アメリカの大学院の合格発表、そしてOpen Houseの季節がやってきた。学生が世界中からやって来るアメリカの大学では、掲示板に合格者の受験番号を貼り出すようなことはもちろんせず、Eメールで合格通知が来る。留学の相談に乗っていた後輩の何人かも合格通知を受け取ったそうで、嬉しい限りだ。
合格通知を受け取った人は、Open House(オープンハウス)というイベントに招待される。研究室を見て回り、指導教官を探し、九月から同級生となる仲間たちと知り合うためのイベントだ。おおよそどの学科もこの数週間の内にOpen Houseを催す。だから今は、キャンパスが新入生で溢れている。
その中に、ちらほらと日本人が混じっている。彼らの多くは、新しい環境への不安、言葉が通じないもどかしさ、仲間に溶け込めない寂しさで、すこし小さくなって、おどおどと歩いている。まさに五年前の僕自身を見ているようだ。
僕が「留学交流」という雑誌の2009年12月号に寄稿した文章を、発行者のご厚意で以下に転載させていただく。きっとこれから辛い思い、寂しい思いをするだろう新留学生の皆さんが、それを克服して実りある留学にするための一助となることを願う。
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「レンガを積むが如く」
(株)時評社発行 月刊『留学交流』2009年12月号より
迷いと決断
宇宙工学への情熱に駆られ、勢いに任せてマサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院へ願書を出し、幸運にも合格通知を貰ったのが、今から五年前、僕が大学四年生だった年の二月だった。しかし「合格」とはいえども、ファンディング(学資補助)無しの中途半端な合格だった。
アメリカでは、工学、理学、経済学などの研究を主目的とする課程に在籍する大学院生は、fellowship (大学が給付する返還義務の無い奨学金)、RA(Research Assistantship)、TA(Teaching Assistantship)などの形で学費を免除され、生活費も月々の給料でカバーされるのが一般的である。学資の工面をする必要なしに、最高の環境で研究をし学位を取れるとなれば、世界中から優秀な学生がアメリカへ集まって来るのも当然である。
しかし、僕がMITから貰った「合格」には、いかなるファンディングも付いていなかった。つまり「学費と生活費を合わせて年間600万円近いお金を自腹で払うなら来てもいいよ」という、冷淡な合格通知だったのである。とても何年間も払い続けられる金額ではない。
だが、まだ望みはあった。RAを現地調達するという方法である。
RAの仕組みを手短に説明したい。アメリカの大学の研究室は、それぞれが独立したベンチャー企業のように運営されている。研究室は、企業、政府、軍などとスポンサー契約を結び、研究費を得る。教授はそのお金を使って大学院生を雇い、学費と給料を払う。それがRAである。評価が悪い大学院生は首を切られることもあるし、研究室も結果を出せなければスポンサー契約を打ち切られる。学生や研究室が常に競争に晒される健全な市場原理が働いており、それがアメリカの大学における研究の活力の源となっている。

教授たちは一年中、常に新しいスポンサーを探している。そして研究費が舞い込めば、年度の初めでなくとも新たに学生を雇い入れる。採用は教授が学生を個別に面接して決める。だからファンディングにあぶれた学生たちは、巡礼者のようにあちらこちらの教授を訪ね歩いては、空いているRAのポジションはないかと「就職活動」をするのである。
ファンディングの無い僕も、とりあえずは自腹で学費を払ってMITへ入学し、「就職活動」をしてRAを現地調達するという道が残されていた。リスクは大きいが、決して不可能な道ではない。そして有難いことに、両親が一年までなら学費をサポートしてくれると言ってくれた。親には一生、頭が上がらない。
