先々週の木曜日。ペルーから帰国し、受信トレイに溜まった数百通のメールを機械的に処理していた。その中に、親からのメールが一通。手短に、父方の祖父の急死を告げていた。
慌てて親に電話したが、既に通夜が済んだ後だった。翌朝にボストンを発っても葬儀には間に合わないため、日本には帰らないことにした。電話で状況を伝え聞いただけでは全くと言ってよいほど実感が沸かず、涙の一滴すら出なかった。感じたのは、悲しみというよりむしろ、空しさだった。
今朝、家を出るときにメール・ボックスを見ると、親からの郵便が届いていた。研究室に向かう途中に歩きながら封筒を開けると、祖父の写真と便箋二枚の手紙が入っていた。手書きの文字で綴られた父と祖父との思い出を読むと、急に涙が出た。二週間遅れの涙だった。
—
金沢大で土木工学の教授をしていた祖父は、真面目で勉強熱心な人だった。九十歳を過ぎてからワープロを習得し、論文を執筆した。耳が遠くなってからも、NHKのラジオ番組でフランス語を勉強していた。
祖父は、おしゃべりな僕とは似ても似つかない、寡黙な人だった。ぼそり、ぼそりと喋る祖父の言葉は、一度も感情的になったことがなく、また人のことを悪く言ったことがなかった。口数は少ないけれども、非常に行動的な人で、八十を過ぎても山に登り、スキーをした。九十三歳の時、一緒に中国を旅行をした。
明治生まれの祖父は、せっかちな父とは対照的な、非常にマイペースな人だった。十年ほど前、尾瀬に行ったとき、カメラを構えたままなかなかシャッターを切らない祖父に痺れを切らした父が、早く行こうと催促すると、
「あの雲がどくのをまっているんだよ。」
と答えた。
せっかちな父も、おしゃべりな僕も、祖父と同じく工学の道に進んだ。祖父は鉄道、父は光、僕は宇宙。専門は違えども、技術で世の役に立とう、という志は同じだったのだと思う。
—
祖父は、叔母と同居して介護を受けることを頑固に拒否し続け、祖母に先立たれた後も金沢の郊外の家に一人で住み続けた。直前まで変わった様子も無く、「葉っぱが落ちるかのように」静かに亡くなった。
僕がMITに行くと決まったときも、祖父は静かに喜んでくれた。こっちで頑張って学位をとることが、彼への一番の供養だと思う。
追記(2007/7/25) きのう、やっとこさ修士論文のドラフトを書き上げた。何とか、学位は取れそうだ。一ヵ月後、修士号を引っさげて、祖父のいなくなった日本に帰る。きっと喜んでくれると、信じている。