ギリシャから帰って、早くも三週間が経ってしまった。ボストンは既に晩秋だ。川沿いの木々はすっかり色付き、せっかちな木は葉を落とし始めている。今朝は曇りだった。灰色の空の下、マフラーと手袋をして外へ出れば、冷たく乾いた風が吹き付け、耳が痛かった。日が落ちて、雨が降った。初雪の予報は外れたが、雪になり損ねた雨は金属のように冷たく、重かった。落ち葉が雨に濡れ、人に踏まれ、崩れた茶色の断片となって歩道に散らかっていた。
忙しい三週間だった。一昨日に論文の締め切りがあり、加えて宿題、研究、その他諸々の雑務。起きてパソコンをつけ、研究室へ行ってパソコンに向かい、寝る前にパソコンを切る生活。葉の色の染まりゆくのを眺める余裕も無かった。
太陽が燦燦と降り注ぐギリシャの海、白壁の家の間を縫うように走る石畳の小道、あそこを旅したのはたった三週間前なのに、その眩しい風景は、ボストンの寒さと日常の忙しさによって遥か彼方に隔てられてしまった。まるで灰色の雲の裏に隠れた太陽のようだ。記憶の上にモヤがかかり、体験は明瞭な輪郭を失う。自分が写っている写真を見ても現実感が沸かない。こうなる前に旅行記を書いておくべきだったと悔やむ。太陽が完全に隠れてしまわないうちに、書いてしまわねばと思う。
古代ギリシャ人は日本人と同じように、神殿を山の上に作る習慣があったようだ。ギリシャを代表する建築であるパルテノン神殿も、アテネ市街を見下ろし、遠くエーゲ海まで望める切り立った丘の上に建てられている。今回の旅は授業をサボっての学会旅行だったので、アテネには一泊しか滞在できなかったのだが、ここだけは見ない訳にはいかない。
アテネに着いた翌日の朝、石畳の階段を登り、パルテノン神殿が建つアクロポリスの丘の頂へ向かった。神域の入り口を示すプロピュライアの門を抜けると、神殿の整然と並ぶ柱の列が、期待を全く裏切らない荘厳さで僕の目の前に立ち現れた。柱の黄ばんだ色や崩れた屋根は、この建築が2500年間もここに立ち続けてきたことの証拠であり、神殿の雄雄しい威容を増幅させていた。天気も良く、夏の終わりとはいえ眩しいギリシャの太陽光がコントラストの強い影を作り、神殿の大きさ、高さを強調して見せた。
しかし、残念なこともいくつかあった。一つ目は、神殿が修理中だったこと。17世紀の戦争でベネチア軍が無遠慮に大砲を打ち込んでくれたおかげで、神殿の屋根や内陣は瓦礫の山と化してしまっている。それを古代の姿に戻すべく、大規模な修復工事をしているのだ。僕は、継ぎはぎの修復で過去を覆い隠すよりも、敢えて破壊されたままの姿で保存して、瓦礫の山に2500年の歴史を語らせるほうが良いと思うのだが。二つ目の残念はスモッグだ。天気は良かったのだが、300万の人口を擁するアテネの街が吐き出すスモッグのせいで、遠景は霞み、エーゲ海も見ることが出来なかった。そして三つ目の残念は、観光客の多さ。僕も観光客の一人なのだから何も文句を言えないが、団体客の馬鹿騒ぎを耳にしながらでは、感慨も薄れてしまう。
神殿を後にした僕は、アクロポリスの丘を下り、その麓にあるアクロポリス博物館へ向かった。素晴らしい博物館だった。その展示物の充実振りもさることながら、3ヶ月前にオープンしたばかりの新しい建物は展示方法が非常に工夫されていて、順路を辿ればパルテノン神殿の中を歩きながら展示物を見ているような体験を得る。しかしとても残念なのは、神殿の周囲を飾っていた「エルギン・マーブル」と呼ばれる彫刻や浮き彫りの殆どが、イギリスに持ち去られ大英博物館に展示されているという事実だ。だから、この博物館に展示されているエギマン・マーブルは、殆どがレプリカである。こんなに素晴らしい博物館が本物の神殿を見上げる最高のロケーションに建ったのだから、是非ともエギマン・マーブルが返還されて欲しいと思うのだが、政治とはそう簡単なものでもないらしい。逆に考えれば、博物館を新築した理由のひとつに、イギリスにエギマン・マーブルを返還させる圧力を強めるという政治的な意図もあるのだろう。
