち、とりわけ大きな歓声があがり、紫のひらひらとした衣装を纏ったウタダが現れた。ステージの後ろの照明が彼女のソフトソバージュにした長い髪を明るく光らせた。歓声が止まないうちに演奏が始まり、僕の知らない英語の曲を数曲、立て続けに歌った。ハスキーな声、人見知りをするように時々斜めを見る癖、どうやらホンモノらしい。 「ついに東海岸に来たよ!ボストンに来たのは二度目なんだけど、学生が多くて、若々しい街で、ボストン大好き!」彼女がMCで話す英語は、日本語よりも自然で流暢かもしれない。「私もみんなのように学生だったんだけど、ドロップアウトしちゃったんだ。勉強がとても好きだから、既に(音楽の)キャリアがあったけどコロンビア大学に行った。でも大学に行ってみて、今いちばんやりたいことは歌を歌うことだってわかったから、やめちゃった。でもね、大学におばあちゃんの学生もいたから、私も歳を取ったら大学に戻れるかな。それが私の夢です。」 そう言ってウタダは照れ笑いをした。カッコをつけることも卑屈になることもない素直な話し方に僕は惚れた。 そして、ウタダは少し恥ずかしそうに言葉を日本語に切り替えた。 「今日はわざわざ日本から来てくれた人もいるんだよね。ありがとう!」 そう彼女が言うと、ウォーッとどこかの日本人が叫んだ。 「次は日本語の曲を歌います!」 客は日本人とそれ以外が半々だから、MCも英語と日本語を半々、曲も英語と日本語を半々。アメリカ・ツアーだぜ、というような気負いは全く感じなかった。 後半、“First Love” “Can You Keep a Secret” “Automatic”を続けて歌い、ライブはクライマックスに。やはり知っている曲だと楽しくなる。僕も他の客たちと一緒に体を揺らしながら歌った。客の誰かが大声で叫んでリクエストした「ボクはクマ」という曲を、歌詞を間違えながらも即興で演奏してくれた。アンコールの再登場に客は飛び跳ねて喜び、最高に盛り上がったところで、ライブはぷっつりと終わった。寒い屋外に放り出された後も、僕は興奮と余韻で酔っ払ったような気分だった。 かくして、冷やかしのつもりで行った僕は、すっかりウタダのファンになって帰ってきた。月並みな言葉だが、人を惹きつける何かを、あの小柄な日本人の子は持っている。日本で若くしてスーパースターになろうと、アメリカでは思うようにCDが売れなかろうと、そんなことはどこ吹く風、ただ自分の好きなことを貫いて生きるのだ、そんなブレのない意志が、彼女の人見知りをするような目の奥に感じられるからではなかろうか、そんな風に思った。 それに比べ、彼女と同い年の僕はどうだろう。将来への迷いは意志のブレの表れではなかろうか。27歳のモラトリアムは人を惹きつける要因たりえないだろう。どうも自分には「名を上げたい」という欲があるように思う。しかしその前に、「何をして生きたいのか、」その軸を、ブレなくしっかりと定めなくてはいけないのだ。そんなことを思いながら、未だに答えを見つけられない思い切りの悪い自分に歯がゆさを感じる僕は数百人の客の一人で、その10メートル先のステージで、ウタダがスポットライトと歓声を浴びながら、心から楽しそうな表情で歌っていた。 --- LA公演でのセットリスト。英語の曲はどれが何だったかよく分からないけれども、ボストンでもほぼ同じ曲目だったと思います。 - [留学交流/留学相談フォーム](http://hiroono.com/2009/12/10/444/) - 本日発売の「留学交流」という雑誌に、僕の書いた記事を載せていただいた。世に言う「留学体験記」だ。おおよそ巷に溢れる留学体験記は「異文化に触れ、視野が広がり、世界各国からの友達に囲まれ…」などと留学の楽しい面にばかりフォーカスする傾向がある。ならば僕は留学の苦労話を思いっきり書いてやろうと思い、渡米後に体験した辛さ苦しさ寂しさ情けなさを四ページの紙面に書き付けた。もちろん、僕も四年半の留学生活の中で他の留学体験記に書かれているような楽しさをたくさん味わったのだが、それでも留学で得た一番の経験はあの苦労とその克服だと思うことに偽りはない。 僕が今回の記事執筆の依頼を受けたのは、過去に催した「アメリカ大学院留学説明会」の噂が編集者の方の耳に入り、声がかかったという経緯だ。思いつきで始めた活動が、こうして次のステップへ繋がったことを嬉しく思う。僕にこのような素晴らしい機会を下さった「留学交流」の編集者の皆様に感謝するのみである。 そして、この機会にさらに未来の留学生へのサポート活動を拡大させるために、「アメリカ大学院留学相談フォーム」を設置した。留学を考えている日本の学生さんたちからの質問をこのWebフォームで受付け、現在アメリカの大学院に留学している日本人学生がそれに回答する、というものだ。MITやハーバードの約15人の友人がボランティアを申し出てくれた。今後はFAQやリンク集を設置し、他の大学からもボランティアを募って、サービスの充実を図りたい。熱意溢れる日本の学生さんたちに是非利用してもらいたいと思う。ただし、あくまでボランティア活動なので、回答できる質問の数には限りがあることはご理解いただきたい。 今年も、MITへ応募したいという何人かの学生たちから相談を受けている。彼らが添削してくれと送ってくる英語のエッセイを読むにつけ、ちょうど五年前、僕も彼らと全く同じように、下手糞な英語で一生懸命に願書を書いたことを思い出す。その時の僕は、海の向こうで活躍する自分の姿を頭の中に思い描きながら、静かな興奮に身を震わせていた。どでかいことをしてやるぞという野心に満ちていた。きっと彼らも同じような気持ちで海を渡ってくるだろう。そしてきっとその後に様々な苦労を経験するのだろう。いいじゃないか、それこそが若さだ。野心は冷凍保存するよりも、レンジに入れて爆発させてしまうに限る。元気が良すぎて日本を窮屈に感じている学生たち、是非とも飛び出して来て欲しい。 そして、こんな偉そうなことを言ってみた後で、わが身を振り返る。最近、発言がジジ臭くなったと笑われる。四年半のうちに、冒険は生活となり、挑戦は慣性となった。そんな中で自分は尖り続けていられるか。若いままでいられるか。そろそろ僕にも、新しい冒険や挑戦が、必要な時期なのかもしれない。 --- Buddy you're a young man hard man Shoutin' in the street gonna take on the world some day You got blood on your face You big disgrace Wavin' your banner all over the place We will we will rock you おいそこの若造、気難しい野郎め 天下を取るぞなどと豪語しやがって 顔に血が付いているぜ この恥さらしめ 幟をかざして街中を練り歩け 俺に、俺にかかってこい - [なぜ、左から??メトロポリタン美術館で感じた疑問](http://hiroono.com/2009/11/30/eceyayeyiyyyeyyoethnu/) - Thanksgiving Day (感謝祭)の連休に、一泊でニューヨークへ行ってきた。ボストンからバスで片道四時間、15ドルだから、「ニューヨークへ行きたいかーっ!!」などと鼻息荒く意気込まなくても、東京から伊豆に行くくらいの気軽さで行ける距離である。一日目はミュージカル"In the Heights"を見た後、友達と力尽きるまで飲んだ。 そして二日目はメトロポリタン美術館へ。お目当ては、特別展のためにオランダから貸し出されて来ているフェルメールの名画「牛乳を注ぐ女」だ。とはいえ、僕は絵画鑑賞が趣味なわけでも、造詣が深いわけでも全くない。単に有名だから見てみたいという、ミーハーな動機である。 特別展では、メトロポリタン美術館に収蔵されている他のフェルメールの作品も一緒に展示されていた。例えばこんな絵たちである。 これらを見て回るうちに、ひとつの不自然な事に気付いた。 「全ての絵において、光が左方から当てられている。(光源が左側にある)」 Wikipediaにあるフェルメールの作品リストを見れば、もちろん例外もあるが、この傾向が非常に顕著なものであることが分かる。窓が常に左方に描かれ、そこから差し込んだ光が人物の右半身を照らしている。任意の場所に座って室内をスケッチした場合、窓は右にあっても、左にあってもよいはずである。それなのにどうしてフェルメールは、光源の位置を左側に限定したのだろうか? これはフェルメールの個人的な傾向だろうか、それとも絵画一般の傾向なのだろうか。それを知るため、光源の位置に注意してメトロポリタン美術館を回ったところ、フェルメールほど顕著ではなにせよ、他の作家の作品においても光源が左側にある絵が多いことに気がついた。 そこで、インターネットを使った簡単なリサーチをしてみた。このページに紹介されている「世界の名画」のうち、陰影がはっきりと描かれている絵を光源の左右で分類したところ、左方にあるものが34点、右方にあるものが19点だった。統計調査としては十分ではないが、絵画において光源を左側に置く傾向が存在するものと思われる。 左右とは、相対的で主観的な概念だ。あなたの上は僕の上だが、あなたの左は僕の右にも左にもなりうる。全てこの世界においては左右は本質的な意味を成さず、ゆえに左右は対称である。それなのに、その世界を写し取ったはずの絵画において、左右の対称性が人為的に破られている。これには何か理由があるに違いない。 なぜだろう? --- この質問をGoogle先生に聞いたところ、「MSN相談箱」にこのような投書があった。ここであげられている理由は以下の2つである。 ?西洋では、文字と同じく、絵も左から右に見る傾向があるから ?英語で"right"が「右」とともに「正しい」「権利」という意味を示すことから分かるように、西洋では右が善を表す。画中の人物の右側を照らすように、光が左から当てられている。 まず、?は単なるこじ付けのように思う。宗教的価値観が理由ならば、宗教画においても右光源の例外を容易に見つけることができることを説明できないからだ。宗教画を通してイエスの生涯を追う遠藤周作の著書「イエス巡礼」に紹介されている絵画15点のうち、右光源のものが3点あった。(左光源が9点、光源位置が不明のものが3点。)やはり左光源のものが有意に多いが、右光源も決して少ない頻度ではない。以下に転載したGerard Davidの「カナの婚宴」がその一例である。 一方、文字の筆記方向を根拠とした?の仮説は、?よりも説得力を感じる。しかし、左から右へ文字を「読む」習慣が絵を「見る」方向に影響を及ぼしているのではなく、左から右へ文字を「書く」習慣が絵を「描く」方向に影響を及ぼしていると考えるほうが自然だろう。なぜなら、まさか絵の鑑賞者が秒速30万kmの光の進行を絵の中に「読む」ことはあるまいし、右光源の絵を見ても光が逆行しているようには決して見えないからだ。それよりも、画家が普段、左から右へ文字を筆記する習慣が、絵を描く段階において、光のような方向性を持つものを描くとき、左から右へ描く癖となって現れると説明するほうがもっともらしい。 この仮説を検証するには、文字を右から左に書く東洋やイスラム世界の、西洋画の影響を受ける前の時代の絵画と比較すればよい。しかし、僕の乏しい知識とGoogle検索では、陰影を持つ東洋画やイスラム画は見つけられなかった。(たとえば、浮世絵に陰影は付けられていない。)陰影とは西洋画においてのみ発達した技法なのだろうか。 また、一行ごとに文字を書く方向を逆にする「牛耕式」という筆記方法がある。古代ギリシャが牛耕式を用いた文化の典型例で、彼らは陰影が付いたモザイク画も残している。しかもギリシャでは時代が下るにつれ牛耕式が捨てられていき、現在の左から右へと筆記する方法に変わっていったので、光源の方向の時代ごとの傾向を知ることが出来れば、面白い研究になるだろう。しかしもちろん僕の知識は及ばず、これをまじめに研究する時間もない。もし既出の研究があれば、教えて欲しい。 ??の仮説に加え、利き腕を原因に帰す考えもあろう。右利きならば左から射す光線光線のほうが描きやすい、そういった理由だ。しかし、例えば左利きであったレオナルド・ダヴィンチの作品の多くは左光源である。また、もし利き腕が左光源の理由ならば、光源の左右は画家固有の特徴となるはずである。しかしフェルメールもダヴィンチも、数に偏りはあるが、左右どちらの光源で描かれた作品も存在する。 こんなことを考えているうちに、思い出したことがある。中学校の頃の古文の期末試験で、「徒然草」の猫又(猫の妖怪)の描写を読み取り、その絵を描けという問題が出た。絵心のカケラもない男子ばかりが集まった進学校だったので、四足に中年オヤジの顔が乗ったような人面猫、なぜか火を吹いている怪獣から、動物にすら見えない物体まで、それはそれは「迷作」ぞろいだった。面白がった先生が、名回答・珍回答をまとめて印刷し、授業で配った。良い笑いのネタになったことはもちろんなのだが、そこに興味深い傾向が見つかった。ほぼ全ての絵において、猫又が左向き(つまり、頭が左、体が右)に描かれていたことだ。 