『我が二等兵物語』〜祖父の戦争体験

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五年ほど前に祖父が亡くなった際、彼が戦争体験を綴った遺稿が出てきた。それを紹介したい。

彼はアマチュア文筆家で、筆まめだったし、俳句や川柳を書き溜めたノートを何冊も持っていた。「我が二等兵物語」と題されたこの文章も、原稿用紙33枚に丁寧に清書されたものだった。一ページ目の注には、「此の原稿は昭和56年起稿」とある。清書したのは平成四年だったようだから、実に11年をかけて完成させた力作だ。

「戦争体験」というと、どうしてもシリアスで、悲惨なものばかりが目立つ。だが、それだけが「戦争体験」ではなかろう。この「我が二等兵物語」は、主に学徒出陣で徴兵された直後の訓練の期間にフォーカスし、その日常をユーモアを交えて活写している。祖父はとても大らかな人だった。重たい現実も、消化して笑いに変えてしまう逞しさがあった。

この原稿は世に出ることなく祖父は亡くなった。そこで本ブログに転載し皆様のお目にかけたいと思う。

我が二等兵物語

村上光一

(一)今を去る三十八年の昔[1]、私の二等兵(星一ツの初年兵)時代を振り返れば、それは正に、レ・ミゼラブルの連続であつた。

勝新太郎主演の映画『兵隊やくざ』の大宮喜三郎は二等兵ながら、痛快無比、溜飲のさがる快男子であるが、残念乍ら、私には大宮喜三郎のような度胸も腕力もない。従つて、われながら、惨めな二等兵物語である。

(二)昭和十八年十二月一日、学徒出陣により、姫路の中部第四十六部隊(歩兵連隊)に勇躍入隊した。

但し「勇躍」は営門に入るまでの心意気であった。一歩営門に足を踏み入れた途端、「ああ、えらい所に来てしもた。この儘、娑婆には帰れないのではないか?初年兵の苦しみに耐えられるだらうか?うまくやつてゆけるだらうか?」という何とも言えぬ裏哀しい不安が、「勇躍」の風船を急に凋ませてしまつた。

(三)ここで一寸、「勇躍」の解説をする。

小学生時代から、「日本は神国であり、未来永劫不滅である」という、長島監督の巨人観のような教育を受けてきた私たちにとつては、日本の参加する戦争は全て聖戦であり、決してまけることはない。たとえ死地に追い込まれても、必ず神風が吹き荒れて、悪漢どもは逃げてしまうものと、堅く信じていた。

時代背景としては、昭和十年、相沢中佐、時の陸軍省軍務局長永田鉄山少将を白昼堂々と惨殺して刑に死し、翌十一年には、二・二六事件が起つて反乱将校は一斉に処刑されて、ここに陸軍内部に於ける皇道派は潰滅し、代つて統正派が陸軍を牛耳った。その統正派の雄であり、主戦論者であつた東條英機が昭和十五年陸軍大臣となり、さらに十六年十月東條内閣が成立した。そして二ヵ月後には、遂に太平洋戦争に突入したのである。

当時、青少年が愛読した小冊子『国体の本義』(昭和十一年三月、文部省)の中で、たとえば左の一節などは、今の若い人には、一寸理解し難い部分があると思う。即ち、「我等臣民は西洋諸国に於ける所謂人民と、全くその本性を異にして(中略)、その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉る」と。

従つて、学半ばにして応召することにも、何のためらいもなく、至極単純に当然の義務と考えた。応召の当日、湊川神社に必勝の祈願をした際、学友達が境内で出征ストームをやつてくれたし、私もその輪の中に入つて狂喜乱舞した。これが「勇躍入隊」の内面的な根拠である。

安本常務[2]も、この間の事情を簡明に描写しておられる。

「学生一同歓喜の声をあげ、是非兵役に服して、国に忠誠をつくす旨を心に誓つたのである」と。(すぽつと三十三号)