博物館を凡そ見終わったころ、突然雷が鳴り、滝のような雨が降り始めた。さっきまでの晴天が嘘のようだ。ギリシャで雨に降られるとは思ってもいなかったから、傘など持っていない。幸い、展示品の充実ぶりゆえに博物館での雨宿りは全く退屈ではなかった。一時間ほど経つと、今度は今までの土砂降りが嘘のように止み、急に太陽が戻った。
「今だ!」と思った。僕は博物館を飛び出して、来た道を引き返し、再びアクロポリスの丘へと駆け登った。期待していた通りの景色がそこにあった。雨が観光客を追い払ってくれたおかげで、丘の上はさっきとは別世界のように静かだった。雨に濡れた石肌を太陽の光に輝かせて、パルテノン神殿は燦然と2500年の歴史を誇示していた。丘の外へ目を転じれば、雨がスモッグをすっかり取り払ってくれたおかげで、さっきは見えなかったエーゲ海がくっきりと見え、そこに浮かぶ何艘もの大きな船を数えることができた。古代ギリシャ人が、大変な苦労をしてこの場所に神殿を作りたかった理由が、とてもよく分かった。
アテネを後にした僕は、夜行列車に乗って、学会が行われるギリシャ第二の街・テッサロニキへ向かった。テッサロニキは、交通の要衝に立地し良港にも恵まれたおかげで、中世には永らく衰退していたアテネとは違い、ヘレニズム時代に創建されてから2300年間、一度も廃れることなく繁栄し続けた街である。だから、古代の遺跡が現代の人々の生活から厳密に隔離されている感のあるアテネとは異なり、この街の遺跡は、人々が日常を送る景観に溶け込んでいる。例えば、街の山側にビザンチン時代の城壁が残っているのだが、その城壁を壁の一面にしてしまっている民家がたくさんあって、ちゃんと人も住んでいる。
この街にはカフェやレストランがやたらと多い。海沿いはもちろんのこと、街の中心の通りにはどこも椅子やテーブルが並んでいる。ギリシャ人は屋外での食事が好きなので、店は歩道に席を設けるのだ。そして、どこのカフェやレストランも、平日の昼間や深夜でも地元の人たちで満席でだ。彼らはコーヒーやビールを飲みながら、実に楽しそうに友達と話し、或いはボードゲームに熱中し、時間を過ごしている。そんなカフェの端に僕も席を取り、楽しげな雰囲気をお裾分けしてもらいながら、しかし、疑問がひとつ沸いてくる。彼らはいつ働いているのだろうか。そもそも仕事をしているのだろうか。そして、昼間からカフェにたむろしている若者がこんなに沢山いるにも関わらず、どうしてギリシャの国もテッサロニキの街も繁栄を謳歌していられるのだろうか。事実、ギリシャの一人当たりGDPは日本とほぼ同じである。治安も良い。しかし、そんな僕の疑問をよそに、カフェで談笑するギリシャ人の顔には何の心配も切迫感もない。みんな実に大らかで、気持ちの良い笑い方をするのだ。
学会の手伝いをしてくれていたギリシャ人の学生たちと仲良くなった。彼らもいかにもギリシャ人という感じの、大らかで陽気で親切な人たちばかりだった。その一人に「どうしてギリシャでは若者が昼間からビールを飲んでいるのに、国が栄えているのか」と聞いてみた。すると彼は大声で笑いながら、”I don’t know, it’s a magic” (さあね、きっと魔法だよ)と答えた。そして、アメリカ人や日本人は働きすぎなのさ、と笑い飛ばした。
学会の晩餐会で同じテーブルになったギリシャ人の子二人は、昨年に大学を卒業し、今は働いておらず、特に就職活動もしていないと言う。僕の隣りにいたフランス人はそれが納得できず、「将来の夢は何なのか」「どんな仕事をしたいのか」と彼女らを質問攻めにした。すると彼女らは困惑気味に、「今は人生を楽しんでいるのよ…」と答えた。
