名前はもう、生まれる5年前ほど前から決まっていた。正確にいつだったかは覚えていない。結婚してすぐの頃だったと思う。僕はまだボストンで学生をしていて、男三人で大学の近くの散らかし放題のアパートをシェアして住んでいた。妻のエリコは2キロほど離れた学生寮にいた。日本では桜が咲く季節なのにボストンではまだ雪が残っていて、僕たちはブクブクに着込んで自転車をこぎ、毎晩お互いの部屋を行き来していた。
その晩、ベッドに二人で入り、寝る前に寝るのが惜しくて色々な話をしていた。その中で子供の名前の話になった。男の子の名前は既にあった。僕が結婚前から温めていていたもので、エリコもそれを気に入っていた。でも女の子の名前はなかった。
「君がエリコだからエリカは?」
「沢尻じゃん。」
「ユウコは?」
「オノヨーコに間違えられるから嫌。」
「じゃあコマチ?」
「はいはい。」
そんな問答がしばらく続いたのち、エリコがふいに言った。
「ミサキって、どうかな…?」
ミサキか。美咲。人生を美しく咲かせる子。
「美咲…うん、いい名前じゃん。」
それで、決まった。妙にストンと腑に落ちた。僕も妻も、他にもっと候補をあげて比較しようなんて言わなかった。どんな顔で生まれてくるか分からないし、何一つ根拠もないのに、これが僕の娘の名前なんだという直感が腹の底から沸いた。妻も同じだったと思う。
名前が決まってしまうと、なんだか「美咲」という名の人格が既に存在するような気がした。現在は影も形もなくて、未来に卵子と精子が気まぐれに結合して発生する個体に「美咲」という名前が与えられるのではない。馬鹿げた話に聞こえるかもしれないが、たとえば雲の上に赤ちゃんの国のようなものがあって、そこに「美咲」という名の子がもう既におり、僕たちのところに届けられるのを首を長くして待っている。そんな感覚だった。だから、僕たち夫婦は、「はやく子供が欲しいね」と言うのではなく、「はやくミーちゃんに会いたいね」と言うのが常だった。
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僕が NASAジェット推進所に転職してから暫くは、ロサンゼルスと東京の遠距離婚が続いた。昨年3月にエリコは長期休暇を取って渡米してきたが、その理由の第一はミーちゃんに会いたいからだった。
6月、梅雨のない南カリフォルニアのカラッと晴れた日の朝、妊娠検査薬に陽性が出た。僕たちは飛び上がって喜んだ。そして、どういう心境の変化か分からないが、妊娠が分かってから、エリコは子供の名前を決して家族以外の人に言わないように僕に強く念を押すようになった。
エリコの悪阻はひどかった。毎日吐いた。ひどい日は一日に何度も吐いた。一ヶ月で4キロも痩せた。脱水症状になり、二度も夜中に病院へ連れていった。食べられないものがどんどん増え、最後はわかめそばしか食べられなくなった。だから毎日わかめそばを食べた。ミーちゃんはさぞ髪の毛がフサフサだろうね、と僕がジョークを言っても、妻に笑う余裕はなかった。
この時期、なんとか妻の心を繋いだのは、アマゾンで30ドルで買った、ドップラー式の胎児の心音計だった。それを妻のお腹に当てると、トクトクトクと赤ちゃんの鼓動が聞こえた。泥水の中から美しい蓮の花が咲くように、悪阻の苦しみの中から新しい命が確かに花開こうとしていた。
地獄のような苦しみがどうにか収まった9月、超音波検診で医者が「女の子みたいですよ」と告げた。「ミーちゃんだ!」と僕たちは興奮して叫んだ。
晩秋になると果実が膨らむようにエリコのお腹が目に見えて膨らみ始め、年を越すと胎動が日増しに強くなっていった。足癖が悪い子で、膀胱をキックしてエリコをトイレに走らせるのが得意のいたずらだった。エリコが風呂に入る時、膨らんだお腹に向かって「ミーちゃん」と優しく呼びかける声が、バスルームから聞こえた。
ミーちゃんが生まれた日の朝は、透き通った桃色の朝焼けに飾られていた。今日もいつもと同じような南カリフォルニアの雲ひとつない青空になるはずだった。僕は陣痛が始まったエリコを車に乗せ、朝焼けの空をサイドミラーに映しながら、6車線ある高速道路を病院に向けて走った。病院に着いた時には星はすっかり空から追い払われ、白い月が西に傾いていた。病棟の東向きの窓に朝焼けが映っていた。
午後になると陣痛はどんどん強くなった。寝ているよりも歩くほうが子宮口が早く開くというので、僕たちは何度か病院の中庭へ散歩に出た。ロサンゼルスの2月はもう春半ばだ。暖かくからっとした好天で、中庭の円形の花壇には七色のパンジーが花を咲かせており、何人かの人がベンチに座ってお喋りをしたり、昼寝をしていたりしていた。僕は片手で点滴のスタンドを押し、片手でエリコの手を引いて、花壇の周りを、ゆっくり、ゆっくりと歩いた。
陣痛の波が来ると歩みを止め、花壇の縁に座ったり、建物の壁に両手を当てて前かがみになったりして、痛みが去るのを待った。回を重ねるごとに痛みは増した。呻きは叫びになり、額は汗に濡れ、涙がこぼれた。
痛みによってエリコは弱気になっていたのだろう。最も強い陣痛の波が来たとき、彼女は苦痛に顔を歪め、涙ながらにこんな言葉を吐いた。
「ミーちゃんに会いたいよぉ…」
