「さまざまのこと思い出す桜かな」 松尾芭蕉
実家の近所のガソリンスタンドの、バス通りを挟んだ向かいに、大きな桜の木がある。見事な枝振りの立派な木で、もしもこの木が京都の名の知れた寺の境内にあったならば、「醍醐桜」、「臥龍桜」などと、何かたいそうな名前でもついていたことだろう。
その桜の木の下で、五年前の春、飼っていた猫が、車にひかれて死んだ。
その猫がうちへ来たのは、僕が大学一年の頃、ゴールデンウィークでオーストラリアに発つ前日。旅行の準備に一家がいそしんでいるときに、玄関のベルが鳴った。開けると、中学生の女の子が傷だらけの子猫を抱いて立っていた。
「すみません、お宅の前で、子猫がカラスにつつかれて倒れていたんです。」
小さな猫だった。白と黒のふさふさした毛の中に、真っ赤な痛々しい傷がある。その小さな毛のかたまりは、目を閉じて、体全体で呼吸をしていた。
見捨てるわけにもいかず、結局我が家で引き取ることにした。ただでさえ旅行前日で忙しいのに、面倒がひとつ増えた。しかしこの仔猫、ピクリとも動かずに、ただただ息をしているだけだ。何も食べない。水すら飲まない。
翌朝、飼い犬のチコちゃんと一緒にその猫を祖父母に預け、オーストラリアへ出発した。帰ってくる頃には死んでしまっているかもしれないな、そんなことを思いながら。
——
旅行から帰ってきて、犬と猫を引き取りに行くと、家族全員が目を丸くした。あの瀕死の仔猫が、部屋中を鉄砲玉のように走り回っているのだ。嬉しいのやら面倒なのやら、結局うちで飼うことになった。ミー、ミー、と鳴くから、「ミーミ」と名づけた。
そうして、ミーミとの暮らしが始まった。恐ろしく元気な猫だった。部屋中を走り回り、食べ物を奪い、犬や人間に爪を立てて飛び掛った。机、本棚、ピアノ、あらゆる物の上によじ登り、その上に飾ってある物を蹴飛ばし、あるいは破壊した。
ミーミに一番大きな被害を受けたのは、犬のチコちゃんだった。おとなしくて鈍クサいチコちゃんは、ミーミの格好のおもちゃだった。物陰に隠れ、何も知らないチコちゃんが尻尾を振って通り過ぎると、爪を立てて背後から飛び掛る。チコちゃんが尻尾を丸めて逃げると、さらにそれを追いかける。この犬も一応、狼の子孫なはずなんだけどな…。
仔猫の成長は早い。夏にはもうすっかり大人の体格になった。家で飼うには元気が良すぎるこの猫は、庭に放すことにした。庭の生態系にとっては悲劇だったようで、それ以降、庭にネズミやセミの死骸が散見されるようになった。
秋。ミーミの行動範囲は相当に広がった。チコちゃんの散歩に遠くまで付いてきた。家から交通量の多い道路を隔てた場所でも、ミーミを見かけた。
冬。ミーミが失踪した。一週間以上も戻ってこない。猫は死んだ姿を晒さない、という。もしかしたら、どこかで死んでしまったのかもしれない。そう思った。
それが、十日ほど後、近くの駐車場にひょっこりと座っているのを見つけた。その後すぐ、近所の細川さんという家にお世話になっていたことが分かった。首輪が木に引っかかって動けなくなっていたところを助けてもらったそうだ。そして細川さんから、「マリーちゃん」という名前ももらっていた。ミーミはオスなんだけどな…。
春。ミーミは、二つの名前を使って、二重生活を謳歌した。二つの家、二度のエサ、二倍の愛情。おかげで見事に肥えた。人懐いミーミはまた、近所のちょっとした人気者になった。通行人にゴロンと腹を見せて寝転がり、遊んでもらうのが好きだった。
三月の後半、僕は韓国に旅行した。旅行中、妹からのEメールを見て、愕然とした。
「ミーミが車にひかれて死んだ。」
素っ気ない、たった一行のメールだった。
旅行から帰ると、ミーミがお気に入りだったモミの木の下に、小さな墓ができていた。旅行中に気持ちの整理をしてから帰ってきたはずなのに、そのベニヤ板の墓標の前に座ると涙が溢れ出た。何で死んだんだ。こんなに早く。もっとおとなしくしていれば事故になんてあわなかったのに…。
母の話によると、近所のガソリンスタンドの前のバス通りでミーミはひかれたらしい。その後すぐ、細川さんが偶然そこを通り、ミーミを見つけた。父、母、妹、祖父母、それに細川さんの六人でささやかな葬式をし、そしてミーミのお気に入りの場所だったモミの木の下に埋めたそうだ。
その話を聞いて、ミーミが死んだ場所に行ってみた。ガソリンスタンドの向かいの桜の木が、例年より少し早く満開になっていた。
春に生まれて、春に死んだ。たった一年の命だった。
「さまざまのこと思い出す桜かな」
ボストンはようやく川の氷が溶けたが、桜の季節はまだまだ。一方、東京は桜が満開、というニュースを聞く。
人それぞれ、桜を見るたびに何か思い出すことがあると思う。僕が思い出すのは、たった10ヵ月間だけ僕を楽しませてくれた、あのやんちゃな猫のことだ。
追記(2007/7/30): ミーミが死んだ後で、あの子の写真がほとんどないことに気付いた。今、僕のPCのハードディスクに入っているのは、上に載せた三枚が全て。はじめの二枚はミーミの貰い手を捜していた頃、ポスターを作るために撮った写真。三枚目は、実家にある写真を含めてもおそらく唯一の、大人になったあとのミーミの写真だ。 チコちゃん(犬)の写真は山ほどあるのに、なぜミーミの写真はこんなにも少ないのだろうか。まずもってあの子は、カメラを向けられてじっとしているような子ではなかった。捕まえるのでさえ至難の業なのだから、ポーズを取らせて写真を撮るなど不可能に近い。実際、一枚目の写真はモップで、二枚目はチコちゃんで、ミーミの気を引いている隙に撮った写真だ。
反対に、チコちゃんの写真はこの上なく撮りやすかった。常に寝ているからだ。それでもカメラを向けると、目線に気付いて、この上なく迷惑そうにのっそりと起き上がることもあるのだが、「撮りたければ撮れば」という感じでまたすぐに寝てしまう。そんなわけで、チコちゃんの写真は数だけは多いのだが、ほとんどが寝ている写真で、起き上がって活動している写真となると、これまた非常に少ない。
またミーミは、一緒に過ごした時間も短かった。たったの10カ月。写真を満足に撮る時間もくれずに逝ってしまった。それこそまさに、桜の散るように。
追記(2007/8/19): 「ミーミの桜」は、実は二本ある。二本の見事な桜の木が、枝と枝を重ね合わせて満開の花をつける。それは素晴らしかった。
きのう、半年振りに帰省し、そのうち一本が切られたことを知った。隣接する駐車場に何かを建てるらしい。来春はミーミの桜は半分になる。残る一本も根が傷つけられたりしていなければいいのだが。半年に一度しか帰省しないと、帰るたびに何かが変わっている。行きつけだった弁当屋が潰れた、チコちゃんの墓に草が茂った、「急行」ができて、最寄り駅を通過するようになった、などなど。
寂しい、と感じるのは、過去への郷愁からだけではない。自分が変化から取り残されているのだ、と気付くことが、寂しさを余計に膨ませるのだ。
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