(四)屁理屈はさておき、厳寒の本番の初年兵生活がはじまつた。

私は歩兵連隊の中でも、花形といわれた連隊砲の班に配属された。何故花形かといえば、連隊砲の者は皆体が大きくて、いかめしい者揃いだから。

同じ連隊砲の班には、プロ野球の大下とか、同志社大学の空手部の主将とか、国士舘大学の銃剣術三段とか、叩き殺しても死なないような豪傑がいた。私の如きチビが、どうして連隊砲班に入れられたのか。推測するに、徴兵官は多分、私のいかめしい、ごつい顔の部分だけしか見てくれなかつたのだろう。

(五)なにしろ、初年兵は腹がへる。空腹の苦痛が人間をどんなに卑しいものにするか、未経験者には想像がつかない。

食事の時など、鬼より怖い班長殿や古年兵殿の隣に、初年兵は先を争つて坐りたがる。班長殿や古年兵殿は「ええカッコ」して「俺はこんなに食えないから」と言つて、飯やオカズの一部を隣の初年兵に呉れてやることがある。今考えれば、彼等が初年兵に呉れてやる飯の量たるや、実に僅かなもので、せいぜい箸で二回か三回分くらいのものだろう。しかし初年兵にしてみれば、二箸か三箸の飯欲しさに、怖くて憎い班長殿や古年兵殿の隣を狙うのだ。

(六)食事時には、各班の飯上げ[3]当番が週番上等兵に引率されて、中隊単位で炊事場へ食事の受領に行く。所謂、飯上げである。

我々学徒出陣で入隊したものばかり集められた二ヶ中隊の兵舎は、白鷺城[4]の真下にあつて、本隊の炊事場までは、かなりの距離があつた。実はこのへだたりこそは、初年兵にとつては、一仕事のできる有難い空間であつた。

即ち、その時のオカズ如何によつて野心が起れば、食缶(飯、オカズを入れたバケツ)の後棒を担いで、わざと最後列を歩く。そして適当なチヤンスを見つけて蓋をあけ、素早く、中の天ぷら等を上衣の左右のポケットにねぢ込む。ただそれだけの仕事である。中隊へ帰り、各班毎の食缶の分配が終わるや否や、トイレにすっ飛んでゆき、「一人入れば中は満員」という有難い個室に入つて、おもむろに天ぷら等の捕獲品を賞味する。下からの芳しい匂いもあらばこそ。

(七)昭和十八年十二月一日に入隊して、はや一ヶ月。

その年の大晦日。午後、帯剣のみの軽装で、舎前に集合の命令が出た。

平素の激しい演習も今日ばかりは恐らく無いだろう。なにしろ、今日は大晦日だからなァー。多分姫路の市中を歩いて、どこかの野ッ原で休養でもさせて呉れるに違いないぞ、と初年兵同士で囁き合った期待は無残にも打ち砕かれた。市の郊外を流れる市川の川原で中隊長は、おごそかに初年兵に向つて命令を下した。

「今年の垢の洗い納めだ。初年兵は全員素ッ裸(勿論、フンドシも脱いで)になつて、川に飛び込めッ」。軍隊に於いては、命令は直ちに実行されなければならない。平素は衣服に覆われて温かい所で、ダラーッとしている大切な袋は、こんな時、急に小さく、カチカチになるものだ、ということを、この時はじめて知つた。

