謙虚に、優しく、美しく

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水曜日

水曜日の午後に成田空港に着くと、僕は急いで実家に電話をした。呼び出し音が鳴る間が不安でならなかった。母が出るなり、単刀直入にこう聞いた。

「おばあちゃん、まだ生きてる?」

母は、うん、と言ったが、その声は疲れていた。僕は胸をひとまずなで下ろした。祖母の病室で待ち合わせと決めて電話を切った。

母方の祖母の命があと3日から7日で尽きるという知らせを聞いたのは、9月中旬になっても猛暑の続くロサンゼルスの、いつも通りたまらなく暑い日曜日の夜だった。火曜日の早朝に飛行機に飛び乗った。太平洋を渡る11時間の間、家族と連絡を取れないのがもどかしかった。成田に着いたらもう祖母は死んでしまっているのではないかと不安だった。

空港から電車で病院へ向かった。窓の外には日本の田園風景が広がっていた。世界は祖母のことにまるで無関心で、そして美しかった。稲は実りの時期を迎えていたが、木々の葉はまだ夏のように濃い緑を湛えていた。バケツから水が溢れるように線路際のフェンスを蔦が勢いよく這い登っていた。ところどころに彼岸花が揺れていた。

日暮里から山手線に乗り換えた。車内には何の変哲もない日本の日常があった。シートに7人ずつが行儀よく座り、その大多数は黙々と携帯電話をいじっていた。立っている男子高校生3人は誰がなんとかカードをゲットしたなどと騒いでいた。目線を上げれば、竹中直人が金貸しの宣伝を、ローラが永久脱毛の宣伝をしていた。

電車を降り、僕は重いスーツケースと重い心を引きずって病院へ向かった。祖母がどんなふうになってしまったのか、その姿を見るのが怖かった。ためらいを振り切って、僕は祖母の病室の扉を開けた。

祖母は窓際のベッドに仰向けに寝ていた。1ヶ月半前に見舞ったときよりも更に痩せていた。肌は骨の上に直に張り付いているようで、黒ずんで生気を失っており、こげたパンの耳のようにパリッと割れて剥がれ落ちてしまいそうだった。腕には点滴の管が、鼻には酸素の管がつけられていた。胸につけられたいくつかの電極は、ベッドの脇にある心拍数のモニターにつながっていた。

「おばあちゃん」と僕は無理やり笑顔を作って呼びかけた。祖母が重たそうに薄目を開け、フガフガフガと何かを喋った。呂律が回らないのだ。何度か聞き返した後、「はねだから?」と言っているのに気がついた。「いや、今日は成田からだよ」と返すと、ウンウンと小さくうなずいた。頭ははっきりとしているのだ。またフガフガと何かを言った。「おかえり」だった。「ただいま」と僕は応えた。祖母はまたウンウンと小さくうなずき、満足そうに目を閉じた。

直後に母が合流した。1時間ほどフガフガフガと話したあと、「また明日も来るね」と言って立ち上がると、祖母は右手を重たそうに持ち上げて握手を求めた。僕はその手を握った。肉感はなく、驚くほど冷たかった。それでも祖母は、弱々しいけれども確かに僕の手を握り返してくれた。

木曜日

翌日は時差ボケで早く目が覚めたので、リビングでパソコンを開いて仕事をしていた。しばらくして冬眠明けの熊のようにノソノソと妹が起きてきてテレビをつけた。浮ついた声の女子アナウンサーが、まもなく発売されるというiPhone 6の新機能を大げさに説明していた。スコットランドの住民投票などのニュースの後、また浮ついた声の女子アナが登場して、「さあ、CMの後は今日の運勢で?す」などと無意味なことを言うのでテレビを消した。

妹が出勤してしばらくした9時半ころ、家の電話が鳴った。嫌な予感がした。果たして病院からだった。血圧が下がったのですぐに来いとのことだった。タクシーの中で母も僕も気が急いていた。道を塞ぐように僕らの前をノロノロと走るバスに腹が立った。

