Smiling Coast のAmerican Dream ? Gambiaにて

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奴隷海岸、笑顔海岸

奴隷海岸、象牙海岸、黄金海岸、胡椒海岸…。そんな名前が、かつて西アフリカ各所の大西洋に臨む海岸に付けられていた。大航海時代以降にヨーロッパの商人が西アフリカ沿岸へ押し寄せたときに、それぞれの地域の主要な「産物」に応じてこうした名前が付けられたのだ。Slave Coast、奴隷海岸といえば一般的にはトーゴからナイジェリアの沿岸を指すが、僕が今回旅したセネガルやガンビアの海岸からも、約五百万人の黒人奴隷が船に積まれて南北アメリカ大陸へ「出荷」されたという。

そんな時代から数百年が経った。奴隷隷貿易は昔話となり、アフリカ各国がヨーロッパの植民地支配から脱した今、ガンビアの人たちは、自国の海岸を、誇りを持って、 “Smiling Coast” (笑顔海岸)と呼ぶ。

ゴレ島、奴隷商人の家
(写真:ダカール沖に浮かぶゴレ島には奴隷貿易に使われたという商館が残っており、世界遺産に指定されている。)

Smiling Coastの住人たち

朝7時にセネガルの首都・ダカールを発った僕は、ボロボロの乗り合いタクシー*1と今にも沈みそうなフェリーを乗り継ぎ、8時間かけて、アフリカ最小の国であるガンビアの首都・バンジュールに着いた。ダカールは人口が百万人を越える大都会であったのに対し、こちらの首都は人口三万五千人の田舎町だ。二階建ての民家のような建物に”Ministry of Industry” (産業省)という看板がかかっていたり、「7月22日広場」という、独立記念日を冠した仰々しい名前の広場が単なる芝生のサッカー場だったりと、なんとも牧歌的な雰囲気が漂う。特筆すべき観光地も全く無いので、大抵の外国人旅行者はこの町を素通りしてリゾートホテルが集まる大西洋岸へ向かうのだが、一人旅のバックパッカーにリゾートなど無用だ。僕はこの町にガンビア初日の宿を取ることにした。

バンジュールの港
(写真:ガンビア川の河口は幅が10kmもあり、瀬戸内海の最狭部よりも広い。そんな大河を過積載のおんぼろフェリーで渡ると、ガンビアの首都・バンジュールに着く。)

ホテルを見つけ、荷物を降ろし、夕涼みに川沿いの砂浜へ出ると、そこには街中よりもずっと多くの老若男女が群れていた。三分の一の人はサッカー。三分の一の人はジョギング。残りの三分の一の人はビーチに座って友達と駄弁っている。当たり前だがほぼ全員が黒人で、稀にいる観光客も大抵白人だから、アジア人の僕が歩いていると、兎に角、目立つ。100メートル歩くごとに声を掛けられ、有名人になった気分だ。ただし、初めの一声は決まって「ニーハオ」である*2。だから、”No, I’m Japanese!!”と訂正するところから会話が始まる。この国では日本の評判はすこぶる良いようで*3、僕が日本人だと分かると「座って話していけ」と大歓迎される。ガンビアは英語が公用語なので、会話にも困らない。

“Welcome to the Smiling Coast!” (笑顔海岸へようこそ!)と、彼らは笑顔で言う。初対面の僕に”my friend”や”my brother”と呼びかける。初めは慣れないが、これが彼らの距離感なのだ。そして必ず、”How do you like Gambia?”(ガンビアは気に入ったかい?)と聞く。いい国だ、と答えてやると、彼らは喜んで思い思いの方法でもてなしてくれる。「食え」とよく分からない物を食べさせられ、「聞け」と耳にイヤフォンを突っ込まれてレゲエを聴かされ、「来い」と家に招待され、「蹴れ」とサッカーの試合に参加させられる。

バンジュールの砂浜

おおよそ、ガンビア人の男の脳みその半分は音楽に、半分は女のことに占められているようだ。後者は全世界共通なので特筆すべきことはない。ただ、ムッツリスケベが多い日本人に比べて、ガンビア人はとても素直である。音楽の方はというと、若者はみんなレゲエとヒップホップに夢中だ。英語圏なのでアメリカやジャマイカの曲を好んで聞く。ちょうど僕がガンビアを訪れた週末に、レゲエ界のカリスマ・Lucianoがジャマイカからこの小国へやってきてライブをするそうで、それはもう国中が大騒ぎだった。あらゆる場所にポスターが貼られていて、誰と話してもLucianoの話題が出ないことはなかった。