丁度、ぐにやッとした生牡蠣がどて焼きなべに入れたら、急に小さく固くなるように。

(八)石ッころの多い市川の川原は、連隊砲の初年兵には恰好の演習場であつた。

激しい演習のあとの小休止の時など、上りのSLが鉄橋の上を、汽笛をならしながら通過してゆくのを見ると、漫ろ、郷愁にかられ、何とも言えずうら悲しい。

あれに乗れば、神戸に帰れるのになァー。しごかれ、いびられ、なぐられッぱなしのこんな生活からのがれて、早く娑婆に帰りたいなァー。

当時、こんな唄もあつた。

「私のラバサン福知山
二十連隊 籠の鳥」

(九)冬の初年兵たちの手は、霜焼けやあかぎれで、見るも痛ましい。

市川の川原で連隊砲の陣地進入の演習をしていた時のことだ。

石ッころ等でゴロゴロの川原では、砲がスムーズに進入しない。教官に教えられた通り、スポークを握って砲の車輪を操つた。然し、寒さでかじかんだ私の霜焼の左手は、うまく操れずにスポークから手をはなした途端、砲架のどこかにふれ、人差指のつけ根部分が裂けて鮮血が滴り落ちた。自分の血を見てびつくりしたのと、痛さのため、私は思はず持場をはなれ、陣地進入は見事に失敗した。

こんな時、班長殿は決して許してくれなかつた。陣地進入の際使用する標管(直径二糎位の鉄パイプ)で、肩を一撃された。

正直な所、鎖骨が折れたのではないかとおもつたが、幸い何ともなかつた。

悔しくて涙がでそうになつたことを、今でもよく憶えている。これが韓非子[5]の非情というものか。

(十)初年兵にとつては、銃の手入れ、靴の手入れ(靴の裏底までも)も、重要な日課の一つである。

目の廻るようなあわただしい軍隊生活も、丸一ヶ月が過ぎた。その間、戦局の推移等については、初年兵には何一つ判然としない。ただ、皇国の不敗を信じて、日夜軍務に励んでいるだけである。それでは、どんな軍務か。上官になぐられ、朝から晩まで連隊砲の陣地進入、分解搬送、それから旺盛な食慾との不屈の戦い、意地悪い古年兵による内務班での諸々のしごきに耐えること等々の軍務である。

昭和十九年一月元旦、娑婆ならば楽しい正月である。

正月のこととてひる間の演習は、少しは楽であつた。夕食の後、銃の手入れもした。暫くして、わが班長殿は、一杯機嫌もあつて、珍しく笑を浮かべながら言つた。

「おーい初年兵。編上靴を見せてみろ」

あッ、しまつた。まさか正月までは、と思つて私は靴の手入れをしていなかつた。今更どうにもならないので、私は覚悟をきめた。しかしその日の制裁は、ビンタよりも、もつと屈辱的なものであつた。

私は、同罪のもう一人の戦友と共に、左右の編上靴の紐を結び連ねて、夫々の自分の首から靴を左右にぶらさげて、中隊の一斑から七班までの内務班を、大声を張り上げて廻つた。

「村上二等兵は、正月早々からたるんで、編上靴の手入れを忘れて、班長殿から注意をうけましたッ。」

退屈で身をもて余し、野里(当時の姫路の遊郭のあつた街)の女の事をひそひそと話しこんで、正月の酒を喰つてごきげんの古年兵殿にとつては、この上ない肴が飛び込んできたわけだ。

「声が小さいッ。大声で、もう一度はじめから、やり直せッ」。

「ハイッ。もう一度、はじめからやり直しますッ。村上二等兵は・・・・・・ッ。」

又、別の班では、自分の首にぶらさげた編上靴を、頭より高く両手に押し戴いて、遂に、こんなことまで大声で叫ばざるを得ないようになつた。

「いつも自分の足を守つていただいている編上靴殿ッ。本日の手入れをさぼつて申し訳有りませんッ。以後自分のフンドシは洗わなくても、編上靴は毎日かかさず手入れいたしますッ。」

荀子の言う様に『性は悪なり』[6]というのが、本当かも知れんなァー。

(十一)軍隊の一日の生活は起床ラッパで始まる。つまり、起床ラッパ→服装を整える→点呼(舎前に整列)→トイレ洗面→ベッドの整理→朝食→その日の日課となる。

従って、ラッパの音で、ガバッと飛び起きて、いち早く服を着て、点呼を受けるため、班毎に舎前に整列しなければならない。この整列も、早い者順であるから、遅い者は、いつでも叱られる。三日も続けて最後尾にでもなれば、間違いなくビンタである。整列前にオシッコにゆく余裕なんて、とても考えられない。