駆け込むように病室に入った。努めて平静な声で「おばあちゃん」と母が呼んだ。祖母はゆっくりと目を開けた。僕たちは胸をなでおろした。

すぐに妹も会社から駆けつけた。祖母は少し持ち直していて、血圧は低いながらも安定していた。祖母は元気な頃はとにかくお喋りだったが、この日も瀕死の人間とは思えぬほど、フガフガフガとよく喋った。

妹に何かフガフガとうれしそうに言った。どうやら「おめでとう」と言っているらしい。またか、と僕たちは顔を見合わせて苦笑いした。祖母はボケてはいなかったが、夢と現実の境界があやふやになっていた。ある日、妹が婚約した夢を見たらしい。しかも相手は40代のハゲのバツイチという詳細情報付きだ。そしてそれを現実だと思い込み、心から祝福していた。挙句の果てには結婚祝いまで前渡しして、調子の良い妹は喜んで受け取った。

今度は僕にフガフガフガと神妙な顔で言った。よく聞くと、「行ってきます…」と言っている。背筋が凍りついた。何と返せばよいのか分からなかった。困っている僕に、祖母がまた口を開いた。「…トイレに。」これには一同大笑いだった。

フガフガと喋るのは体力を使うようで、祖母は喋っては眠り、喋っては眠り、を繰り返した。祖母が眠っている間、母も妹も僕もベッドの脇で文庫本を読んで時間を潰した。会話は殆どなかった。薬品と排泄物の臭いが漂う白い壁の病室で、祖母がこの世界で過ごす残り少ない時間が、ゆっくりと、重たく流れていた。

ベッド脇の机に緑色の表紙のメモ帳が置いてあった。祖母が病床で付けていた手記だった。水や食事が制限されて辛い旨や、母が見舞いにきて何を差し入れてくれて嬉しいということが、小さな文字でびっしりと書かれていた。こんな一節もあった。

「…1、2時間ねられず、乾布まさつ等して白い天井を眺めて昔の事考えたり、楽しいことばかり思い出されます。時々やはり二人の孫の雅裕、アスの赤ちゃんの頃の事、アスはウンチがかたく真っ赤な顔をしていきみがんばる姿、ヒロは泉屋でおもちゃ売り場で坐り込む坐り戦術、じぃ、ばぁーはこれには降参です。」

昼下がり、母と妹と僕は、少し休憩を取ろうということで、コンビニでプリンを買ってきて、病室の外のロビーで食べた。その後に病室に戻ると、またおばあちゃんがフガフガという。その言葉にびっくりした。「プリン食べたい」と言ったのだ。今までも寿司やソウメンをねだったことはあったが、プリンはなかった。祖母のベッドからロビーは見えないはずだ。おばあちゃんが幽体離脱して見てたんじゃない、と母が冗談を言った。

見られては仕方ない。僕はもう一度コンビニに走って、プリンを買ってきた。喉につまってはいけないので、看護婦さんに付き添ってもらいながら、母が小さくすくって祖母の口に運んだ。「おばあちゃん、おいしい?」と聞くと、祖母はウンウンと小さくうなずき、口を開けてもう一口とねだった。次は妹が、そして僕が、順番に、一口ずつ、祖母の口にプリンを運んだ。何かの儀式のようでおかしかった。結果的にこれが祖母の最後の食事になった。

金曜日

夜中に病院から電話が来るのではないかと不安だったのだが、何事もなく朝を迎えた。この日のニュースは仲間由紀恵の結婚でもちきりだった。街角でマイクを向けられた男性が「俺のユキエを返せ?」などと馬鹿馬鹿しいことを言うのでテレビを消した。

病院へ向かう前に、母と駅の近くのそば屋で昼食を取った。隣のテーブルには生まれたばかりの赤ちゃんを抱いた夫婦がいた。オギャーと泣くと母親がすかさず哺乳瓶を口に突っ込む。すると赤ちゃんはすぐに泣き止んで、一心不乱にミルクを吸う。そのあまりにも可愛らしい仕草に、母も僕も顔がほころんだ。