一方で、僕は日本の大学院にも合格していた。間違いなくこちらの方がリスクの少ない選択肢である。周囲の多くの人も日本に残ることを僕に勧めた。しかし僕はせっかく手にしたMITの合格通知を破り捨てるのが惜しくてならなかった。僕は迷った。
合格通知を受け取った翌月の三月、MITのopen house(新入生向け説明会)に参加するため、僕は雪が深々と残るボストンへ飛んだ。決心をする前に自分の目でMITを見ておきたかったのだ。その機会に、MITに既に留学していた高校時代の友人と会った。久しぶりだな、アメリカで余計に太ったんじゃないか、そんな会話の後、彼に状況を説明し、安全を取って日本に残るべきか、リスクを取って留学に挑戦するべきか、相談した。すると彼は一言、不遜にこう言った。
「自信があるなら、来てみれば。」
その挑戦的な言葉に、僕の反骨心はナイーブに反応した。口では「そうだね、考えてみるよ」などと平穏な返事をしたが、心は(ナンダ、コノヤロー)と叫んでいた。
事実、当時の僕には自信があった。高校でも大学でも成績は上位だったし、英語も、留学準備のために勉強していたから、周りの日本人たちには負ける気がしなかった。交友関係にも苦労せず、大学のイベントやサークルでは何かとリーダー役を買って出ていた。アメリカでも同じようにやれるという自信があった。
僕はMITへ行くことを決心した。親が学費を払ってくれる一年間が、RAを見つけてMITに残るためのタイムリミットだった。
アメリカへ
八月の終わり、僕は再びボストンにやって来た。空港に着いたのは夜十一時過ぎで、熱帯夜が続く東京と比べると随分と肌寒かった。両手に持った二つの大きなスーツケースには生活用品がぎっしりと詰め込まれていて、僕の胸は自信でぱんぱんに膨らんでいた。タクシーに乗り込み、行き先を問われ、「MIT」と答えるのが誇らしかった。
しかし、その日から半年の間に僕が経験したのは、風船から空気が抜けるように、自信がみるみる消え去っていく過程だった。
最初の壁は授業だった。最初の学期に取った四つの授業のうちひとつは、チームに分かれて人工衛星を設計するというプロジェクト・ベースのものだった。毎週の課題は全てチーム作業で、四人のメンバーが集まってディスカッションをし、それを元にレポートを書く。こんな時、日本では、僕はいつもチームをリードする立場にいた。しかしMITではそうは行かなかった。日本の学生は概して主張が弱い人が多いが、欧米の学生たちは本当によく喋り、よく主張する。そこへ僕が拙い英語で意見を述べても、なかなか他のメンバーは真剣に聞いてくれない。彼らは僕のたどたどしい英語に痺れを切らし、僕が喋り終わっていないのに割って入って、他の事を議論し出すこともしばしばだった。彼らの主張に誤りを見つけ、違う、それはこうなんだと一生懸命に説明しても、理解されていないのか、白けた目で見返されて終わることもあった。そうかといって黙っていれば、僕がそこにいないかのように議論が進んでゆき、意見を求められることも殆どなかった。リーダーシップを取るどころか、メンバーから信用すらされない。僕の自尊心は深く傷ついた。
交友関係でも苦労した。特に辛かったのが飲み会だ。授業とは違って崩れた英語が話される上に、周囲が騒がしいこともあって、なかなか会話を聞き取れない。誰かが楽しげにジョークを言い、周りの皆が腹を抱えて笑う中、僕一人それを理解できずにいた。オチを聞き返して白けた目で見返されるのが怖く、かといって一人だけムスッとしていると余計に仲間に入れないから、分かったフリをして作り笑いをした。そんなことを繰り返す自分が嫌でたまらなかった。気が滅入ると余計に口から言葉が出なくなり、眼前を左右に飛び交う会話に入ることが出来ず、ただ黙って座っている時間はとても長く感じた。手持ち無沙汰なせいでビールの減りが早く、楽しくもないのに酔いだけが回った。そんな飲み会のあと、寮の自室に帰って、僕はとても惨めな気持ちだった。やがて飲み会の誘いにも気が進まなくなり、忙しいからなどと適当な理由をつけて逃げることもしばしばだった。