しかし、生理現象として、出るものは仕方ない。先ず、フンドシが濡れて、股間に生ぬるい不快を覚え、次いで袴下(娑婆ではパツチ)が、さらに軍袴(ズボン)、靴下、それから、尻をやや突き出して、ぶるぶるッと身震いして整列している真下の大地が濡れる。真冬のこととて、こんな光景は、決して珍しくない。

親兄弟がこの様子をご覧になつたら、何と思はれるか。「バンザイバンザイ」と歓呼の声を背に、タスキがけも凛凛しく、「鬼神も之を避く」程の覚悟で入隊した日本男子も、哀れなるかな、この体たらく。

(十二)わが班の初年兵の中では、前記の同志社大学空手部主将と私の二人は、とに角、よくよく古年兵になぐられた部類に属する。そこで、昔をなつかしんで、彼らのなぐり方を分析することにした。

M班長(軍曹)―連隊砲の班長だけあって、身の丈五尺八寸位、脚が長く、ややスリムでカッコよく、均整のとれた上半身から繰り出す彼の一撃には、かなりの威力があつたが、概ね平手打ちが多い。「眼鏡を外して、奥歯をかみしめッ。両足をふん張れッ」と予告されるや否や、娑婆の百姓仕事で鍛えた八ツ手の葉ッパの様な平手が飛んで来る。ピシヤッと彼の一撃を喰つて、尚且つ、両足をふん張つて直立し続けられる初年兵は一人もいなかつた。

O上等兵―噂によれば、娑婆では船員くずれで、良からぬグループに入っていたとか。腕力はもの凄く、その上なぐり方が実にうまかつた。

ある時、何かの制裁で、わが班の初年兵全員が彼にやられた。両足をふん張つて、一列に並んだ初年兵は、彼の一発のゲンコツで、間違いなくベッドの上に仰向けにひつくり返った。眼から火がでるという実感をあじわつたのは、私一人ではない筈だ。プロ野球の花形選手(大下)も、空手主将も、丁度亀をひつくり返した如く、両手両足を上に向けて、バタバタしているだけである。O上等兵の腕力たるや、正に、映画の大宮喜三郎を彷彿とさせるものがあつた。

F兵長―前二者に比べれば、体格も小さく、従ってパンチにもそれ程の破壊力は無かった。彼のゲンコツ位では、初年兵を倒すことはできなかつた。初めのうちは、我慢して立つていると、O上等兵の必殺パンチに比較して己が非力に腹を立てて、F兵長は左右の連打で初年兵をなぐる。こちらは無抵抗だから遂に倒れる。口の中では、生ぬるい出血を感じる。

しかし、「必要は発明の母」とか。初年兵にも保身の知恵はある。つまり、彼のゲンコツが顔面に来たとたん、初年兵はタイミングを測って、わざと大仰に、ベッドの上にひつくり返るのである。彼は、自分のパンチの破壊力に満足して、次の初年兵に襲いかかる。初年兵にとつては、これも保身術の一つである。現在の実社会でも、これに類したことは、間々見受けられる所である。

(十三)私は学生時代、眼鏡をかけていなかつたが、軍隊に応召することが決つてから、眼鏡を使用した。軍隊では、上官に欠礼すればなぐられるからである。我々初年兵は星一ツであるから、同僚以外は皆上官である。