まさかミーちゃんに会えないことを本気で心配していたわけではあるまい。「母子共に健康」があまりにも当たり前になって、ほとんど死語になった時代だ。
たぶんミーちゃんが、長く暗いトンネルの先に見える出口の光のような存在に思えたのだと思う。彼女にとって「ミーちゃん」という言葉は、もはや単なる名前以上の意味を持っていた。たとえばキリスト教徒にとってのイエスの名のように、それは、不安と苦痛の中にある彼女にとって全ての希望と幸福の表象となっていたのだ。その名がなければ、どうして彼女は悪阻や陣痛の苦しみを耐え抜くことができただろうか。
夜9時過ぎの診察で子宮口が9センチ開いたことが分かると、看護婦が大きなカートを部屋に運び込んできた。その上には青い清潔そうな布が敷かれ、様々形をした道具が整然と並んでいた。道具たちの銀色の表面が、なにか冷やっとする物を心に押し当てられたような気持ちにさせた。いよいよだ、と思った。
10時頃になると、若くて恰幅の良い女医と数人の看護婦がやってきて、にわかに部屋が賑やかになった。やがてモニターを見ていた黒人の看護婦が、陣痛の波に合わせて、エリコに「プッシュ!」と合図した。大きく息を吸ってぐっと腹に力を入れるなり、彼女は「痛い!痛い!痛い!」と金切り声をあげた。「無痛分娩」だったのに無痛からはほど遠かった。麻酔が弱かったのだろうか、それとも痛すぎて麻酔が効いていようと関係ないのだろうか。
「声を出すとプッシュが弱まるから、口を閉じて!息を止めて!もう一度プッシュ!プッシュ!」
看護婦が元気よく音頭を取った。ベッドサイドにいた僕も、音頭に合わせて息を大きく吸い、ぐっと息を止めてエリコと一緒にいきんだ。やがていきんだ時に膣口からミーちゃんの頭のてっぺんがのぞくようになった。いきむのを止めると頭は引っ込んだ。膣口が呼吸をしているようだった。それを繰り返すうち、少しずつ頭のてっぺんが近く、大きくなっていった。
痛みはどんどん増していくようだった。後から分かったことだが、産む時に膣が裂けてしまっていた。自らの力で自らの体を引き裂いたのだ。どこからそんな力が出てくるのだろう。いったいどれほどの痛みだったのだろうか。エリコの真一文字にくいしばった口からは苦痛の声が漏れた。顔は真っ赤に紅潮し、目玉が飛び出さんばかりに見開いた目からは涙が溢れた。まるで仁王像のような表情だったが、しかしそこに込められているものは怒りではなく、愛だった。この世でもっとも純粋な形の愛だった。だから彼女の表情は美しかった。愛するミーちゃんに会いたいというただその一念が、彼女をここまで美しく、そして強くさせたのだ。僕は小さな嫉妬を感じた。
「プッシュ!プッシュ!プッシュ!」
看護婦の声も興奮してきた。医者が膣に手を入れてミーちゃんの頭を引っ張った。最後にエリコが破裂してしまうほどのいきみを加えると、堤防が決壊するように、ふいにミーちゃんの体全体がズルリと流れ落ちた。その体はバラの花のように真っ赤な血に覆われていた。看護婦がそれを受け止め、手際良く体を拭き、鼻を吸い ―そしてミーちゃんが産声を上げた。看護婦はミーちゃんを裸のままエリコの胸の上に置いた。もう目が開いていて、お母さんの顔をしっかりと見た。
やっと会えた。ミーちゃんにやっと会えた!エリコはもう泣いていた。僕も泣いた。そしてミーちゃんの右目からも、一滴の水晶玉のように透き通った涙が流れ落ちた。
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「美咲って名前がぴったりの顔だと思わない?」
医師と看護師が引き上げ、落ち着きを取り戻した分娩室で、僕はエリコに抱かれるミーちゃんの顔をまじまじと見ながら言った。目の綺麗な子だった。生まれたばかりなのに両目がぱちりと大きく開いていた。黒目にも白目にも真珠のような瑞々しい艶があって、天井の灯りを反射して輝いていた。京菓子のように形の整った小さな鼻。薄い唇に縁取られたかわいらしい口。もちろん自分の子が可愛く見えるのは分かっている。それでも本音でこう思う。こんなに美しい赤ちゃんは見たことがない。
「うん、本当に美咲っていう名前がぴったりだね。」
エリコも言った。あの5年前の直感は正しかった。偶然ではない。きっとあの時から、この子が僕たちのところへやってくることが、宇宙のどこかで秘かに決められていたのだ。
美咲。その名前はきっとこれから多くの人に愛されることだろう。すでに病院の看護婦たちは「ミーちゃん」というニックネームを覚えて可愛がってくれた。僕やエリコの大勢の友人から祝福してもらった。すぐにミーちゃんは成長して学校でたくさんの友達に囲まれ、みんなから親しみを込めてその名を呼ばれるだろう。やがてミーちゃんの黒く美しい目に惚れた男たちは、その名を夜ごとに呪文のように唱えては、叶わぬ恋の苦しさに悶えることだろう。そしてミーちゃんの愛を手に入れた幸運な男は、その名を呼ぶたびに幸福と愛情で心が満たされるだろう。
ミーちゃんの、美しく咲き誇る人生が、今始まった。その旅路の中で、新たな人と出会うたび、彼女はその美しい目で微笑みながら挨拶をし、誇らしげにこう言うことだろう。
「私は美咲です。」