この国では外国人観光客は女の子に滅法モテる。女の子の方から電話番号を聞かれたことが、果たして今までの僕の人生で一度でもあっただろうか。「私をガールフレンドにして」と短刀直入に言われることさえある。その意図が何であれ、悪い気はしないものだ。人生に三度しか来ないという「モテ期」の一回を使ってしまったのではないかと心配になる。

散歩を終えた帰り道、Pacoという名の、外国人向けレストランでウエイターをしている気立ての良い兄ちゃんと仲良くなった。僕が密かに「ガンビアン・慶応ボーイ」とあだ名した彼には五人のガールフレンドがおり*4、六匹の犬を飼っている。いかつい体格に似合わず、柔らかい声で爽やかに笑う。ヒップホップ狂で、喋り方も歩き方もなんとなくリズミカルだ。彼の友達の家で「ベネキン」というガンビア式チャーハンをご馳走になり、その後は仲間一味と共にバーへ酒を飲みに連れていってくれた。

Paco - ガンビアン・慶応ボーイ
(写真:こいつがガンビアン・慶応ボーイ)

Bakaryのアメリカン・ドリーム

翌朝、僕は、ガンビア川を首都Banjulから50kmほど遡った場所にあるBintang Bolongという町へ、チャーターした車で向かった。運転手はBakaryという名の28歳の青年で、普段は外国人向けリゾートホテルで働いているそうだ。さすがは主要産物が笑顔であるSmiling Coast、彼も気持ちよく笑う陽気な男で、未舗装の道路を土煙を巻き上げて走る二時間半の行程の間、話題が尽きることがなかった。サッカーが好きだそうで、ヨーロッパのクラブチームでプレーしているガンビア人も沢山いるのだと誇らしげに語った。「カンフーと空手」を習っているそうで、二つの格闘技を混同している気配がプンプンするのだが、流派は一応、「セイドーカン」だそうだ。イスラム教徒の彼はとてもピュアで真面目な性格で、死んだ父からいつも「良い友達を持て、そして友達には分け隔てなく優しくしろ」と言われて育ったのだという。

Bakary
(写真:Bakaryとオノマサヒロ)

ガンビア人と話すと決まってガールフレンドの話になるのだが、彼には一人も彼女がいないらしい。こいつは慶応ボーイではないようだ。
「ガンビアで彼女を作るなんて簡単さ。でもいい子を捕まえようと思うと、お金が必要なんだ。」
なるほど、さてはこいつ、高望みしすぎなのだな。そう思い、どんな子が好きなのかと聞いた。すると彼は唐突に、アメリカ人かヨーロッパ人のガールフレンドが欲しい、と答えた。
「欧米人を嫁に貰って、アメリカかヨーロッパに移住したいんだ。それで、1年か2年に一度、嫁と子供たちを連れてガンビアに戻ってくるんだ。そんな暮らしが俺の夢なんだ。」

そして、陽気だった彼は急に真面目な口調になり、こんな過去を語った。昔はガンビア人の子と付き合っていた。いい子だった。でも、その子をヨーロッパ人の男に横取りされた。とても悲しかった。しかしヨーロッパ男はすぐに、あっさりとその子を捨てた…。

彼はそれ以上の詳細を語らなかった。急に重たくなった空気に、話しが暫く途切れた。その間に僕の想像力は、次のようなストーリーを組み上げた:

***

Bakaryが付き合っていたのは、彼が普段働いている外国人向けのホテルの同僚の子だった。ある日、そこへ休暇で泊まりに来たヨーロッパ男が、この国ではやたらとモテることに気を良くし、旅の開放感に任せて彼女を誘惑した。彼女にもきっと、この男と結婚すればヨーロッパに移住できるという打算があったのだろう。だから彼女はその誘惑に乗り、Bakaryを棄てた。しかしヨーロッパ男には彼女を嫁に取って帰ろうという考えなど、さらさらなかったに違いない。おそらく彼は、彼女とセックスに耽る時、コンドームをつけることを忘れなかっただろう。

やがて1ヶ月の休暇はあっという間に過ぎ、ヨーロッパ男が国に帰る日が来た。彼は帰国日を彼女に教えていなかった。早朝、彼女に見つからないように、逃げるように空港へ向かった。その後、何も知らない彼女がホテルへ出勤すると、ヨーロッパ男は既にチェックアウトした後だった。

そしてそんな経緯を、同じホテルで働くBakaryは傍から複雑な想いで眺めていた。彼女が棄てられたとき、彼はヨーロッパ男に激しい憎悪を燃やしつつも、決して彼女を赦さなかった。傷口から流れ出る真っ赤な血がやがて黄色く膿むように、彼の純粋な失恋の悲しみは屈折した願望へと姿を変えた。彼女の代わりに、俺が欧米人の妻を娶ってやる、と…。