学生時代は、教室で一番前の席をとつたり、割れた眼鏡の破片を友達から貰って、左手でその破片を目に当てがつて、黒板の字を読んでいたものだ。

さて、軍隊で、眼鏡をかけていて得をすることは何一ッ無い。不便の中でも一番困つたものは、防毒面の着装の演習である。

小隊長の「ガスッ」の発令合図で、初年兵はいち早く防毒面を着装する。遅ければ何度でもやり直し。班長や古年兵達は、自分の班の愛する初年兵が、他の班に、おくれをとりはしないかと、やっきになっている。古年兵達の愛のムチこわさに、初年兵は必死である。

こんな時、眼鏡は実に困る。時には、防毒面の中で眼鏡が左右斜めになつていたり、或は若干上下にずれたりする。しかも、防毒面の上から、これを直すことはできない。ええいッ、ままよ、とその儘整列する。

全員の着装を見届けて、時は良しとばかり、小隊長は命令する。

「全員駆け足ッ」

さあ大変。地面が凸凹に感じたり、ゆがんで見えたり、危ッかしくて、うまく走れない。前の者の背中を頼りに、足を必要以上に高く上げて走る。

これが平坦地ならまだしも、凸凹の野ッ原などでは、一度や二度は必ずころぶ。列外から此は見れば、まことに面白いことだろう。

隊伍を組んで整然と馳け足している者の中に、足を変な具合に高く上げて、理由もなしに転んでいる様は、コツケイそのものであらう。 石坂洋三郎の代表作『若い人』の中で、間崎ケイ子という女学生が、体操の時間に、右手と右足、或は左手と左足を同時に出しながら、みんなと並んで更新する場面がある。列外から見れば、面白くて仕方がないが、本人は至極まじめなのである。

以来今に至るまで、私はアンジュレーション[7]には極端に弱い。グリーン上の三パット、四パットは自他共に認めるところ。

 

(十四)ここで、歩兵連隊の花形、わが連隊砲班の誇る快男子、大下弘君[8]について、一寸だけ触れてみよう。

彼はご既承の通り、戦後のプロ野球界にあつて、川上とともに、ホームラン・バッターとして、一世を風靡したものだ。

彼は、台湾の高雄商業時代は、全く無名の左腕投手で、明治大学予科に進学した。当時名大には、かの有名な島投手[9]が健在で、大下は、控え投手兼一塁手だつたそうである。島投手といつても、今の若い人はご存知ないだらうが、和歌山の海草中学時代、快速球と懸河のインドロ[10]で、バッタバッタと三振の山を築き、甲子園の全国大会で優勝した英雄であつた。当時としては、今の江川の作新、法大時代より以上の人気であつた。(ついで)ながら、その時の海草中学のサードが真田で、島投手が卒業後は、真田が投手となつた。真田は、戦後プロ野球の投手となり、後に、阪急や近鉄のピッチングコーチをした。

さて大下であるが、彼は非常に明るい、純な性格で、スタイルも良く、なかなかの男前であつた。

従つて、班長や古年兵にも可愛がられ、同僚からも好感をもたれた。又、実に要領のいい男であつた。同じ失敗をしても、彼ならば許され、私はどつかれた。何故か。彼は要領が良いし、私は要領が悪い。彼は男前でカッコ良く、私は不男でチンチクリンだから。一生を通せば、この差はかなり大きい筈だ。

余計なことだが、時々面会に来た彼のお姉さんも、グラマーで、色気ふんぷんと漂う仲々の別嬪であつた。

甲幹合格後、彼は特別操縦見習士官として飛行機へ、そして私は、船舶予備士官学校に入学のため、香川県の豊浜(大平元首相の出生地)へと、東西に別れた。

戦後、私は復学した。大下も一旦は復学したが、台湾での財産がすつかり無くなつたせいかどうかはしらないが、明大を退学して、プロ野球の東急セネタース(今の日ハム・ファイターズの前身)に入団した。青島幸男氏の『人間万事塞翁が丙午』ではないが、大下の場合、柔い身体と天性の資質が相俟って、ここから彼の人生は光り輝き始めた。