現地調達するつもりでいたRAもなかなか見つからなかった。アポ取りのメールに返事すらくれない教授もいた。たとえ会ってくれても、「空いているRAのポジションは無い」と追い返されるのが常だった。その度に、「本当に無いから『無い』と言っているのだろうか、それとも追い払うための口実だろうか」などと疑心暗鬼になる自分がいた。そうこうしているうちに雪が降る季節になり、一年のタイムリミットも気になりだした。
胸にぱんぱんに詰め込んできた自信は、こうしていとも簡単に失われた。
余裕など一切無くなった僕は、朝から晩まで、文字通り死ぬほど勉強した。負けん気が強かったといえば聞こえが良かろうが、それよりも、自信満々で日本を出てきた手前、このままでは帰れないという、追い詰められた気持ちのほうが大きかったように思う。
ディスカッションでは勝ち目がないと悟った僕は、代わりに自分一人で出来ることに力を注いだ。人工衛星設計の授業のチーム・プロジェクトでは、ミーティングで方針を話し合った後、各々に仕事を割り振って、調査、研究、レポートの執筆を行う。僕はミーティングで自分の主張が通らないことは黙って我慢し、寮に帰った後、自分に割り振られた分の仕事を必死で頑張った。喋って自分を主張する代わりに、成果で以ってアピールし、チームメイトや教授に認めてもらおうと思ったのだ。
RA探しも、なりふり構わず、泥臭く立ち回った。格好だの自尊心だのを気にしている場合ではなかった。人工衛星設計の授業を教えている教授が、僕が付きたいと思っていた教授の一人だったのだが、彼の授業中、たとえ既に僕が知っていることでも、知らないフリをして手を挙げて質問した。そうすることで教授に存在感をアピールし、名前を覚えてもらい、そして「この生徒は鋭い質問をするな」と思わせるためだった。その教授にもRAは無いと一度は断られていたのだが、ならばお金はいらないから研究室で働かせてくれと食い下がり、研究課題をもらった。それで結果を出せば、次にRAのポジションが空いた時に、きっと自分に回ってくるだろうという魂胆だった。
そんな精神が磨り減るような努力が初めて報われたと思った瞬間を、今でも鮮明に覚えている。人工衛星設計の授業で提出したレポートの、僕が書いたセクションに、教授がこんなコメントを付けてくれたのだ。”Despite the grammatical and spelling problems, this section is technically excellent.” (文法やスペルに問題があるが、このセクションの技術的内容は素晴らしい。) もっともこれは、毎週提出するレポートに何十と付けられるコメントのひとつに過ぎない、ほんの些細な事である。それでもMITに来て以来、話しても相手にされず、RAも見つからず、自信を喪失する一方だった僕にとって、初めてMITの教授が、しかも僕が付きたいと思っていた教授が、僕を認めてくれた瞬間だったのだ。夜中に寮の部屋で一人、Eメールで送られてきたそのコメントを読んで、僕は飛び上がらんばかりに嬉しかった。
それ以後、少しずつ、歯車が回りだしていくのを感じた。教室で一人の友人ができた。彼は宿題の分からない箇所をいつも僕に聞きに来た。僕を、授業の内容を理解している奴だと認めてくれたのが嬉しかった。逆に彼は、僕が書いた間違いだらけの英文の添削をいつも快く引き受けてくれた。また、腹の底から笑いながら楽しく酒を飲める日本人以外の仲間を初めて見つけた。彼らの殆どは同じ寮に住むヨーロッパやアジアからの留学生だった。多かれ少なかれ、同じような留学の辛さ、寂しさを経験した者同士だったから、仲良くなり易かったのだろう。
そして、MITに来て半年後、チャールズ川が凍り付く厳冬の二月に、僕は遂にRAを手にした。例の人工衛星設計の授業を教えていた教授ではなかったのだが、彼が似た研究をしている別の教授に僕を推薦してくれたのだ。全ての苦労が報われたと思った。喜んで親に報告した。僕はその先も、MITに残れることが決まった。

留学の価値