mixiアプリに、「記憶スケッチ」なるものがある。与えられたお題の絵を何も見ずに描き名作や迷作を公表し合うという、上述した期末試験と似たコンセプトのアプリだ。そこで描かれた「猫」の絵200点を調べたところ、左向きが35点に対し、右向きはわずか1点だった(他の164点は顔だけのものや直立二足歩行しているものなど)。これは非常に顕著な傾向である。左利きの割合はおおよそ10%だそうだから、この傾向は利き腕だけでは説明できないだろう。もちろん、高校生やmixiユーザーたちが「右は善」などといった宗教的観念に基づいて猫を左向きに書いているとも考えられない。 陰影の光源。猫又の向き。この二つが関係しているかどうかは分からないが、絵を描くという行為の中で、左右に関する偏った傾向があることは事実のようである。そして、僕の直感では、文字の筆記の方向と関係しているという仮説が、一番もっともらしく感じる。 とはいえ結局、絵画における「左光源問題」は僕の中で未解決のままだ。どなたか、絵を描く人、あるいは絵の教養がある方、もし理由をご存知ならば教えて下さい。 --- ところで、メトロポリタン美術館では"Arts of the Samurai: Japanese Arms and Armor, 1156–1868"なる特別展が同時に開催されていて、「牛乳を注ぐ女」と比べても遜色ない盛況ぶりだった。日本全国の博物館や寺社から借りてきたおびただしい数の刀や鎧が、惜しげもなく並べられていた。そしてその殆どが国宝や重要文化財である。個人コレクションからの出展もあり、これほどの密度の展示は日本でもなかなか見ることができなだろう。1月10日までの企画だそうなので、NY近郊にお住まいの方、是非行ってみてはいかがだろうか。 --- 僕がmixiアプリ「記憶スケッチ」で描いた猫。ご覧のとおり、僕も「絵心のカケラもない男子」の一員です・・・。。。 - [宇宙開発におけるリーダーシップ ~H-IIBロケットの成功にあたって~](http://hiroono.com/2009/09/12/253/) - H-IIBロケット初号機の打ち上げは、100点満点の素晴らしい成功だった。ロケットの積み荷は、国際宇宙ステーションへの補給という重大な任務を背負った無人補給船、HTVだ。 新しいロケットの初号機は、テストのために何も載せずに打ち上げられるのが普通である。しかし今回のH-IIBロケットは、初号機だというのに、いきなりHTVという世界が注目する重要な積み荷を載せていた。若葉マークの車に総理大臣を乗せるようなものだ。まさにぶっつけ本番である。恐らくテスト機を打ち上げるお金も時間も足りなかったからだろう。それにも関わらず、一発で手堅い成功を収めた。日本の技術力の高さが証明されたと、胸を張って世界に主張できる成功である。 しかも、このロケットの開発費はたったの270億円だったそうだ。もちろん僕の財布の中身と比べれば大変な額なのだけれども、大型ロケットの新規開発には1兆円単位のお金が使われるのが常である。乗用車の開発費でさえ、一車種につき約1,000億円かかると言われている。モノの開発とは、それだけお金がかかるものなのだ。だから、たとえこのロケットは完全な新規開発ではないとはいえ、クルマを作るよりもずっと安い値段で日本最大のロケットを完成させてしまったことには、驚く他ない。きっとJAXAや三菱重工のエンジニアたちは、残業手当も貰わずに深夜まで必死に働いたのだろう。本当に頭が下がる。 オレンジ色の部分がH-IIBロケット。先っぽに付いている紫色のモノがHTV。(Image courtesy of JAXA) ロケットに積まれていた無人補給船・HTVも今回が初飛行で、今後一週間に渡って宇宙を航行した後、国際宇宙ステーション(通称ISS)にドッキングする。その目的は、食料や水、実験器具などを補給することである。ISSに長期滞在している宇宙飛行士は、久々に新鮮なご飯にありつけるわけだ。 HTVの成功を、日本だけではなく、アメリカやヨーロッパも待ち望んでいるのは、単にそれが美味しい日本食を運んできてくれるからだけではない。ISSの今後を左右する重要な役割が、HTVに課せられているからなのだ。現在、ISSへの補給の中核を担っているのは、アメリカのスペースシャトルである。しかし、スペースシャトルは来年には引退してしまい、後継機のオリオンが初飛行をする予定の2015年までには5年の空白がある。その空白を埋めるのが、ロシアのプログレス、ヨーロッパのATV、そして日本のHTVという、各無人補給船なのである。 一方、アメリカにも無人補給船の計画があるのだが、開発から打ち上げまでの一切を、NASAは民間企業に委託している (Commercial Orbital Transportation Services program)。SpaceX社が開発しているDragon、そしてOrbital Sciences社が開発しているCygnusという宇宙船がそれだ。宇宙船の開発をベンチャーがやってしまうあたり、さすがアメリカなのだけれども、これらの無人補給船が2010年のシャトル退役に間に合うのかといえば、甚だ怪しい。両宇宙船は、それぞれの会社が自社開発するロケットで打ち上げられるのだが、SpaceX社が現時点で運用する唯一のロケットであるFalcon 1は、今までに5回打ち上げられ、3度失敗している。しかもDragon補給船を打ち上げるには、Falcon 1より10倍以上も大きなロケットを新規に開発しなければいけないのだ。道は険しい。一方のOrbital Sciences社は、ロケットの実績は十分なのだが、補給船の開発をスタートしたのが遅かったため、初飛行は早くても2011年になるという。 もしDragonやCygnusがシャトル退役に間に合わなかった場合、日本のHTVの重要性はますます高まる。ロシアのプログレスはもちろん、ヨーロッパのATVもロシア側のドッキング・ポートを用いるため、下の表が示すように、HTVでなくては運ぶことができない物があるからだ。 表:各国の無人補給船の比較 宇宙船 国 最大積載量 運ぶことが出来る積み荷 水、食料 燃料 ISPR 非与圧ペイロード プログレス ロシア 2.6t ○ ○ × × ATV ヨーロッパ 7.7t ○ ○ × × HTV 日本 6.0t ○ × ○ ○ Dragon (計画中) アメリカ(民間) 2.5t? ○ - [衆議院選挙/消去法で自民党](http://hiroono.com/2009/08/30/216/) - 今回ほど、投票先に悩んだ選挙はなかった。積極的に票を投じたいと思える政党が、一つも見当たらなかったからだ。どこかの週刊誌が、「自民は不満、民主は不安」と書いていた。上手く言ったもんだと思う。両方ダメなら、少しでもマシな方を選ぶしかあるまい。 悩んだ末に、自民党に投票した。両党のマニフェストを読み比べ、民主党の長期ビジョンの欠落と、人気取りとしか思えない安易な政策に落胆したからだ。 政権交代は結果であって、目的ではない 多くの人は、「政権交代が必要だから民主党に投票する」と言っている。これは投票先を選ぶ理由としては、適切ではないと思う。確かに、自民党は長く政権に居過ぎで、その弊害は大きい。複数の政党が政権の座をめぐって競争する環境の方が、健全な民主主義と言える。しかし、政権交代は、あくまで結果であり、それ自体が目的であるべきではない。野党が政権を取ったほうが、より国が良くなると有権者が判断したとき、結果として起きるのが政権交代だ。ただ首を取り替えさえすれば物事が良くなるわけではない。それどころか、現状より悪くなるリスクもあるのだ。 今回の選挙では、溜まりに溜まった自民党への不満が、民主党への期待に化けているという感がある。たしかに人は、現状に不満があるとき、新しいものに漠然とした期待を見出し、それに飛びつく傾向があるものだ。 しかし、非常に極端な例だが、過去にはこんな歴史がある。1932年、ドイツ国会議員選挙。当時のドイツでは、世界恐慌と、第一次世界大戦敗戦によって課せられた巨額の賠償金の支払いにより、経済は破綻し、街頭は失業者で溢れかえり、国民は不満を爆発させていた。そこへ、「経済再建」「失業問題の解決」「農民の救済」を掲げる、新しい党が現れた。ドイツ国民が抱え込んだ不満は、その政党への期待に化けた。結果、その党が第一党になり、翌年、その党首が首相となった。その党の名前はナチス、党首の名は、ヒトラーである。 もちろん僕は、日本の民主党とナチスを同一視している訳では断じてない。民主党はナチスのように偏った思想は持っていないし、ましてや独裁政権を打ち立てて、反対する者を抑圧することなど、決して考えられない。 僕が主張したいのは、不満の捌け口として、ただ漠然と新しいものを求めることのリスクだ。感情に任せてピッチャー交代を告げることの危険性だ。「交代」によって保証されるものは、変化でしかない。それが良い方向への変化か、悪い方向への変化かについては、何の保証もないのだ。 実績と政策によって選ぶべき 投票先の判断基準は、提示する政策と、過去の実績であるべきだ。皆、不満はある。しかし、自分たちの未来を良くするためには、感情を排し、理性で以って判断を下すべきだ。 政策を比べる 自民と民主の政策の差は、前回の選挙に比べ、小さくなった。両党ともに、「支出のムダを無くす」「地方活性化」「中小企業支援」「環境対策」などを主張する。自民が民主の政策に擦り寄った感じがする。これを自民の不甲斐なさと取るか、あるいは「国民の声に耳を傾けた」と取るか。 - [アメリカ大学院 留学説明会のお知らせ](http://hiroono.com/2009/08/07/ycyayeyaco-ioaaianiaie/) - [追記:9/5]お陰さまで留学説明会は大盛況でした。スライドとビデオをアップロードしました。[追記おわり] --- 帰省中の8月19日(水)午後1時より、東大にて、「アメリカ大学院 留学説明会」を催します。ぼんやりと留学に憧れている方、何がなんでも海外志向の方、どんな方でも興味があればぜひお越しください!!! 日時:8月19日(水) 13:00~14:00 場所:東京大学工学部 工学部11号館1階講堂 (地図はこちら) 講演者: 小野雅裕 (マサチューセッツ工科大学 航空宇宙工学科博士課程) 坂本啓 (東京工業大学 大学院理工学研究科 機械宇宙システム専攻・助教) 西野麻理 (カリフォルニア大学サンフランシスコ校 生化学博士課程) 後援: 東京大学工学系研究科・工学部 国際交流室 MIT日本人会 Science and Technology Leadership Association 「アメリカの大学院生はお給料をもらって勉強している」という事実は、あまり日本では知られていません。アメリカのトップの大学院では、学生のほとんどは、Research Assistantship(RA)やTeaching Assistantship(TA)によって学費を全てカバーされるだけではなく、毎月の生活費をまかなうのに十分な給料も支給されています。経済的な心配をすることなく、世界中のエリートが集まる最高の環境で勉学に励み、学位を取ることが出来る、そんな素晴らしいチャンスがあることを皆さんに知っていただくことが、説明会の目的です。 交換留学や語学研修だけが留学ではありません。学位の取得を目的とした長期の留学は、苦労は多いけれども決して高いハードルではなく、そこで積む濃密な経験や、その後に拓ける国際的なキャリアは、他の何からも得がたいものです。 説明会では、アメリカ大学院のシステムから、出願方法、留学準備、奨学金やRAの探し方、卒業後の進路、海外生活の小ネタまでを、講演者自身の留学経験を基にお話します。 お誘い合わせの上、ふるってご参加ください。 - [スペースシャトル打ち上げ見学記/宇宙開発の意味とは](http://hiroono.com/2009/07/20/yyuyyyayeyeacaaouaeeioiei/) - フロリダのケネディー宇宙センターへ、スペースシャトルの打ち上げを見に行った。しかし打ち上げは延期に次ぐ延期で、僕は研究の都合でボストンに帰らざるをえず、残念ながら打ち上げの場に居合わせることはできなかった。 (↑幸運にも打ち上げを見ることができた友達の写真。心底羨ましい・・・) 僕は子供の頃からの「宇宙オタク」だ。火を噴いて空へと飛び上がり、未知の世界を旅する宇宙船のカッコよさに憧れて、夢を見たまま大人になり、気がつけばそれを自分の専門にしてしまった。だから、打ち上げを見ることには、並々ならぬ情熱があるのだ。 スペースシャトル・エンデバー号の打ち上げは、当初は6月13日土曜日の早朝に予定されていた。同じく宇宙オタクの友達と一緒に金曜日の夜に飛行機に飛び乗り、いざフロリダへ。しかし、空港に降り立ち、携帯電話でニュースをチェックすると、「燃料漏れで打ち上げ中止」の報が入っていた。旅の出だしで、旅の目的が失われてしまった。悔しさを紛らわすためにディズニーランドやビーチで遊び、ボストンへ帰った。 打ち上げの仕切り直しは7月11日の土曜日に決まった。