復学しても金がなくて、ピイピイしていた私は、セネタースが関西に来ると、大下に頼んで、西宮球状や甲子園に、ただで入れてもらつたことも度々あつた。

大下の人気絶頂の頃、私の母は、安月給の私に向つて、時々、愚痴をこぼしたものだ。

「大下さんは、あんなに偉くなってねー」。

その大下も今頃は三途の川原で、青バット赤バットならぬ、青鬼赤鬼を集めて草野球に興じていることだらう。

 

(十五) 三ヶ月の二等兵教育の締め括りとして、第一期の検閲が青野ヶ原で行はれた。多分二泊三日だつたと思う。往復とも行軍である。検閲を受けた演習の内容そのものについては、何一つ記憶がない。

行きの行軍は楽しいものであつた。小銃、機関銃、通信等の他の班は鉄砲担いで、背嚢(はいのう)(軍隊のランドセル)背負つての行軍であるが、わが連隊砲班は銃、ランドセルを弾薬車に積み込み、帯剣だけの行軍だから、うんと楽である。更に良いのは、順番に馬の手綱をとつて行軍することだ。馬といつても、人間が乗るスマートな馬ではなくて、(ばん)()といつて、荷物を引っ張る足の太い力の強い馬である。

親とも思い下僕とも
妻とも子とも思いしに
ああわが馬よ(する)(すみ)
何故(なにゆえ)お前は死んだのか

この哀調を帯びた、すばらしい軍歌を口ずさみながら、馬の手綱をとつて行軍すると、足が自然に前へ前へと出る。馬は時々、長い面をこちらの顔や肩にすり寄せてくる。楽しい思い出の一コマである。

問題は帰りの行軍であつた。帰りは、道中演習をしながらの帰隊であるが、途中で民泊することになつていた。初年兵だから、入隊以来外泊は一度もない。民泊こそは、恋こがれた娑婆の空気にも接することが出来、(ぎん)(めし)(白米)も腹一杯食べることが出来るわけだ。民泊地はたしか、北條の街だつたと思う。

予め通知があつたのだろう。民宿先では万端の準備が整えられ、

「兵隊さんよありがとう。ご苦労さま」とばかり、家族ぐるみで歓待してくれる。

私は、同志社大学空手主将と一しょに、或る農家に割り当てられた。農家に入るなり、空手は殊勝にも言つたものだ。

「オバサン、自分は下痢しているから、オカユにしていただきたいのでありますッ」。この餓鬼が、なんとしおらしいことを言いよつたなァー、と私は素直に思つた。俺は何でも腹一杯食うぞッ。何がなんでも食べるんだ、と覚悟を決めた。

兵舎に於いては、初年兵の入浴は(からす)の行水で、衣服、帽子などが盗られるので、気もそぞろに、飛び出してくる。

しかし、今夜ばかりは何の心配もなく、のんびり入浴を満喫して、それから食事が始つた。

私は銀飯とオカズを、咬むのももどかしく、ガツガツ食べた。空手は、宣言通りオカユを食べ始めた。本来、オカユとは病気の時、少量食べるものと思う。所が彼の場合、少し様子がおかしい。確に、下痢という病気には違いないが、何杯も何杯も、お変りを要求した。急ごしらえのオカユを全部平げた空手は、臆面もなく、アツケにとられているオバサンに、平然と言つたものだ。

「すみませんが、もう一杯、普通のゴハンをいただき度いでありますッ」。

さて、天罰覿面(てきめん)とはこのことか。翌日も演習をしながらの行軍である。銀飯とオカユとオカズの喰い過ぎで、私も下痢をし、彼は下痢の上塗りとなつた。便気と腹痛で、とても馳足どころではなかつた。二人とも、脇腹を押さえて、身体をくの字に曲げて、額から油汗を出しながら、チヨコチヨコとみんなの後についてゆくのが精一杯。恥も外聞もあらばこそ。小休止のたびに、最寄りの民家のトイレに飛び込んだ。

