大阪のおじいちゃん、おばあちゃん

Posted on Posted in しんみり

織田作之助賞の授賞式で大阪を訪ねた翌日、十数年ぶりに「思い出の場所」に行ってきた。

大阪府茨木市穂積台。「大阪のおじいちゃんおばあちゃん」と呼ぶ、母方の祖父母が住んでいた町だ。幼稚園や小学校の頃は、夏休みや春休みの度に遊びに行き、何週間も大阪のおじいちゃんおばあちゃんの家で過ごした。母が妹の出産で大変だった頃も、大阪のおじいちゃんおばあちゃんの家に預けられた。僕は二人にとって初孫で、とりわけかわいがってもらった。僕が東京育ちなのに阪神ファンなのは、物心付く前からの、二人の「刷り込み教育」の成果だ。

彼らの家の周辺はそれなりの住宅街だったが、駅から遠いせいでゴミゴミとはしておらず、車の通りもまばらで、子供が平気で車道で遊んでいるような場所だった。おじいちゃんおばあちゃんの家から西へ100メートルほど行くと滑り台のある公園があり、東へ100メートル行くと「ひっつきむし」(オナモミ)が生えている空き地、南は崖なので道は通じておらず、坂を下って北へ100メートル行くと従兄弟の家。この半径100メートルの半円が、僕の全行動範囲だった。

その半円の外には、2kmくらい歩けば万博記念公園があり、よくおばあちゃんに連れいってもらった。必ず途中のパン屋でパンの耳を一袋もらって行き、鯉や鳩に撒いた。臆病な僕は、太陽の塔の顔が怖くて正面から見ることができず、エキスポランドのジェットコースターの音を聞くだけで泣き出した。一方、伊丹空港に勤務していたおじいちゃんには、よく飛行機を見に空港に連れて行ってもらった。おじいちゃんの車に乗せてもらう時、僕はいつも座布団を三枚重ねて助手席に座った。おじいちゃんの運転は荒いから、とはいつも不安そうだったが、実家には車がないこともあり、僕にはそれが楽しみで仕方なかった。

おじいちゃんは若い頃はスポーツマンで、父方の祖父がひょろっとしているのと比べ、がっしりとした体格をしていた。また、彼は筆まめな人で、阪神タイガースのこと、ラグビーのこと、若い頃に漕いでいたボートのこと、そんな話を葉書に細かい文字でびっしりと書いて、毎週送ってくれた。

僕の動物好きは、おばあちゃんから遺伝したものだ。昔、おばあちゃんは「チビコ」という元気のいい犬を飼っていた。地面を掘るのが大好きな犬で、いつも鼻の頭が泥だらけだった。僕は五歳の頃、首の腫瘍で大手術をしたのだが、それが治るのと入れ替わるようにチビコは癌で死んだ。「雅裕の身代わりになってくれたんや」とおばあちゃんは言った。チビコがいなくなってしばらくして、野良猫が庭でぎょうさん仔猫を産んだ。おばあちゃんは一番元気のいい一匹だけを残し、あとは孫たちに内緒で保健所に引き取ってもらった。残った一匹は「ラッキー」と名付けられ、 ラッキーのお母さん、叔母さんと共に庭に住み着いた。おばあちゃんはとても可愛がり、猫達もよくなついた。


(↑ミニ四駆を走らせた溝。向こうのフタの下に入ったっきり、出てこなくなった。)

十数年前、僕が中学生の頃、大阪のおじいちゃんおばあちゃんは、母を頼って東京へ引っ越してきた。家も車も売り払い、猫たちはお隣さんに預けた。新居は僕の実家のすぐ近く、大田区の住宅街のど真ん中の、2LDKの賃貸マンションだった。元の家にあった仏壇は大きすぎるからと、新しく小さな仏壇を買い、位牌を移した。するとおばあちゃんの夢に仏様が出てきて、「狭い、狭い」と言ったそうだ。

それでも、自分の娘と孫たちのそばに住めるのは、二人にとっては嬉しいことだったようだ。よくお互いの家を行き来し、チコちゃんミーミもよくなついた。正月も一緒に祝った。船旅が好きで、しょっちゅう二人でクルージングを楽しんだ。 相変わらず大阪弁は抜けなかったが、東京の暮らしにも慣れ、それなりに「第二の老後」を楽しんでいるようだった。