前回の無念を晴らそうと、僕らは再び常夏のフロリダへ飛んだ。空港に着いて恐る恐るニュースをチェックすると、今回は燃料漏れもなく順調だという。ギラギラと照りつけるフロリダの太陽に、熱に満ちた空気を肺に吸い込み、短パンにサングラスという格好で開放感に浸りながら、高速道路をケネディー宇宙センターの方へ突っ走った。 しかし。その途中に友達が再び携帯電話をチェックすると、またもや打ち上げ延期の報が入っていた。意気消沈する車内。しかし救いは、延期が24時間であったことだ。翌日に、チャンスはある。 日曜日、昼までビーチで波に揉まれて遊びながら、夕方の打ち上げを待った。携帯でニュースを見れば、システムは全て順調で、宇宙飛行士もスペースシャトルに乗り込んだという。今日こそは打ち上がるはずだ。打ち上げの二時間ほど前に、川を挟んでシャトルの発射台を望む公園に着いた。道は路上駐車の車で溢れかえり、公園はカメラを構えた大勢の人でごったがえしていた。カウントダウンも既に始まっていたが、一方で、天候が思わしくない、との情報も入っていた。頼む、打ちあがってくれ…。 期待と不安に揉まれながら時間が経つのを待った。そして打ち上げ10分前にアナウンスが入った。「雷雲が近づいているため、打ち上げを24時間延期します。」公園に集まっていた人たちは、一斉に溜息を漏らした。 本来僕は、月曜日の朝にボストンへ帰る予定だった。しかしこのままでは帰れない。帰りの航空券を捨て、フロリダに残ることにした。この日は運良く、ケネディー宇宙センターの中の特別観覧席に入るチケットを入手できた。昨日よりもずっと近くにシャトルが見える。大きなカウントダウン・クロックが、一秒一秒、打ち上げまでの残り時間を刻んでいる。今日こそは…。 しかし、またもや打ち上げ10分前に、天候不順のため、打ち上げ延期が決定された。しかも今度は48時間の延期だ。水曜日に外せない研究の予定があった僕は、泣く泣くボストンに帰った。 結局、シャトルは水曜日に打ちあがった。それをテレビで見ていた僕は、悔しさで素直に打ち上げの成功を喜ぶことができなかった。 ----- スペースシャトルは、工学的には完全な失敗作である。「シャトル」という名前が意味するように、本来の計画では、地球と宇宙の間を、シャトルバスのように、いつでも、気軽に、安く、安全に往復できるシステムになる筈だった。年間50回の飛行を行い、コストは従来のロケットの数分の1程度に抑えられる筈だった。 しかし実際に出来た物は、従来のロケットの10倍のコスト(一回の飛行当たり500 - 800億円)がかかり、年に5、6回の飛行がせいぜいで、少しでも天気が悪ければ打ち上げることが出来ない、高くて使い勝手が悪いシステムになってしまった。その上、過去に2回の大惨事を引き起こし、合計で14人の宇宙飛行士が命を落とした。成功率98%は、安全なシステムと言うには程遠い。本来の目標が忘れ去られ、「シャトル」の名だけが残ったのは、何とも皮肉だ。もしこれが一般企業のプロジェクトならば、確実にもっと早く打ち切られていただろう。スペースシャトルが今まで使われ続けたのは一重に、税金によって費用が賄われる国家プロジェクトであるからだ。その意味では、日本で猛烈な批判に曝されているダムや高速道路と、大差はないのだ。 では、不況でどこもお金が足りない中、なぜこんな金食い虫のプロジェクトを、国民は支持するのだろうか。ダムや高速道路と違い、宇宙開発は国民の生活には何の役にも立たないのに、なぜ批判されないのだろうか。 カッコいいからだ。抵抗しがたいほどにクールで、エキサイティングだからだ。僕がスペースシャトルを批判しつつも、打ち上げを見に行くことに情熱を燃やすように、皆、多かれ少なかれ、宇宙へ飛び立つ科学技術の結晶に、興奮し、夢や希望を見出すからだ。その成功は国の威信となり、人類の誇りとなり、人間文明が到達した高みを証明する記念碑となるからだ。 現代における宇宙開発の位置づけは、古代エジプトのピラミッド、奈良時代の大仏、中世ヨーロッパのカテドラル(大聖堂)、そんなものと似ているのではないかと思う。国家主導で莫大なコストを使って建てられたそれらの建造物は、人々の物質的な幸福には何の役にも立たない代物だ。それどころか、建設には大勢の人が苦役を強いられ、命を落とした者も多かっただろう。しかしそれらは間違いなく、人類の歴史に燦然と輝く傑作に他ならない。ピラミッドや大仏やカテドラルがない人類の歴史はきっと、面白みの薄いものであっただろう。 スペースシャトルが人類の歴史に残るかは甚だ疑わしいが、ユーリ・ガガーリンによる人類初の宇宙飛行、そしてニール・アームストロングの月面着陸、これらは間違いなく、一千年後の未来にも語り継がれる、人間文明の金字塔となるだろう。そしてもし人類が火星の土を踏むことになれば、それは月面着陸を超える偉業として人類の歴史に刻み込まれることだろう。一時代前の人間文明の象徴は宗教的情熱によって打ち立てられたが、20世紀にはそれが科学技術に取って代わられたことは、とても興味深い。 アメリカは既に、月、火星、そしてさらにその先の宇宙へ人間を送り込む計画を発表している。玉虫色がお家芸の日本は何がやりたいのかさっぱり分からないが、何かしらん大きな事をしたいようだ。これからも宇宙へ巨額の投資を続けることは、果たして正しいのだろうか、あるいは無駄なのだろうか。 僕は、人類の歴史が物質的幸福の追求と戦争の繰り返し以上のものであるべきだと、強く思う。そして宇宙開発こそが、科学技術の世紀の記念碑たるにふさわしいと信じる。人間はいつか火星の土を踏むべきだし、その先へも進むべきだと思う。 しかし一方で、目を宇宙から地球に転じれば、アメリカでは医療保険にあぶれた人が大勢いて、日本の国家財政は借金まみれ。世界人口の7人に1人は飢餓に瀕し、地球温暖化は急速に進行している。どのくらいの金額まで宇宙に投資してよいのか、そのお金をどう使うか、そしてどのタイミングで使うかは、議論の余地があろう。ほとんどの人にとっては、立派な墓碑を建てることよりも、今日食べるパンを得ることのほうが重要なのだ。火星を目指すのは、地球の問題を解決してからでも、遅くはないのかもしれない。 古代エジプト文明は、巨大なピラミッドを歴史に遺し、滅び去った。現代文明は、その轍を踏んではならない。 - [STeLA Leadership Forum 2009 参加者募集+説明会開催のお知らせ](http://hiroono.com/2009/04/12/stela-leadership-forum-2009-aoecuaaianaiaie/) - 3年前にボストンの仲間たちとゼロから立ち上げたSTeLA (Science and Technology Leadership Association)も、遂に3度目のフォーラムを催すに至りました。その参加者募集の告知です! STeLA Leadership Forumとは、毎夏に熱意に溢れた大学生が世界のあちらこちらから集まって一週間の合宿をし、世界を取り巻く忌々しき問題について真剣に議論し合うという企画です。今年のテーマは「科学技術の軍事利用と平和利用」。北朝鮮が打ち上げたのがミサイルなのか人工衛星なのか、などと騒がれている昨今、非常にタイムリーなトピックなのではないでしょうか。 今年は日米中に加えて、フランスからも学生が参加する予定。順調に一年に一国ずつ参加国が増えています。このままいけば200年後には地球全てがSTeLAに呑み込まれるはず!でも願わくば、その頃には「国」なんて概念は、無くなっていて欲しいな。 過去のフォーラムの様子 ? 2007 ・ 2008 以下、告知文のコピペ。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆ ☆★☆★☆ ★☆★☆ 次世代の国際科学技術リーダーシップ育成フォーラム ☆★☆ STeLA Leadership Forum 2009 参加者募集&説明会開催のお知らせ ★☆ ☆ 日時:2009年8月23日(日)?8月31日(月) ★ 開催地:国立オリンピック記念青少年総合センター ☆ 主催:STeLA ( http://web.mit.edu/stela-mit/jp/ ) ★ 共催:MIT-Japan Program( http://mit.edu/mit-japan/ ) STeLAとは STeLA ( Science and Technology Leadership Association )は、 米国・ボストン近郊の大学(MIT, Harvard...) : STeLA-USA 中国・北京近郊の大学(北京大, 清華大...) : STeLA-China 東京近郊の大学(東大, 東工大, 慶應大, 早稲田大....) : STeLA-Japan フランスのグランゼコール(Ecole Polytechnique, - [春/Keep In Touch Project](http://hiroono.com/2009/03/29/okeep-in-touch-project/) - 東京では桜がもうすぐ満開だそうだ。年度の変わり目は、卒業、進級、入学、入社、別れに出会い。寂しさとワクワク感との境目が、暖かい日に照らされてぼやけ、滲み、混ざり合い、この時期独特の甘い感情を生む。時間の経過を否応なく思い知らされるこの季節に、人々は桜並木の下に集まって、酒を飲み、話し、歌いながら刹那を楽しむ。これは日本人が持つ不思議なバランス感覚かもしれない。 一方で、ボストンの三月終わり、四月頭は、まだ何の色も香りもない。川の氷が融け、サマータイムも始まって夜が長くなったが、まだ木は丸裸で、真冬に戻ったように冷え込む夜もしばしばある。まだまだ年度のど真ん中だから、会社も学校も平常運転で、目の前の仕事、目の前の勉強に追われ、人々はせかせかと廊下を歩いている。 だからこの季節ばかりは、日本への郷愁に強く駆られる。自分の空想の中に桜を咲かせ、様々の思い出に耽る。 --- ふと思い立って、昔お世話になった友達や先輩、先生、知り合い、親戚などに、メールを出してみることにした。名づけて"keep in touch project"。 Keep in touchとは、別れの際に、「これからも連絡を取り続けようね」という意味で使う表現だ。日本語にしかない便利な表現もたくさんあるが、英語にしかない便利な表現もたくさんある。 僕はkeep in touchが苦手な人間かもしれない。昔、毎日のようにつるんで、旅行も一緒に行った友達とすら、気付けば何年も音信不通だったりする。筆不精にかまけて、自分の根っこが日本からどんどん消えてしまっているのかもしれない。仲良くなったのも、お世話になったのも、きっと何かの縁。人の縁は大事にしなくては。 --- 手始めに、今週末は東大航空宇宙工学科の友達に連絡することにした。しかし、いざメールを出そうとしたら、メールアドレスを失くしてしまった友達や知り合いが多くいることに気付いた。アドレスが変わって、メールが届かなかった人もたくさんいた。長い間の無沙汰を反省するばかりである。 そんなわけで、僕が過去にお世話になったにも関わらず、この数週間内に僕からご挨拶のメールが届かなかった方、本当に申し訳ないのですが、ご連絡を頂けますでしょうか。これからはもう少しマメに、近況報告をしたいと思います。 今までお世話になった皆様、これからも是非是非、keep in touchで、お願いします。 - [毛抜きがない!](http://hiroono.com/2008/09/23/ycyyoy/) - 僕にはアゴヒゲがない。アゴだけではなく頬にもない。剃る蓄えるの問題ではなく、そもそも毛根がない。だからといって、上、下、必要な場所には生えるべきものがちゃんと生えているから、特に困ることはない。仙人やサンタクロースや伊藤博文にはなれないだろうが、そういうキャリアを歩むつもりは今のところないので、何ら心配もない。 しかし、人間が猿だった名残で尾てい骨があるように、僕も人間だった名残でアゴから頬にかけて15個程度の毛根がある。鏡を見ても目立たないけれども、指の先で撫でてみれば、平らな皮膚を突き破ってプチプチと針のような剛毛がまばらに起立しているのが分かる。 こやつらが暇を持て余した手の格好のおもちゃになる。脳が本やテレビに集中している時、意識の統制を離れて自由を得た手は、毛を求めてアゴや頬を探りだす。そして猛り立つ剛毛を発見すると、手と毛との勝負が始まる。手は親指の爪の先と人差し指の爪の先を慎重に近づけて毛を捕獲し、覚悟を固めてグイと引っ張る。連れ去られてたまるものかと毛は皮膚にしがみつき、頑強に抵抗する。力と力のぶつかり合いだ。しかし毛の抵抗は長くは続かず、負け惜しみに痛みを置き土産して、毛穴から引きずり出される。勝利した僕の脳には快感物質が大量に放出され、BGMには「ハレルヤ」が流れる。 一方で、うまく抜けない時のじれったさといったらない。特に短い奴らが抜きづらい。捕獲したと思っても、引っ張るとすぐに爪と爪の間から毛が逃げてゆく。何度勝負を挑んでもすぐに逃げられる。もしや抜けてはいまいかと指の腹で確かめてみれば、毛は勝ち誇ったかのようになおも皮膚から直立している。