***

Bakaryが僕に何やら話しかけてきて、僕の空想は途切れた。彼の口調は陽気に戻っていて、また尽きない話が始まった。しかし、彼がやたらとアメリカの暮らしについて質問してくるのが気になった。
「アメリカ人での暮らしは楽しいか。」「どんなものを食べるのか。」「みんな車を持っているのか。」
彼の欧米へ移住したいという願望は、もちろんヨーロッパ男への復讐心からのみではあるまい。他の多くのガンビア人たちと同様に、欧米へ行けば楽しく幸せに暮らせるだろうと純粋に信じているのだ。そんな無邪気なアメリカン・ドリームが彼の質問の裏に透けて見える度に、僕は複雑な気持ちになり、何と答えたらよいのか分からなくなった。

ガンビア川南岸の道

そう、僕は今、アメリカに住んでいる。彼の「夢」に住んでいるのだ。思い返せば、キューバでも、メキシコでも、ニカラグアでも、人々の目はいつもアメリカへ向いていた。アメリカへ行きさえすれば幸せになれると思っていた。そんな単純で抽象的なアメリカン・ドリームは、過去の日本において、現世に希望を持てない貧しい農民たちが、極楽浄土へ行くことを願い必死に念仏を唱えたのと、似てはいないだろうか。

そして僕はボストンの街で、アメリカン・ドリームの成れの果てを沢山見てきた。それはマクドナルドの店頭に、バスやタクシーの運転席に、清掃中のトイレの中に、いくらでも見出すことができる。アメリカへ念願叶って移民してきた人たちが、夢の地で手に入れる肩書きは「低賃金労働者」だ。貧しいだけではない。彼らは社会の嫌われものだ。アメリカ人の保守的な人たちは、自らの祖先も移民だったことを棚に上げ、スペイン語やアラビア語、中国語を喋る新しい移民たちに対してあからさまな敵意を抱く。過去に差別されてきたアフリカ系アメリカ人でさえ、彼らの職を奪う存在として、新しい移民を快く思っていない人が大勢いる。

訛った英語で低賃金労働に就く移民たちの顔に、Smiling Coastに住むガンビア人たちが皆持っていたような穏やかな笑顔を見つけることは難しい。彼らの多くは労働に喜びも誇りも持っていない。彼らの顔はいつも、不満、不満、不満で歪んでいる。舌打ちをしながらハンバーガをトレイに載せる。電話越しに誰かと言い争いながらタクシーを運転する。安月給で自分をこき使う白人の上司、文句の多い客たち、アメリカの政治、社会、文化、そんな周囲のあらゆるものに対して不満を見出す。

アメリカに移民して豊かで幸せな暮らしを手に入れたければ、手に職を付けて行くほかない。エンジニア、看護婦、アスリート、音楽家、なんでもいいから、アメリカが欲しがるような技能を身につけて移民しなければ、アメリカは彼を歓迎しない。それは日本だってヨーロッパだって同じだ。しかし、28歳のBakaryが持つ技能といえば、せいぜい車の運転くらいだろう。彼が今から数学と物理を勉強してエンジニアになれるか?今からピアノを始めて、ブルーノートでデビューできるか?無理だ。絶望的に無理だ。彼は檻から出られない。たとえ檻から出られても、囚人服を脱ぐことはできない。そんな彼の未来が僕には見える。彼には見えない。彼はいつまで、アメリカン・ドリームを抱き、手近な恋愛を拒否して欧米人の嫁を見つけることに心血を注ぎ続けるのだろう。何たる社会の残酷さ、不条理さよ。結局、僕が彼にしてやれたのは、車を降りたあとにチップを少し多めに渡すことだけだった。

ガンビア人の昼食

What a Wonderful World

18世紀、西アフリカの黒人たちは、奴隷として無理やりアメリカに連れて行かれた。21世紀、同じ場所に住む黒人たちは、アメリカへ渡ることを自ら切望し、その夢をアメリカに拒まれるのだ。

そんな歴史の皮肉を知ってか知らずか、Smiling Coastの住人たちは、大西洋の向こう、アメリカの方を眺めつつ、無邪気で呑気な笑いを浮かべながら、砂浜に友人とたむろし、レゲエを聴き、ボールを蹴り、今日も白人の嫁さんは見つけられなかったなぁとぼやき、そうして一日、一日、一日を生き、50歳で死んでいく。