病院に着くと、看護婦がもう栄養の点滴をできなくなったと僕たちに告げた。それはつまり、祖母の命はあと1日ほどしかもたないことを意味した。

病室に入り、「おばあちゃん」と呼んだが、祖母はもう目を開けず、喋りもしなかった。一呼吸、一呼吸が苦しそうだった。意識がなくても辛いという感覚はあるのだろうか、時折足を苦しそうに動かすのがかわいそうだった。しばらく傍にいた後、「明日も来るね」と言って立ち上がった。祖母は何も返事をしなかった。

日が暮れた頃、また病院から電話があった。呼吸が止まりそうなので10分で来てくれとのことだった。タクシーを待つ間、母は明らかに取り乱していた。タクシーの運転手がまかせとけと細い裏道を通ったのだが、本当にこれが近道なのか疑心暗鬼だった。タクシーを降りて道を渡る時、停まってくれない車に僕は怒鳴ってしまった。

病室に駆け込んだ。祖母は口を大きく開け、時が止まったように静止していた。もう呼吸をしていないのは見てすぐに分かった。心臓のかすかな痙攣だけが、夕日が沈んだ後の淡い残光のように残っていて、心電図のモニターに頼りない波形を刻んでいた。それもやがて止まった。先生がやってきて書類に時刻を書き込んだ。看護婦が祖母の体から管や電極を全て取り外した。一連の事象は全て、時計が時計回りに時を刻むように、あまりにも自然に、当たり前のように進んでいった。それをベッド脇で座って見ていた僕の心は不思議なほどに静かだった。僕も母も泣かなかった。しばらくして妹が駆けつけた。彼女も泣かず、驚きもせず、祖母の肩に手を置いて、「おばあちゃんお疲れ」と言った。

祖母の死は、映画やテレビのようにドラマチックでも、悲劇的でも、英雄的でもなかった。きっとこの世界の大多数の人にとって、死とはそういうものだろう。祖母はただ、与えられた一日、一日を、明るく、謙虚に、逞しく生きた。それは元気な間も、闘病の間も同じだった。そしてある日、それがおしまいになった。ねじ巻き式のオルゴールが静かに鳴り止むように。

日曜日

季節の変わり目は亡くなる人が多いそうで、葬儀は火曜日まで待たねばならなかった。祖母が亡くなった翌日の土曜日に妻と父がそれぞれ海外出張から帰ってきた。

日曜日、僕は妻と散歩に出た。爽やかに晴れた、美しい秋の日だった。公園ではバザーをやっていた。ビートのきいた洋楽が流れ、人々が屋外のテーブルの周りや芝生の上に群れて、ビールを片手に楽しそうに時を過ごしていた。子供たちが広場でキャッキャと声をあげて走り回り、髪を緑や紫に染めた若者の一団がたむろしている間を、腰の曲がった老婆がカートを押してゆっくり歩いていた。

そうして、祖母がいなくなった世界には、普段と何も変わらない日常の時間が相変わらず流れていた。今日もこの空の下で何人の人が生まれ、何人の人が去っていくのだろうか。世界はそんなことにまるで無関心で、それでいて調和がとれていて、依然美しかった。

何も不思議なことはなかろう。たとえば偶然通った道の道端に咲く彼岸花を、僕は美しいと思う。けれどもその花が枯れても、僕はそれを知ることはなく、気に留めることもない。それで文句を言う花などどこにあろう。そんな謙虚な美しさの集まりこそが、この世界の美しさなのだ。祖母の命もまた、謙虚で、美しく、優しい、道端の一輪の花だった。

おばあちゃん、お疲れ様、そしてありがとう。

 

2 thoughts on “謙虚に、優しく、美しく

  1. 彗星でヒッチハイクなんてぶっ飛んだことを考えた人とは思えないほど情景描写が丁寧でとてもうまい.まるで小説のよう.
    美しい田園風景と雑然とした電車内の対比が印象的.美しいものと汚いものの違いがよくわかる方なのだろう.

  2. 自分にとって近い人の死は、まるで未来しか見えていない若者を咎めるかのように”今”を強烈に映し出すのだと思います。今この瞬間に、自分の知らない誰が生まれ、誰が死んでいくのか、という残酷な美しさを認識させたのだと思うと、少し自分を省みる気持ちにもなるでしょう。
    小野さんの技術者としての一面でなく、一人の人格者としての部分が深く現れていると思います。

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