敗れた僕の指は悔しさに震え、足は貧乏ゆすりを始める。脳には不満物質が鬱積し、体中が痒く感じ、もはや読書にもテレビにも集中できず、何だかもうウギャァァァーーーと叫びたい気分。そんな時のBGMはニルヴァーナ、"Smells Like Teen Spirit". そんな時のために、僕の部屋の机には毛抜きが常備してある。これさえあればどんなに短い毛でも確実に抜き去ることができる。武士の真剣勝負に機関銃を持ち込むようで少々卑怯な気がするし、勝利の喜びも半減なのだが、僕の精神の安定のためには致し方あるまい。 しかし、そんな大事な毛抜きが、昨日から行方不明なのだ。手で抜ける毛は抜きつくしたが、まだ4本ほど短くてしつこいのが残っている。こやつらがどうしても抜けないのだ。ただでさえ阪神が巨人に三連敗してフラストレーションが溜まっていたから、イライラは限界だ。脳に溜まった不満物質は既に危険なレベルにまで達している。BGMではカート・コバーンが叫びっぱなし。右手で毛と戦いつつ、左手で机を探す。机の下に潜り、ベッドを動かす。見つからない。毛が僕の頬に突き刺さったまま、僕を嘲笑う。悔しくてじれったくて、勉強も研究も手につかない。 藁にもすがる思いで、Wikipediaで「ヒゲ」と調べてみた。ヒゲは一日に0.4mm伸びると言う情報を得る。とすると、こやつらが手で抜ける長さ(ie. 約1mm)まで育つには、あと二日も待たなければいけないということだ。しかしその頃には別の毛根から新たな毛が生えてきて、僕を悩ますだろう。そしてその毛が手で抜ける頃には、また別の毛が生えてくるだろう。無限の連鎖。終わりのない苦悩のループ。ああ、僕は運命を呪う。この悲劇をギリシャ神話のシーシュポスに重ねてみる。彼は神の命令で巨大な岩を山頂まで運び上げるのだが、あと少しのところで必ず岩は谷の底へ転がり落ち、彼はこの苦行を永遠に繰り返すことを強いられた。しかしシーシュポスがこのような羽目になったのは、神との約束を破ったからだ。僕が何の悪い事をしたというのか。レジのおばちゃんがお釣りの計算を間違った時に、黙って5ドル多く受け取ったりもしたが、こんな罰を受ける筋合いは無いはずだ… しかし、無限に続くと思われた苦しみにも、終わりの時が来た!突然雲が裂け、光が差した!ノートパソコンの無線LANカードに毛抜きが引っかかっているのを発見したのだ! 取り戻した毛抜きで、早速残っていた四本の毛を抜いた。さっきまで僕を嘲笑っていた毛たちは、驚くほどあっさりと抜けていった。戦国時代の首実検ように、抜いた四本の毛を机の上に並べ、勝ち誇った目で見下ろした。不満物質は渦を巻いて脳から排出されてゆき、代わりに快楽物質が脳を満たしていった。カート・コバーンの叫び声は止み、代わりに「ハレルヤ」の大合唱が沸き起こった。 かくして、僕の精神は平和を取り戻した。静かな夜が、安らかな眠りが、毛抜きと共に僕の元に戻ってきた。今夜はいい夢が見れそうだ。 ちゃんちゃん。 注:僕は今でも人間です。 - [J Magazine](http://hiroono.com/2008/06/24/j-magazine/) - J Magazineという、ボストン界隈の日本人向け情報誌に載りますた。 J Magazie 6月号 「人物インタビュー Focus On!」 (なぜかページタイトルは「船越真樹さん」になってる・・・) といっても、内容は僕自身の事ではなく、全てSTeLAのことです。だからインタビューされたのは、ホントは僕ではなくてSTeLA。 いつか将来、僕自身が成し遂げたことでインタビューを申し込まれるくらいになってやります! - [【告知】 STeLA Leadership Forum 2008 in Boston!](http://hiroono.com/2008/04/15/dhai-stela-leadership-forum-2008-in-boston/) - 僕がかれこれ2年半も携わっているSTeLA (Science and Technology Leadership Association)の合宿が、今夏も催されます。その参加者募集の告知です。 STeLAとは、「次世代の科学技術リーダーシップの育成」という、なんとも大げさな看板を大真面目に掲げる団体。その看板に恥じないよう、合宿 では、汗かきべそかき、笑いあり興奮あり涙ありの、濃縮に濃縮を重ねた10日間を皆様にご提供いたします。(詳細は去年の日記をご覧あれ。) そして今年の開催地はボストン!利根川進の講演付き!いつもの夏とは一味違った経験をしたいという方、ガンガン応募してきてください! ところで、STeLAの活動は「理系」だけに的を絞ったものではありません。様々な分野の人が集まって、科学技術の視点から未来を考える合宿です。だから「文系」の人も more than welcomeです!! ---- プロモーションビデオ↓ http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/~qq076311/files/stela0131.wmv □■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□ ■□■□■□ ?あなたの研究は世界をどう変えますか?? □■□■□ ■□■□ 次世代の国際科学技術リーダーシップ育成フォーラム □■□ STeLA Leadership Forum 2008 参加者募集&説明会開催のお知らせ ■□ □ 日時:2008年8月2日(土)?8月9日(土) ■ 開催地:マサチューセッツ工科大学( http://mit.edu/ ) □ 主催:STeLA ( http://web.mit.edu/stela-mit/index-j.html ) ■ 共催:MIT-Japan Program( http://mit.edu/mit-japan/ ) □STeLA STeLA (Science and Technology Leadership Association)は、アメリカ・ボストン近郊の大学(MIT、Harvard...)、中国・北京近郊の大学(清華大、北京大...)、東京近郊 の大学(東大、東工大、電通大...)の学生によって運営されている、国際的な科学技術リーダーシップの育成を目標とした学生団体です。 ■STeLA Leadership Forum 2008 STeLAがMIT Japan Programの共催のもと開催する、「次世代の国際科学技術リーダーシップ育成」をテーマにした、アメリカ・中国・日本の大学の大学院生を主な対象とす る、2008年8月2日(土)?8月9日(土)の8日間に及ぶリーダーシップ育成フォーラムです。 また、本フォーラムでは、 ・MIT - [公募ガイド](http://hiroono.com/2008/04/14/oecyyye/) - ちょいと自慢。 「公募ガイド」という雑誌の5月号に載りました!「賞と顔」というコーナー、22ページ目です。書店に立ち寄る機会があれば、是非チェックしてみてください。 - [「きぼう」の価値は?](http://hiroono.com/2008/03/12/ouiaaii/) - 国際宇宙ステーションの日本モジュール、「きぼう」の第一便が打ちあがった。構想から20年、開発に携わったエンジニアたちの喜びはひとしおだろう。「きぼう」の打ち上げは日本の有人宇宙開発の第一歩であり、その成功は日本の誇りと言ってよいと思う。アポロやスペースシャトルに憧れて宇宙工学の道に進んだ僕も、テレビに張り付いて今回のシャトルの打ち上げの中継を見守った。 しかし、である。とにかくこの宇宙ステーションは金食い虫だ。1988年の計画開始から2016年の運用終了までの、日本の出費の見積もりはおおよそ1兆円、全ての参加国の予算総額は約14兆円にも上る。「きぼう」は、そして、国際宇宙ステーションは、果たして投資額に見合うだけの価値はあるだろうか。 完成した状態で海に捨てるために作る。 アメリカの本音は(そしておそらく日本も)、一刻も早く金食い虫の宇宙ステーション計画を打ち切りたくて仕方がない、ということのようだ。それなのに、なぜ作り続けるのか。 表向きに語られる宇宙ステーションの目的は、人類の夢、国際協調、科学技術への貢献、加えて、有人月・火星探査への足がかり、そんなところだ。もちろんそれは本音ではない。僕が修士の頃に在籍していたMITの研究室に、NASAの宇宙飛行士が見学に来たことがある。彼との会話の中で、彼ははっきりとこう言った。 「宇宙ステーションを完成させる目的は、ヨーロッパと日本に対するオブリゲーション(義務)を果たすためだ。」 つまり、作らなきゃいけないから作ります、そんな程度のモチベーションなのだ。15もの国がそれぞれに国家の威信をかけて参加する宇宙ステーション計画では、勝手に「一抜け」をしたら国際的な信用を失う。日本もアメリカもヨーロッパも、お互いがお互いを義務と責任の鎖で縛り合い、もはやどの国も抜けるに抜けられなくなってしまったのだ。 加えて、各国は自国民の目も気にしなくてはならない。計画から20年、国が音頭を取って「宇宙の未来」を宣伝し、夢と期待を膨らませ、莫大な費用と労力を注ぎ込んだ末に、「失敗」で終わることは決して許されない。終わらせたいならば、形だけでも「成功」で終わらなければいけないのだ。 辛口批評で知られるメリーランド大学の Robert Park教授は、こんな皮肉を言ったそうだ。 "NASA must complete the ISS so it can be dropped into the ocean on schedule in finished form." (NASAが宇宙ステーションを完成させねばならないのは、完成した状態で宇宙ステーションを予定通りに海に落とすためなんだ。) 冷戦の置き土産 では、そもそもなぜ宇宙ステーション計画は始まったのか。計画開始当初は、人類の夢、国際協調、科学技術、そんな言葉の通りの目的があったのだろうか。答えは、Noだ。 事の始まりは24年前、1984年に遡る。ソ連のアフガン侵攻、西側諸国のモスクワ五輪ボイコット、その報復として東側諸国のロス五輪ボイコット、そんな、まだまだ冷戦真っ只中の時代だ。表向きは人類の夢国際協調科学技術云々、本音は西側諸国の繁栄と結束を東側に対して誇示するために、アメリカのレーガン大統領が高々と謳いあげた計画が、宇宙ステーション「フリーダム」だった。「フリーダム(自由)」という名はつまり、独裁、全体主義、「悪の帝国」であるソ連や東側諸国に対し、西側=自由主義諸国だというアピールである。目的から名前まで、非常に政治的な計画だったのだ。 しかし、たった一年後の1985年に、ソ連では「ペレストロイカ」を掲げたゴルバチョフが書記長に就任し、緊張緩和の時代を迎える。宇宙ステーション計画は遅々として進まない中、89年にベルリンの壁崩壊、91年にソ連解体と、誰もが予想しなかったスピードで冷戦は終結へと向かった。 さて、ソ連がなくなってしまって、困ったのは宇宙ステーション「フリーダム」だ。本来の目的は消え失せ、人類の夢国際協調科学技術云々という看板だけが残ったのだ。看板に踊らされた市民や科学者たちの熱は上がる一方、政治的な目的を失った政府の熱は急速に冷め、予算はどんどん削られた。それを補うため、かつての仮想敵国だったロシアが計画に参加し、名前も「アルファ」という、なんともぱっとしないものに変わる。(この名はその後に自然消滅する。) 遅延に遅延を、縮小に縮小を、妥協に妥協を重ねた宇宙ステーション計画は、ずいぶんといびつなものになった。居住モジュールはひとつだけ、緊急脱出船もキャンセルされ、ステーションの定員はたった3人になったのに、実験室モジュールは4つ(米ロ日欧)もある。科学技術への貢献という看板がある手前、実験室だけは各国ともキャンセルするわけにいかなかったのだろう。一方、ひとつの宇宙ステーションに、宇宙服は二種類(米ロ)、無人補給船は三種類(日ロ欧)ある。自国技術にこだわった結果だ。そして最もいびつな点は、計画に14年、建設に12年もかけるのに、その後は6年しか使わずに捨てることだろう。 看板もずいぶんと書き換えられた。例えば、今回、土井さんと共に打ちあがったのは、3つある「きぼう」のモジュールのうち「船内保管室」と呼ばれる部分だが、確か昔は「補給部」と呼ばれていたはずだ。そもそもの計画は、この補給部に実験器具や補給物資などを入れてスペースシャトルに積み、地球とステーションを往復するというものだった。しかし、シャトルの2010年での退役が決まり、補給部はステーションに付けっぱなしになってしまった。これではもう「補給」はできない。それで、いつのまにか「保管室」になったのだ。そんなにいっぱい宇宙に保管しておくものがあるのだろうか。 もうひとつの例として、最近NASAは、宇宙ステーションの目的が有人月・火星探査への足がかりであるということを専ら言っているが、数年前まではそんな目的は聞いたことがなかったと思う。NASAが軸足を月・火星有人探査に移し、できるだけ早い宇宙ステーションからの撤退を探る中での、苦し紛れの後付けに感じる。 