その夜、帰隊した内務班で、案の定、大げさに言えば片輪になるのではないかと思はれる程、私と空手は、班長や古年兵になぐられ、蹴り飛ばされた。

 

(十六) 一期の検閲が終つて一等兵(星二ツ)に進級した。つまり、わが二等兵物語も、これで終つた訳である。しかし、我々より下位の新兵さんが入隊して来ないから、いつまでたつても初年兵であり、なんら、二等兵の生活と変る所はない。

幹候[11]試験に合格して、星三ツの上等兵になつても、一向に変りばえはなく、相変わらず初年兵であり、日々の軍務も内務班の日常生活も、二等兵時代と大同小異であつた。

昭和十九年四月には、幸にも甲幹[12]に合格し、五月に、陸軍船舶予備仕官学校に入り(松尾常務[13]殿も同じ)、同年十二月に卒業、船舶見習仕官として、中国の南京に赴任した。

任地では、船舶連絡将校として、南京を基地として揚子江(長江)を上下する船舶に乗り組み、下は上海から上は武漢まで、約1,000粁[14]の間、物資兵員の輸送に従事した。但し、実戦の経験は一度もなく、毎日、米軍機(P51戦闘機)の機銃掃射から逃げ廻って、夜間航行するのが関の山であつた。でも、此の揚子江時代が、私の青春の中でも、心身共に最も充実し、毎日毎日の生き甲斐をかみしめた一時期ではあつた。

昭和二十年八月十五日、終戦の日、私はたまたま乗船勤務の明け番で、南京の対岸[15]の浦口で、石炭荷役の指揮をとつていた。作業員は勿論中国人である。荷役の小休止を利用して、退屈まぎれに、彼等中国人を集めて、烏滸(おこ)がましも講釈をやり始めた。

「巧言麗色鮮仁」と論語の一句を引用して、それを木片に書き、下手糞な大東亜語(中国語と日本語をチヤンポンにし、日本兵が勝手に合成した中国語らしい中国語)を駆使して、美国(アメリカ)英国(イギリス)は口先ばかりうまくて、心底の計り知れない曲者ぞろいである、としやべつた。

その時、通船に乗つた連絡兵が対岸の下関(シヤーカン)(南京の港湾地区)から、あわてふためいて飛んで来た。そして小声で、私に耳打ちした。

「もうすぐ天皇陛下の放送があるから、大至急帰隊して下さいッ。………。どうも日本は負けたらしいです」。

私は、「チンテン、カンホ、ワンラ」(本日の仕事は終り)と、上の空で大東亜語で呼ぶや、逃げるようにして通船に飛び乗つた。

―おわり―

[1] 此の原稿は昭和56年起稿。平成四年の時点では49年前の昔。

[2] 安本常務 関西国際空港ビル(株)の常務 (編注:関西国際空港ビルは筆者が本原稿執筆時に勤務していた会社である。)

[3] 飯上げ=給食当番

[4] 白鷺城=姫路城

[5] 韓非子 中国の古い思想家

[6] 性悪説×性善説

[7] 起伏。ゴルフの用語。

[8] 大下弘 戦後のプロ野球界の花形選手

[9] (編注)嶋清一のことと思われる

[10] インドロ 右バッターのインコースに喰いこんでくるドロップ。ドロップとは今の野球用語で言えば、タテに割れるカーブのこと。

[11] 幹部候補生

[12] 甲種幹部候補生

[13] 松尾常務=空港ビル(編注:関西国際空港ビル、筆者が執筆時に勤務していた会社。)

[14] 南京?漢口 約600km、南京?上海 約350km

[15] 南京?浦口 川巾1,577m(淀川の下流の約3倍)

(編注)脚注は原稿にあった通りのものである。本文中の旧仮名遣いは改めず、できる限り原稿の通りに記した。旧字体については、漢字変換の困難さゆえ、新字体に改めた。

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