ギリシャ人たちは「食」が大好きで、それを人生の無上の楽しみとしている。だから、ギリシャ料理はシンプルなものが多いが、オリーブ油にトマトに肉、素材の味がそのままで、この上なく美味しい。一人のギリシャ人学生がこんなことを言っていた。”Americans eat to live. But we live to eat.” (アメリカ人は生きるために食べているだろう。でも俺らは、食べるために生きているのさ。)
「ハララ」。こんなギリシャ語を教えてくれた。「ゆっくりしろよ」「急ぎすぎるなよ」、そんな意味だそうだ。忙しそうにしている友達がいれば、「ハララ」と声を掛けて、「人生」に引き戻してやるそうだ。
学会最終日の夜、ギリシャ人の学生たちが、ギリシャ流の夜の過ごし方を教えてやると言って、彼らの行きつけのレストランへ、僕たちみんなを連れていってくれた。路地に並べられた簡素なテーブルに着くと、ワイン、ビール、サラダに、肉、デザートと、テーブルに載りきらないほどの料理が運ばれてきた。隣のレストランからはギターの演奏が聞こえ、別のレストランでは客がサッカーの中継に熱中していた。そんな音を背景に僕らはギリシャ最後の夜を楽しんだ。学会が終わった開放感も手伝い、会話は弾み、店を梯子して、気付けば夜の二時だった。
彼らは心底気持ちのいい、そしてこの上なく親切な人たちだった。メールアドレスを交換し、またギリシャにおいで、また来るよ、と言って、握手をして別れた。
翌朝、僕は遊び疲れた体を叩き起こして空港へ向かい、ボストンへと飛んだ。
そうしてまた、寒いボストンでの、忙しい学生生活が始まった。忙しくて疲れて溜息を付いたって、頑張れと励ましてくれる人は沢山いるけれども、「ハララ」と声を掛けてくれる人はいない。
もっとも、ギリシャののんびりした生活は、恐らく観光資源に恵まれているからこそ可能なのであって*1、資源も外交力も軍事力も無い日本の若者が皆、昼間からカフェでビールを飲んでいては、決して国が持たないだろう。今の日本の繁栄は、僕たちの両親や祖父母の世代が、アメリカ人やヨーロッパ人の二倍も三倍も働くことで築き上げたものだ。まして少子高齢化の時代、若者がニートだの何だのと悠長にしていられる余裕は、日本にはない。
それでも、忙しくて疲れて破裂しそうになった時、締め切りに追われ夜も眠れず、紅葉を眺める余裕すらない時、頑張れ頑張れと根を詰めてばかりいるのではなく、時々は自分に「ハララ」と声を掛けて、カフェにでも行ってコーヒーを啜って、忘れてしまいがちな「人生」を、思い出してみてみたいと思う。
*1 ギリシャのGDPの約15%を観光が占める。
4 thoughts on “ギリシャ旅行を想い出す/アテネとテッサロニキ”
初書き込みですー。
文章に比喩と事実と感想が上手く織り交ぜられていて、引きつけられます。旅がお好きなようですが、宿って毎回どうしてるんですか?場所によってはインターネットで予約、なんて事ができなかったりしますよね。
Akira> おー有難う。今回はインターネットで予約したよ。長旅の場合は、予定が前もって組めないし、組んでも制約が増えるだけなので、現地で探すことが多いです。
けっこう楽に探せるもんなんですか?ヨーロッパならまだしも場所によっては治安の善し悪しとか英語が通じないとかいろいろ問題が出てきそうな気がするんですが・・・。
うん、どこの国だって何とでもなるよ。小さな町ならバスを降りればすぐ見つかるし、大きな街なら大抵は「安宿街」がある。肝心なのは、
1. 街のどこに安宿街があるかの情報収集。大抵、ガイドブックに載っている。
2. 安全に対する嗅覚。「なんだかここ、危なそう」と察知する能力。
それと、お金を払う前に部屋を見せてもらって、ちゃんと鍵はかかるか、シャワーのお湯が出るかを自分で確認するといいよ。