おじいちゃんが死んだという知らせを聞いて、僕は飛行機に飛び乗り、16時間のフライトの末に成田空港に着くと、大きなリュックを背負ったまま、おじいちゃんのいる斎場へ直行した。
斎場は街の賑やかさからは少し隔たった平和島公園の一角にあり、僕が到着した夜8時には、通りを行き交う車の音の他は、背後にある公園の黒い木々からセミの声が聞こえるのみだった。その闇からぬうっと浮かび上がるように、真っ白の大きな看板が玄関に立っていて、そこにはまだ墨汁が乾ききっていない黒光りする毛筆で、「故 村上光一 儀 葬儀式場」と書かれていた。それを見た瞬間、今までは1万キロの距離によってボヤけていた「おじいちゃんの死」という情報は、この黒と白と黒のコントラストのように明瞭な事実となって、屹然と僕の前に立ち現れた。僕の心は逃げられないようにきつく縛り上げられ、縄目がグイグイと音をたてて心に食い込んで行く感じがした。
その縄に引きずられるように斎場の中に入ると、すでに葬儀の準備は整えられていた。誰もいない部屋には椅子が整然と並べられ、花で飾られた祭壇の前には、白い棺が寂しそうに置かれていた。
若干の躊躇の後、棺にある観音開きの窓を開けると、その中でおじいちゃんが目を閉じて静かに眠っていた。眼鏡をかけたままなのは、きっとおばあちゃんの心遣いだろう。四角い顔にぼってりした鼻。重たそうな瞼に柔らかそうな耳。禿げた頭に僅かの白髪。全てが元気だった頃と変わらない、優しい寝顔だった。これこそ最も明瞭な事実の提示であるはずなのに、その顔を見て、僕は逆に安堵感を覚えた。心を縛り付けていた縄がするすると解けていくように感じた。僕は棺の蓋を開け、おじいちゃんの冷たい頬に触れながら、「ただいま」と言った。
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翌朝の葬儀には、ごく親しい身内ばかり、15人ほどが集まった。ほとんどが関西の人で、久々の再会だったこともあり、軽快な大阪弁で話は弾み、笑いが絶えず、まったく湿っぽくない葬式だった。
「ケンゴおじちゃんに続いてパパおじちゃん(おじいちゃんのあだ名)も逝きはって、上の世界はずいぶん賑やかやろうなあ」と誰かが言う。母は、僕が寝坊して飛行機を乗り過ごしたエピソードをわざわざ言いふらして回り、「うちの息子はどうも抜けててねぇ」と笑いのネタにすれば、大阪から車で駆けつけた叔父は、東名が通行止めだったので下の道で箱根を越えてきたそうで、「久々に山を走って楽しかったわァ」などとおどけた。
しかし、式が始まり、ナンマイダブと念仏が唱えられると、さすがにみんな静まりかえり、すすり泣きさえ聞こえた。出棺の前、おばあちゃんが便箋を広げ、涙に声を震わせながら、「愛する
人が多い東京では焼き場も予約がぎっしりだそうで、葬儀は滞りなく進められ、おじいちゃんは定刻通りに焼き場のエレベーターに入っていった。
おじいちゃんに少々の熱さを我慢してもらっている間、僕らは冷房の効いた待合室で昼食。その席で叔父が立ち上がり、スピーチをした。
「オヤジはほんま立派な男でして、強い奴には噛み付いたけれども、弱い者にはいつも味方でした。僕は若い頃、オヤジとよう喧嘩して、心の距離が開いた時期もありましたが、大人になって年を取るにつれて、僕もオヤジみたいな男になりたいな、と思うようになりました。」
それに続いて、おばあちゃんがヨイショと立ち上がり、遠路はるばるよう来てくれはった親戚の皆々様本当に有難う云々と、気合を入れてスピーチを始めたのだが、絶妙のタイミングでピンポンパンとアナウンスが入り、「村上光一様のご遺族様、ご収骨の準備ができました」と爽やかな声がスピーカーから流れたせいで、おばあちゃんの話は完全に腰砕け。どんな些事も拾いあげてコントに仕立ててしまうのが関西人気質で、「ばあちゃんの長話にえぇ落ちが付いたわァ」とすかさず合の手が入り、これには一同大爆笑だった。
収骨室へ行くと、おじいちゃんは真っ白な骨になってエレベーターから出てきた。それをみんなでわさわさと箸で拾い、骨壷に入れていくと、特大の壷はすぐに一杯になった。焼かれている間に崩れてしまうことも多いという頭蓋骨も、きれいにお椀の形を留めていて、「オヤジは頑固者やったけど、頭の骨までカチンコチンやったんや」と叔父が言うと、お骨を囲んでまた笑いが起きた。