数年して、おじいちゃんが癌を患った。発見時にはだいぶ進行していたが、肺を3分の2も切り取る手術の末、なんとか命は助かった。しかしそれ以後はすっかり弱ってしまい、大好きだった船旅にも行けなくなった。僕が留学してからは、日本に帰るたびに元気がなくなっていくのが分かった。野球好きのおじいちゃんに買って帰ったレッドソックスのTシャツがダボダボで、こんなに小さくなってしまったのかと悲しかった。痴呆も進み、昨年から老人介護施設に移った。一人暮らしになったおばあちゃんのマンションを訪ねた時、「おじいちゃんは情けなくなっちゃったねぇ」と溜息をつきながら彼女は呟いた。介護の疲れか、彼女の腰が随分と丸くなったことに気付いた。


(↑おじいちゃんおばあちゃんの旧家)

織田作之助賞に応募した理由は、ひとつには大阪に縁を感じていたからだった。元々、授賞式のついでにおじいちゃんおばあちゃんの旧家を訪ねる考えはなかったのだが、御堂筋線のアナウンスで「せんりちゅうおう」という地名を聞いたとき、遠い昔に聞き覚えがあるその響きが僕の脳の奥をくすぐって、突然行くことを思い立ったのだった。

おじいちゃんおばあちゃんの家の辺りは、昔は駅から遠くて不便だったが、モノレールが開通して随分アクセスがよくなった。駅を降り、郵便屋に道を聞きつつ歩くと、よく見覚えのある道に出た。景色は変わらないくせに道がやけに狭く感じるのは、僕が大きくなったからか、それともアメリカ帰りだからか。ひっつきむしが生えていた空き地は駐車場になり、その目の前に巨大なマンションが建っていた。周りを見渡せば、他にも見慣れない大きなマンションがたくさんある。モノレールの効果は大きい。路上で小さな女の子三人が仔犬と遊んでいた。「モコはな、ちゃんとお座りができるんやで」と楽しそうに話してくれた。去り際に、少し離れて座っていた若いお母さんがこちらに向かって会釈した。

池の端に沿って進み、従兄弟の家があったマンションを右に見て坂を登れば、おじいちゃんおばあちゃんの家はすぐそこだ。昔、大きな荷物を抱えて東京から大阪に遊びに来たとき、わくわくしながらこの坂を登った。すぐそこにおじいちゃんおばあちゃんが待っているんだ、と。その坂を今、期待と不安の入り混じった気持ちで登っている。まだ家はあるだろうか、誰が住んでいるのだろうか、猫はまだいるだろうか、と。

おじいちゃんおばあちゃんの家は、昔と全く変わらない外観で、そこに建っていた。嬉しくて、写真を撮り捲くった。元気な頃の二人が中で待っている気がした。呼び鈴を押せば、「雅裕君、よく来たねえ」と二人が玄関から出てくる気がした。

(↑ 小さい頃、怖くて正視できなかった太陽の塔。 モノレールの中の僕を睨んでいた。)


(↑モコと女の子達)


(↑ひっつきむしが生えていた場所)

東京に戻った翌日、大阪の写真を印刷して、おばあちゃんに見せに行った。まだ家がそのまま残っていることを喜んでいた。「地震でだいぶ傷んだ家なのに、いい値段で買ってもらってねえ・・・」と話した。

その後、おじいちゃんのいる羽田の老人介護施設に向かった。春一番が吹き荒れ、京浜東北線が止まり、道は大変な混雑だった。タクシーで施設に着くと、ちょうど午後の休憩の時間で、おじいちゃんは他の数人の老人達とロビーに座っていた。皆、何も喋らず、テレビや窓の外をぼーっと眺めていた。声をかけると、おじいちゃんはびっくりした顔で僕を見上げ、フガフガ言いながら細い手を伸ばして握手を求めた。僕は早速大阪の写真を見せたのだが、彼は全く関心を示さない。母曰く、目の前にいる人は認識しても、写真や文章は理解できないそうだ。

僕はおじいちゃんの車椅子を押し、最上階のラウンジへ向かった。羽田空港の滑走路が見えるこの場所は、飛行機が好きなおじいちゃんの特等席なのだ。離陸し、着陸し、離陸し、着陸する飛行機を見ながら、おじいちゃんは何度も「雅裕君、大きくなったな」と同じフレーズを繰り返した。何度目かに僕は吹き出して、「おじいちゃんが小さくなっちゃったんだよ」と答えた。

[追記: 2009-2-9] この記事を書いた5ヵ月後、おじいちゃんが他界した。

そして今日、エキスポランドの閉園が決まったとのニュースを見た。

大事な人が、一人、また一人、いなくなる。思い出の場所が、ひとつ、またひとつ、消えてゆく。時間が経つとは、そういうことなのか。

2 thoughts on “大阪のおじいちゃん、おばあちゃん

  1. 大阪行ってきたんだね。
    私もママの田舎が大阪だったからホントにしみじみしちゃった。

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