たった一枚のぼやけた画像に、世界がこれほどまでに熱狂した。
何のことか、The Voyageの読者の皆さんはきっとお分かりだろう。先日公開された、史上初のブラックホールの「写真」である。
もちろん、光も逃げ出せないブラックホール自体は直接見ることができない。このぼんやりと光るドーナッツの中心に空いた漆黒の穴、ここに物理法則の破綻する特異点、この宇宙の裂け目があるのだ。
今回の発表前、ひとつの密かな「期待」があった。アインシュタインの理論の綻びが見つかるのではないか、という期待だ。観測結果が一般相対性理論から導かれる予測と合致しなければ、104年間揺るがなかった理論に修正が必要となる。それは物理学の教科書を根底から書き換える大発見となる。
結果はどうだろう。観測されたブラックホールの姿は、アインシュタインの理論とピタリと一致した。太陽質量の65億倍という極限環境においても、彼の理論は涼しい顔をして成り立っていたのである。
これはものすごいことではないか。アインシュタインは観測も実験も一切せず、自分の頭だけを使って、「宇宙はかくあるべき」というところから出発し、アインシュタイン方程式を導いた。それが104年経っていまだに綻び一つ見つかっていないのだ。
この広い、広い宇宙の森羅万象はすべて、人類が知る限り、たった二つの法則に支配されている。一般相対性理論と、場の量子論である。137億光年の宇宙の大規模構造も、ブラックホールや中性子星の破滅的な衝突も超新星爆発も、太陽の輝きも地球の公転も、潮の満ち引きも木にそよぐ風も空に浮かぶ雲も、あなたが今これを読んでいるスマホもパソコンも、鳥のさえずりも虫の音も入学式に咲く桜も、僕の心臓の鼓動もあなたの血管を流れる血も、ミーちゃんの可愛らしい笑顔や泣き笑いも、すべてはたった二つの法則の帰結なのである。我が家のブラックホール、つまりミーちゃんがなんでもかんでも入れてしまうミニーさんのバッグも同じだ。
このシンプルさを、人間の作った法律を見てみよう。日本の憲法は100条余り、民法は1000条余りある。もっともシンプルなスポーツといわれるサッカーでさえ17条のルールがある。
さらに、国が違えば法律も違う。時間が経つと法律は変わる。ミーちゃんとの「納豆を完食したらレンコンチップス食べていいよ」といった約束に至っては5分で反故になる。
自然法則は普遍かつ不変だ。我々が知る限り、100億光年先の天体も地球と全く同じ物理法則に従っている。それはつまり物理法則が100億年間不変であったことも意味する。
二つの法則は、どちらも数式だ。高校の物理の時間が多くの学生にとって苦痛なのは、この数式のせいだ。
だが、これもまたこの上なく不思議ではなかろうか?なぜ物理法則は、数式なのか?
物理法則とはつまり、現在いかなる状態ならば次の瞬間にどのような状態になるかを定めるルールである。それが数式である必然性は全くない。たとえばコンピューター・プログラムでもいい。If文やgoto文だらけの1万行のコードで物理法則が書かれた宇宙が存在したっていいわけだ。
さらに不思議なことに、数学とは自然科学から全く独立に発達したものだ。数学は近代自然科学よりはるかに古い。ユークリッドの「原論」が書かれたのはニュートンの「プリンキピア」より2千年近く前だ。数学は物理法則を記述するために発明されたのではない。純粋に人間の論理的思考から生まれたものである。それなのになぜか、自然をつぶさに観察すると、惑星の運行やリンゴが落ちる仕組みがすべて数学によって記述されていたのである!
アインシュタインはこういった。
“The most incomprehensible thing about the world is that it is comprehensible.”
「この世界で最も理解に苦しむことは、それが理解可能なことである。」
この言葉は宇宙の深遠な謎をもっとも端的に表している。なぜ気の遠くなるほどに大きく複雑なものが、これほどまでにシンプルな数式に従っているのか、と。
宇宙を創造した「神」がいるとしたら、間違いなく数学者だろう。もしかしたらプログラマーや小説家が作った宇宙が他にあるのかもしれない。(そのような宇宙に生まれなくてよかったと心から思う。)
こんな想像をすることがある。
理科の実験の時間。
「はい、では今日は宇宙を作ってみましょう」と先生が言う。各々が思いの方法で物理法則を定義する。ある者はプログラムを使い、ある者は条文を並べる。物理定数も思い思いの方法で定める。
「みなさん、安全ゴーグルをかけましたか?さあ、スイッチを入れましょう!」
すると生徒たちの机の上の宇宙が一斉にビッグバンを起こすが、多くはすぐに萎んで無くなってしまう。膨らみすぎて消散してしまうものもある。
「あーあ、また失敗しちゃったよ。」
「居残り実験だな、こりゃ。」
生徒たちはため息をつく。
あるものは順調に成長し、やがて星が輝き出す。しかしいくつかの宇宙ではすぐに全てがブラックホールになってしまう。ある宇宙では星はできるが惑星の軌道がカオスに陥る。
そんな中、物静かな数学好きの生徒がたった二つの数式だけで作った三次元の宇宙に、なにかとてつもなく面白いことが起き始める。星々は惑星を従え、その多くに命が芽生える。さらにその幾つかは知的生命に進化し、隠された二つの数式を解き明かすものまで現れる。その知的生命の学校で理科の実験の時間が始まる。先生が言う。
「はい、では今日は宇宙を作ってみましょう!」
本記事は宇宙メルマガ The Voyageの連載 “Twinkle Twinkle”からの抜粋です。ぜひご登録ください!