こうして「パッケージプラン」の簡素な葬儀は手際よく終わり、おじいちゃんは白い布がかぶさった骨壷に収まった。タクシーに乗って帰途につく人たちの顔にもう涙はなく、皆口々に「ええお葬式やったわ」と笑顔で振り返った。
「派手すぎず、寂しすぎず、おじいちゃんらしい式やったなぁ。」
「あの若いお坊さんの声も良かったし、葬儀屋のお兄ちゃんも誠実やったし、パパおじちゃんもきっと喜んでるわぁ。」
皆、悲しみを分け合いつつも、決して後悔も悲壮感もない。賑やかな笑い声に溢れた式は、喪失への悔い恨みではなく、おじいちゃんが楽しく逞しく生きた84年の人生への祝福だった。唱えられた念仏は、癒されぬ魂への鎮魂歌ではなく、皆を愛し皆に愛された幸せな魂への賛美歌だった。おじいちゃんもきっと天国で、皆に混じって、あのガラガラ声でガハハと笑っていたのではなかろうか。
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翌朝、僕は慌しく成田空港へ向かった。日本滞在はたったの二泊、最短記録の更新だ。散々泣き、散々笑ったあとで、ボストンへ向かう飛行機に乗る僕の心の中にあったのは、もはや悔いでも無念でもなく、ただひたすら、優しかったおじいちゃんへの感謝だけだった。
おじいちゃんは誰にでも優しかったが、初孫の僕はとりわけ可愛がってもらった。父方の伯母が打って寄こした電報にはこう書かれていた。
「…雅裕君の誕生の際、大阪の家でお会いした時のお父様の笑顔が忘れられません。心からご冥福を…。」
僕の誕生を祝い、成長を喜び、僕が病気をすれば自分が病気になるほど心配し、僕が大学に入った時は自分のことのように嬉しがってくれた。僕が言葉を喋る前から膝の上で六甲颪を教え込み、結果僕は阪神ファンになった。乗り物好きの僕に飛行機を見せるため、よく車の助手席に乗せて伊丹空港まで連れて行ってくれた。電車で出かける時、幼稚園児は運賃を払わなくていいのに、わざわざ子供用切符を買い与えてくれた。丸印に「小」と印刷された切符を握り締め、僕はなんだか大人になった気分で、とても嬉しかった。
おじいちゃん、本当にありがとな。僕はこれからも頑張るから、よう見といてや。
4 thoughts on “おじいちゃん、ありがとう。”
まさひろさん、
おじいちゃんの、素敵なお話ありがとうございました。「癒されぬ魂への鎮魂歌ではなく、皆を愛し皆に愛された幸せな魂への賛美歌だった」というところが、おじいちゃんの人生と人柄を象徴していて、本当に感動しました。
私もおじいちゃんおばあちゃんの思い出をブログに書きました。まだ二人とも健在ですが、幼い頃の島原での思い出を振り返るきっかけになったのも、この「冬の散歩道」のまさひろさんがおじいちゃんおばあちゃんとの思い出を優しく語っている文章を読んでからでした。あの文章を読んで、私自身の人間としての原点は、おじいちゃんおばあちゃんから受けた、一見厳しいようだけど、愛に溢れたつながりからだったんだなぁ、と感じたからでした。そう思うと、感謝せずにはいられず、ブログに淡々と書いたわけです。まさひろさんの書く文章は愛で一杯です。
忙しい中メールしていただきありがとうございました。おじいちゃんのご冥福カンザスよりお祈りしてます。
しょうこさん>コメント有難うございます。しょうこさんのブログの記事も拝読させていただきました。素晴らしいおじいちゃん、おばあちゃんですね。お二人とも健在とのこと、なによりです。元気なうちに、存分に恩返しをしてあげてください。
久しぶり!!
いつみてもなおやの文才は半端ないね!!読んでて涙出てきたよ。
私もつい最近おばあちゃんを亡くしたよ。とうとう私のおじいちゃんおばあちゃんは1人もいなくなっちゃったけど、不思議なことにいなくなった感じが全然しないんだ。
私も初の女の子の孫だったからすごくかわいがってくれた思い出がいっぱいだよ。
おじいちゃんおばあちゃんの孫でホントに幸せだった★
ちぐ>おーそうか、なんだか周りの友達も、ここ数年でおじいちゃんおばあちゃんを亡くした人が多くて、きっとうちらはそんな年なんだね。「いなくなった感じがしない」という感覚、分かると思う。とっても陳腐な表現だけれども、おじいちゃんもおばあちゃんも、俺らの思い出の中で生き続けているんだよね。