あれからもう、四年が経つ。その間に僕は修士号を取り、現在は博士を目指して研究を続けている。未だにディスカッションではアメリカ人たちにかなわない。飲み会でも、未だにジョークが理解できず、作り笑いをすることもある。それでも、研究の実績を重ねていくうちに、研究室で自分の確固とした居場所を見つけ、教授からも大事な仕事を任されるようになった。英語での立ち振る舞い方も徐々に身につけ、友達の輪の中にも、以前よりは自然に入っていけるようになった。そうして、一度は完全に失われた自信が、徐々に戻ってきたことを感じる。
思い返せば、MITに来たときに僕の胸をぱんぱんに膨らましていた自信は、狭い世界での限定的な成功を外の世界へ単純に外挿しただけの、根拠の無い自信だったのだと思う。それは風船に詰められたガスのようなもので、小さなゴムの膜を見掛けは大きく膨らませたが、ひとたび穴が開くと、何の抵抗もなく全てが抜け去り、風船はしぼんでしまった。きっと本物の自信とは、レンガをひとつずつ積み上げてゆくようにして築くものなのだ。研究成果を書き記した論文の一本一本や、お互いに信頼できる友達の一人一人、そんなものを、ひとつずつ、またひとつずつ、しっかりと積み重ねて、風が吹いても雨が降っても揺るがない、頑強な壁を築き上げていくことこそが、自信を得るということだったのだ。
もし僕が今後の人生で何かしらの成功を成し遂げることがあるとすれば、あの半年間の苦労がその土台となろう。もし僕が今後、何かに失敗するとしても、留学の苦労を通して築いた自信の壁が、僕を風雪から守ってくれるに違いない。MITへ来て、僕がいったん全ての自信を失いリセットされたあの半年間、それがその後の僕の人生の原点だ。そしてそれこそが、この留学の価値である。
最近の日本では留学がすっかり大衆化したようだが、その多くは、語学留学、交換留学、あるいは企業派遣で、僕のように一般の学生として留学して来る人は少ない。お隣の中国や韓国からハングリー精神に溢れた学生が大勢留学して来ているのを見ると、日本の元気の無さはなんとも寂しい。一般学生としての留学は、学位取得のために達成せねばならない目標が厳格に決まっており、語学レベルに関係なく現地の学生と同じ土俵での競争を強いられるので、苦労や精神的なプレッシャーは非常に大きい。学資を自分で見つけねばならず、日本では根無し草なので、リスクもある。しかしそれらは、経験する価値のある苦労、挑戦する価値のあるリスクだと僕は断言する。元気の良い学生や若手研究者の方たちに、どんどん海外へ飛び出して来てほしいと思う。
そして最後に、もしあなたが、安全を取って日本に残るか、リスクを取って海外へ行くかを迷っているならば、僕はこの不遜な言葉で、あなたに挑戦したい。
「自信があるなら、来てみれば。」
12 thoughts on “レンガを積むが如く~僕のMITでの最初の半年”
すでに留学を終えた身やけど、めっちゃ元気づけられました。勉強ができるというだけでなくて、人間としてすごいと思っているオノさんでもこういう時期があったんだなあと思うと、なんか微笑ましく読んでしまった。留学を含め今でも振り返るとその辛さ、胸の痛さを思い出せるような時にこそ、自分の現実と向き合うことを強いられる貴重な機会があったし、そこが初めて夢に向かって挑んでいくことの喜びや希望を感じられるようになった出発点だったと思います。新留学生だけでなく、春に変化を迎える人みんなを勇気づけてくれる文章です。「留学」も読んでみよう。
いい文章だねえ、緒野くん。僕の風船はセロハンテープをはった上から針で穴をあけたような感じでスースーと緩やかにガス漏れが続けていながらしかしなんとかそこそこ形を保っているような感じなんですけど、まざまざと破裂を経験して自信のパラダイムを根本から再構築したという強み(「自信」)が君にはあるのでしょう。羨ましいことです。僕はまああと一年なんで風船型で押し切ろうと思うよ。
僕が言いたかった事だとか、僕が欲しかった言葉だとかが
ここに来るといつもスッキリまとめられてて、いろいろな事に気づかされます。
残念ながらオノさんの後輩にはなれなかったのですが、
代わりに西海岸で頑張ろうと思います。僕は僕なりの自信を胸に。
確かに膨らんでいた自信はうたかたの様に消えてしまいましたね。