人が宇宙へ行く価値は? 宇宙ステーションの組み立て、無重力実験、月や火星の探査・・・。宇宙で人間がしていることは、おおよそロボットや無人の人工衛星で代替できる。もちろん人間の方がより複雑な作業を効率よくこなせることに間違いないが、莫大なコストと人命のリスクに見合うものではないと僕は思う。特にロボットがお家芸の日本にとっては、宇宙のロボット探査こそが、限られた予算で世界に存在感を示す道ではなかろうか。例えば、小惑星探査機「はやぶさ」は、その先駆性がアメリカでも非常に高く評価されている。逆に「きぼう」は宇宙ステーションの一構成部品でしかなく、日本の外で特別に注目を浴びることはない。日本が負担する金額の大きさも一切注目されない。アメリカ主導の宇宙ステーションに年間700億円を注ぎ込むよりも、「はやぶさ2」に予算を付けるほうが、よっぽど日本にとって実のある成果が得られると思う。打ちあがってしまった以上、今の段階で「きぼう」から手を引くことは決して得策ではないが、もっと明確なビジョンを持った予算の使い方ができなかったものかと思ってしまう。 一方で、「宇宙で人間がしていることは、おおよそロボットで代替できる」と先に書いたが、宇宙において人間にしかできないことがひとつだけある。人々を熱狂させることだ。(これこそが有人宇宙開発が政治的意図を持ちやすい所以なのだが。)人々の好奇心をくすぐり、冒険心を掻き立てることだ。 定量的な評価はできないが、人間の好奇心や冒険心が人類の発展に一役買ったのは事実だろう。エベレストに登り、マリアナ海溝に潜り、南極を征した人間が、次の冒険の場所を宇宙に求めるのは、自然なことだ。とはいえ、桁違いな有人宇宙開発のコストに目を瞑るわけにはいかない。世界に8億人の飢餓人口を抱え、国民の30%がエイズに感染しているのに貧しくて薬が買えないような国がある中で、「冒険」に何兆円もの金額を注ぎ込むことは、果たして正当化されうるだろうか。 有人宇宙開発の未来を考えるとき、僕が期待するのは、民間による宇宙観光だ。20億円もの金額を払ってロシアの宇宙船で宇宙旅行をした(あるいは、したがっている)富豪が何人もいることから分かるように、宇宙観光には確かな需要がある。海外旅行の大衆化が航空券のコストダウンに大きな役割を果たしたように、宇宙観光が大衆化し、産業として採算に乗り、有人宇宙開発が国におんぶにだっこの状態を抜け出せば、人間を軌道上まで往復させるコストは大幅下がるだろう。そうして始めて、現実的なコストで宇宙ステーションを運営し、人間を月や火星に送る道が開けるのではないだろうか。 夢、希望 繁華街のショーウィンドウに並ぶ綺麗な洋服に人々が目を奪われ心を躍らせている時、同じ通りの上には、ショーウインドウなど見上げる余裕もなく、路上に落ちた1セント玉を必死に拾って生きる子供達がいて、そんな光景を僕はショーウインドウの裏側から冷めた目で眺めている。その綺麗な服は裏側から見れば染みだらけなのに、客は100ドル札を何枚も財布から出してそれを買い求め、路上の子供たちには10セント玉をくれてやって目を逸らす。 いや、これは誇張しすぎた例えかもしれない。日本はJAXAの年間予算約20億ドルに対しODA(政府開発援助)は131億ドル、アメリカもNASAの予算156億ドルに対し274億ドルのODAを実施している(すべて2005年度)。これだけ喜捨をしているんだ、自分のために少し高価な服を買ったって、何が悪いんだ。そう言われれば、強く反論することはできない。しかし、その「高価な服」が実用性の乏しい贅沢品ならば、納得することはできない。 僕がエンジニアを自認する以上、人類の「夢」や「希望」を叶えることが、人々が欲しがる服を縫うことが、僕の仕事だ。しかし、路上の子供達に対しても僕の仕事を正当化するためには、染みだらけ布を「夢」や「希望」でカラフルに飾り立てたディスプレイ用の服を縫うのではなく、しっかりした生地で冬の寒さを防いでくれる、地味でもちゃんと役に立つ服を縫わなくてはいけない。本来の目的を失って看板だけになってしまった高価な箱を作り続るのではなく、人類を本当に希望の持てる将来へと運ぶことが出来る立派な舟を作らねばならない。 - [じょぼん](http://hiroono.com/2008/02/03/uaco/) - じっとしていることのできない、行儀の悪い僕の手。何もすることがないと、手近にあるものを触ったり、折り曲げたり、こねくり回したり、指一本の上に載せてバランスを取ってみたり、そんなことを脳の制御を離れて勝手に始めるから、困ったものです。マクドナルドのドリンクのフタは気付くと引き裂かれている。割り箸の包み紙は気付くとジャバラになっている。つよしの弦などは格好のおもちゃです。 きのう、レストランで料理を待っている間のおもちゃは、携帯電話でした。折りたたんだ時の長さがコップの直径とほぼ等しいことに気付いた僕の右手は、 どちらが大きいかを実証するために、水の入ったコップの上に携帯電話を置けるか、試してみたわけです。 結果、携帯は見事にコップの上に座りました。ふむふむ、携帯電話の長さはコップの直径よりも僅かに大きいらしい、と右手が納得したその刹那、 じょぼん! と携帯が水にダイブ。「がーーーーー!!」と叫んで携帯を救出するも、ダメージは深刻でした。一晩乾かして電池をつなぐと、充電していないのに" Charging (充電中)"の表示が。アーメン。 僕が「がーーーーーー!!」と叫んだ時、店員が"Can I help you?"と聞いてくれていたらしい。それどころではない僕のかわりに、友達が"You cannot help him..."と返してくれたそうな。。。 救いようがないのは、僕の携帯か、僕のドジか。 そんなわけで、しょーもないドジ話でした。ちゃんちゃん。今日はSuper Bowl?♪ --- 追記: さらに乾かしたら、直りました! 追記2: Super Bowl、ボストン(ニューイングランド)負けてしまった?。2分前にボストンがひっくり返したんだけど、1分前にニューヨークにひっくり返されてしまった。シーズンは一敗もしなかったのに、最後の最後で土が付いてしまった。ま、人生、そんなもんさ 笑 - [アメリカ大学院 留学説明会](http://hiroono.com/2007/12/19/ycyayeyaco-ioaaian/) - きのう、東大にて、「アメリカ大学院 留学説明会」なるものを催してきた。ふとした思いつきで2週間前に発案した企画だったにも関わらず、工学部国際交流室、STeLAと、友人達の協力のおかげで、大教室を埋め尽くす150人もの人たちが集まってくれた。 説明会のスライド> 以前、中国人の友達に「なぜ日本人はあまり留学に来ないのか?」と聞かれ、答えに詰まった挙句、「国民性」などと答えたことがある。「島国だから、みんな外に出たがらないんだ。」と説明しても、彼の頭の上には「?」が十個くらい並んでいた。しかし、きのうの説明会の盛況を見て、それは間違いだったと気づいた。島を出たがっている人は沢山いる。何らかの理由で「出て行かない」だけなのだ。150人とは、MITにいる全日本人の数の倍である。数だけではない。きのうの説明会終了後は、大勢の人が質問の列にならび、打ち上げの飲み会にも、数人が飛び入りで参加してくれた。ガスは既に充満している。ならば、僕の仕事は、マッチを擦るだけだ。 では、出たいのに出てこないのは何故だろう。理由はふたつあると思う。ひとつは、単純にチャンスがあることを知らないからだ。僕自身、昔から漠然とした留学への憧れがあったが、それは決して具体的な目標でも確固たる決心でもなかった。そもそも、学位取得を目指した長期留学のチャンスが存在することすら、全く知らなかった。年間600万円もの留学費用をまかなうには、企業からの派遣などに頼る以外に方法はないと思っていた。しかし、大学三年の時、MITへ留学していた先輩と偶然出会い、アメリカの大学院の学生の大半はRAなどで学費を免除され、給料まで貰って勉強していること、そして外国人にも平等にチャンスが与えられ、努力次第で道は拓けることを知った。チャンスの存在を知り、そのチャンスを実際に掴んだ先例と出会ったことで、僕に充満していたガスに火がついた。 二つ目の理由は、「規定のコース」を外れることへの不安だと思う。これが、僕のような一般の学生としての留学ではなく、交換留学や企業派遣など、日本での身分をキープしたままでの留学を選ぶ日本人が多い理由でもあろう。元々、僕が留学に憧れた理由のひとつに、「規定のコース」に従って生きることへの嫌悪感があった。しかし、いざ留学のチャンスを掴んだ時、僕の心に立ち現れたのは、同級生たちとは違う道を歩むことへの不安だった。このあまのじゃくな感情はしかし、留学を目指す多くの人に、一般的なものではないか、と思う。 だから、今回の説明会の目的も二つある。一つ目は短期的な目的で、先輩が僕に対してしてくれた役割を、僕が日本の後輩たちに対して果たすことだ。ガスを体いっぱいに充満させて説明会に来てくれた人たちに、火をつけることだ。 二つ目は長期的な目的で、日本から海外へ向かう大きな流れを作ること、そして、もうひとつの「規定のコース」を作ることだ。「規定のコース」と「規定外のコース」の差とは、先例が多いか少ないか、でしかない。ならば、先例をたくさん作ればいいのだ。きのうの説明会に来てくれた人の何人かが実際に留学をし、その人たちが将来、別の人たちをモチベートし、その人たちが留学をしたのち、さらに次の世代の人たちを導き…そのような循環をスタートすればいいのだ。 最近、僕が囚われ続けている言葉がある。 「世の中から受けた恩は、世の中に返さなくてはいけない。」 留学仲間が言っていた、そんな言葉だ。その言葉を思い出すにつけ、25歳になっても未だに世の中から恩を受け続ける一方の自分を、少々後ろめたく感じる。そろそろ僕も得た経験を少しずつ世に還元し始めなくてはいけない、そんな思いに駆られたのが、説明会を催したそもそものきっかけだ。僕の今までの25年は、怖くなるほどの幸運に恵まれた人生で、世の中から受けた恩は誰よりも深い。残りの人生でこの莫大な借金を完済できるのだろうか。どうやって返せばいいのだろうか。良くも悪くも、留学したのち、人生の目標が一度リセットされてしまった。これからが正念場だ。 --- あと30分ほどでベトナムへ発ちます。 メールをくれた方、ごめんなさい、返信は帰国後に・・・。 - [十五夜](http://hiroono.com/2007/09/27/thie/) - 日本の知人からのEメールで、今晩は十五夜だったと気付く。窓の外を見ると、ちょうど川の向こうのボストンの夜景をバックに月が昇ってくる。秋の風に波立つ川面に月の光の筋が映る。きれいに写真を撮ろうと試行錯誤する間に、月はどんどん昇っていく。川面の反射は淡くなっていき、月は窓の視界の外へと逃げていく。 写真をアップしようとしてmixiにアクセスすると、トップページに見慣れない"Happy Birthday"のバナーがある。日本時間では既に僕の誕生日になっていたことに気付く。十五夜の月も自分の誕生日もインターネットに教えられた事に、一万キロの距離を感じる。 - [STeLA Leadership Forum 2007 in Tokyo](http://hiroono.com/2007/09/04/stela-leadership-forum-2007-in-tokyo-20070904/) - さて、どこから書こうか。あれだけ濃い想い出がたった10日間に凝縮していると、どこから書き出したらいいのか見当がつかない。手が付けられない、という方が正しいかもしれない。でも、あんなに素晴らしい10日間を、手の付けられない塊のまま、書かずに放っておくわけにはいかない。書かなくては。 STeLA. Sushi and Teriyaki Lover's Association. じゃなくて、Science and Technology Leadership Association. 「グローバルな理系リーダーシップの啓発」を目的とした学生団体です。そう、大学院生になってまで、学生団体なんぞをやっているわけです。留学生仲間の思いつきから端を発し、手探りで設立したこの団体。その一年半の努力の結晶が、この8月の終わりに東京で催された、"STeLA Leadership Forum 2007 in Tokyo"です。 発想は単純で、アメリカの学生20人を日本に連れてきて、日本人学生20人と一緒に、10日間カンズメにするという企画。でも単なる異文化交流プログラムでは終わらないのがこの企画のミソです。テーマは「理系リーダーシップ」。参加者が、見学(日産、新日鉄、大田区工場群)、講演(尾身財務大臣 etc)、討論、そして共同作業を通して、環境問題やグローバル化について真剣に考え、将来の世界を科学技術の立場から引っ張っていくリーダーシップを育てるという、まあ何ともケッタイな企画なのです。 フォーラム中の僕の役割は「ファシリテーター」。40人弱の参加者は、6つのチームに分かれて討論や作業をするのですが、そのひとつに朝から晩までご一緒して、彼らの議論を"facilitate"するのが、僕の役目でした。"