大西洋のこちら側、アメリカ合衆国の人たちも、そんな歴史の皮肉を知ってか知らずか、貧しい人も、富める人も、今自分が持っているものを失う恐怖に背中を押され、もっと多くを得る欲望に魅かれ、大西洋の向こうにも太平洋の向こうにも目をくれず、次から次へと沸いてくる不満の山を両手で必死に掻き分けながら、人生の目標を掲げ、競争相手に勝つことに執念を燃やし、そうして一日、一日、一日を生き、目標を達成したか、していないか、いづれにせよ、80歳で死んでいく。

どちらが「良い」のか、絶対的な基準はない。しかし事実として、ガンビア人も、アメリカ人も、前者よりも後者の生き方を望む。僕も、僕の多くの友人達も、後者の生き方を選ぶ。そこに価値基準が生まれ、その勾配ベクトルは確かに前者から後者を指し、よって解は収束し、世界が形作られる。

それが、僕が生き、僕が旅して、僕が死んでいく世界なのである。

注釈

*1 セネガルとガンビアには鉄道網やバス網がほとんど整備されていないため、長距離移動は専ら、この”sept-place”と呼ばれる乗り合いタクシーに頼ることになる。スピードメーターさえまともに動く車が稀なのだから、いはんやエアコンなど動くことを期待できようか。だから、車内の熱気を逃がすために窓を全開にして走るのだが、そうすると未舗装の道から巻き上がった土煙が容赦なく車内に舞い込んでくる。ティッシュで鼻を押さえる以外に対処のしようがない。また、悪路を伸びきったサスペンションで走るので、揺れが半端なく、セネガル人でさえ吐いていた。僕はといえば、赤ちゃんの頃、両親がエアコンのない車のチャイルドシートに僕を縛り付け、アメリカ中を走り回ってくれたお陰で、乗り物酔いに対しては完璧な抵抗がある。自信がない人は酔い止めを忘れずに。また、途中にトイレなど一切ない。しかしこれはある意味、どこでもトイレであるということだ。尿意を催せば、運転手に告げれば、いつでもどこでも止まってくれる。私もついでにと車を降りた客たちは、男も女も100メートルくらいずつ離れてサバンナにしゃがみ、「座りション」をするのがこの国での流儀だ。男は問題なかろうが、女性の方は練習していくとよいかもしれない。

*2 彼らは「ニーハオ」と言っているつもりなのだろうが、訛りのせいで「ニーホン」と聞こえる。しかし断じて「日本」と言っているのはない。すかさず訂正しよう。また、日本人だと言うと喜んで、「アチョー」と叫んでカンフーの構えをする奴が時々いる。カンフーと空手の違いを説明するのも手間なので、そういうときは、寛大に「アチョー」と付き合ってやればよい。

*3 日本の評判がよい理由は、この大陸では過去に特にこれといった悪事を働いていないことに加え、JICAが行っているODA(政府開発援助)が広く認知されており、とても感謝されていることもあるようだ。例えば、日本のODAで、ガンビアに製氷工場が四つ建てられたそうだ(自称、JICAの日本人の運転手のおじさんから聞いた話)。氷が手に入るようになったことで、沿岸地域で取れた魚が、内陸まで腐らずに運べるようになったという。いい事をしているじゃないか、日本!

一方、残念ながら中国の評判はすこぶる悪い。セネガルやガンビアで中国も多額の援助を行っているが、現地の人を雇用せず、中国から労働者を大挙して連れてきて働かせるため、地域経済に貢献していないからだと、ダカールでお世話になった世界銀行の友人が説明してくれた。我々は、この事実を感情的な中国批判の根拠に使うのではなく、日本が今後もアフリカで歓迎され続けるために何を為すべきかを考える根拠にするべきだ。加えて、セネガル・ガンビアを旅行中は、中国人だと勘違いされたら、すかさず日本人だと訂正しておくほうが、災難に会う確率を減らせるだろう。

*4 セネガルやガンビアでは一夫多妻制のため、お金を持っている人が複数の妻や彼女を持つことは、珍しいことでも、非道徳的なことでもないようだ。

2 thoughts on “Smiling Coast のAmerican Dream ? Gambiaにて

  1. 吸い込まれるように最後まで読んでしまいました。
    残酷な現実です。

    そこに価値基準が生まれ、その勾配ベクトルは確かに前者から後者を指し、よって解は収束し、世界が形作られる。

    なんかグッと来ました。

  2. 写真がもっともっと見たい?!そしてもっといまぢねーしょんをかきたてさせて?、アフリカに行く予定は今のところないので食い入るように読ませていただきました。:D

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