崩壊しきってしまった自信という瓦礫のなかで呆然とする自分と、それでも確かに復興された一部の新しい自信が共存している気がします。
MITという場所はアメリカ合衆国というよりも世界中の有能と呼ばれる人を集めてきた場所だと思います。ですから石を投げればどこかの有名大学で主席だった人に当たります。韓国人などの他のアジア人がどれだけ成功しているかは知りませんが、ただ闇雲に短気留学や派遣で満足している日本人に発破をかけて留学という道を選ばせても不幸な思いをする人も多いでしょう。
日本の様な入ってしまえば何とかなる場所では無いので、空元気でもそこら辺を認識した上で自信を上積みして飛び込んでくる人が増えるといいですね。
ホント小野さん文章上手いですね。まさに自分の手で切り開いた道だと思います。僕も先日のOpen Houseで自分より遥かに優れた学生たちに出会いました。渡米までに残された時間で、一つでも多くのレンガを積んでいきます。
日本からの新大学院生の方ご紹介頂ければと思います。
たまに日本に帰ってきたときに、飲み会で聞くだけでは伝わってこなかった事が書かれてるね。自信っていうのは、苦しみを乗り越えてこそ、本物になっていくんだろうね。自分の今の暖かい環境に感謝しつつ、更なる成長を続けていこうと思うよ。
Your gamble and hard work seems to have paid off!
But, in a few years you will probably understand why the graduation
ceremony is called a “commencement”. This is just the beginning.
11月末?12月初めのMRS@ボストンに向けてネタの仕込み中。
ボストンのブリトー(Anna’s, Qdoba等で売っているあれ)って
実はご当地料理だと気づいた今日このごろ。
あれは短時間で大量に捌くことができる、高度に効率化された料理なんですね。
こっちのブリトーは皮が焼いてあって、すごい違和感を感じる
(盛りは大きくてよけい太る・・・)
学会発表が受かったら食い歩きがしたいですな。
まともな中華街の中華も食いたいし。
鳥肌がたちました。
ぼく自身、物事がうまくいかないとすぐに自信をなくしてしまい、そういう運命だったかのような錯覚に陥り、切り拓いてゆく精神に欠けていると改めて思い直しました。
当初おのさんが持たれていた自信を風船にたとえておられますが、それについて思うことがあったのでコメントさせていただきます。
たしかに一度苦しみをのりこえたあとから見ると、当初の自信は風船のようなものだったのかもしれません。けれど、ぼくはその過程が人間には絶対に必要なのではないかと思うのです。
というのも、おのさんがアメリカで様々な屈辱を感じながらも、そこから逃げずに立ち向かうことができたのは、おそらくおのさんには逃げを許さないというプライドがあったからではないでしょうか。
そして、そのプライドの基盤を作ったのは狭い世界とはいえ小さな成功体験の積み重ねであったような気がします。
ぼくはこのブログについても今日初めて知った人間ですが、そのような気が強くしました。
レンガの自信を築くための欠くことのできないプロセスとして、渡米前の風船のような自信も、(レンガとなった今となっては)胸を張って言えることのように思いました。
知り合いのtwitter経由で来ました。
私は学問/研究の道を目指している訳ではないのですが、英語圏の大学で修士を取りたいと思って社会人しながら勉強し直し中です。
でもこんなハードな状況に耐えられるんだろうか…とちょっと怖くなってしまいました。猪野さんのガッツは本当にすごい。
素晴らしい挑戦、ガッツ、根性に感服致しました。
MITのすぐ横にある某バイオ医薬企業の日本法人にいます。今度もし、Bostonに行くことがあればぜひお会いしたいです。
大学院留学を目指しているものです。
この文章に出会えてよかったです。
元気付けられました。
揺るぎないものを私も作りたいと思いました。
ありがとうございます。