facilitate"とは、化学反応の触媒のような役目だ、と言うと、「理系」の人には分かり易いでしょうか。触媒は、自分自身は化学反応に関わらないけれども、反応を促す役割を持つ。同じように、自分は議論の内容に関わらないけれども、議論を活性化させるような発言をするのが、ファシリテーターです。そんな、ついつい出しゃばってしまう性格の僕にはなんとも不向きな役割を引き受けてしまったわけです。 ファシリテーターのいいところは、チームやそのメンバーたちの成長を、最も近い場所から観察できること。僕のチームには、5人のメンバーがいました。イスラム教徒のクセに酒飲み、されど確固たる思想を持っているバングラデシュ人"E"(♂)。 見た目はおっとりだけど負けん気が強い中国人"D"(♀)。以上二人が、アメリカの大学からの参加者。日本側からは、照れ屋で口下手だが自分の殻を破らんとする意志を持つ旅人「け」(♂)。 ほんわかお兄さんキャラだが芯が強そうな「さ」(♂)。口数は少ないが早稲田で学生団体を率いる熱い若者「ひ」(♂)。この五人が織り成す、青春ドラマ顔負けの、涙あり笑いあり喜びありの人間成長物語が、この十日間でした。 (↑Team 5のメンバーたち) 彼らが最初に直面した問題は、やはり、という感じで、コミュニケーションの問題でした。日本人の英語の下手さは認めざるを得ないところで、考えていることの半分も言葉に出来ないし、まずもって流れる議論に割り込んで発言するタイミングすら掴めない。これはまさに、僕が留学直後に直面した苦しみそのものでした。 驚くべきは、彼らの問題発見能力と問題解決能力の高さです。始めは途方にくれていたアメリカ側参加者の二人も、二日目には「聴き方」を覚えました。"E"は日本人に積極的に質問を振ることで彼らの発言を促し、"D"はあえて黙ることで日本人に発言のタイミングを与えるようになりました。日本人の三人も、積極性こそが大事であることに気付き、例え英語が下手でも、臆せずに手を挙げて発言するようになりました。僕が1年もかかったコミュニケーションの問題の解決を、彼らは二日で成し遂げたのです。 次に彼らが直面した問題は、「仕事の進め方」でした。彼らは二日目に手痛い失敗をした。その日の見学をプレゼンテーションにして発表する時間があったのですが、他の全ての班がスライドを完成させて質の高い発表をする中、うちのチームだけは、準備の時間を丸々議論に使ってしまい、スライドすら作ることが出来なかったのです。しかし彼らは、このたった一度の失敗で、すぐに軌道修正をしました。その後、彼らはプレゼンや作業一般の「進め方」について徹底的に議論し、効率のよい議論の進め方や分業方法を考え出しました。その成果は目に見えて表れました。フォーラム最終日のプレゼンテーションを、彼らは入念かつ計画的に準備し、お世辞抜きに、どこのチームよりもスマートで上手くまとまった発表をしました。 フォーラム後半は「チームプロジェクト」に充てられました。各チームが手作りで「ピタゴラ装置」なるものを作りあげ、その技術やテーマ性、芸術性を競う、という企画です。「ピタゴラ装置」とは何か、については、僕の下手な文章で説明するよりも、ビデオを見ていただくほうが早いでしょう。 ビデオへのリンク。なぜか埋め込めない・・・ (↑これは、去年の11月、MITでの同様のイベントに僕らが参加したときの作品です。) 「仕事の進め方」の問題で学んだ彼らは、効率的に作業を進めるため、コンセンサスを取って意思決定をするやり方を捨て、「さ」をTask Managerに任命し、彼に最終的な意思決定を委ねることに決めました。さて、ピタゴラ装置作りで、またも大きな問題が発生します。"D"は非常にアイデア・ガールで、独創的なアイデアを次々に出していきます。しかし、彼女にはものづくりの経験が全くなく、それらのアイデアは、他のメンバーから見れば実現性に乏しいものでした。結局、彼女のアイデアはあまり省みられず、彼女にはフラストレーションが溜まっていきます。目に見えて彼女は機嫌が悪くなり、他のメンバーも彼女に手を焼いている、という感じでした。当然、チームの雰囲気は悪くなり、仕事の効率は落ちます。 最も悩んだのは、Task Managerを任された「さ」でした。彼としては、締め切りまでに装置を完成させなくてはいけない、というプレッシャーがある一方、"D"の意見を全て無視し、チームに不和をもたらすわけにもいかない。彼はそんな悩みを、プロジェクト一日目の夜に中華料理屋で行われたミーティングで吐露したのでした。この悩みに、"E"は熱い言葉で応えました。 「俺たちはTask Managerの『さ』を信じているから、自分の決定に自信を持ってくれ。明日も一緒に頑張ろう。」 肩を震わせる「さ」。「え!?」と思って彼の顔を見ると、彼は眼鏡をはずし、指で涙を拭っていました。温かく彼の肩を叩くチームメイトたち。そして、明日も頑張ろうと乾杯をしたわけです。 翌日。かつ、プロジェクト最終日。"D"はアイデアを出すだけではなく、積極的に手を動かすようになりました。この日からファシリテーターも作業に参加することが許されて、図工が大好きだった僕は、我を忘れて没頭したわけです。分業もうまくいき、チームは時間内に、非常に再現性の高い装置を完成させることが出来ました。テーマは"Bridge"。球が転がると橋が架かり、その上を自動車が滑り落ちる仕掛けです。個人や異文化間の溝に橋を架ける、という、まさにこのチームが十日間で体験したことを、装置で表現したわけです。 しかし、装置が完成しても、真面目な"D"の苦悩は続きました。私は結局、紙にアイデアを描いただけで、実際に自分が作った部分は、全体のほんの少しでしかない。自分は全くチームに貢献できなかった、と。その日の終わり、終電近く、満員の山手線の中で行われたの反省ミーティングで、「け」が"D"に対し、精一杯の英語でこんなことを言いました。 「僕は"D"に謝らなくてはいけない。"D"にはアイデアがあって、僕には技術があった。僕がもっと上手いやり方をすれば、もっと"D"のアイデアを生かすことが出来たのかもしれない。」 涙を流す"D"。それに連られ、男泣きする「け」。二人はハグをし、チームメイトは肩を叩く。満員の山手線、周りの乗客から見れば怪しいことこの上なし。しかしそれが、このフォーラムのクライマックスだったと言っても過言ではないでしょう。 翌日、装置を科学技術未来館で発表したのち、最後の飲み会をして、フォーラムは解散。十日間一緒にすごした仲間が、ひとり、またひとり、大きな荷物を抱えて、"See you again!"と言って去っていくのは何とも悲しかった。そう、気付いてみれば、彼らと初めて会ったのは、たった十日前なのです。なのに、もう何年も前から知っていた仲間のような気がしました。 このように、お涙頂戴のB級青春ドラマ顔負けの、熱く、濃密で、そしてベタな物語を、いい年をした学生たちが大真面目で作り上げたのが、STeLA Leadership Forum 2007の十日間です。人はこのベタで出来すぎな物語を滑稽だと笑うでしょうか。どうぞ笑って下さい。誰が何と言おうと、我々がこの十日で得た経験は他では決して得がたいものだったし、僕もこの素晴らしい物語を端から見ていて、参加者以上に学ぶことが多かった。参加者の皆様、ファシリの仲間、裏方で働いてくれた皆さん、フォーラムには準備出来なかったけれども準備に奔走してくれたみんな、本当に、本当にありがとうございました。 最後にすこし自慢。"STeLA"という名前は、僕の発案です。"Science and.."の意味に加え、ラテン語のStella(星)、英語のstela(記念碑)の意味もかかっている。って偉そうに言って、もちろん後付けですが(笑)なにはともあれ、"STeLA"という言葉が、参加者、実行委員併せて80人近くを束ねる合言葉になった。新聞にも載った。飲み会では「ステラコール」が起こった。自分の言葉が、こんなにもみんなに受け入れてもらえて、本当に嬉しい限りでした。重ね重ね、みんな本当にありがとう。この言葉が、来年以降も受け継がれていくことを、切に願います。 STeLA Webサイトマスコミにもちょくちょく紹介されました 4/16 - [ほしのあき](http://hiroono.com/2007/07/12/uic/) - 修論のドラフト締め切りまであと10日。毎日毎夜、パソコンに向かう日々。心も体も疲労困憊。しまいには、夢にまでSimulink(研究に使っているシミュレーションソフト)が出てくる始末。 これはいかん、疲れた目と心に栄養を供給せねば、と思い、芸能ニュースにあった「ほしのあきバーチャルムービー」なんぞを見ようと思ったわけです。「研究の合間に谷間を見るか」、と。 期待に胸躍らせて、Yahoo動画のリンクをクリック。カーソルが砂時計になっている間のワクワク感。ところがどっこい。画面に現れたのは・・・ 「日本国内でのみ視聴できます」だと!?? なんで国内限定なんだー、ネットに国境なんてあるかー。わざわざIPなんてチェックするなー。第一、俺の部屋の中は日本の飛び地だっつーの。治外法権だっつーの。 ああ、留学生の辛さ。真面目に論文を書け、という、神様のお告げでしょうか。ちゃんちゃん。 - [レッドソックス 観戦記](http://hiroono.com/2007/04/16/yiyayeyyayynaiu/) - 水曜日の松坂vsイチローの対戦を、生で見てきました! Kenmore Sq.から球場へ向かう人ごみ。OrtizやRamirezよりも、MatsuzakaのTシャツを着ている人が目立ちます。サイコロのかぶりものをかぶっているハイテンションな人たちもいました! 「日本語の応援」なんて紙を配るアメリカ人がいました。"Kattobase!" "Sanshin!"、それに混じって、"Doryoku" "Konjo". 間違っちゃいないけど、応援では使わないよね(笑) (↑松坂 vs イチロー) 一人目のバッター、イチローがコールされると、球場は大ブーイング。でも、敵地でのブーイングは一流の証です。 プレイボール。フラッシュの嵐。100億円男の第一球に、観客は総立ちで大歓声。でもイチローを仕留めたら、みんなそそくさと着席しました。 Dice-Kの調子はいまいち。スコンスコン芯に当てられるが、幸運にもフライやライナーになることが多かった。3失点で済んだのは、むしろだいぶラッキーだったんじゃないかな。 一方のレッドソックス打線は、7回までノーヒット・ノーラン。8回にやっとヒットが出ると、ホームランを打ったんじゃないかと思うほどの大歓声。ようやく客のテンションも上がり、"Let's go, Red Sox!"を連呼します。 しかし結局レッドソックスは、いいところもなく0-3で完敗。こんな日には、阪神ファンならメガホンを投げ込んで怒鳴り散らして帰るのに、こっちのファンは至ってお行儀が良い。試合終了後、15分であっさり客が引けました。 球場の写真を撮っているところへ、フジテレビからインタビューを受けました。 フジ 「イチローのバッティングはどうでしたか?」 小野 「新庄なら打てましたね。」 フジ 「レッドソックスのファンですか?」 小野 「いや、阪神ファンです。」 こりゃあカットかなぁ…。 球場から出て、隣のスポーツ・バーへ。ハイテンションのアメ人たちが、"Daisuke-!!" "Sanshin!"などと叫んでいます。そんな中、"Showa Joshi!!"と叫ぶ男が。「は!?」と思い、聞き返すと、"I love Japanese girls!"とのこと。そう、昭和女子大の寮がボストンにあるんです。このエロ・アメリカ人め!! --- 自分は女の子でもないのに、この日はものすごい頻度でアメ人に声をかけられました。「ダイスケはいいピッチャーだよ」「日本でNo.1なんだろ?」「今日はしょうがないよ、打てなかっただけさ。」自分のことでもないのに、ちょっぴり鼻高々な僕。 しかし松坂、自分とたったの二歳差なんですね。なのに、日本人とボストニアンからの、100億円分の期待を一身に背負って、異国の地で頑張っている。自分も頑張らなきゃな、と、その場限りで思ってみたり。 --- 現在ボストンは、ものすごい雨と風。あしたのボストンマラソン、大丈夫かな??? ## Pages - [About me](http://hiroono.com/en/about-me-2/) - Masahiro (Hiro) Ono Planetary roboticist, NASA Jet Propulsion Laboratory Born in Osaka, grew up in Tokyo, geekified in Boston B.S., Univ. of Tokyo (2005), Ph.D. at MIT (2012), Assistant Professor, Keio Univ. (2012-2013) Backpacker Writer Daddy Hanshin Tigers fan Twitter: @masahiro_ono - [About me](http://hiroono.com/ja/about-me/) - 小野雅裕 1982年大阪生まれ、東京育ち NASAジェット推進研究所 Research Technologist 東大(学部) →MIT (PhD)→慶應(助教)→現職 物書き バックパッカー ミーちゃんのパパ 阪神ファン Twitter: @masahiro_ono - [プロフィール](http://hiroono.com/ja/profile/) - 小野雅裕(おのまさひろ) 本業 はNASAジェット推進研究所で火星ローバーなどの開発 副業作家、3冊の本を上梓 宇宙の話をしよう (2020) 宇宙に命はあるのか〜人類が旅した一千億分の八(2018) 宇宙を目指して海を渡る (2014) 大阪生まれ 東京育ち MIT 航空宇宙工学科博士課程卒 NASAジェット推進研究所Research Technologist 阪神ファン 好物はたくあん RENThead 憧れのヒーローは新庄剛志とYoshikiとボイジャー2号 - [著書](http://hiroono.com/ja/book/) - 宇宙の話をしよう (2020) SBクリエイティブ 立ち読み 昔の僕のように、未来が待ち遠してくてたまらない宇宙っ子たちのために書いた児童書です。12歳のミーちゃんとNASA技術者の「パパ」の心温まる会話を通して、壮大な宇宙開発の物語が繰り広げられます。 ミーちゃんは宇宙と恐竜が大好きな12歳の女の子。将来の夢は科学者と宇宙飛行士になって、トラピスト1の系外惑星へ行き、宇宙恐竜を発見すること。でも学校のクラスメイトからは「変わっている」と思われ、うまく会話に入れないことを気にしています。悩むみーちゃんを見て、パパがホコリをかぶった赤い表紙の古い本をプレゼントします。その本にはいったいどんな秘密が隠されているのでしょう・・・? 現実のミーちゃんのような宇宙っ子やその親御さんたち100人以上に製作に参加してもらい、子ども目線のフィードバックをもらいながら、どうすれば子どもが夢中になるかをひたすら考えて書いた本です。 書籍ホームページ 宇宙に命はあるのか〜人類が旅した一千億分の八(2018) SBクリエイティブ 我々はどこから来て、どこへいくのか。 人類のもっとも古く、もっとも深遠なこの問いに、我々は少しずつ近づいています。数百年のタイムスケールで人類への宇宙への旅を描く壮大なノンフィクション。その原動力となったのは何か?現代の宇宙探査は何を解き明かそうとしているのか?我々は宇宙にひとりぼっちなのか?そして、我々はどこへ向かうのか? 総計5万部のベストセラー。綿密なリサーチをもとに、渾身の力を筆に込めて書いた一冊です。 宇宙を目指して海を渡る (2014) 東洋経済新報社 プレビュー (Google Books) 小さな頃に父が買ってくれた望遠鏡がきっかけで宇宙の虜になりました。そして6歳の頃、ボイジャーの海王星フライバイのニュースをテレビにかじりついて観るうちに、将来は宇宙開発をしたいと思うようになりました。それから25年。MITへの留学中は何度か挫折を経験したけれども、紆余曲折の末に夢だったNASAジェット推進研究所に入り、現在は火星ローバーなど宇宙探査の仕事をしています。本書はその体験談です。もちろん夢を追って努力しても必ず叶うものではない。でも追わなくては決して叶わない。失敗を恐れて背中を丸めて生きるよりも、大志を持って大海へ飛び出すほうがいい。夢を持った若い人たちの力に少しでもなれたらと思い、書いた本です。 (イラスト:ちく和ぶこんぶ) - [Work](http://hiroono.com/en/work/) - My goal is to enable us to boldly go where no man has gone before through the creation of innovative robotic intelligence. JPL webpage Research publications - [Publications (制御・人工知能)](http://hiroono.com/ja/publications-control-and-ai-ja/) - フィルター: [All | Selected | Control and AI | Space | Green Tech] Journal 3066686 I892SZM9 Control and AI 1 apa 50 date desc 1 1 1507 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Peer-reviewed Conference 3066686 RQHF62NP Control and AI 1 apa 50 date desc 1 1 1507 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Conference 3066686 X6QH3Q3I Control and AI 1 apa 50 date - [Publications (宇宙)](http://hiroono.com/ja/publications-space-ja/) - フィルター: [All | Selected | Control and AI | Space | Green Tech] Journal 3066686 I892SZM9 Space 1 apa 50 date desc 1 1 1513 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Peer-reviewed Conference 3066686 RQHF62NP Space 1 apa 50 date desc 1 1 1513 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Conference 3066686 X6QH3Q3I Space 1 apa 50 date desc 1 1 1513 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ - [Publications (ベスト)](http://hiroono.com/ja/publications-selected-ja/) - フィルター: [All | Selected | Control and AI | Space | Green Tech] Journal 3066686 I892SZM9 Selected 1 apa 50 date desc 1 1 1511 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Peer-reviewed Conference 3066686 RQHF62NP Selected 1 apa 50 date desc 1 1 1511 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ - [Publications (グリーン)](http://hiroono.com/ja/publications-green-ja/) - フィルター: [All | Selected | Control and AI | Space | Green Tech] Journal 3066686 I892SZM9 Green 1 apa 50 date desc 1 1 1509 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Peer-reviewed Conference 3066686 RQHF62NP Green 1 apa 50 date desc 1 1 1509 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Conference 3066686 X6QH3Q3I Green 1 apa 50 date desc 1 1 1509 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ - [Publications](http://hiroono.com/ja/publications-ja/) - フィルター: [All | Selected | Control and AI | Space | Green Tech] Journal 3066686 I892SZM9 1 apa 50 date desc 1 1 1505 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Peer-reviewed Conference 3066686 RQHF62NP 1 apa 50 date desc 1 1 1505 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Conference 3066686 X6QH3Q3I 1 apa 50 date desc 1 1 1505 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Thesis 3066686 XEXWWC2A 1 - [Work](http://hiroono.com/ja/work-ja/) - JPLのプロフィール Publication list - [Publications (Space)](http://hiroono.com/en/publications-space/) - Filter: [All | Selected | Control and AI | Space | Green Tech] Journal 3066686 I892SZM9 Space 1 apa 50 date desc 1 1 1490 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Peer-reviewed Conference 3066686 RQHF62NP Space 1 apa 50 date desc 1 1 1490 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Conference 3066686 X6QH3Q3I Space 1 apa 50 date desc 1 1 1490 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ - [Publications (Selected)](http://hiroono.com/en/publications-selected/) - Filter: [All | Selected | Control and AI | Space | Green Tech] Journal 3066686 I892SZM9 Selected 1 apa 50 date desc 1 1 1484 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Peer-reviewed Conference 3066686 RQHF62NP Selected 1 apa 50 date desc 1 1 1484 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ - [Publications](http://hiroono.com/en/publications/) - Filter: [All | Selected | Control and AI | Space | Green Tech] Journal 3066686 I892SZM9 1 apa 50 date desc 1 1 1442 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Peer-reviewed Conference 3066686 RQHF62NP 1 apa 50 date desc 1 1 1442 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Conference 3066686 X6QH3Q3I 1 apa 50 date desc 1 1 1442 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Thesis 3066686 XEXWWC2A 1 - [Publications (Control and AI)](http://hiroono.com/en/publications-control-and-ai/) - Filter: [All | Selected | Control and AI | Space | Green Tech] Journal 3066686 I892SZM9 Control and AI 1 apa 50 date desc 1 1 1487 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Peer-reviewed Conference 3066686 RQHF62NP Control and AI 1 apa 50 date desc 1 1 1487 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Conference 3066686 X6QH3Q3I Control and AI 1 apa 50 date - [Publications (Green Tech)](http://hiroono.com/en/publications-green-tech/) - Filter: [All | Selected | Control and AI | Space | Green Tech] Journal 3066686 I892SZM9 Green 1 apa 50 date desc 1 1 1494 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Peer-reviewed Conference 3066686 RQHF62NP Green 1 apa 50 date desc 1 1 1494 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ Conference 3066686 X6QH3Q3I Green 1 apa 50 date desc 1 1 1494 http://hiroono.com/wp-content/plugins/zotpress/ - [Tahiti](http://hiroono.com/en/my-trips/tahiti/) - [Zurich & Liechtenstein](http://hiroono.com/en/zurich-liechtenstein/) - 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[小説](http://hiroono.com/novel/) - 「緒野雅裕」というペンネームで小説を書いております。 『天梯』 2007年8月 原稿用紙25枚 第24回織田作之助賞・青春賞受賞作品 受賞の所感 『閉塞』 2010年3月 原稿用紙171枚 - [No day but today!!](http://hiroono.com/profile/no-day-but-today/) - ニューヨークに行く機会のある人、ぜひぜひミュージカル・RENTを観てください!(追記:RENTのブロードウェー公演は、2008年9月に終了してしまいました。現在は全米ツアーが行われています。)一度観て以来病みつきになり、それ以来、毎日部屋で大音量でサウンドトラックをかけては歌い狂っています。NYにも三度観に行きました。 プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」のストーリーを現代のニューヨークの喧騒の中に置き換える、という翻案モノです。 エイズ、同性愛、コカイン中毒、そんな境遇に置かれた8人の若者たちが、未来の見えない人生に絶望し葛藤しながらも、今を生きる喜び、生きていく力を見出していく、そんなお話です。 ロック・ミュージシャンだったロジャーは、過去に恋人をエイズで失った上に自身もエイズに侵され、ギターを抱えて部屋に引きこもってしまいます。彼は階下に住むミミに思いを寄せつつも、過去のトラウマに囚われ、彼女の愛のささやきをこんな言葉を投げつけて拒絶します("Another Day")。 Litte girl - hey, the door is that way, You'd better go you know the fire's out anyway ... Looking for romance? Come back another day, another day (訳)この小娘め、ドアはそっちだ、 出て行け、どうせ命の火は消えてしまうんだ。 ロマンスがしたいのか? だったら明日また出直してこい!また明日だ! それに対してミミは、すがるような目でロジャーの背中を見上げながら、こう歌います。 The heart may freeze, or it can burn The pain will ease, if I can learn There - [STeLA](http://hiroono.com/stela/) - "Science and Technology Leadership Association"、略してSTeLAという学生団体を、二年ほど前にボストンの留学生仲間達と共に立ち上げ、「次世代の科学技術リーダーシップの育成」を目指した活動を行っています。 地球温暖化、エネルギー問題、生命倫理、核兵器・・・これほどまでに科学技術が大きな力を持ち、その使い方いかんで人類の未来が大きく左右される時代にあって、未来の科学技術の担い手である我々が、その使われ方を人任せにしたまま研究室に引きこもっていてよいのだろうか。そのような自問自答からスタートした活動が、STeLAです。 科学技術を担う者は、自らリーダーシップを取って、その使われ方にまで責任を負わねばならない。リーダーシップを取る者は、科学技術を正しく理解し、諸刃の剣を自らの首に振り下ろさぬようにせねばならない。「科学技術リーダーシップ」とは、我々の世代がグローバルな問題に立ち向かうために必要となるキーワードであると、我々は考えています。 この理念の下、2007年夏、東京にて "STeLA Leadership Forum 2007" を開催しました。フォーラムでは、日米の学生が10日間寝食を共にしながら、「気候変動とエネルギー問題」「グローバル化とものづくり」の二つのトピックについて真剣な議論を交わしました。フォーラムの様子は、2007/9/4の日記をご覧ください。 2008年夏、第二回目のフォーラムは、"Global Public Health"をテーマに、ボストンにて催す予定です。加えて、STeLAの活動を中国にも広げることを検討しています。 なお、STeLAは現在、2008年度フォーラムの開催に向け、スポンサーを募集しています。STeLAの趣旨に賛同していただき、ご支援を賜ることができれば、STeLA一同、感謝の極みです。まだまだ草の根レベルの活動ですが、いつかこれが大きな潮となり世界を巻き込むことが出来れば、きっと未来を良い方向に動かせるに違いないと、我々は信じています。 連絡先:stela.japan(あっと)gmail.com ホームページ: http://web.mit.edu/stela07/index-j.html 新聞等報道 4/16 毎日新聞 8/14 日経新聞朝刊 34面 8/26 6pm NHKニュース 8/26 日本科学未来館 イベント告知 8/29 毎日新聞 9/19 読売新聞朝刊 (↑ 日産の工場を見学、みんなで集合写真) - [旅](http://hiroono.com/travel_history/) - 大学に入って以降の大きな旅行を書き出してみました。よくまああちこちに行ったものだ、と我ながら思います。ツワモノ・バックパッカー達に比べれば生ぬるい旅しかしてこなかったし、ひとつひとつの旅の期間も短いものが多いのですが、それでも、それぞれの旅から僕は様々な刺激を受け、それが今の自分を形作る重要な要素になっています。世界は広く、人生は短い。これからも、時間とお金のある限り、世界中を駆け巡りたいと思います。 2001年5月 オーストラリア Cairns 2001年12月 ハワイ 2002年3月 韓国 ソウル、板門店、慶州、安東 2002年7月 中国 三峡 2002年8月 中国 北京、済南、泰山、大同 2002年12月 アラスカ Fairbanks, Anchorage 2003年8月 伊豆諸島 御蔵島、八丈島 2003年9月 韓国 大田 (KAISTのサマースクール) 2003年9月 ヨーロッパ Paris, Brois, Madrid, Toledo, Nerja, Granada, Barcelona, Girona, Nimes, Nice, Venezia, Napoli, Roma 2004年3月 西日本 名古屋、大阪、内之浦、鹿児島、種子島、屋久島、高千穂、延岡、臼杵、四万十川、京都 2004年8月 台湾 台北、澎湖諸島吉貝島 2004年10月 アメリカ Reno, Las Vegas, Mojave Desert, Grand Canyon, Monument Valley, Zion Natl Park 2005年3月 アメリカ、カナダ New York, Boston, Niagara Falls 2005年3月 インドネシア バリ島 2006年8月 アメリカ Yellowstone Natl Park 2007年2月 ペルー Lino, Cuzco, Machupichu, Puno 2007年3月 カナダ Halifax, Prince ## Galleries - [Test](http://hiroono.com/bwg_gallery/test/) - [China, 2003](http://hiroono.com/bwg_gallery/china-2003/) - [Spain, France, and Italy, 2003](http://hiroono.com/bwg_gallery/spain-france-and-italy-2003/) - [Zurich & Liechtenstein](http://hiroono.com/bwg_gallery/zurich-liechtenstein/) - [Tahiti](http://hiroono.com/bwg_gallery/tahiti/) ## Gallery Share - [Image](http://hiroono.com/bwg_share/image/) ## Categories - [Uncategorized](http://hiroono.com/category/uncategorized/) - [しんみり](http://hiroono.com/category/sad/) - [やったぜ!!](http://hiroono.com/category/yey/) - [コーフン!!](http://hiroono.com/category/excited/) - [宇宙](http://hiroono.com/category/space/) - [日々徒然](http://hiroono.com/category/tsurezure/) - [憂い](http://hiroono.com/category/worry/) - [留学](http://hiroono.com/category/ryugaku/) - [Uncategorized](http://hiroono.com/ja/category/uncategorized-ja/) - [日々徒然](http://hiroono.com/ja/category/日々徒然-ja/) - [Uncategorized](http://hiroono.com/en/category/uncategorized-en/) - [旅](http://hiroono.com/ja/category/旅/) - [憂い](http://hiroono.com/ja/category/憂い/) - [連載補遺](http://hiroono.com/ja/category/連載補遺/) - [しんみり](http://hiroono.com/ja/category/しんみり/) - [やったぜ!!](http://hiroono.com/ja/category/やったぜ!!/) - [留学](http://hiroono.com/ja/category/留学/) - [宇宙](http://hiroono.com/ja/category/宇宙/) - [おすすめ](http://hiroono.com/ja/category/おすすめ/) - [アメリカ、アメリカ](http://hiroono.com/ja/category/アメリカ、アメリカ/) - [感動](http://hiroono.com/ja/category/感動/) - [コーフン!!](http://hiroono.com/ja/category/コーフン!!/) ## Tags - [日本語](http://hiroono.com/ja/) - [English](http://hiroono.com/en/)